その2 ふたりの言葉が重なる
外に出るとささくれた空気が頬を叩く。ひりひりする。今日は黒いコートだった。自転車を引っ張り出し、校門まで乗っていくとやはりポニーテールに結い上げた女子が立っていた。ケープ型の紺色コートだった。襟には真っ白いコサージがついている。
「杉本、寒くなかったか?」
「大丈夫です」
冷たく答える杉本。この言い方で男子たちの多くはむっとするらしい。愛嬌もなにもない、言葉そのものをぽんと出すだけ。拾いあげれば見えるものがたくさんあるはずなのに。上総は頷いて自転車をひいて歩いた。
「杉本が手伝ってくれたから、無事学校祭も終わったしな。本当に助かったよ」
「当たり前です」
ここで、
「そんなことないですよ、先輩」
とか言ってにっこり笑えば、きっと杉本に惚れる男も出てくるのだろう。それだけの容姿を持っていると上総は、男の目でそう思う。黒いポニーテールは高い位置にくくられていて、艶やかで大きなリボンでまとめられている。咽から胸にかけてのラインが、コートの上からもはっきりわかるくらい、膨らんでいる。見てはいけないとわかっているけれど、本能が指摘する。唇のほのかな赤さ、色の白さ、どこか遠くを見据えているような真摯な瞳。たぶん、
──杉本は、人形だったら完璧に愛されたんだろうな。
上総からすれば、杉本の言動および行動は、ガラス張りそのものだ。言葉の陰に隠れた言葉が、みな手にとるようにわかる。自分でもその理由はわからない。ただ、瞳を見つめて言葉を唇から受け取れば、誰にでもわかりそうなもんだと思う。どうして他の連中はこの子を誤解するのだろう。
──少し、黙っているように言った方がいいのかな。
一年男子連中が杉本のことを、「いつかしばいてやる」と罵っているのも聞いている。天敵たる一年B組の評議委員新井林健吾の命により、それは無理やり押えられているとも聞いている。なんで新井林が、蛇蠍のごとく嫌っている杉本のことをかばってやっているのかはわかるようでわからなかった。正々堂々と勝負をしたいからだそうだが、それも何か勘違いしているような気がしてならない。
「杉本、あのさ」
「何か用ですか」
また唇を素早く開いて杉本が答える。
「俺の前では何言ってもいいからさ、一年B組にいる時だけは、男子連中に話をしない方がいいかもしれないよ。桧山先生とかにもな」
「なんでですか。真実を言うのがどこいけないんですか」
またこれだ。おかしくなる。大抵の男子連中がぶちぎれるらしいが、どうも上総にその回路は繋がっていないらしい。素直に、あいかわらずだとほころぶだけだ。
「世の中、言わなくていいこともたくさんあるしさ。黙って受け流して、自分の仲良しの人とだけ付き合っていくのも一つの手だと思うんだ。俺はさ」
「だから立村先輩は清坂先輩とおつきあいをされていらっしゃるんですか」
──またこれだ。
羽飛貴史や南雲秋世に似たようなことを投げつけられたら、けっと無視するだろうが杉本にはその気持ちが湧かない。決して恋愛感情のこもった問い返しではないとわかっているだけに、またほころびかえす。
「そうだな、うちのクラスもいろいろいるから、話の合う奴合わない奴、結構いるんだ。そういう場合はうまく受け流しておく。せっかく同じクラスにいるんだから、喧嘩してこれ以上仲悪くなるのもったいないしさ」
「そうやって立村先輩はなあなあできたのですね」
こっくり上総は頷いた。返事はこれ以上、しなかった。
学校裏の林を抜け、かなり闇を増した木々の間をすり抜け、抜け出た先の和風喫茶店へと向かった。二階は日本伝統芸能関連のホールも付随している和風喫茶「おちうど」。杉本とは何度も通っている、秘密の園だった。
「あらかあさくん、今日はさむいからおしるこね」
いつもふたりで通っているので、たぶん「おちうど」のおかみさんからは恋人同士だと思われていることだろう。もしかしたら母に御注進されているかもしれない。それは覚悟の上だ。杉本が礼儀正しく深々と一礼をした後、後ろのソファー席に向かった。今日は雨が降りそうな天気のせいか、人は少なめだった。相変わらず着物姿の中年女性がげらげら笑っていた。
「おちうど」は上総の母繋がりでいろいろ融通してもらっている店だった。母の手伝いで、日本舞踊とかお茶会の手伝いにひっぱりだされることの多い上総に、「おちうど」の女主人さんは特別手当として、「いつきてもただでお菓子とお茶をご馳走してあげる」というプレゼントをしてくれた。以来上総は、杉本や特定の友人とふたりきりで、学校の連中にばれない話をしたい時に利用することにしていた。中学生が勇気出して入れるような雰囲気ではないし、馬鹿笑いして顰蹙を買ってしまうのもいやだ。必然、連れて入る人を選ぶことになる。もちろん杉本梨南を選んだのは、和風のこまやかな雰囲気になじめることと、しゃべる時に馬鹿笑いしないことからだった。ちなみに清坂美里は一度も連れてきたことがない。
つるつるすべっこい漆塗りのテーブルに、和紙のテーブルクロスが二枚。金と銀に貼り分けられていた。赤い入れ物と黒い入れ物、両方にちょこなんとおしるこを勧められた。お菓子が出るとまずは食べるのが、ふたりの約束だった。
「あのさ、杉本。今ここには誰も青大附属の連中がいないから聞くんだけどさ」
もちで少しおなか一杯になったところで、上総は切り出した。
「新井林たちとは、相変わらずなのか」
杉本は表情ひとつ変えずに答えた。
「男子はみな馬鹿だと思ってますので、一切無視してます。先輩に言われるまでもありません」
「そうか、そうか」
何もしゃべっていないのだったら、少しはいい方向に向かっているのかもしれない。ほっと一息ついた。杉本梨南は一年B組の評議委員だが、実に新井林健吾とのそりが合わない。小学校時代から同じクラスとのことだったが、それ以来のいがみ合いで尋常ならざる戦いが続いている。まあ天敵同士というのだったらよくあることだが、問題は「男子VS女子」の系図が出来上がっていることと、杉本が新井林の恋人に対して「いじめ」をしているという噂が流れていることだ。
生徒連中の間だけならまだいい。
「それと、佐賀さんとも、相変わらずなのか」
「許すわけいきません」
きりりと口を結び、杉本は冷たく答えた。
「でも、まずいだろ。佐賀さん杉本のことを友だちだと思っているんだろ」
「口ばかりの女を信用するわけにはいきません」
──女ときたかよ。 上総は再びため息をついた。これじゃあ、勝ち目がない。
番茶を一気にすすり、おかわりをもらい、上総は杉本がしずしずとあんこをすするのを眺めていた。手馴れているのか、音を立てず上品だ。このまま時を止めて、人形にして、一年B組に連れて行ってやればきっと、この子は嫌われないですむだろうに。
杉本はきっと、自分が来年、評議委員長に指名されるものだと思い込んでいる。
心の奥でひりりと痛み目を背けてきたものだった。
六月、杉本と新井林の間で激しい言い合いがあり、その際に一時、
「次期評議委員長は新井林健吾にするらしい」
という噂が飛び交った。もちろん本条先輩はしっかりと、次期評議委員長を上総にするべく釘をさしてくれたけれども、一瞬だけでも新井林最有力説が流れたのは事実だった。たぶん信用した人もいただろう。
杉本はその時に、はっきりと、
「私は立村先輩側に立ちます」
と言い切ってくれた。本条先輩と新井林の前で。
いつもは
「立村先輩は救いようのない不細工で頭も悪いし、なんで清坂先輩のような可愛い彼女がいるのかわかりません」
と断言しているのにだった。正直、自分が不細工で頭が悪くてなんで美里のような恋人がいるのか信じられないというのは、本当のことだった。だからちっとも腹が立たなかった。どうしてかわからないけれど上総はいつもそうだった。杉本の言うことの奥を、いつも覗き込んでしまう。
──評議委員長、指名してやりたいよな。でもな。
茶碗をなめたまま、上総は上目遣いで杉本を見据えた。気付かないでおしるこをすすっている杉本。
本条先輩の言葉が耳に蘇る。
──評議委員長は、一匹狼じゃできないんだよな。
もう答えが出ている。杉本梨南には不適格だということを。
男子連中を敵に回し、ただでさえ活躍中の新井林健吾を叩きのめしつつ委員会を運営していくことができるとは思えなかった。いや、杉本ひとりでだったらなんでもやり遂げるだろう。入学して以来圧倒的な学年トップの座を守っているし、一年学年全校集会の時に見せた、緻密な構成力でこしらえた「青大附中ファッションクイズ大会」。あれは杉本でなくてはできなかっただろう。 しかし、評議委員会はひとりではできない。
いやというほど、上総も思い知らされていた。
ビデオ演劇だってそうだ。どんなに「奇岩城」の内容が頭痛いものだったとしても、作品を発見してくれた奴はすごいと思う。音楽担当すると張り切っている女子もいる。美里は衣裳係と、ちょい役だったらやると言ってくれている。上総もいやいやながらとんびのマントを羽織って悪役ホームズに化けることになるだろう。
みんなが、「やるよ、がんばるよ、応援するよ」と言ってくれること。これが一番大切だ。
幸い上総は同期の連中に恵まれている。男女八人、評議委員はみな仲がいいし、多少恋愛沙汰もあるものの、それなりに楽しく盛り上がっている。たまには、男子同士で女子にはいえない秘密も打ち明けあったりする。二年近くたって上総も心を許せるようになってきた奴らばかりだ。
杉本にそういう子はいるのだろうか?
観察した結果、全くいなかった。
少なくとも評議委員会の中では。委員長としての資格は取り去さられる。
──対抗馬がな。
新井林健吾のつんと反り返った、筋肉ついた身体が目に浮かぶ。
バスケ部の次期キャプテンとの誉れも高く、弱小青大附中運動部を復活させる可能性の高い奴。
大抵の運動はこなし、しかも杉本に次いで成績もトップクラス。
杉本曰く、
「あの男は顔以外にとりえがない馬鹿男」
という。裏を読み取ってしまう上総のくせで、またたまらなくいとおしさを感じる。
──羽飛に近いタイプだろうな。あいつは。
当然、上総のことを軟弱者呼ばわりするのも当然だと思うし、そのことについてはあきらめ以外感じていない。どうせ、腕力で殴り合いしたところで、勝てないだろう。あっさり伸されるだろう。わかっている。
杉本と新井林との件については、過去の因縁がいろいろあり、しかも最近は恋愛沙汰も紛れ込んでいてややこやしいと聞いている。杉本からも何度か詳しい話を聞かせてもらっている。杉本の親友だった子が、新井林の恋人になったということで友情決裂。それ以来杉本は一切親友を無視しているが、たまたま他の女子たちも一緒に無視してしまったために、いじめの首謀者扱いされているということ。
「私は佐賀さんを守ってあげました。馬鹿な男子たちから守ってあげました。なのに、佐賀さんは私を裏切って新井林の方につきました。だから怒るのは当たり前ではないですか」
ごもっとも。その時は頷いたけれども、どうもひっかかり、陰でいろいろ聞いて調べた。
素直にそうとは頷けなくなった。そして、評議委員長としての資格について疑問を持たざるを得なくなった。
──杉本が悔しいのはわかる。わかるけどさ、でもな。
一度、佐賀はるみ……杉本の親友だった、新井林の恋人……と話をしてみたいと、上総は思った。
もしかしたら、かなり近い感じ方を佐賀はしているのかもしれない。
すべては直感だった。
「あのさ、杉本、俺も前から思っていたんだけど、佐賀さんは杉本のことを友だちだと思っていたんだろ? たまたま新井林と付き合ったんだろ? 気持ちはわかるけどさ、でも今のままだと大変なことになるよ」
「私をあそこまで嫌う相手を選んで、どうして私が無視してはいけないのですか」
──佐賀さんにとって、杉本は親友としての価値がなかったんじゃないかな。
上総はぼんやりと感じた。でも口に出してはいけないとセーブした。
「だってさ、友だちになりたがってることがわかるんだろ。男子連中にもそうなんだろ。だったら、表面だけでも仲良いふりした方がいいんじゃないかって思うんだ。無理に新井林と口を利く必要なんてないけど、佐賀さんとよりを戻したら、もしかして少しずつよくなるかも」
「立村先輩は小学校時代いじめられた相手にそういうようなこといえますか」
棒読みの言葉で杉本は答えた。
「いえるのだったら言ってみてください、許すことできるんですか」
「わかんないな」
トイレに立ち、話を断った。
逃げているのは自分の方だった。
杉本の言葉ひとつひとつが突き刺さってくる。
トイレの壁にもたれ深呼吸を二回。
たぶん杉本はすべて知っているのだろう。上総が小学校六年の時にやらかした事件の数々と、いろいろ噂に流れている女ったらし伝説を。あえて否定はしていない。それでも杉本は上総のことを慕ってくれているのだから、ありがたいこととだけ思っている。
でも、言われるとおり、許すことができるとは思えなかった。
──俺は心狭い奴だからな。
六年間上総はいじめられていたと思い込んでいた。今思えば、仲間に入れてくれるという、彼らなりの友情表現だったのかもしれないし、いわゆる「いじめ」のひどいことはされていなかった。服をぬがされて解剖もされてなければ、椅子で殴られたこともない。けとばされて傷だらけになったこともない。たぶん、みな、悪ふざけ程度、プロレス程度の感覚だったのだろう。
それを「許せない。殺してやる」と思いつめた自分が馬鹿だったと、今は思い知った。
わかっているし、反省した。でもどうしても謝ることはできない。
いくら自分の思い込みが悪かったとしても、あの時感じた憎しみと恐ろしさだけは消えていない。
今でも通学路を通る時に、本品山中学の制服がちらつかないかを注意するとか、朝早く出発するのは本品山中学の通学時間にダブらないようにするためだとか。今でも姑息なやり方で逃げ回っている自分がみっともなくてならない。
──もっと堂々としろよな。なにびくびくしてるんだろ。
本条先輩の言葉がまた響く。
「ごめん、でもさ杉本。担任の桧山先生と今、うまくいってるのか?」
一番気になることを尋ねた。英語科関連の情報はかなり入ってきている。上総も気になることはちょこちょことチェックするようにしていた。職員室で質問をかまして情報提供を求めるのも、評議委員長の勤めである。
「あんなつまらない下手な授業、役立ちません」
「あ、そうか」
思わず笑った。頷けなくもない。桧山先生は二十四歳の若手英語科教師だ。この秋から一年B組の新担任となった。もとの担任が身体を壊して入院し、長引きそうということでの判断だった。
ひそかに女子からも人気があるのだが、硬派でかつ男子たちのことを強烈に可愛がるということで、一部からは非難の声も上がっている。杉本もそのひとりのはずだ。
「つまらない授業なので、自分で毎日英語の勉強をしています。立村先輩、どういう勉強をなさってますか。大学の授業というのは、はるかにましですか」
「いや、大学の授業ったって、なんか映画みたり、小説の読解やったり、あといろいろな話聞いたりとかだからさ」
話をもごもごごまかした。あまり聞かれたくないことを杉本は突いてくる。席を立ちたくなるけれど、杉本だから許せてしまう。どうしてかわからない。
「でもな、やはり先生たちとうまくやっていった方があとで楽だよ。俺も人のこと言えないけどさ」
「そうですよね。立村先輩、宿泊研修で大騒ぎをひきおこしたそうですね」
「よく覚えてるな、そうだよ」
黒く艶やかな杉本のまなざし。いつもそこをじっと見詰めると震えているのがわかる。本人も気付いていないに違いない。それを見るたびにほっとする。
──いつか怒らせるんでないかって思ってるんだろうな。
大抵の男子、先生は怒ったのだろう。よろいをいつ着てもいいという準備の姿。
ありのままの杉本のまま、上総は見つめていたかった。
「うまくいえないんだけどさ、杉本」
説教臭くなりそうでいやだけど言うしかなかった。
「今、桧山先生がいろいろといじめ問題について取り組んでるってのは知ってるだろ。二年、三年もホームルームでいろいろ言われているけれども、一番叩かれやすいのは一年だと思うんだ。それに、杉本も誤解されやすいことが多いから、もしかしたら桧山先生に文句を言われてしまうかもしれないんだ。たたでさえ新井林とのことがからんでいるし。せめて、今のうちに佐賀さんと仲直りするか、したふりをしたほうがいいよ。無理に親友にならなくたっていいけれど、ふつうに話をする程度のことはしたほうがいいよ」
「先輩もできもしないことを良くいうものですね。もし先輩が同じことされたらどうしますか。裏切られた私の立場をわかってくれないんですか」
「世の中のほとんどは理解してくれないと思うよ」
これだけ言い切った。時計を覗き込んだ。
「じゃあ、今日はこの辺にするか」
まだ残っていたそうだったけれども、杉本は立ち上がった。
「立村先輩、新井林には気をつけてください。先輩よりも動きが早くてすばしこくて、頭もいい相手なんです。私をスパイにして使ってください。私にしてほしいことがあったら、何でも言ってください。私が顔を出さないでできることなら大丈夫です」
左右にポニーテールのふりこが揺れた。
きちんと揃えられた長髪を眺めて、自分もコートを羽織り、上総は外の景色を眺めた。
完璧に闇だった。何も見えなかった。危険だから遠回りだけれども林の外側を通って帰ろう。杉本を送っていこう。
──どうにかなんないかな。本当は杉本を「ビデオ演劇」の音楽担当にさせられればかなり面白いんだけどな。なにせ「ルパン」だろ。やはりしゃれたクラシックとかジャズとか、そういうものでまとめると面白そうな気するんだけどな。でもそうなると、高校生イジドール探偵を新井林にするという案が通らなくなる。ただでさえいがみあっている二人が、協力するなんてまず不可能だしな。
杉本を送り届けた後、上総は自転車のライトをつけたまま勢い良くペダルを踏んだ。剣の風が髪に刺さり痛かった。
──でも、それ以前の問題として、一年B組、無事来年評議委員あのふたりで決まるのか?
英語科に立ち寄った際耳にした噂。
──もともと先生とは折り合い悪いと聞いてたけどさ、杉本と桧山先生相変わらずいがみあってるんだろ。まあ、授業が悲惨だっていうのは噂に聞いていたけどさ。でもそういうのは勝手にこっちで勉強すればなんとかなることだろ。そのくらいがまんしたっていいだろう。それともなにかな、あの先生、男子をやたらとひいきしている男尊女卑野郎だとも聞いたことがある。男子が宿題忘れた時は教室で立たせるだけだけど、女子の時は廊下に出してバケツ持たせるって。ちょっと差別でないかって杉本が抗議したら、女子は一度甘やかすとくせになるからなって鼻で笑ったらしい。それは確かに俺も問題あるんじゃないかって思うよ。でも、このままだと杉本のことをどんどん叩く方向に進むんじゃないかな。ただでさえ、佐賀さんと新井林の問題が片付いてないのに、杉本ももう少し、新井林とうまくやっていけたらいいんだけどな。新井林も必死にがまんしているみたいだし、杉本がもう少しなあ。
でもがまんできない理由も、ガラスの奥から透けて見えた。
──恋愛感情なんてわかんないけど。
新井林について口にする時の杉本の瞳、また震えていたのをいつも知っていた。
──顔だけの馬鹿男か。杉本は面食いなんだよな。
家に着く頃には手もかじかみ、指の先がちりちりと痛かった。風邪を引きそうで三回連続してくしゃみをした。鼻をすすりながら玄関に入った。父はまだ帰っていなかった。当たり前だった。最近は仕事が忙しいので、上総が寝入っている時にしか来ないらしい。特別しゃべりたいこともない。
いつものように食事を冷蔵庫から出して、温めて食べていると電話がかかってきた。急いで咽に流し込み、受話器を取った。
──立村くん?
聞きなれた清坂美里の声だった。
「あ、清坂氏か」
──うん、あのね。
ひっかかることない軽やかな調子で、美里がひとりで話し出す。上総は頷きながら聞いていたけれども、きっとだんまりを決め込んでいると思われているだろう。怒っているかもしれない。気付いてあわてて、
「うん、うん、それで」
とあいづちを打った。
清坂美里と付き合い始めたのは六月の最初だった。
入学式の時、幼なじみだという羽飛貴史と友だちになったことがきっかけで、美里とも顔なじみとなり自然のなりゆきというのが正直なところ。途中、言い合いになったり、別れを言い出したりとかいろいろあったけれども、雨降って地固まる。今は羽飛を挟んで仲良くおしゃべりする仲だ。
──でね、立村くん。今日は杉本さんと話をしてたんでしょ。
「うん、いろいろ気になることがあったからさ」
かいつまんで上総は、一年B組に関する理由を挙げた。
──杉本さん可愛いのに、誤解されやすいよね。
「そうされて仕方ない理由ってのもあるしな。でもあまり突っ込むと顰蹙かいそうだしさ」
──そうそう。でね、立村くんがずっと気にしてたでしょ。杉本さんの友だちがどうのこうのってこと。
佐賀はるみについての情報を欲しいと前から思っていた。時折、美里にも相談したりしていた。変な誤解はされていないはずだ。その証拠に、美里はふくれていない。
「ああ、佐賀さんという人のことだよな」
──新井林くんの彼女。ちょっと情報を集めてみたんだ。
「え、もうか?」
──ふふふ、そりゃあ簡単よ。こずえがいるもの。
「古川さんも知ってるのかよ」
──こずえはもともと杉本さん大好きだから、純粋に心配してあげてるのよ。立村くんのことはどうだかわかんないけどね。
杉本と仲良しだというのは、前から気付いていたけれども。ちなみに古川こずえとは、上総の隣り席で毎朝「朝の下ネタ漫才」をかます相方だ。断じて上総が希望したわけではない。何が楽しくて
「ねえ、あんた今日朝立ちあった?」
ということに答えなくてはならないのか。
「明日、古川さんに何言われるか怖いな」
本音を持って上総は答えた。
──大丈夫。私も少し手加減しなって言っといたから。
古川こずえは美里の親友である。おさえは、利かない。
──もともとは杉本さん、その佐賀さんって子のことをいろいろ面倒みてきたみたいなの。男子たちとその頃からうまくいってなかったみたいだから。佐賀さんにもとばっちりがきたってことじゃないかな。
そりゃそうだろう。この辺は上総も知っている。
──でもね、六年の時にきっかけがあって、佐賀さんは新井林くんと付き合い出して、杉本さんをおろそかにしたらしいの。それで杉本さんはものすごく傷ついたんだって。
本人の会話でもって知っている。
──けどねえ、正直なところ、私がもし佐賀さんの立場だったとしたら、やだろうなあって思うよ。何から何まで、それこそノートの形とか、エンピツとか、消しゴムから、みな杉本さんの形に合わせさせられてたってことだもん。杉本さんはもともと、大人みたいなのが好きでしょ。可愛い感じのものって嫌いでしょ。でも、佐賀さんはそういうのが大好きだったみたいで、周りではかわいそうがられてたんだって。
「かわいそうがられてたって、佐賀さんをか」
──そう。だから新井林くんを佐賀さんが選んだって話を聞いた段階で、周りは「やっぱりね」って思ったらしいんだ。
杉本がもともと男子受けしない人間だというのはわかっていた。
でも女子受けするのは。
──で、その佐賀さんって子なんだけどね。うーん、言っていいのかなあ。
「情報として聞かせてもらえると助かるな」
──私のこと、悪口マシーンだなんて言わないでよ。
「言わない言わない。清坂氏のことは長い付き合いでよくわかってるって」
──じゃあ言うけど。あのね、なんかいわゆる「ぶりっこ」って感じらしいんだ。男子や先生の前では、杉本さんのことを「かわいそう」とか言って同情するような言い方するらしいの。髪型も、ほら、貴史の大好きな鈴蘭優ばりの編み上げ中華娘っぽい感じにしてるし。目立つのよ。うーんと、なんか女子からは顰蹙かいそうな子って感じなんだ。近いとすれば、杉浦さんみたいな感じ。
「そうなんだ。そうか」
上総は繰り返し相槌を打った。回路が繋がり息が詰まった。身体が冷えた。
──だから、女子たちもみな杉本さんの味方になって無視していたらしいんだ。本当は杉本さんと佐賀さんのけんかって感じだったんだけど、いつのまにかクラス一丸になっての「いじめ」になっちゃったみたいで。
「けどそれじゃあ、杉本をかばいたくてもかばえないよな」
──難しいとこ。さらにややこしくしてるのがね、杉本さんって新井林くんと異常に仲悪いでしょう。それで新井林くんが佐賀さんの彼氏でしょう。だから、佐賀さんをいじめる奴は杉本さんなんだって決め付けて、いろいろ,文句言ってるらしいの。究めつけが桧山先生。桧山先生はもともと男子びいきで新井林くんのことが大好きだって。だから杉本さんのことが完全に、いじめのボスなんだって目で見ているらしいの。なんか不公平だよね。単に杉本さんと佐賀さんが仲悪くなっただけなのに、ね。
「でもさ、佐賀さんからしたら、新井林がいるからもう怖いものないんだろ。杉本のことなんてどうでもいいんだろ。それならそれで」
──でも女子にシカトされちゃうのって辛いよ。
「女子のことはよくわかんないなあ。とにかく、杉本にもかなり問題ありってことはよくわかった。ありがとう。あとは佐賀さんに直接話をきいてみたいんだけど、それは難しいよな」
声がとんがった。驚いた。
──やめなさいよそれは。だってあの子、新井林くんの彼女なのよ。あんた、もし新井林くんに誤解されたらどうするのよ。立村くん、あんた決闘申し込まれて勝てると思ってるの?
痛いところを突かれた。
美里の言葉は続く続く。
──新井林くんって見た目、めちゃくちゃ硬派でしょ。いかにも男って感じで一年二年の間で人気高いみたいよ。どこの誰かとは違って、昼行灯なんて言われてないし!
「昼行灯で悪かったな」
力なく言い返した。
──それに、運動も抜群でしょ。本条先輩だって一時期は立村くんを飛ばして評議委員長にしようとしてたって噂流れたくらいなんだからね。でも、今はひたすら佐賀さん命で、いつも側に寄り添ってるんだよ。そうそう、立村くんも知ってるでしょ。一年B組前の廊下に「青潟大学附属中学スポーツ」って壁新聞できたのって。
とっくの昔に知っている。何度も観にいっている。
──あれ、新井林くんがなんとかして運動部を盛り上げようってことで、一生懸命に自分なりに何かしようってやり始めたことなんだって。やりたいことがあれば自分でやろうってとこが、やっぱりかっこいいって私も思うもの。佐賀さんに書いてもらうの手伝ってもらってるんだって。私も知らなかったなあ。バスケ部ってぼろ負けしまくってるて噂しか聞いてなかったけど、新井林くんってシュートそのものは決めてるんだね。すごい。立村くん、バスケあまり得意じゃないでしょ。いつもシュートチャンスがきても、ボール貴史に回しちゃうでしょ。新井林くん、かなり遠いところからでも勝負かけるってとこあるらしいと初めて聞いたわ。すごいよねえ。
男としては屈辱的なことを言われていても頷くしかない。
休み時間に体育館でバスケボールとじゃれることはある。貴史の方がシュートを決める確率高いから、そちらに回した方がいいだろうと判断してのことだ。みな、よく見ているもんだ。上総が自分でシュートしても、かならずひっかかるか壁に当たるかのどっちかだ。確率の問題なのにどうして美里はいきなりきついことを言い出すのだろう。
「わかってます。反省してます」
──いいよ。立村くんバスケができないことを責めてるわけじゃないから。とにかく、私が言いたいのはね。
美里は力をこめていた。
──真っ正面から勝負したら、立村くん、新井林くんにあっさり負けちゃうよ。佐賀さんについては当たらず触らずの方がいいよ。それよりも、杉本さんをなんとかしてあげたほうが絶対いいよ!
一通り軽い話題もかわした後、受話器を置いた。
切る直前に美里がささやきかけてくれた言葉だけが救いだった。
──立村くん、きついこと言ってごめんね。でもね、私も貴史もこずえも、立村くんのこと、バスケがどうとか数学がどうとか、そんなことで嫌いになることなんてないんだからね。忘れないでよ。
新井林健吾。いつかは対峙しなくてはならない相手だ。
いつまでもボールを渡してごまかしてはいられない。
心臓が苦しくなった、めまいがした。上総は部屋に向かい、子供向けリライト版「奇岩城」をめくり始めた。ルパン、ホームズ、そしてイジドール少年の出番をどう配置して脚本を作るべきか。上総の担当は悪役ホームズと、台本の作成係だった。