その4 考えることが多すぎる
二年実力試験が終った。試験期間中の出席番号順川の字配置から、いつもの班ごと三人一列の組み合わせを整えた。南雲もこずえも席に着いている。
帰りの会が始まるまでの間、上総は自分の席で腕時計を覗き込んでいた。
これから桧山先生のところに行って、卒論を貸してもらう予定だった。大学の授業で読んでいるハーディの「テス」を取り上げているのだから関心ないわけではない。でもなにも生徒指導室に呼び出しを駆ける必然性ってないんじゃないだろうか。
南雲に気付かれぬよう、すれ違いにこずえが器用に折りたたんだ手紙を上総の机に押し出した。
いかにも他の女子から預かってきた、というような感じでだった。近くの席にいる奴らに見られてもたぶん、美里の恋文だと勘ぐられる程度だろう。内容は当然古川こずえ様じきじきのお言葉である。
あとで読もうと決め、上総は素早くブレザーのポケットにしまい込んだ。
たぶん、佐賀はるみとの対談に関する詳しい内容だろう。
電話で聞くことも考えたけれども、大抵上総に対する鋭い突っ込みが入るのは目に見えていた。一刻も早く話を聞きたい。それなら手紙でもらったほうがいいと、あえて頼みこんだのだった。
──佐賀さんとどういう話、したんだろうな。
上総はポケットにもう一度手を当てた。
杉本梨南ほど、わかりやすい子はいない。
──なんで桧山先生を始め他の連中は、そうしてやんないんだろうな。
上総はいつもそう思う。桧山先生にしろ、前担任の溝口先生にしろ、杉本を扱いあぐねて頭を痛めている嫌いがなきにしもあらず。あの本条先輩ですらも、
「巨乳なのになあ、杉本はあの口調と目つきさえなければもっと、男よりどりみどりなのになあ」
とため息をつく始末だ。別のところで関心しろよ、言いたい。
どうして他の連中は杉本梨南に噛み付かれるような言い方をするのだろう。
同じ言い方をするのだったら、もっとまろやかなやり方だってあるだろうに。
もし上総が杉本の担任教師だとしたら、怒鳴ったり叱ったりなんて絶対にしないだろう。
一方的に嫌われてしまいそれっきりになることが見え見えだからだ。本人は真実だと信じきって言っていることなのだから、最初は頷く。とにかく話をとことん聞いて、頷く。最初にこれを言う。
「俺は、杉本の能力がすごいってこと、わかってるつもりだよ」 と。
杉本が一番欲しがっている誉め言葉は、「巨乳だね」でも「可愛い」でもない。「頭がいい」「才能がある」などの、能力を認める言葉なのだ。何度か話をしてみて、そう思った。他の女子たちが「可愛い!」とか「美人さんよねえ」とか「スタイルいいわ」とか言われてきゃあきゃあはしゃいでいるのを見たことがあるが、杉本にそれは通じない。
なによりも、能力と成績だ。 学年トップを保っている頭脳、緻密な計画と実行能力と。沈着冷静に物事を運ぶことのできるポーカーフェイス。自宅の百科事典で叩き込んだらしい豊富な知識量。決してプラスになるものではない。単なる頭でっかちと笑う奴もいるだろう。青大附中では成績のよさよりも人付き合いのよさ、性格のよさだけが評価されるのだ。杉本みたいなタイプは嫌われるのもしかたないだろう。
でもそういう知識がなかったら盾になるものがなにもない、という現実。
毎日、誰にも負けたくない、負けたら終りだ。死ぬしかない。そのくらいの覚悟で毎日、生きてきたはずだ。どんなことがあっても、能力だけは誰にも負けたくないと信じて。
たぶん、周りからは単なる「頭でっかち」と言われて謗られてきたのだろう。
上総も自分の経験からかんがみて、そう感じる。
でも、そういう知識を増やすことでしか、自分を守ることのできないことも上総は経験してきた。そうだった。指を使って計算するしかない自分の数学能力を隠すため、同じ年の連中よりもはるかに難しい文学書や論文などを読み、せめて日本語読解力だけは上だと見せるよう努力してきた。わからなかったら、大学の図書館にもぐりこんでこっそり資料をひっぱり出したりしてきた。誰にひけらかすわけでもないけれど、自分の中に溜まっていく物語の思い出、それだけが命綱だった。
杉本梨南にとっても、そうだったのだろう。
誰にも、負けたくなかったのだろう。弾き返した連中を見返すためには。
とうとう手紙を読みたい気持ちに負けてしまった。幸い、菱本先生はまだ戻ってこない。ポケットを探ってノートの間に挟みこみ、こずえに視線で合図を送った。これから読む、という合図である。
こずえは眠そうに試験疲れの眼をこすり、数回早めに頷いた。勝手にして、ってことだろう。
──この前Kさんとさしで話したことについて。KさんはやはりSさんと仲良くしたいと言ってるね。向こうが無視するからなかなか話ができないけれども、でも、このままだとSさんがかわいそうだし、周りの男子たちからも無視されるから、助けてあげたいって言ってるよ。じゃあどうすればいい?って聞いたら、Sさんが早く別の好きな人を作って幸せになればいい、とか言ってるね。あんた知ってた? Sさんのことでなにか? ──
イニシャルKさんは佐賀はるみ。Sさんは当然杉本梨南。ということは、新井林健吾は当然Nだろう。
──おいおい、これだけかよ。
独り言をつぶやくとむっとした顔で、古川こずえがしかめっつらを見せた。
「せっかくこれだけ書いてやったてのに、それはないでしょそれは」
「要点はつかめた。けどさ、一時間くらい話したんだろ」
こずえはシャープの先をノートに突きたてた。
「あのね、女子同士だからこそ聞き出せたことだってあるの。男子のあんたに話せないことだってたくさんあるんだから」 「じゃあ俺はどうすればいいんだよ。情報ないと動けないだろ」
「あんたが知っとくべきことはね、要するに」
理科のノートを無理やり奪われ、書き込まれた。丸っこい文字だ。
──要するに、SさんがKさんにやきもち妬いてるってこと。
「やきもち?」 低い声で上総はつぶやき返した。
「もう、一年の中では常識みたいだから話しとくけど、SさんはどうもNのことが小学校の頃から、だったみたいなのよ。でもKさんが取っちゃったから怒ってるとみんな思ってるのよ」
「けど、周りからは天敵同士って言われてるだろ」 「だから、ほの字だから、いじめるっていう、あれよ」
こずえはにこりともせず、先を続けた。ほんとはこういうことを手紙に書いてほしかった。すばやく上総は、開いたままの手紙を押し返した。読み終えた後は用なしだ。
「Kさんも悩んでいたらしいんだよね。小学校の頃からずっとSさんがNのことを好きだったこと、分かっていたからさ。でもNはご存知の通り、Kさん一筋でSさん大嫌いときたもんよ」
「だから単純に天敵だって言ってたじゃないかよ」「ここが不思議なんだけど、KさんSさんの通っていた先生たちは、みんなSさんの横恋慕ってことを知ってたみたいで、いないところでちゃんと『Sさんはかわいそうだからそっとしておいてあげましょう』みたいなこと言ってたらしいの。すごいよねえ」
「俺なら無視してほしいな」
上総は耳の後ろを軽くかきながら、もう一度こずえに続きを促した。
「ところが卒業式間際になって、KさんにNが告白しちゃって、それもSさんの目の前で。Sさんはそれ以来Kさんを一切無視するようになったんだって。言い方かえると『親友に好きだった相手を取られ、しかも相手は自分のことを蛇蠍のごとく嫌ってる』という最悪のシュチュエーション。しかも、青大附属では同じクラス三人って奴? 悪いけど私Sさんがこれでなんのわだかまりもなく『おはよー!』なんて言っていたら、そちらの方を疑うよ。地獄だよこりゃ」
こずえはたぶん、杉本梨南寄りで物事を語っている。偏りまくっているこずえですらも、杉本が佐賀はるみにした行為は「失恋ゆえの僻み」に見えるのだろう。上総も、もし杉本を知らないで聞かされていたらそう感じているだろう。
「でもな、KさんはそういうことされてもまだSと友だちでいたいって言ったんだろ? そっちの方が俺には理解不能だけど」
「ほらほら、そこがね、女子の微妙なとこなんだよ。今から教えてあげるからよーく聞いてな。将来、あんたも美里のことで大変なことあるだろうしね」
「大きなお世話だ」
後半の言葉は無視して、こずえの講座をしっかり聞かせていただいた。他の連中も答えあわせの一部ひそひそ話に燃えているらしいので、あまり目立たないですんだ。
「Sさんは意地でもNのことを意識したなんてこと、認めないと思うんだ。けど、辛いことも多かったと思うんだ。KさんとNのいちゃいちゃぶりを見せ付けられ、さらにKさんに同情されてさ。たとえば私と美里が、ある男子を取り合ったとするじゃない?」
窓際の席にいる、貴史を見やる。
「でも私は、美里みたいな子、嫌いじゃないし、もし取られたとしても友だちでいたい、とは思うんだ。頭の中ではね。けど、もしそうなったとしたら、そんな奇麗事言う自信なくなると思うんだ」
「古川さん、すごいこと言ってるなあ」
「大丈夫、あんたが美里を押さえている以上そういうことはありっこないから」
シビアな現実をちらつかせる。
「Kさんも、そういうところがあるんじゃないか、とは思った。私なりに。けどね、彼女の場合、もうひとつなんかありそうでさ。ほらあの」
「Kさんに、女子の友だちっていないのか? それこそN以外に」
上総もイニシャルでしゃべることに慣れてきた。
「いると思う。思うけど、男子たちの方が圧倒的に仲良しみたいだよ。特別なにかするってわけじゃないんだけど、みな女王様にひれ伏すってかね。みな、Kさんに対しては礼儀正しく振る舞うっていうかね」
こずえの言いたいことはなんとなくわかる。佐賀はるみを見かけた時に感じた、得体の知れないねばっこさを。上総はなんとなく不快に感じたけれども、他の連中はそれがいいというのかもしれない。「そそる」ものなのかもしれない。
「KさんはSと態度、大違いだからな」
「そうなのよお。私とか女子とかだったら、Sさんの方が圧倒的にいい子だって感じするんだけどね。裏表ないし、わかりやすいし、素直だし」
「同感。わかりやすいな」
「でもね、Kさんだとさ、なんというか何考えてるかわかんないってか。少なくとも私、Kさんと羽飛を一対一で会わせるのだけはやだなって思ったよ」
うつむいて笑い出しそうになるのをこらえた。
「羽飛、ああいう髪型好きだもんなあ」
「よけいなこと言わないで、ただじいっとけなげに見つめる、耐えてる、可憐、って感じするじゃない? Kさんって」
「古川さん妄想が炸裂してる」
「そうだよそうだよ。で、いつのまにか男子たちが集まってきて姫をお連れするって感じ。なあんも、こっちでは言わなくてもみんなか片付けてくれるっていう感じよね」
だいたいの概略はつかめた。
佐賀はるみは杉本梨南が自覚していない、新井林健吾への片想いを早い段階で見抜いていたということだろう。こずえにそこまで話すのもすごいとは思うのだが。さらに、自分が新井林と付き合ったことにより、杉本が佐賀に激怒したというのも本当のことらしい。上総が聞いている限り、「嫌いな相手とくっついて親友だった自分を見捨てた佐賀が許せない」という言い分だが。おおむね、佐賀の方が周りを納得させられるものなんだろう。
しかしながら、佐賀にとって杉本はいまだに親友の存在。
なんとかして仲直りしたい。
でも新井林と別れる気はさらさらない。
それゆえ佐賀も悩んでいるらしい。
「なるほどな。しかし、女子ってわからないなあ」
上総はため息をつきながら、机に頬をつけてこずえを覗き込んだ。
「わからないってなにさ」 「古川さん、Kさんと話したのって、これが初めてか?」
「こうさしでってのは初めてだね。何度か顔を合わせたりはしてたけど」
「そういう相手に、言うもんか、自分の親友がどうのこうのって」 「知りたがってたのはあんたでしょうが。こっちが話しやすく聞いてやったのよ。感謝しなさいよ」
確かに。こずえでなければ、そこまでの惚れたはれた情報は汲み取れなかったに違いない。
「立村、言っとくけどさ」
「なんだよ」
顔を上げながら答えた。
「いくらKさんの魔力にめろめろになったとしても、あんたはSさんの味方になってやんなよ」
「大丈夫、俺は普通の感覚と違うみたいだから、予防注射打たれてるみたいなんだ」
反対側で居眠りこいていた南雲が、ひょいと顔を上げてささやいた。
「りっちゃん、そういえば明日、インフルエンザの注射の日だなあ」
こずえとの会話をどこまで聞いていたかはわからないが、上総は一応頷いておいた。
「さすが、保健関係の情報はしっかり捉えてるよな、なぐちゃん」
菱本先生が現れてからは早かった。みな試験明けということで、さっそく遊びまくる計画も発動中。来週から評議委員会ビデオ演劇「奇岩城」の製作会議にはいらなくてはならない。
貴史、美里とも試験の手ごたえについてため息を付き合った後、上総はすぐに図書室へ向かった。
借りてきた本だけ返したかった。片付いてから桧山先生の待つ生徒指導室へ行くつもりだった。
今日はこずえの当番日ではないようで、カウンターでは何事もなく本を受け取ってもらえた。
まだ時間があるので、本の物色をしようと決めた。ひとりで本棚の間をうろうろしているのが、一番落ち着いた。
──やはり、どうみても周りからは杉本が一番悪いと思われてしかたないよな。
こずえからもらった情報と、佐賀はるみに対する杉本梨南の言動。
杉本はどうしようもなく新井林健吾のことを追いかけつづけていたのだろう。かなり前から気付いていた上総だけではない。おそらく他の連中にも見え見えだったのだろう。こずえの話だとそういうことになる。親友だった佐賀はるみはもちろんのこと、小学校時代のクラスの連中、下手したら思われ当人の新井林までもが。
──だから、あえて「いじめるな」みたいなことを言っていたのか。あいつは。
心臓の辺りがちくちく痛くなった。少し息をこらえてなだめた。
──けど、それを知ってて佐賀さんは新井林と付き合って、さらには杉本と友だちでいたいと言い張ってるわけか。杉本にとっては最大の屈辱だよな。
無表情・無感情を装っている杉本梨南の瞳に、大きく揺れるまなざしが隠れているのを、上総はいつも読み取っていた。新井林のことを憎憎しげに話す時、どうして揺らめくのか、本人も気付いていないだろう。佐賀はるみについて怒りを表す時、涙に近いものがちらりと覗くのを、どうして本人は意識しないのだろうか。
──意識したら、もう耐えられないだろう。
──俺だったらもう生きていけないと思う。
その一方で佐賀はるみの立場もかなり厳しいものだと同情も感じる。
杉本はいつも言う。佐賀はるみを小学校時代ずっとかばってきたのは私、と。
──でも、あれやられたら、俺だったらたまったもんじゃないよな。
杉本のことを後輩として思っているから、上総は素直に杉本の言葉を受け取ることができるのだ。でも佐賀の場合はどうだったのだろう。一方的に支配されたようななものだったのではないだろうか。もちろん、杉本を罵る野郎連中のとばっちりで、佐賀が迷惑をこうむっていた可能性はある。杉本が「守ってあげた」つもりではいるのだろう。でもそれは。
──きっと、佐賀さんには迷惑だったんだろうな。
──だから、いいかげんひとりになりたかったんだろうな。
佐賀としては杉本に一方的に押し付けられるのをご破算にしたかったんだろう。お互い、対等な関係にしたかったのだろう。非常に良く分かる。
さらにつっこむならば、青大附中で新井林に恋人として、正々堂々選ばれた佐賀はるみ。
すでに杉本の本心をすべて見抜いていたとするならば、佐賀もひそかに優越感を感じていたのではないか。杉本が指をくわえて見つめていた新井林を、いとも簡単に騎士として側に置いているのだ。
──俺だったら、当然そう思うな。
青大附中に合格した時に感じた感情と同じものとするならば、上総もそれを味わったことはある。
品山小学校の連中を見下すことができた、いじめられっ子の上総が感じたそれを。
だから否定できない。佐賀はるみの気持ちは自分にぴたりと重なる。
しかしだ。
やはりそのあたりが女子の特殊なところなのかもしれないが。
佐賀はるみはいまだに杉本梨南と友だちでいたいと思っているわけだ。もちろん杉本が佐賀をそれ以来一切無視というのは、いじめに近いと取られてもしかたない行為だろう。
男として新井林が選んだのは佐賀であって、杉本ではなかった。ただそれだけのこと。
杉本がその時どうすべきかは上総も判断できないけれど、あきらめるしかなかっただろう。黙って頭を下げて、あとは黙々と自分を責めるしかないだろう。相手にしてもらえない自分を罵るしかないだろう。自分には愛される価値がない。杉本が自分の行動を改めない限り……改めたとしても難しいだろうが……新井林は杉本を受け入れることをしないだろう。せめてこれ以上関係を悪化させたくないのだったら、素直に佐賀にひれ伏して、今までのことを謝り、屈辱とはいえ許しを請う。同じ立場の上総だったらそうするだろう。
それをしない代わりに杉本は怒りを直接、佐賀にぶつけたわけだ。 いわば佐賀と杉本の仲たがいに過ぎない。杉本の言い分を認めるならばクラス女子を扇動していじめに走らせたわけではないだろう。
──杉本との個人的なやりあいが、いつのまにか佐賀さんVS一年B組女子の対決になってるってわけか。これはまずいだろ。やはり、桧山先生もこれだと、介入しないわけいかないしさ。一番目立っている杉本に攻撃の矛先が向くのも、当然だよな。
結局、本を借りることはしなかった。もし本物のシャーロック・ホームズだったらパイプをくゆらし近くのワトスンくんに推理を披露するのだろうが。
──要は、杉本が本当は、佐賀さんや新井林に仲良くして欲しいから今までのことを謝れば、一番丸く納まるのか? 新井林もそういうところは単純だから、佐賀さんの味方になるっていうんだったら、挨拶くらいはしてくれるかもしれないしな。佐賀さんはもともと、杉本の友だちでいたいと言い張ってるんだから、すぐに許してくれるだろうし。
──でもそんなこと、俺だったらできないな。杉本が今までしてきたことは、周りからしたら悪かもしれないけど、杉本本人にとってはあれしかやり方知らなかったんだから。きっと佐賀さんも、杉本が本当はどれだけおびえていて、惨めな気持ちでいるのかを気付いていたんじゃないかな。
だからあえて、嫌わないでおこうと思ったのだろう。
友だちだったらそうだろう。
この人は強い。人を恨まず許そうとする意地のようなもの。
たぶん上総が感じた粘っこさと気持ち悪さは、そこからきたへびのようなものかもしれなかった。
──俺はそういうこと、出来ない奴だからな。
廊下は静かだった。めずらしい。そういえば一年実力試験は一日遅いと聞いていた。部活動は試験三日前から休止ということだったけど、おとといは佐賀がずっと体育館で新井林を待っていた。まずくなかったのだろうか。今日は体育館からも、グラウンドからも運動部特有の掛け声が聞こえない。
三階の生徒指導室へ向かう途中、後ろから声をかけられた。
「立村くん、ちょうどよかった」
桧山先生だった。やはり実力試験前ということもあって、いろいろ面倒なのだろう。生徒も職員室には出入り禁止になっている。
「試験はどうだった?」
「数学以外は、たぶんなんとか」
もごもごと答えた。
「人間、微分積分が出来なくても生きていけるから気にするな。さあ、入ってくれ」
桧山先生が灯りをつけた。まだ四時を回っていないのに、部屋はだいぶ薄暗かった。掃除は行き渡っている。たぶん、掃除当番が片付けた後なのだろう。テーブルもソファーの皮張りも、光っていた。
窓の外には銀杏の木がほんの少しだけ、彩りをとどめていた。白く分厚い雲が広がり、見ているだけで震えた。爪が妙に紫っぽいのが気になった。桧山先生が熱いお茶を入れてくれた。番茶だ。
「ごめん、今日はな、家から出てくるときにちょうど、玄関に置いてきてしまったんだ」
「え?」
「卒論だよ。いやあ、学生時代からほとんど手つけてなかったからなあ」
「急がないからいいです」
せっかくお茶を入れてもらったのだから、まずは飲む。熱かった。
「それで立村くん、せっかくきてもらったんだから、ひとつ、相談にのって欲しいんだが」
──まさか。
一年B組の担任である桧山先生。
相談に乗ってあげるようなことは、上総もそれほどないはずだ。
唯一、あのふたりについて以外は。
「あの、英語のことでですか」
「いやいや、俺たちよりも立村くんの方が自分でよく勉強してると思うよ。いやな、今回は生徒としてではなく、次期評議委員長として、一年B組の評議委員ふたりについての相談なんだ」
──やはりか。
上総は心を引き締め、番茶の入った湯のみをテーブルに置いた。
「僕はあまりそういうことは得意じゃないと思います」
「いやいや、本条くんからもいろいろ聞いているが、君はとにかく一生懸命に後輩の面倒を見ていると評判じゃないか。男女問わず面倒見がいいってな」
──本条先輩が?
気になったが、それは飲み込み上総は聞き役に徹することにした。それにしてもこの先生、明日が一年実力試験日だっていうのに、そんないいかげんなことしてていんだろうか。
桧山先生は作り笑い特有の、えくぼをこしらえてじっと上総を見た。
探っているらしい。身構えた。
「いろいろ聞いていると思うが、一年B組は今非常に困った状態なんだよ。クラスで女子のいじめがあったりしてな。だから先生としてはなんとしても、来年までにいじめのない明るいクラスにして、二年にあげたいと思っているんだ。ただ、先生にはどうしても、みんな本音を話してくれないし、前向きに取り組もうとする人がなかなか出てこない」
──当たり前だろ。誰が先生に本音打ち明けるっていうんだよ!
心で吐き捨てたが、決して顔には出さない。
「本条くんにも聞いたが、杉本の面倒を一学期から一番よく見ているのは、立村くん、君だと聞いている」
「僕だけじゃないです。二年の女子の方がずっと」
言いかけたが遮られた。
「いやいや、女子たちは基本として杉本の機嫌を取っているだけだな。しかし立村くんは、杉本がこれからどうすればいいか、どうしたらいいかを一生懸命、意見してくれているとも聞いているよ」
「誰がそんなこと」
「だから、本条くんだよ」
一体どこで本条先輩は、先生にそういうことを告げ口しようとするのだろう。最近ほとんど顔を合わせていない本条先輩のことを思い出した。
「それでなんだが。実はこのままだと、杉本が取り返しのつかない行動に出てしまうのではないかというのが、先生として非常に心配なんだ」
「とりかえし?」
短い語句でしか返していない自分の会話。
「君も杉本から聞いていると思うが、一年B組では今、女子のいじめが起こっているんだ。クラスの不名誉になることだからあまり言いたくないことだが、きっかけがどうも杉本にあるらしいということもわかっているんだ」
「あの、それは僕もよくわかりませんが」
「いやそんなことはないだろう。他の生徒たちも最近は気付き始めているんだ。もちろんいじめという行為はよくないことだけれども、それなりにみな理由はあるだろうから、言い分は聞くつもりでいる。しかし、杉本の行動はどう考えてもかばうことができないんだ。わかってくれるよな、立村くん」
──なんてタイミングがいいんだよ!
卒論というえさで釣り上げようとしたのだ、ということに今ようやく勘付いた。
しっかり食いついてきた自分が馬鹿だと思う。
でもなぜ。なぜだろう?
今の言い分だと、桧山先生は杉本を「助けたい」そう思って行動しているように見える。
「取り返しのつかない行動」ってなんだろう?
単なる女子ふたりのけんかに過ぎない、そう割り切ることがどうしてできないんだろう?
しばらく話を黙って聞くことにした。でないと、読めない。
「立村くん、たぶん君は杉本から一方的に、どうしてそう言う行動をしているのかという言い分を聞かされているんじゃないかと思うんだ。女子はおおむね、自分を被害者に仕立てたいものだからな。いじめていてもいじめられるにはそれなりの理由があると思いたいからなあ。でも、大人の目から観ると、これは非常に許しがたい行為なんだ。もちろん、杉本にはそうするだけの理由があるのだろう。でも、いじめられている相手にとっては一生の傷が残ることでもあるんだ。幸い、杉本は君の言うことだったら素直に聞くと、本条くんも話してくれた。だったら、君の言葉で、なんとか杉本を『いい子』にしてやってくれないか」
──いい子、と来たかよ。
鼻で笑いたい。勘違いもいいところだ。本条先輩もとことん誤解している。杉本が上総の言葉を素直に聞くのは、上総が説得したからではない。杉本の感じたことが、自分と同じだと分かっているから共感するだけのことだ。説得なんてできない。今、桧山先生が口にした言葉のわざとらしさが頭にくる。たぶん杉本も同じことを感じるに違いない。ただ、上総の方が「うっかり本音を口にしたら地獄を見る」とわかっているから、がまんするだけのことだ。
「きっと本当は、杉本も真面目な子なんだと思う。勉強も評議委員の仕事も一生懸命だ。ただ、大切なところがまだ育っていないんだ。相手がどんな痛い思いをしているかを想像することができないんだ。だから、自分が悪いということを反省することができないんだ。今はまだ、いじめられた子も杉本を許してやろうと思っているし、まだ立ち直るチャンスはある。クラスも、杉本が反省してもう二度としない、許してくださいといえば、受け入れてくれるだけの連中が揃っている。でも、このまま勘違いしたまま二年、三年、高校に進んだら、後で大変辛い思いをする。早いうちに自分を反省して、自分が馬鹿であることを認識してもらい、大人になってほしいんだ」
──正論だな。
やはり軽蔑しきったまなざしで答えたい。杉本だったらそうするだろう。上総の弱さがそうさせないだけのこと。しかし感じ取ったのか、桧山先生はいきなり遠い目で窓辺の銀杏を眺め始めた。外国の恋愛映画で相手の男役がポーズをとるような感じで、持たれてつぶやき出した。
──なに気取ってるんだ。
日本のお茶をすすりながら上総はお付きあいした。
「俺が高校三年の時だった。実をいうと俺は転勤族の息子だったんで、高校を二回転校してるんだ。青潟に来る前の学校には、やたらと芸術家の子息が多くて、言い換えれば感受性豊かでかつ、性格が個性的な奴が多かった。たまたま俺のクラスはその気が少なく、普通の家の普通の奴が多かったんだが。でもひとり、かなりエキセントリックな女子が一名いたんだ」
転勤族とは初めて聞いた。青大附属上がりだと思っていたのだが。ちょっと驚いたのが伝わったのか、桧山先生は満足げに笑みを浮かべた。
「その女子はオペラ歌手を目指しているとかで、毎日声楽の練習やなんやで熱心だった。音大の試験の場合、指を守るために決してバレーボールの練習をしないとか、レッスン優先のために授業を休むとかは日常茶飯事だったらしい。俺もその辺の事情はわからないが、はっきり言ってクラス活動に非協力的だったのはよく覚えているんだ。たまたま、クラスが一丸になりやすい、まとまりのあるクラスだったからなおさら彼女の行動は非常に目立った」
居心地の悪さを感じつつも、上総は頷きながら聞いていた。
「体育大会に都合つけて休むとかそのくらいだったら仕方ないと思う。担任も彼女の才能を高く評価していたらしく、大抵のわがままは大目に見ていたからな。才能のある人、天才は何をしても許される。そういう雰囲気があったのも事実だ。ある日、合唱コンクールの練習中、いきなり彼女は怒り出し、ひとりの女子を罵り始めた。そりゃあ声楽科を目指す歌手の卵が、どしろうと集団の合唱に耐えられないのはわからないわけじゃない。。でも俺たちはしょせん、気取ったオペラよりもロックンロールで踊りたいタイプだ。さらに悪いことにひとり、どうしようもない音痴の女子がいたんだ。罵られた女子、彼女だったんだ」
桧山先生は顎に親指を立てて、ふたたびポーズを取り直した。相変わらず銀杏の向こうを眺めつつ。
「彼女の声はひどかった。たぶん一緒にカラオケには行きたくないと思うだろう。でも、欠点はそれだけだった。クラスに対しても、他の男子女子に対しても、一生懸命で笑顔で、人気者だったんだ。だからみんなは彼女をフォローしようとして一生懸命だった。それをだ」
片手を握り締めて、怒りを表すポーズ。
「声楽科志望の女子は、音痴の彼女に対して言葉に尽くせないくらいの罵倒を繰り返した。それなら勝手に休んでくれればいい。俺たち男子連中はもちろん、女子連中も激怒した。当然、音痴の彼女を守るべく、みな立ち上がって激しく言い合った。だが、相手は動じなかった。『音程が狂っているからもっと練習しなさい、もっと迷惑をかけないように歌いなさい。聴いている人たちの迷惑になる』と言い放った。とうとう音痴の彼女は耐え切れなくなって教室から逃げ出していった。問題はそこからだ」
──まさか、自殺したとこか……。
手を握り締めた。汗をかいているようだった。
「もちろん音痴の彼女には味方がたくさんいたから次の日からは何事もなく学校生活を送った。さすがに合唱コンクールでは小さい声で歌うように気を遣っていたみたいだが。本来だったら担任がもっと厳しく声楽科志望の女子に注意を与えるべきだった。反省させて、暴言を撤回させて、自分がいかに醜いことをしたかを大勢の前で反省させるべきだった。でないと気付かないだろう。歌のうまい下手よりも人格こそが一番大切なのだと教え込む最大のチャンスだったはずだ。担任のしたことはまず、『彼女の感受性は特別なものであって、どうしてもうまくなじめないところがある。どうか許してやってほしい』という言い訳をすることだったんだ。相手には一切反省の弁を述べさせずにだ。当然俺たち生徒はみな激怒した。たかが、悲鳴みたいな歌が上手だってくらいで、人の心を傷つける権利があるとは思えない。人間として最低のことをした以上は、たとえ才能があろうがなかろうが、当然土下座すべきものだと主張した」
手に腰を当てて、上総に振り返った。
「声楽科希望の彼女は当然のように学校に来て、当然のように授業を受けて、当然のように無視して卒業していったらしい。俺も最後までは見届けなかったが。全く、クラスの連中が怒りの無視攻撃をしても気にかけていない様子だった。音楽と関係ない授業は時間の無駄とでも思っていたんだろう。彼女は堂々と有名音楽大学に入学し、すぐに頭角をあらわし現在はドイツのオペラ劇場で歌手として活躍しているらしい。だが」
桧山先生は最後に付け加えた。
「卒業式の後、クラスの連中は誰一人、彼女をクラス打ち上げコンパに誘わなかったそうだ。また数年後、彼女がなんかの声楽コンクールで優勝して新聞社が取材に来た時も、クラスの連中は「ふーん、そういう人いましたっけ」ととぼけ通すことにしたというんだ。どんなに才能があったとしても、たかが音痴の子を罵るだけの人間を認めることはできない。ちなみに音痴の彼女はすぐにクラスの奴と卒業後結婚して、今は二児の母だ。幸せだときいている」
桧山先生はゆっくりと、両手を振りながら椅子に腰掛け直した。
「もちろんささいなことだったかもしれないし、今思えば声楽の彼女も感受性が鋭すぎるゆえに人間関係がうまく行かない、繊細な感情の持ち主だったのだろう。だからこそ担任としてはがさつな俺たちクラスメートから全力でかばってやらねば、と思ったのもあるだろう。だが、それで迷惑をかけられた才能のない普通の連中はどうすればいいんだろう。音痴の彼女だって、自分が望んでそういう声になったわけではないだろう。合唱コンクールの時に、自分が邪魔をするのはわかっているから、なんとか直そうと必死だったのかもしれない。そして、あえて良くとれば、そういう音痴の彼女を応援しようとして、あえて声楽科の彼女は厳しく教えたのかもしれない。音楽のレッスンとはかなり厳しいらしいからな。だが、それは普通の人間に求めるもんではない。クラスが普通の人間中心で構成されているのならば、出来る限り大人数にあわせてもらうべきだ。醜い声の羅列に耐えられないのだったら、少数派である自分が離れればよかったんだ。合唱のひとりふたり、いなくなっても誰も迷惑はかからないのだから」
お茶をもう一杯、注いでくれた。
「立村くん、俺が杉本に望んでいるのはそういうことだ。もちろん杉本が類稀なる感受性の持ち主であることは俺も分かっている。でもだからといって、このままの性格でぶつかってくれば迷惑をかけられたほうはたまったもんじゃない。あくまでも、自分は少数派なのだということを自覚して、他の連中にうまく合わせて、その上で自分の個性を発揮できる場所を探していくのがベストなんではないだろうか。と思うんだ。他人に迷惑さえかけなければ、多少個性的であろうがなんであろうが、誰も気にしない。社会的に迷惑をかけないことさえ守ってもらえればだ。だが、今の杉本は明らかに『いじめ』という行為で人に迷惑をかけている。自分の感じたことをはっきり言い過ぎることで、他人に不快感を与えている。それを人に言わないようにして、自分が少数派であって、自分の感じていることは他人の感じていることと違うので妥協することを覚えていく、それによって初めて、彼女は存在することを許されるんだ。そうしないと、今話した声楽科の彼女のように、クラスの連中からは意識的に見捨てられ、相手にされなくなる。たとえ有名なオペラ歌手になったとしても、俺たちの中では最低の行為をした人間であるという認識は消えないだろう。そのためには、自分のしていることが普通の人には許されないことであると認識してもらわないといけないんだ、立村くん、わかるか」
ほとんど上総は反応しなかった。小さく頷き、何度か桧山先生に目を留めるだけだった。
「じゃあ、もう一度明日、ここに来てくれないか。今度はきちんと『テス』の卒論持ってくるよ。やはり話のわかる奴を相手に話すのは、楽だよ」
二杯目のお茶はほとんど口をつけなかった。上総は一礼して部屋を出た。