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その3 本棚の空気が揺れてる

「立村くん、ちょっといいかな」

 男らしい、という表現がぴったりな英語担当・桧山先生に呼び止められた。凛々しい剣士といった方が近いかもしれない。一学期まではまだ担任を持っていなかったけれども、二学期に一年B組を急遽担当することになった。一Bと言ったら問題てんこもりのクラスで知らぬものはない。新井林健吾VS杉本梨南の日々、舌戦が繰り広げられているらしいとのこと。

 上総の知っている範囲だと、桧山先生は学校祭の前あたりまでに、だいたいの処理を終わらせてしまったらしい。杉本梨南の口ぶりによると、

「完全なる男尊女卑の方針を貫きたいようです。自分がもっと勉強するべきなのに、全くわかっていません。あきれたものです」

 とのこと。心にしまっておけばいいのに、と上総ははらはらさせられた。心配しても無駄なのはわかっているけれど。

 ──杉本も、黙っていればこれ以上傷つかないですむのに。

 自分ができることは、杉本が座ったまなざしのもと、現在の一年B組状況が杉本不利の態勢である旨、しっかと聞いてやることくらいだった。上総の頭ではいい方法なんて簡単に見つからないかもしれない。でも、杉本の瞳の奥に震えるものを、見つめ続けることはできる。声にならない悲鳴を、聞き取ることだけはできる。


「なにか御用でしょうか、先生」

 たまたま、南雲と図書館でだべっていたところだった。放課後、別に用はなかったのだけれども、なんとなく帰りたくない時もある。

 南雲が先に明るく返事をしてくれた。上総は付き合いで頭を下げた。

「この前、立村くんは俺の卒論を読みたいとか言ってなかったかな」

 いきなり切り出されて思い出すのに時間がかかった。あたふたして本を閉じたりひらいたりしている上総を見かねてか、隣りの南雲が代わりに答えてくれた。

「そんとき俺もいたから覚えてるよ、りっちゃん。あの、確か、ハーディの『テス』だったっけ」

 ──なぐちゃんありがとう。恩に着る。

 心で頭を深く下げ、現実世界では軽く頷き上総はすぐに答えた。

「あ、そうです。あの、先生は青大の英文科だったと伺ってますが……」

「そうだよ、ああ、君はそうだね、今年から大学の講義をいくつか取っているんだったよなあ」

 どうして知っているのか分からなかった。一年の担任がだ。

「俺がお世話になった教授の授業だよ。確か、ハーディの専門だろ」

 何度も頷くけれども、正直なところ授業は話を聞いているだけだった。聞いている分には面白いのだけれども、なんとなく授業という感じがしなかった。人の話を聞きに行っているだけ。これで「授業」と言って許されるんだろうかと不思議に思っていた。それに大学生たちは目の前でみんな寝ている。中学の英語の授業の方がよっぽど、みな真面目なもんだと上総はつくづく思う。

「どうだ、面白いか? 俺はよくわかんなかったなあ」

「面白いと、思います」

 気取っていると思われそうで不安だったけれども、上総は頷いた。

「そうか。でも翻訳を読んだことあるのか?」

「あります。小学校の時に」

 また背伸びしていると言われそうだけど本当のことなんで、答えた。

「そうなのか。なら、もしな立村くんが読みたいのだったらなんだが。俺の卒論、生の読んでみないか? たぶんあの教授、最後にレポートを提出させるはずなんだよ。まあ立村くんにはそこまで求めないかもしれないけれど、大学生のお兄さんお姉さんたちがどういうのを書くのか、興味はなくないか?」

 ──興味ないわけじゃないけどさ。

 上総は答えるのに戸惑っていた。なんといえばいいのだろう。顔はにこやかだし、男から見てもいい感じの雰囲気だ。腕力はありそうだし、顔もくっきりしている。

  杉本が言うには「女子たちの人気は一応ある」とのことだ。

  「売れない俳優」みたいだともいう。

  もっと気持ちよくいい人だと思えればいいのだが。

  しかし上総の本能ではどうも、うさんくささが匂ってならない。うまくいえないのだけれども、おならをした後の空気という雰囲気だろうか。

「けど、僕はまだそういうのわからないと思うし」

「いや、そんなことないよ。立村くん、この前別の英作文の講義でちゃんと、レポート書いたんだろ? 話は聞いてるよ。文章は非常にうまいし、大学生でもここまで書ける奴はいないって、研究室の連中が誉めてたって」

「あれはたまたま、得意なとこが出たし、先生も親切だったから」

「いやいや、そう謙遜しなさんな。立村くん、自分に自信を持つことは大切だよ。そうだ、あさっての放課後、生徒指導室に来てくれないかな。あまり他の先生たちには見せたくない内容なんだ。やはり大人にべらべら見せるとな、いろいろ粗も見えるしさ」

 肩をつついてにやっとするのは南雲だ。いつもながらすかっとした笑顔だ。

「りっちゃん、チャンスじゃん。貸してもらっちまえよ」

 桧山先生の顔をもう一度見つめ返した。おならの匂いみたいなものは気のせいだったのかもと、思うくらいのさっぱりした顔だった。ただ、まだ重たいものが顔の前をふらふらしているようだった。

「じゃあ、あさって、生徒指導室でな」

 上総の答えを待たず、桧山先生は足早に図書館を出て行った。背広姿で隙のない姿。背はぴんとして、実に男前だ。見ただけで男、と断言できる魅力。


「すげえなありっちゃん。俺、頭悪いからなあ。ところで『テス』ってどんな話?」

「ふたりの男に惚れられて、最後にかたっぽの人を殺してしまう女の人の話」

 まだぼうっとしたまま、上総は答えた。あまり適切なあらすじではないけれども。

「こええなあ」

「けど、宗教関係のことがわからないと、俺もよくわかんないな」

「面白い?」

「たぶん先生にとっては、おもしろかったんじゃないかな。卒論にしたくらいだから」

 上総はため息をついた後、別の話題に切り替えた。


 ──旧家の娘という冗談を間に受けたテスの両親は、さっそくそこの旧家へ奉公に出す。がしかし、そこのどら息子に見初められて無理やり関係を迫られ妊娠してしまう。逃げ帰って子どもを産んだものの、すぐに死んでしまう二重苦。人生やり直そうと別の場所で働くテス、性格の純粋さと美貌でもって、幸せな恋が芽生え結婚までたどり着く。しかしながらあまりにも純粋すぎて嘘のつけないテスは、よりに寄って相手の男へ初夜、告白してしまう。自分だって女遊びしたことあるくせに女の過去は許せないという困った男。ぶちぎれた相手は許してくれず逃げ出してしまう。そして……。


 はっきり言うと、男ふたりの馬鹿さかげんに情けなくなる小説だ。

 作品がどうのこうのというのではなく、女主人公テスの出会う男がどうしてこうも情けない奴なのか。

 自分が男であることがみじめになりそうだった。

 上総も話の内容をすべて理解したわけではないけれども、怒りで手が震えんばかりだったことを覚えている。面白かったか、と聞かれて、泣きましたと答えるのが正確だったかもしれないと思う。

 しかし、ほとんど顔も覚えられていない桧山先生に、なぜ呼び止められたのかわからなかった。考えられるのは、一年B組の男女評議委員のいがみ合いかもしれないが、だからといって「テス」の話題を持ち出すようなことはふつうしないだろう。卒論を見せてくれるのはそりゃあ面白そうだけど、なんで職員室ではいけないのだろう。考えれば考えるほどわけがわからず、気持ちが悪い。

 でも南雲に話しても、

「それはりっちゃん、考えすぎだよ」

と言われるのがオチだろう。上総はおとなしく従うことにした。桧山先生の言葉ではなく、親愛なる友人、南雲秋世に。


 ──さて、どうしようか。

 規律委員の連中と、「青大附中ファッションチェック」の資料を集めに行く……別名、洋服屋を冷やかす……南雲を見送り、上総はしばらく図書館の机でうたたねしていた。最近は夜眠れず授業中に居眠りしてしまうことが多い。しょっちゅう教科書で頭を殴られているような気がする。

 ──やっぱり、話を聞かないと片手落ちだよな。

 美里には止められているけれども、やはり佐賀はるみを捕まえて、一度杉本梨南に対する本音を聞いてみないと一歩も前に進めない。そんな気がした。噂や美里情報によると、明らかに「男子受けはいいが女子には不人気」、ある意味いじめられても仕方ないタイプの子であるらしい。上総も幾度か見かけたことがある。清楚と思う。細かく三つ編みにした髪を、器用に丸めて耳の上に留めている。中国の少女がチャイナ服を着てポーズとっていそうな感じだった。

「新井林の好みって保守的だよなあ。典型的亭主関白を狙いたい性格だなあ」

 本条先輩が深くため息を吐いていた。付け加えて、

「それに引き換え、立村、お前は完全にかかあ天下だもんなあ」

 とこづくのはやめてほしかった。

 ──ああいうタイプが好きな奴は多いだろうな。けどなあ。

 どうも上総には苦手な感じがした。いや、厳密にいうと、なんとなく避けたい感じがする。できれば一対一で話をしたくない。たぶん挨拶をすれば返事が返ってくるのだろうが、それ以上の会話をしたくない。美里やこずえのようにこてんぱんに言い負かされることはないかもしれない。かわりに、自然と要求の飲ませられて頷くしかない、催眠術にかけられてしまいそうな気がした。

 たかが一年の女子にそんな恐れ、感じるのも変なのだが。

 ──羽飛は、鈴蘭優に似てるから可愛いとか寝言みたいなこと言ってたな。

 正直、上総の好みは鈴蘭優ではない。なんで貴史があそこまで熱を上げるのか謎である。音程がかなりずれているあの状態で、レコードを出すというのは、何か間違っているような気がする。

 ──かくなる上は、お姉さんに頼むとするか。

 今朝から考えていた案を実行したくて、上総は図書カウンターに向かった。


「古川さん、ちょっと相談があるんだけど、いいかな」

 信じがたい事実だが、古川こずえは本日、図書局員のお仕事中なのである。

「なによ立村。いきなりなんなの? ははん、大学図書館からやばい本借りたいんでしょ。江戸時代の春画とかさ。あれってもろ、だってよ。やめときな。ちゃんとエロ本は自腹で揃えなよ」

「人が話をする前によけいな想像力働かせるのはやめろよな」

おとなしげにカウンター席にて文庫本を五冊くらい重ねている古川こずえ。しかしながら出てくる言葉は相変わらずの下ネタ攻撃だ。いつもだったらこずえの当番をずらして借りるのが常なのだが、本人に用があるんだ、しかたない。

「とにかく、ひとつ頼みがあるんだ。ちょっとだけ出てこれないかな」

 隣りで一年の女子らしい子が、こずえに頷き返している。先輩どうぞ、の合図だろうか。ちなみに図書局は部活扱いなので、委員会活動のように過剰な締め付けは一切ない。確かこずえは中途入局のはずだ。

「ったくほんと、あんたってガキよね。がまんできないんだからさ」  

  悪口は受け止める覚悟あり。上総は軽く一年の女子に手を合わせ、こずえには背を向けて角の百科事典並びに向かった。ほこり臭い本ばかりで、借りる奴はまずいない。旧かなづかいの本なんて、小口に埃が溜まったままだってことを上総はちゃんと知っている。


 こずえは肩をすくめながら、ポケットから小さな丸いものを取り出し、口に放り込んだ。ほっぺたを右、左と交互に膨らませた。

「さっきからあんた、南雲としゃべってたよねえ。桧山先生とも」

「良く見てたな」

 カウンターから様子をうかがってたところを見ると、話は早い。

「さては美里をまた怒らせたとか? やあよ。また私にまでとばっちりくるなんてさ。あんた男子だからわからないかもしれないけど、美里をなだめるのって大変なんだからさ」

「違う。今回は清坂氏とは関係ない」

 きっぱり答えた。その辺誤解をさせないように。声が冷たくなったみたいで、こずえがむくつけた表情を見せた。

「なによ、そうびびらなくたっていいでしょが」

「ここなら誰もいないな」

 百科事典の並んだ本棚はベルトの少し上くらいの高さだった。窓がうっすらと曇っている。雨が降りそうな天気で、すでに図書室は蛍光灯全開だ。上総はこずえを手招きして一番角のところにもたれるようしぐさで示した。わざとらしくため息をついたけれども、こずえは逆らわなかった。ふたり、並んで棚に持たれた。前にも横にも、聞こえる場所には人がいなかった。


「杉本のことなんだけど」

 たぶん巨乳目当てかとつっこみをされること覚悟で切り出した。

「古川さん、杉本とは結構仲良いだろ」

「あの子おもしろいし、話してて飽きないもんね。いい子だよ。男子なんであんないい子嫌うんだろうね。あんた、こういうとこだけは人間として崩れてないね」

 共感するところもあるが、話をとにかく進めたい。無視した。

「じゃあ、今の一年女子たちが何かごたごたしてるってことも知ってるよな」

「あんたが知ってることくらいは十分にね」

「ありがたい。あのさそれでさ」

 上総はもう一度息を殺すようにしてこずえの肩に話し掛けた。髪の毛が短いので耳のかたちがはっきり見える。

「佐賀さんって女子のことは、聞いてるか」

「ああ、あの子よねえ。杉本さんを見捨てて男を取ったっていう」

 思いっきり顔をしかめるこずえ。どうやら上総の読みは当たっていたようだ。美里も悪口を言わないように気を遣いつつも「ぶりっこ」と言っていたではないか。たぶんその通りなのだろう。できるだけ中立を保とうとして上総は続けた。

「新井林と付き合っているのは知っている。でも今、一年B組で杉本が佐賀さんをいじめているってことになっているんだろ。そうとうきつい状態なんじゃないか?」

「らしいよね。私も見たわけじゃないけど、ありゃあ杉本さんがかわいそうだよ。だってさ、ずっと杉本さんがかばってあげてたのにさ、いきなり手のひら返したように男子に走るんだもんね。ちょっとなあって感じだよ。ほら、美里が私との友情捨てて羽飛と付き合うってパターンと一緒よ」

 ──それとこれとは全然違うと思うんだが。

 言いたいのをがまんした。倍返しは避けたい。

「もともと仲の悪い新井林と、自分の親友とが付き合ってしまった。杉本はそれが許せないから、無視してるってだけなんだな」

「そうだよ。あんたもよく知ってるねえ。ただ運が悪いことにね、クラスの女子も佐賀さんがぶりっ子っぽいことしてるのが面白くないって言って、真似しちゃったらしいんだよね。杉本さんももともと女子とは線引いた感じで付き合ってるみたいだし。ひとりだけ、ちょっとつっぱった女の子と仲良くしてるけど、あとはみんな二年とかあんたとか、そのくらいだよ。佐賀さんがいじめられているというけど、あの子他のクラスにも友だちいるって言ってるし、杉本さんの方がずっと孤独だよ」

「孤独?」 

 こずえは大きく頷いた。拳骨を握り締めてはあっと息を吹きかけた。

「男子にはわかんないかもしれないけどさ。佐賀さんみたいな態度の子って、なんかむかつくんだよね。たまにあんたもそういうこと言うでしょが。俺が悪いんだ、みんな自分が悪いんだって顔して。やたらと顔色覗き込んだりして」

「そんなことしてないだろ」

 ポケットに両手をつっこんだまま、上総は足下に吐き捨てるようつぶやいた。

「自覚ないってのが、佐賀さんと一緒だよ。あんたもまったくガキなんだから。でもまあ、あんたは女子に色目使ってないし、受けも悪いし、佐賀さん現象もそれほどではないしさ」 「なんだよその佐賀さん現象ってさ」

 どうやらこずえも、佐賀はるみにはいい印象を持っていないということがわかった。

 そりゃそうだろう。もともと杉本梨南のことが大好きで、いつぞやは

「杉本さん頭いいんだから、一年飛び級しちゃって二年D組に来ればいいのにね。あ、だめか。あのぼいんで立村の理性が飛んじゃうか」

と朝の漫才をかまされたことがある。「ばかばかしい」の一言で打ち捨てたけれども、提案そのものは鋭いと思う。

「けどさ、男子ってああいう子、好きなんだよねえ。あんたは例外としてもさ、羽飛だって鈴蘭優って感じの子好きだしさ」

「単にそれが原因かよ」

 それ以上は言わないでおいた。上総なりの気遣いだった。なにせこの人は、一年の時から「姉さん」だったのだから。毎朝、「朝の下ネタ漫才」をかまされて頭が痛いところもあるけれども、だからこそ浮かないですんだところも認めざるを得ない。

「ま、杉本さんを守りたいってことだったら、私は協力するよ。美里には黙ってあげるからさ」

「それとこれとは違うだろ!」

 思わず声が出た。一瞬だけ静まりすぐにざわめきがぶり返し安心した。

「なあにあせってんのよ。だから立村、あんたはガキだってのよ。それより、立村、佐賀さんと話したことあるの」

「ないよ。清坂氏にも止められた。やめとけって。かえって杉本の立場が悪くなるって」

 こずえはにんまりしながら、鼻の下を人差し指でこすった。

「美里の立場も悪くなるかもしれないしね。ま、それはそうとして、あんたからみて佐賀さんってどんな子に見えるわけ。やっぱり一年の馬鹿男子連中とか、鈴蘭優ファンくずれとか、そいつらと同じ目で見てるってわけ?」

「俺は鈴蘭優ってそんないいと思わないし……」  

 腰を書籍棚に打ちつけたまま、上総は軽くうつむいた。数回すれ違った程度で、印象もさほど残っていない。唯一強烈だったのは、六月の一年全校集会で新井林の相手役として体育館で、手のひらキスを受けていたところだろうか。杉本とは正反対の性格であろうことがうかがえた。

「あのさ立村、もしかして、顔、覚えてないとか言わない?」

 答えなかった。あの時は顔が暗くてよく見えなかった。頷くしかない。

「そうだよねえ、あんたってさ、人の顔覚えづらい性格だよねえ」

「悪かったな」

 ぽん、と握りこぶしを包むように手を打ったこずえ。にんまりではなく、今度はすっきりと笑顔だった。

「じゃあさ、ちょっとつきあいなよ。体育館の戸口にいるよ。佐賀さん。まずはあんたの目でどんな子か見てみなよ」  

  上総の答えを待たずに、こずえは口笛を吹くように口を尖らせ背を向けた。一度ぴいっと鳴ったっきり、あとは息が唇の隙間から洩れるだけ。

 ──下手なくせに。

 つぶやきながら書籍棚をくぐりぬけ、こずえの背を追いかけていった。足が速いけれども、ついていけないほどではない。扉を閉めた後、こずえは立ち止まりささやいた。

「じゃあ、これからのことは、美里にも杉本さんにも、内緒にしとくんだよ。わかったね、わが弟よ」

「わかりました、お姉さま」

 どうせ一度は佐賀はるみと話をして、杉本の言い分と擦り合わせてみたいと思っていた。ちょっと早まった程度だったらそれでもいい。美里に止められたのにこずえに言い寄って頼んだような形だから、ちょっとまずいかもしれない。あとでこずえと雁首並べて、美里に怒鳴られそうな気がした。

「ばかだね、あんた何誤解気にしてるのさ。そういうとこが女々しいってのよ。立村。あんた、次期評議委員長なんでしょが。可愛い後輩たちの面倒を見たり、問題が起こっていたらできるだけ手助けしてやるのが人間でしょうが。あんた義務よ、義務って奴」

 ──よけいなお世話って気もするけどな。

 一年B組教室前を通る。大きく「青大附中スポーツ新聞」が二枚、模造紙にでかでかと張られていた。きれいな字だった。柔らかい、筆で書いたような感じ。心なしか自分の手に似ているような気がした。

「ああ、あれね、噂の青大附中スポーツ新聞ね。新井林がいきなり『部活動最優先主義』革命したいとか言い出して、勝手にやり始めたって奴」

「バスケ部一年の次期キャプテンだから、運動部がここまでレベル低いってことに頭に来たんだろう」

「あんたも卓球やってたらもう少し、人生変わったかもね」

「冗談じゃない。俺は評議委員会だけで十分だ」

 しばらく言葉のキャッチボールを続けていた。美里とも、杉本とも違う感じでしゃべることができる、古川こずえという女子。実をいうと小学校時代、一番たくさんいたタイプの女子だったのではと上総は感じる。とにかくうるさい、はしゃぐ。一言文句をいうと百倍プラス利子をつけて返してくる。きんきんと耳に痛い女子が上総は苦手だったはず、だった。

 ──慣れたんだろうな、俺も。

 たまたま美里と仲良しでかつ、貴史に恋焦がれているこずえだったから、中間の位置にいる上総にちょっかいをかけるのは、当然といえば当然だろう。二歳下の弟がいて、上総にそっくりだから話し掛けやすいというのもあるのだろう。こちらとしては下ネタの連呼をされるのがたまったもんじゃないが。

 ただ青大附中二年D組の教室内ではまったく、痛さを感じない。もちろん結構きついことを言われて、人目につかないところでどんより落ち込んだりすることはある。でも、後を引かない。

 ──いいかげん羽飛も、古川さんのこと考えてみるってのもいいんじゃないかな。

 上総なりには気遣ってやったりもする。わざと席を隣りにしてやったりもするし、ふたりいいムードだと判断したら席を外すようにしたりしている。しかし、「鈴蘭優命」の貴史はこずえとふたりっきりになるのがどうも苦手らしい。まあ、鈴蘭優とは全く似ても似つかないのだから、仕方がないといえばそうなんだが。

「ほら、立村、見てみな。戸口のところにいるよ」

 ちょうど曲がり角。相手からは見えないがこちらからは十分観察できる場所。

 佐賀はるみは体育館の入り口で、両手を組み合わせるようにしてまっすぐ立っていた。


「体育館、何してるんだ」

「ばかね、気付かないの? バスケ部の練習に決まってるっしょが。あの子の彼氏誰だか分かってるでしょが」

 ──そうか、新井林のつきあい相手だもんな。

 改めて思い出した。それが問題の発端なのに忘れてるなんておばかもいいとこだ。

 一年の公認カップルで、異様なほどのべたべたぶりは二年、三年の間でも知らぬものなし。  

 一緒に帰る程度なら多少はしていることだけれども、休み時間ほとんど離れることがなく、部活が終わるまでじっと立ち尽くして待っている。どうしても帰らなくてはならない時は、門の所まで新井林が送る。さらに、新井林の眼の届かない場所で佐賀への「いじめ」が行われるのを危惧してか、一年男子たちにも女子たちへの監視を怠らぬよう命令している。運動万能成績優秀、彫りの深い顔立ちにたっぱも十分。男としての能力価値は完璧だ。すでに来年のキャプテン任命は決定事項だとも聞いている。三年が引退する前に下級生へキャプテンを譲るというのは、非常に珍しいことだ。それだけずば抜けていると考えていいのだろう。

 ──本条先輩もそう思ってるから、だったんだよな。

 こずえを片手でけん制しつつ、上総もじっくりつ佐賀はるみの姿を観察することにした。横顔がはっきりと見える。蛍光灯で顔が照らされている。少し青白く、唇の赤さだけが目立った。いつも巻き上げている髪型が、この日はだいぶ乱れていた。肩に長くひとふさ垂れていた。  

「ねえ、どう? ああいう子だよ」

「見た目だけで判断するのはどうかと思うよ」

 力のない声で答えた。ひと目見るなり、水あめに似た空気が流れている気がしてきた。佐賀はるみのまわりを取り囲む、透明だけど後をひっぱるようなねばり。

 ずっと微動だにせずに体育館の扉を少し開き、覗き込むようにして立っている佐賀はるみ。上総が見ている間全く動こうとしなかった。

「なにか見たいものでもあるのかな」

「ばかね違うって。新井林を見つめてるだけなんだから。ほら、そのうちに先生か先輩連中が出てきて、佐賀さんを中に入れるはずだよ。もう毎日、こうだから」

「確かに立ちっぱなしだったら足が疲れるだろうしな」

「違うのよ、あんたほんとガキだねえ。男子は佐賀さんのあの目に弱いのよ。見つめられたらそそられるって話じゃないの。あんた、本条先輩からその辺教えてもらってないの」

「関係ないって、なんで本条先輩の話になるんだよ」  

  思い出したくなくて頭を振った。だだっこだ。

「じゃあ聞き方変える。あんた、ああいうタイプ、好み?」

 口角を弓なりに上げて、覗き込むこずえ。唯一の救いは、こずえより上総の方が背が高いということだけ。

「……だから、俺は鈴蘭優って好みじゃないからさ。羽飛だったらどうか知らないけどさ」

 黙って上総の顔を唇と瞳、同じ力加減で見つめたこずえは、肩でため息をついた。

「美里が心配するまでもないってことか。ちゃんと最後までそれ貫くんだよ」

「だからなんで清坂氏が出てくるんだよ」

 答えずにこずえはひじで上総をつついた。

「視察終了。私も図書館の当番まだ終わってないから戻るね。まあ美里が、『佐賀さんに近づくなかれ禁止令』出している以上、あんたもおおっぴらに佐賀さんの情報手に入れるのは難しいかな。だったら私がやってあげようか」

「え? 古川さん?」  

もう一度、来た廊下を並んで歩きながら、

「もちろんそうしてくれたら助かる」

「私もね、杉本さんが元気なくしてるの見てるとかわいそうでかわいそうで、思わずぎゅっと抱きしめたくなっちゃうもんね。レズの道には走りたくないしさ。誤解されてるのも辛いだろうしねえ。だから、佐賀さんが本音どう思ってるのかを、今度聞いてみる。あんたが動くと、美里がジェラシーの鬼になるだろうし、それは避けたいだろうしね」

 上総も不必要なことをつぶやかないよう心した。

 ありがたくこずえの善意を受け取ることにした。

「わかった。じゃあ今度、羽飛に新しい出来事が起こったら真っ先に報告してあげよう」

「さすが、よく私も仕込んだわ、わが弟よ」  


 図書室カウンターにもどったこずえに、片手で挨拶した後、上総は家に戻った。

 ──なんなんだろうな。

 自転車をこいでいる間も、食事をしている時も、なんとなく離れないもの。水あめのような。

 ──うまく言えないけど、咽がつまりそうだったな。

 風邪を引かないように、手洗いとうがいを欠かさずしている。でも、風邪の気配はまず咽にくる。一匹小さなありんこが咽に這い上がったようなひりつきがある。その後、咽の奥まで染み渡っていき、最後にせき、のど、たんの三重奏となる。その最初の気配みたいなものだった。風邪が気持ちいいことはまずないので、はっきり言って、不快な感覚だ。

 ──でも、羽飛なんかはああいう子が好きだと思うな。

 ──一年の男子連中も、嫌いじゃないから、体育館の中に入れてやったり、監視してやったりするんだろうな。

 ──もちろん、あいつも。

 上総は数回うがいをした後、口をぬぐった。他の連中と自分の感覚がずれていることは十分承知している。貴史の大好きな鈴蘭優も、上総からすれば「音程の外れた歌い方をする子」でしかない。たぶん、佐賀はるみみたいな子の方が人気あるのだろう。おとなしそうで、唇が赤くて、守ってやりたい、そう思えるらしい女子の方が。本条先輩も話していた。こずえには言わなかったけれども、

「やっぱしなあ、そそるぜ。新井林の彼女」

 はいはいさようざんすか、と上総は流したけれども、たぶん他の連中もおおむねそうだろう。南雲は奈良岡さんが最高のパートナーだから例外としたいところだけれども、可愛い子が嫌いだとは思えない。佐賀はるみに好感は持つだろう。

 ──俺だけか? この感覚。

 子どもの頃、病気でなにかの検査をした時のこと。背中にひんやりしたゼリーのようなものを塗られたことがあった。気持ち悪くて寒くて怖くて、泣くだけ泣いて、あとで母にこっぴどく叱られたことがあった。なんの害もないとわかっていてもいやだった。とにかく背中にべたっとしたものがくっつく感覚がたまらなかった。

 同じものを、佐賀はるみに感じた。

 杉本梨南の憎まれ口には染みを残さない自分の心。佐賀はるみのまなざしと姿形に、うまくいえないねばりけを感じたのは、どうしてなのだろう。わからなかった。          


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