その14 オペラグラスをたたむ
部屋の掃除や買出しや、家での仕事は山のようだった。いきなり部屋の片付けを始めた上総に、父もいぶかしげな顔をしていた。特に何も言わなかった。一足早い年末大掃除だと思っているのだろう。正月になったら母も泊りにくるから、かんしゃく起こされないように、と先回りしていると思っているのだろう。そう思わせておけばいい。
──どうせ、二十四日は父さん、仕事だし。
ちょっと不安だが、美里へのプレゼントも「おちうど」のおかみさんに見繕ってもらい手に入れた。抹茶色に金粉のぼかしがかかった、ちりめんのふくさだった。なんでも先日、とある日舞の会で蒔物用にもらったという、なかなか高級なものらしい。もう少し美里には派手な方がいいのではと本当は思った。なにせ赤と白の市松模様ドレスがお似合いの相手だ。もう少しでそう言うところだった。
「あら、いつも連れてきているあの品のある女の子でしょ。かあさくん」
──完全に勘違いしてるよ。
どうやら、杉本梨南に渡すものだと思い込んでいるらしい。ここで妙な言い訳をしようもんなら、母にばれて何を言われるかわからない。二股かけていると思われてもしかたない。口をもごもごさせているうちに、おかみさんにあっさり説得されてしまった。
──しょうがない。清坂氏が気に入らないなら、あの人のことだ、はっきり言うだろう。
とにもかくにも、プレゼントは引き出しの中。あとは二十四日用の料理を見繕うことにしよう。外で大人のように、高級なディナーなんて用意できるわけない。かといって、知り合いの多い自分の町でうろうろして、後々噂になるのも面倒だ。それなら家の中に連れてきて、ゆっくり話をしたりするのが一番、楽しいような気がする。
──品山に連れてって、か。厳しいこというよな。
ごみを出しに玄関を出て、空を見上げた。街灯の光がまあるく広がり、時折瞬いていた。
──クリスマスは、あさってだ。
学校内の飾り付けは、主に各クラスの規律委員が仕切っていた。当然、二年D組は南雲の指示により、休み時間および自習時間……午前中の授業はほぼそうだった……を利用して行われた。ペーパーフラワーのひいらぎとポイントセチアを大量にこしらえ、背の高い男子連中が廊下と教室の壁際にどっさり貼り付けた。金色のリボンをぐしゃぐしゃに巻き付けるのもなかなか、しゃれていて見栄えがした。
「いかにもクリスマスムードって感じだな、けどな」
次期規律委員長・南雲秋世のお言葉は続く。
「俺はどうせ仏教徒だ。祝うべきは正月だ」
──今年のクリスマスだけの話だろ、どうせ。
隣りで聞かされた上総は言葉に出さず頷いた。
南雲の愛しい恋人・奈良岡彰子とが、同情すべき事情によりクリスマスイブを一緒に過ごせないという事実をすでに聞かされている。
上総はポケットから、FMラジオでエアチェックしたテープを取り出し、机の上から南雲へ滑らせてやった。もちろん、曲名とその由来に関する上総直筆のライナーブックもセットでだ。
「うわあ、ありがとさん!」
「一足早いクリスマスプレゼントってとこかな」
「俺の気持ちをわかってくれるのは、りっちゃんだけだよ」
四時間目が終り、クラスの連中はだいぶ散らばっていた。女子グループがまだ固まって、不穏な会話を交わしている。いろいろ事情があるのだろうが、男子としては関わらない方が身のためだ。目でその意味合いを伝え、ふたり、生徒玄関手前のクリスマスツリーに近づいた。かなりどでかいもので、天井まで届きそうな代物だった。こういうところに設備費を使っているのだろうかと思う。「おいおい、勘違いしてるぜみんな。これは七夕の笹じゃないんだって。なあ、りっちゃん、願い事書いてつるすなんてなんか違うよな」
「それもまた一興、って奴だよ」
小さい紙に「成績がよくなりますように」「好きです!」などなど、短冊ののりで細かい葉の間にはさみこまれている。
「来年はそれでいくか。クリスマスツリーに願い事を書いておくと、かないますよってさ」
「それいいかもな」
南雲は「ジングルベル」を口笛で吹きながら、かかっているオーナメントに手を伸ばした。
真っ赤なフエルトで愛嬌たっぷりにこしらえたサンタクロースのマスコットや、ビーズで細かく細工を施した長靴など、いろいろだった。指先で撫でているのは、目を閉じて微笑んでいるお下げ髪のサンタさんマスコットだった。
「これ、彰子さん好きそうだよなあ。もし二十四日がOKだったら、こういうのを後輩に頼んでたくさん作ってもらってさ、プレゼントしようって思ってたんだ。規律の一年に、手芸得意な子がいてさ、いくらでも作ってくれるって話してたんだ。だからさ」
──こういうのでよかったのか?
あらためて、自分の選んだプレゼントを思い起こす。
根本的に間違っていたんではと、あらためて思う。
「ところでさ、りっちゃん、ちょっとだけ付き合ってもらえないかなあ」
「どこにだよ」
「三年A組に」
顔がひくついたのを気付かれないようにうつむいた。足下をぐりぐりさせて何気ないふりをした。
「何かあるのか」
「うん、二十四日以降の後片付けをいつにするか、日取りを決めるんだ。それで相談に。本条さんと違って、規律の先輩たちは素直に青大附高へ進学だから、いくらでも手伝ってくれるってさ」
後片付けは冬休み中に行うということらしい。そうでないと困る。一月以降の「奇岩城」ビデオ撮影に、クリスマスオーナメントが残っていたらしゃれにならない。
「俺は廊下で待ってるよ」
「あれ、本条先輩とは、いいのか?」
ちくりとする言葉だ。
──いやだよなんて言えるかよ!
できるだけ廊下で顔を合わせないようにしてきたつもりだった。新井林との対決後に一発やられてから、約束どおり一切口を利いていない。避けているわけではないけれど、そう言いたいけれど。 南雲の口調に邪気はなかった。さりげなかった。
「じゃ、つきあってちょうだいよん。りっちゃんさまあ」
女子っぽく、甘えた声を出す。
「わかった、それなら廊下にいるよ」
繰り返し、三階に上がった。行きつ戻りつしていた三年A組の教室だった。
教室扉は開け放たれていた。まだ十人くらい教室でだべっている。響く声で、本条先輩がいるのはわかった。
三年A組名物の「クラスメートひとりひとりのポートレイト」がずらっと張り巡らされているのとか、赤いペーパーフラワーが口に全部貼り付けられているとか。やはり、本条評議委員長のやることは、一味違う。夜中、ひとりで教室にはいたくない、怖い雰囲気だ。
南雲ひとりが教室に入っていった。戸口の側でちらっと覗くと、お化粧道具を持ち出してぱたぱたやっている女子が数人混じっていた。南雲はそのひとりに礼をして、二言三言、話をしていた。片がついたのか、また一礼し、次に本条先輩の側に近づいた。礼はしないですぐ、本題に入ったようだ。
──見つかりませんように。
上総は窓辺付近に張り付いた。ここだと、うまい具合に様子をうかがえるし、姿も目立たない。
自分の中でも、本条先輩に今まで自分のしたことを、どう説明したらいいのかが判断つかなかった。
すべきことはした。本条評議委員長体制から新井林体制へすんなり移行できるよう、邪魔者……と、思われているのだろう……は上総の責任ですべて除去した。「評議委員会」の中にとどめるにおいて、上総の思いつく限りのことは、確かにした。
杉本を切り、新井林を評議委員長候補に仕立てるという方法で、本条先輩の求めている評議委員会を守るよう、形を整えた。本条先輩の望むものを、上総は精一杯写し取り、実行したつもりだった。
──本条先輩が俺を認めることは、たぶんない。
やり方そのものを統一することはできる。
大多数の「ふつう」の人たちの迷惑にならないように。
でも、日々杉本が感じている言葉や感情を、嘘だとは言えない。
杉本と上総が日々、針のような視線を突き刺され壊れそうになるあの傷みを。
伝え方がわからなかった。また、張られた頬の痛みが蘇り、奥歯をかみ締めた。
教室から出てくる三年男子のひとりが
「おいおい、本条の『弟』がいるぜ」
とわざわざ大声で知らせていた。あわてて隠れようとするが、タイミング悪く、南雲と話をしちえる本条先輩と目が合ってしまった。
めがねを外したまま、横目でちろっとにらんだ感じだった。
すごんでいるのかもしれなかった。笑みはない。
呼吸を止めて、ぴくんと上総はうなづいた。
一応、礼のつもりだ。
一瞥された。すぐに本条先輩は南雲に向かい、二言、三言話し掛けていた。
「りっちゃん、おまたせさん」
階段を逃げるように降り、心臓が高鳴るのを押えるため呼吸を整えた。
「本条先輩と、話、してたよな」
「くりゃあいいのに」
南雲には、本条先輩とのいさかいについて、詳しい事情を話していなかった。
決定的に泣く寸前の場面は何度か見られているけれど、何がどう起こってどういう出来事に発展したか、などは全く説明していなかった。南雲も聞いてこなかった。気付いているかどうかは疑問だが。他の連中のように、そういうところ鈍感であれと祈るのみだ。
──気付いてないよな。
南雲はジャンバーを羽織りながらぶるぶるとひとふるいした。
「でさ、りっちゃんに本条先輩の伝言なんだけど」
あいかわらず、さっぱりした笑顔だった。たくらみごとはなさそうだ。
「今日の五時半に、青潟駅前に出て来いってさ。もちろん、私服着用のこと」
完全、身体が氷柱と化した。
指先が冷え切る。
「俺にか?」
言葉が震えそうだった。自分でもわかるくらい、背中ががくがくきている。南雲の顔に、気付いた形跡はない。そのままさらりと続けた。
「そうだよ、行くんだろ?」
どうする行くのか? という疑問ではない。南雲は上総が「駅前に行くもんだ」と思い込んでいる。上総が本条先輩に「これからお前とは口を利かない」と宣告されたことを、たぶん知らないはずだ。こういう誘いには、尻尾を振ってついていくのが上総だったのだから。
「行っていいのかな」
「そうだよ、いきゃあいいじゃん」
顔を覗き込み、次に南雲は切々と、「クリスマスイブを奪われた彼氏の哀しみ」について、さらさらと訴え始めた。さっき教室にいた時に聞かされたことと同じ話題だ。なんでそこまでくりかえすのかが謎だったが、それだけ失意のどん底なんだろう。南雲がこうもぐちっぽくなるのは、奈良岡彰子のこと以外ではありえなかった。
──いい奴だよな。
またかよ、という顔を一切見せず、上総は初めて聞いた時と同じ相槌を打った。
あらためて悔いた。
──やっぱりクリスマスの過ごし方は、なぐちゃんに前もって聞くべきだった!
教室に戻ると、思わぬ来客あり。
たぶん帰りを待っててくれていたであろう美里。それは嬉しい。
でももうひとり、ポニーテールの振り子が揺れる、ロングコート姿の君がひとり。
「杉本さん、やっぱりこれ、ねえ、ちょっとまずいよ」
笑顔は消さず、それでも顔を真っ赤にしているのは美里の方だった。上総と南雲が戻ってきたのに気付いて、さらに早口になっている。まずいことしたんだろうか。
対する杉本は冷静沈着、抑揚のない言い方だった。
「私は清坂先輩のために、このラストを捧げたいのです」
「そ、それは嬉しいよ。杉本さん、すごいなって思うの。でもね、でもね」
コートを着込み、首には白いマフラーを巻いている。端の丸いボンボンを握り締めては離し、揺らしている。動揺真っ最中らしい。
「杉本さん、あのね、すっごく感謝してる。そういう気遣い、杉本さんにしかできないってのもわかるよ。でもね、でもでも、これはちょっと」
言葉は全く揺れない杉本。
「清坂先輩、ああいう相手とおつきあいなさるのでしたら、こちらから先制攻撃をしなくてはならいません。必ず、相手にそういう感情を起こさせるように『行動』させなくてはなりません。いくら頭が悪くて不細工で男らしくない人であっても、人は行動することにより、自然に感情がついていくと、百科事典の心理学のところに書いてありました」
杉本のお得意だ。百科事典を愛読しているだけある。
「なにか不穏だな。じゃあ、俺先に帰るわ」
南雲が耳もとにささやいて去っていくのもわかる。そりゃあそうだろう。修羅場寸前だ。杉本はちらっと南雲に目を向けた後、露骨に上総を無視して続けた。
「清坂先輩、もし、あの方が文句を言われるのでしたら、私は徹底してお手伝いします。私は清坂先輩や古川先輩のように、私を必要とする方のお役に立ちたいのです」
今度は扉でぼんやり聞いていた上総をじいっとにらみつけた。
「私は、先輩と口を利くつもりは一切ありませんから」
笑いをこらえ上総は声をかけた。
「また、あしたな」
当然振り返らない。杉本はポニーテールの先っぽがちょうど、上総のネクタイにぶつかるよう、軽く振って階段を駆け下りてしまった。
──口、利いてくれてるのに。
教室の中は二人きりだった。
「なにかあったのか。杉本とまた」
言いかけたが言葉を切った。顔の赤みが退かない美里。何度もボンボンの先でほおを叩き、上総の方を見てはすぐにうつむいたりと、細かな動きを止めなかった。
ふたりきり。こういう時、自分たちは二年D組公認のカップルだと思う。美里の机には、大きめの白い封筒がおいてあった。ちらりと「奇岩城」のシナリオが覗いていた。
「これ、杉本さんが立村くんに渡してって、持ってきてくれたの。立村くんとは口利きたくないからって。怒らせちゃったね。困ったね」
ぶっきらぼうに、顎で差した。
たぶん杉本の家で渡した、訂正用の「奇岩城」シナリオだ。
一日で手を入れてくれたのだろうか。それともつき返すつもりだったのだろうか。
「シナリオの最終チェックを杉本に頼んだんだ。きっとそれだな」
「一緒に『奇岩城』の文庫本も入ってるよ」
まだ落ち着かないようすで、早口につぶやく美里。
手を伸ばし、上総はシナリオを取り出してぱらぱらめくってみた。一ページ目からすでに、赤ボールペンで、細かな直しが入っている。上総の数学の答案のように、ひとつの言葉に対して一行以上の説明および訂正理由が綴られている。ざっと読んでみるに思うのは、やはり杉本はすごすぎる、ということだった。
「すごいよな、一日でやったんだろうな。これ。でもさっき、清坂氏がなんか言ってただろ? ラストがどうのこうのって」
後表紙をめくり、問題の個所を探そうとした。いきなり美里がそれをひったくった。
「いいよ、そんなの見なくていい!」
「見なくてって、でも清坂氏は困るんだろう。言いづらい台詞とかそういうことかな」
「違うってば。もう、やあよ!」
慌てて美里は手を引っ込めた。また真っ赤に頬が染まる。
とりあえずは一言、断って。
「読んでいいかな」
「いいに決まってるでしょ! あんたに杉本さんが持ってきてくれたんだもん!」
矛盾しているが、まあいいか。上総は窓辺の縁に腰を下ろした。足をぶらぶらさせながら、ラスト場面に目を通した。「奇岩城」内で対決、ルパン対ホームズ。唯一、立村ホームズが美里の演じるルパンの乳母役と共演する場面だ。
──奇岩城内で、めでたくルパンとイジドール少年は和解する。ルパンも愛する女性、そして最愛の乳母と共に新しい旅立ちをしようと心に決める。最高のハッピーエンドが近づくがしかし、いきなり場を荒らしたのは、天敵シャーロック・ホームズだった。ホームズは卑劣にも、ルパンの愛する乳母を捕まえて頭に銃口を向ける。青ざめるルパン、イジドール少年。次の瞬間……
つまり、上総は美里を捕まえて、ルパンたちの目の前で脅迫するわけである。
両腕を後ろに回し、素直におもちゃの拳銃を頭に当てて台詞を言うだけで終わる場面のはずだった。別に、取り立てて何かがあるというわけでもない。
あらためて読み直す。
『ホームズ、そばでおろおろしている乳母をむりやり後ろ手に回し、銃口を向ける』
ト書きはそれだけのはずだった。しっかと赤が入っている。
『ホームズ、そばでおろおろしている乳母を、両腕でしっかと「抱きかかえて」銃口を向ける』 ──抱きかかえる?
ほんの一言、読み飛ばすだけでいい程度の訂正だろう。イメージがふくらんでよろしいではないですか。上総の感想はそれだけだ。なんで美里がそれだけ慌てるのかがわからない。
「なにかこれって問題あるのか?」
「あたりまえでしょ! もう、杉本さんったらおませすぎ!」
「あの、俺が、すなわちどうするってさ」
美里が口角泡飛ばして騒ぐ理由が謎だ。
「杉本さん、わざわざこの場面を私に見せて、こうしてもらいなさいって言うんだから! もう、本当にいや!」
完全にゆでタコ状態の美里をなだめたかった。
「どんな風にするんだ? 別に俺は、清坂氏の腕を取って、しばりあげて」
「違うの! こうするの!」
大股で美里は近づいてきた。上総の手をひっぱって無理やり床に下ろした。つったったままの上総の前に背を向け、左腕を取り、抱きかかえさせるようにした。カフスの部分がちょうど、美里の胸にあたった。ぬくもりが届く。かたいクッションを触ったみたいだった。鼻のところに美里の髪が擦れ、慌てて離した。
一瞬だけ、美里を片手で抱きしめた格好になった。
──あの、これって、もしかして、こうしなくちゃいけないってことか?
心臓が跳ね上がった。一秒後、美里は上総の抱きかかえた腕をぶるんと払いのけ、横を向いた。
「清坂氏、今のっていったいなんなんだ?」
「杉本さんがね、実演してくれたのよ、さっき!」
泣きそうになりながら、美里が早回しカセットレコーダーのように説明する。
「こんな感じで、ホームズに抱きしめてもらうようにしなくちゃ、だめだって! ビデオ演劇はわざとオーバーにやった方がわかりやすいから、しなさいって!」
二階の窓から見下ろした。誰かの視線を感じていた。薄らいだ水色の空。ちょうど二年D組の教室真下に誰かがいる。すぐにポニーテールの誰かさんと見破った。
──杉本のしそうなことだ。本当に。
あらためて同じ文章を読み返した。抱きかかえる。抱きかかえるようにして。
下でじっと見上げている杉本梨南と目が合った。
笑いが止まらなくなった。
さっきもそうだ。上総に一言、「先輩とはもう口を利きません」と言っていながら、ちゃんと挨拶代わりのことをしていくところとか、無視すると言っていながら教室の真下で見上げているところとか。
これって、どうみたって、いやがらせじゃないだろう。
杉本にとっての、「ごあいさつ」のひとつ。
決して「ふつう」の社会では通用しないやり方だけど、上総にだけは通じる言葉。
人から見たら、上総への嫌がらせと思うかもしれない。そう思われてもしかたない。
でも、こんなことだったらいくらでもやってくれればいい。
──嫌いになんてならないから。いくらでも、試されてやるから。
「なんで笑うのよ!」
ぶんむくれた美里の顔で、さらに笑いの発作は止まらなくなってしまった。しばらく唇を尖らせていた美里は、シナリオを封筒に納めた。しずしずと上総に手渡した。そっとしたから上総の顔を見上げた。自然とそれにも笑みがこぼれた。
「清坂氏、本番、それで行きましょう。それで決まり」
「はあ? 立村くん、何考えてるのよ!」
「詳しいことは、二十四日に改めて決めましょうか。このシナリオ、俺のうちでゆっくり読み直そうか。杉本のことだ、他の場面にもどういう風に手を入れているか、楽しみだな」
声がか細くなるのが意外だ。美里がおずおずと尋ねる。
「怒ってないの?」
「怒るわけないだろ」
もう一度窓の下を覗き込むと、同じ顔で見上げつづけている杉本がいた。
覗く空は薄青い。手を挙げて上総は了解のしるしを送った。
くるっときびすを返し大股で、ポニーテールの君は砂利道へ戻っていった。
「なあに、してたのよ」
「杉本にお礼、言っといた」
まだご機嫌斜めなままの美里にささやいた。
私服で来い、ということは、中学生面していてはまずいんだろう。
本条先輩との蜜月が終り、ひび割れた関係が続いているこの頃。
あえて南雲に伝言させたというところからして、怪しい。
明日、美里を我が家へお迎えする準備を少しずつ整え、洋服を選んだ。黒っぽいスーツに少し銀色の入ったチャイナ襟のシャツを纏った。コートだと重たいので、マフラーにジャケットだけにとどめた。ついでに父から奪ったハンチング帽を被った。だいたいこんな感じでいいだろう。
家から出た頃は、だいぶ日も落ちていた。青潟駅周辺の商店街は、学校内の飾りつけよりもはるかにスケールがでかかった。クリスマスツリーの立っていない店は一軒もなく、まだ電気の入るまえのイルミネーションが、配電線の姿をあらわにしていた。夜になればきれいだろう。中学生よりも高校生、高校生よりも大学生の集団が目立っていた。
一軒、女子好みの雑貨屋を覗き込んでは、またため息をついた。
美里には、むしろキャラクターグッズのようなものがよかったのかもしれない。気付いていたはずなのに、どうして、勘違いしてしまったんだろう。
──なぐちゃんに聞いておけばよかったな。
いつもだったら、本条先輩に何気なくかまをかけて教えてもらうことで、用が足りていた。
なんだかんだからかわれつつも、いいものを薦めてくれただろう。
──本条先輩、クリスマス忙しいんだろうな。ふたり分のプレゼントか。
駅に着いた。ちょうど五分前だった。時刻にうるさい本条先輩を待たせたくないけれど、顔を合わせることを考えると、やはり胃が痛くなる。話したいこと、よりも、話さなくてはならないこと、の方が多すぎる。こんなバランスの悪いことが、本条先輩との間にはいままでなかった。
ちょうど仕事帰りの人たちが、市外に戻るために乗り込む時間帯で、混雑していた。改札の前に立って腕時計を覗き込んでいる本条先輩を見つけた後、上総は襟元を数回撫でた。いつものように「本条先輩、お待たせしました!」と駆け寄ることはできなかった。
──なんか、似た格好だな。
黒いジャケットに、チェックのマフラー。めがねを外しているので、いつもよりも精悍に見える。 手荷物はない。片手に太めのボールペンみたいなものをもてあそんでいた。
ちょうど、五時半だった。もう、猶予はない。
上総は真っ正面から本条先輩のいるところへ歩いていった。
目をあわせたまま近づいた。口を開きかけた。
「……」
一礼すると、本条先輩は無言で外を親指で指した。
外に出ろ、ということだろう。
頷いた。上総は隣り合わず、本条先輩の背中を追った。振り返らず、進む速さもいつものまま、ひとりで歩いていく本条先輩。すでに夜めいているのに、店の明かりが洩れていて、平べったい空の色に見えた。
本条先輩の手から、数回小さな光が点滅した。
──ペンライトだ。
蛍に似た、かけらのような灯。
駅の裏通りを通り抜け、あまりきたことのない場所へ連れてこられた。駅からもう少し近づいてみると、青潟の海が揺れているのが見えた。海というよりも、藍色のゼリーが震えているかのようだった。人気は駅の近くにいるとまだ少なめだった。だんだん奥に歩いていくと、二人連れの男性たちが、懐中電灯らしきものを片手にうろうろとさまよっていた。すれ違う人、通り過ぎる人、みな無言だった。友だち同士なのだろう。なぜか、女性と遭遇することはほとんどなく、本条先輩が立ち止まる頃には、周りのほぼ八十パーセントが男性の集団だった。
磯の匂い。しょっぱい匂い。魚の半ば腐りかけた匂い。
本条先輩は一度上総に視線を送った後、また背を向けた。一本道を隔てた公園に入っていき、流木を使用した丸太のベンチに腰を下ろした。上総の方を今度は見なかった。
──座れってことだよな。
少し間をおいて、腰掛けた。すでにベンチは男性たちの二人組みにそれぞれ占拠されていた。座れたのは本当にラッキーだった。
──何するとこだろう?
ブランコに乗っているのも、鉄棒に腰掛けているのも、砂場のライオンさんやぞうさんの置物に腰掛けているのも、みな男性だけだった。駅前付近のカップルが多いのとは全く違う世界だった。さらに反対側の空き地には、同じような男性たちがひとりで石をけりながらそれぞれ思い思いの格好でたむろっていた。
いつもだったら、ためらうことなく聞いている。
教えてくれると分かっている。
でも口が動かない。あえて本条先輩には話し掛けず、上総は周りの男性集団を観察していった。時たま、懐中電灯を点滅させているのはなんでなのかも知りたいけれど、今聞いてはいけないような気がした。
空気が隣りで少し動いた。本条先輩が、ポケットからもぞもぞと何かを取り出した。片手ではペ ンライトをいじり、点滅させている。探し物が見つかったらしく、かちりと音を立てて開き、両目に当てた。オペラグラスらしかった。
公園の向こう。近く。人々が何度も、点滅させている灯。動くたびに揺れた。
何度も静かに流れていた。
「あん中に、里理がいる」
あの日から、初めて口を利いてくれた。
耳の中で本条先輩の言葉を吸い込んだ。
「里理の奴、ひとりでここにいるはずだ」
本条先輩は四人兄弟の末っ子で、上のお兄さんふたりとはかなり歳が離れていると聞いた。
三番目のお兄さんが里理さんと言って、本条先輩とは年子だとも聞いている。
──そういうことなんだ。
不意に怖くなり、打ち消そうとした。
──本条先輩のお兄さんは、男にしか関心ないんだって聞いたことある。
里理兄さんの話といえば、「あいつなよなよしててほんと、けり一発入れたくなるぜ」とか「あいつ、見た目からして男だってのに、なんでホモなんだよ!」とか、悪口しか聞かされていなかった。会った事はないけれども、一歳上なんて兄貴とは認めない、というタイプらしい。
そんなぼろくそこき下ろしている兄貴なのに、本条先輩は里理さんのために、公立高校受験を決意した。青大附属をやめて、公立進学で浮いたお金で、里理さんと一緒に下宿生活しようと持ちかけたらしい。もちろんいろいろ他にも事情があるのかもしれないけれど、里理さんがいなければ今ごろ本条先輩は公立受験なんてちらとも思っていないはずだ。
「これから、あいつがおんなじ仲間を探しにここに来るはずだ」
本条先輩の言い方は、話し掛けるというのではなかった。ただひたすら、ひとりごとをつぶやき、わざと上総に聞かせている、そんな感じだった。
──じゃあ、あの人たちは。
懐中電灯を持ってちかちかさせている人たちは。
「夜が長いってことだな。これから徹夜で男が男を求める、ナンパ大会ってことだ」
ふたたびポケットをいじくりまわし、くしゃくしゃの紙を広げ、上総の隣りに置いた。
受け取って読んだ。
──『友』を求めたい男たちの集い・冬至の夜に会いましょう──
──合図は、ペンライトか懐中電灯を二回ずつ点滅させること──
──興味本意でやってくる野次馬達には知られないように──
暗くて読みづらい。大きな文字で読み取れたのはそのくらいだった。
手書きのコピーで、文庫本大の紙。ほんの少し、綴られていた。
ペンライトで先を照らしつつ、本条先輩は実況中継を続けた。
「まだあいつひとりかよ。あいつ何腰抜けなんだか。ほら、さっさと声かけてしまえよな」
首を動かし、のびあがるようにして、誰かを追っていた。上総はペンライトの先にいる相手を探したが見えなかった。暗さに目が慣れてもわからなかった。
舌打ちしながら本条先輩は、自分で自分の相槌を売っていた。兄のことを「あいつ」と言うくらいだから、敬う気なんてさらさらないのだろう。腰をかがめて動いていた身体が、ふと止まった。
「おやまあ」
口元が緩んでいた。
「声、自分からかけられるんじゃないか。里理。おお、相手は結構、じじいじゃねえか。いいのか? 俺はそっちの方知らねえけど、里理の好みって、わけわからねえなあ」
どうやら、里理さんは自分から、お目当ての男性に声をかけて、無事OKをもらえたらしい。
「おいおい、もうツーショットかよ。まあ初対面だからなあ。ま、はじめてのナンパだったらこんなもんだろ。めでてえな」
オペラグラスを顔から離し、ぱちんと閉じた。
「俺は女で十分間に合ってるから、とりあえずこんなとこだ、さ、行くぞ」
ペンライトはつけていない。だから顔の表情は読み取れない。黒いシルエットが上総に向かって、声を発しているのがわかるだけだった。
──本条先輩、そういうことですか。
上総は動かずに、じっと本条先輩の顔を見据えた。尋ねることをまずした。
「今、ここにいることを、先輩のお兄さんはご存知なんですか」
「知るわけねえだろ! あいつが隠していたものを、俺が見つけて追っかけてきたってそれだけだ。やばい集まりだったら、あいつ絶対逃げられねえしな」
吐き出すようにつぶやいた本条先輩。息だけが熱く匂った。
「じゃあ、なぜここに来たんですか」
微動だにせず、上総は言葉をつないだ。
「先輩は、お兄さんのことが本当に、心配なんだってことが、今わかりました」
言い忘れたことをもうひとつ、続けた。
「これが、先輩のやり方のパターンだってことも、今はっきりと、理解しました」
本条先輩は腰を下ろしなおした。上総のすぐ隣りにきて、黙って座った。何度かペンライトを点滅させている。知り合いにこんなところ見られたら、「本条・立村ホモ説」が真性のものと定義づけられてしまうだろう。
いつもそうだった。本条先輩はいつも、自分が主役で相手が脇役、という形を崩さない人だった。 上総の家に本条先輩がきてくれて、いろいろ世話をしてくれた時も、評議委員会で面倒を見てくれた時も、美里とのことで相談にのってくれた時も。本条先輩はあくまでも、先輩だった。
先輩、イコール、守ってくれる人だった。
小学校時代の問題におびえながら過ごしてきた上総を救ってくれたのは、本条先輩だった。
──この人にだけは、嫌われたくない。
だから、評議委員長になりたかった。
本条先輩の求める、評議委員長として当然のことをしたかった。
よわっちい兄が心配でならない。きっと本条先輩の本音はそこにあるのだろう。
青大附属の学年トップでありながら、あえて面倒な公立進学を選ぶくらいなのだから、相当深い繋がりに違いないだろう。もっと言うなら、兄がまともにナンパできるかどうか……それも同性を相手に……を心配して、しっかとくっついてくるところも、「ふつう」じゃないだろう。
上総の知る限り、本条先輩が他の人たちに里理兄さんのことについて、そこまで話すのを見たことはなかった。唯一、上総に公立進学の理由を問われた時に、さりげなく教えてくれただけだった。 決して見せない本条先輩の影の部分。
きっと隠したかったであろう、お兄さんの秘密。
そして、心配でならない自分を、きっと誰にも見せたくなかっただろう。
なんで上総にだけ、そういう部分をさらけ出してくれたのだろう。
「本条先輩。聞いてください」
身体をできるだけ向かい合うように傾けた。上総を斜に見つめるようにして本条先輩も受ける姿勢をとってくれた。言葉を発するタイミングがつかめず、沈黙がちょこっと続いた。
「評議委員会のことです。この前、一通り新井林に話をしました。先輩と顔を合わせた次の日です」
詳しく説明しようとしたが、遮られた。
「お前に関することは、南雲から聞いている。繰り返す必要はねえよ」
「南雲からってなんですか」
それには答えず、本条先輩は何度かペンライトをくるくる回して夜空に向けた。
「立村、お前は相変わらずガキだが、それでも杉本を評議から下ろしたり、新井林に頭を下げたりと、お前なりにできることはやってるってことだ。いざとなったら、規律の南雲もいるし、この辺は大丈夫だろう。安心しろ、お前をいきなり下ろすようなことは、しねえよ」
ペンライトの先を向けられ、目をしばたいた。
「来年の評議を仕切るのは、立村、お前だ」
嬉しいのか、それとも驚いているのか、感情がつかめなかった。
なにかもやもやしたものが抜けてこない。
あれだけ欲しかったもの。泣くだけ泣いてあきらめたもの。また手元に戻ってきたこと。
──もっと喜べよ。
ひそかに自分を叱ってみても、気持ちが落ち着かなかった。
──俺が欲しいのは、評議委員長の座じゃない。
受け止めたブーメランが、他人のものだったと気付いた瞬間だった。
評議委員長の座にこだわっていた時はあえて見ないようにしてきたもの。
暗闇のペンライトの灯りと同じく、小さくちらついてきた。
──杉本を評議委員から下ろして、新井林に頭を下げて、そういうことを平気な顔でできるのなら、俺は本条先輩のような評議委員長になれるかもしれない。そうなりたかったよ、ずっと。でけど俺はそんなこと。
ペンライトの先を軽く握り、離した。受け取り、本条先輩の胸あたりから照らした。
──したくてやったわけじゃない。本条先輩のやり方は、まねしたくないんだ。
「どうしたんだよ、あれだけお前こだわってたくせにさ。立村、ほらほら、闇の中だから泣いたっていいんだぞ、ほら、顔見せてみろ」
顎のあたりを照らされた。
「本条先輩、そのことですが、評議委員長指名は三月まで、本条先輩のもとに権利があります。ぎりぎりで変更することももちろん可能です」
「ああ、だがお前は十分それをクリアした。俺が驚くくらいにな」
「だったら、最終判断を、三月の卒業式まで待ってもらえませんか」
「はあ?」
鼻から空気が洩れたような声を出す本条先輩。闇だからこそ、言葉がするする流れる。
「俺は本条先輩のやり方で評議委員会を仕切りたいと思っていました。新井林と話をした時まで。でも、俺は本条先輩のようにはできません。評議委員会最優先主義をそのまま、やっていくことはできません」
「どうしてそう決め付けるんだよ」
「最後まで聞いてください。もし、本条先輩のやり方をできるだけ残したいというのだったら、評議委員長は俺よりも新井林の方がいいと思います。あいつの方が、自分ひとりの力でどんどんひっぱっていけるし、不可能も可能に変えてしまえるだけのパワーを持ってます」
一息ついて、さらに続けた。
「俺に、同じやり方はできません。ただ、違うやり方を試すつもりはあります」
「違うやり方ってなんだそれは」
他中学との交流会のことを話そうと思った。でもたぶん、誰かから聞いているだろう。繰り返すと嫌がられそうなのでやめた。
「来年、俺がまだ次期評議委員長としてやっていける三月までにその結果を出します。それを見て、本条先輩、判断してください。俺のやり方がいいか、それとも新井林のやり方がいいか。もし降ろされてたとしても、俺は別のところから計画を進めていきます。もし評議から外れたとしても、やりたいことをやるための糸口はたくさん見つかるはずだと、俺は信じています」
本条先輩は無言だった。照らされた顔に表情は読み取れなかった。が、すぐにペンライトをひったくって、先で軽く上総の額を小突いた。加減されていて痛くなかった。すっくと立ち上がりラジオ体操張りの深呼吸をした。
「よっくわかった。お前の挑戦状、確かに受けた。とことん見届けてやるさ」
「そろそろこの辺は、彼女もちの俺たちには関係のない世界に切り替わるってわけだ。さっさとずらかろうぜ」
闇だけど、笑っているのだけは伝わった。手足をさすっているのは、やはり寒いからか。上総も立ち上がり、襟を合わせて温みを守った。
「とことん新井林と勝負してみろ。どういう結果が出ても、お前は俺の弟分だ。それだけは忘れるな、それと」
言葉を切り、ポケットに手を突っ込み、腰を振った後、
「これからは俺よりも南雲を頼れ。どういう意味かは、わかっているな」
──わからないってさ。
さっきから、気になる部分に「南雲」の名前が出てきている。ひっかかってはいるのだが、うまく答えが出ない。もごもごとつぶやいた。
「南雲、って、何か関係あるんですか」
「お前気付いてねえのかよ! ったくいいかげん気付けよ! こういうのは粋にさらりと流すのが乙ってもんだろうよ、ったく、だからこういうとこが立村、お前ガキだっていうんだよ!」
結局、ガキ扱いからは脱することができなさそうだった。かなりむっとした。
「すみません。どうせ俺は先輩の永遠の弟分ですから」
「全く、手間がかかる奴だ」
今度はこつんと後頭部をやられた。真っ正面から覗き込まれた。闇の中、裸眼でも十分表情はうかがえる。にやついていた。
「今日、お前誰に連れられて三Aの教室に来たんだ?」
「南雲が規律の関係で用があるって言ったから」
「お前を俺がひっぱたいた日、誰かから電話があっただろう? 南雲からかかってこなかったか」
「かかってきました、けど、出なかったから」
「いつだったか清坂ちゃんと修羅場ってた時にお前のクラスが妙に静かだったのは誰のおかげかなあ」
「そういうこともあったけど……」
返事をしてゆくうちに、繋がっていくことがある。問い詰められながら上総は、謎が溶けてゆき、さらさらした水になり流れていくのを感じていた。
──まさか、なぐちゃんが、全部本条先輩にスパイしていたってことかよ。
「あの、南雲が本条先輩のスパイだったとか」
「人聞き悪いこというな! 馬鹿野郎!」
今度は本気で脳天からひっぱたかれた。耳がぐわんとした。
「南雲はお前のこと心配してたんだ。単純明快な奴だ。感謝して欲しいなんて面倒なこと、ちっとも思ってないから、気付かないようにやってたみたいだがなあ。ざあとらしいことはしないがな、ほんと、あいつはいい奴だ。規律委員に置いとくのがもったいないぜ」
最後に一言、続けた。
「俺より、南雲を手本にしろ。これが本条里希最後のお言葉だ」
──俺のことを報告してたのはなぐちゃんだったんだ。
本条先輩とごたごたし始めてから、相談したいことも何もかも口に出せず、悶々としていた日々。必然、隣りの席でかつ、次期規律委員長の南雲にいろいろネタを振ることになる。
もともと本条先輩と南雲はつきあいがあったし、今日の放課後も親しげに会話を交わしていた。上総に伝言を伝えたりもしてくれた。
いや、さらにいうなら、本条先輩に張り倒されてべそかいてすれ違った後、電話をくれたのは南雲だった。しょっちゅう、「本条先輩とは話してないの?」と、軽くかまをかけるのも、わざと三年A組の教室に連れていかれたのも、みなきっかけは南雲だった。
──本条先輩となぐちゃんがふたりで、俺をオペラグラスで観察してたってことか。
「野郎同士でいちゃついてどこが楽しいんだろうなあ。ったく、里理の考えていることがよくわからんぜ」
もと来た道を戻った。今度は本条先輩の隣りに並んだ。懐中電灯、ペンライトを片手にちらつかせる二人組の数は、すれ違うごとに増えていった。まだ言葉を交わさず、駅の賑わいに向かいながらゆっくりと歩いていった。本条先輩の表情に笑みが浮かんでいるのが嬉しかった。
「それじゃ、先に帰る。『奇岩城』のスケジュールが決まったらすぐに電話で連絡しろよ」
駅前ロータリーのバス乗り場へ向かった。どうやら先輩は自転車でなく、バスで来たらしい。
足下の氷をつま先でつつきつつ、上総は黒い空と星を目で追った。赤と黄色の入り交じった人工の薄い光。かすかに天を照らしていた。月が爪の切り痕程度に残っていた。「ジングルベル」の鈴がうるさくなり響く商店街の有線放送。すぐ近くに、ペンライトだけで気持ちを伝え合っている人たちがいることを、街を歩く人々のほとんどは知らないのだろう。
きっと本条先輩は、学校の中で上総を観察しながら、誰かに同じような実況中継をしていたに違いない。口では罵倒の嵐だけど、内心はらはらしながら。うまくまとまったらほっとしながらオペラグラスをぱちんとしまう。
──ほらほら、立村の奴何やってるんだよ。新井林に喧嘩売って勝てると思ってるのかよ。まったく、手に負えねえ奴だよな。だからあいつガキだって言うんだよ。俺が面倒みてやらないとだめなんだよなあ。まあ、しゃあねえか。ほらほら、ちょっと待ってろ。なんとかしてやる。ったく、杉本の巨乳に魂抜かれてしまってるんだから、まったくなあ。
せせら笑う口調でありながら、想像の中で聞く声は優しかった。
上総の行動が本条先輩のお心に叶ったかどうかはわからない。口では評議委員長に認めたと言ってくれたけれども、感覚そのものは新井林の方と重なっているだろう。もっとワンマンに、したたかに、邪魔者は切ってどんどん進んでいく。たぶん、上総には無理だろう。
杉本梨南をあっさり切り捨てるなんて、上総には出来なかった。
──もし、俺が本条先輩と勝負するとしたら。
上総には想像つかない「男と男」同士の世界。友だちの少し上、という程度の付き合いだろう。そうとしか、解釈しようがない。上総にとってもペンライトのうごめく公園内は未知の空間だった。オペラグラスで覗くしかない。
本条先輩も、新井林も根は同じだろう。杉本梨南や上総のことを、オペラグラスで観察し、その上で指示を出したり激励したりする。里理さんにしていることと同じことを、繰り返すだけだろう。理解できない感情……それこそ「男と男」の気持ちとか……に対処するには、それしかないと、あらためて上総も思った。二股女子付き合いしている本条先輩もたぶん同じだろう。
でも、もしその人たちの心を感じ取ることができたならば。
公園の中にひとりで足を踏み入れることができたならば。
オペラグラスではなく、生身で入り込むことができたならば。
──俺が勝負できるのは、そこだけだ。
三月末に本条先輩がどういう結論を出すかはわからない。今の段階で評議委員長を上総に指名しなおしたところだと、たぶん可能性としては高いだろう。でも、あえて上総は本条先輩に検討しなおしてもらいたかった。やることをすべて見てもらい、その段階で判断してほしかった。本条先輩のようにカリスマ性でもって勝負していけない立村上総の仕切り方。本条先輩のやり方と勝負ができるかどうか、新井林健吾の力にはかなわないのか、しっかと判断を下してほしかった。
どういう結果が出ても、悔いはない。
評議から降りても、計画を捨てる気はさらさらない。
杉本梨南を評議委員から降ろしても、思いっきり意地悪されても、決して嫌いにはならないのと同じように。上総のみっともないところをさらけ出しても南雲が友だちでいることをやめないように。
──オペラグラスで覗くだけのことはしない。
──ペンライト片手に、あの公園で、夜空を見上げよう。
立村上総のしたいことは、たったひとつ、それだけだった。
──終──