その13 ローエングリンが見下ろす
美里の言った通り、杉本の家は学校から程近い場所だった。主に青潟市外から下宿して通っている生徒たちが住まうアパートや下宿が立ち並んでいる。かわいらしい感じのマンションあり、木造築二十年くらいの薄暗い建物あり、びっしりと密集している。雪が降っているのになぜか洗濯物は出しっぱなしのベランダもしょっちゅう見かける。建物の間、ところどころ挟まっているのが、ラーメン屋と定食屋。「カツどん定食500円」「さば定食460円」など学食よりはちょっと高めだけれども量は多そうな料理が並んでいた。
「こっちで食べるってて手もあったよね、立村くん」
大学生たちで混みあった小路を通り、自転車から降りた。すれ違うのもやっと、肩も触れた。ほとんど美里の案内に頼りっぱなしだった。
白い息を吐きながら、美里に尋ねた。
「杉本の家ってこんな奥まったとこにあるんだ」
「住所もっかいチェックするね」
ノートの切れ端をひっぱり出し、さっきメモした杉本梨南の住所を読み上げて直した。聞かされてもさっぱりわからない。
「たぶんあの辺りだと思うんだ。どのうちだと思う? 当ててみて」
自転車のハンドルを握ったまま、上総は美里の指差す方向を見上げた。目の前には三軒ほど、二階建ての四角い建物が並んでいた。白、灰色、地味な色合いで、町の雰囲気にはなじんでいる。薄暗い雰囲気だけど、灯りがつけば空気も和むだろう。
目になんとなく、ぴっとくるものがあった。
もう一度、斜め右の建物に目をやった。
「たぶん、あれかな」
「私も、そう思うんだ」
観た感じ、一目で杉本梨南の家だと感じるものがある。
焦げ茶の三角屋根に、親指大の煙突が覗いている。壁は白く見えるけれども、窓はぴったりと閉じられている。背の高い草木で覆われている。よくよく見ると、鉄柵で遮断されている。
「ああいう家、どっかで観たことなあい?」
「ある。子辺町の修道院」
煉瓦で固められた、きれいなんだけど他者が入ることを拒絶する、テレビや本で読むヨーロッパの寺院、という感じだろうか。
「教会ってこういう感じなんだよな」
美里にはぴんとこなかったらしい。首をちょこっとかしげた後、すぐに、 「ふうん、じゃあ門のとこまで行って、住所だけ確認しようよ。やっぱり杉本さん、お嬢様だったんだね」
奥に進めば進むほど足下がぬかるむ。所々、雪で靴の裏をこすりつけてきれいにし、また進む。
「ほんっと、目立つうちだよね」
門の前でもう一度美里と顔を見合わせた。
「ほら、本当に十字架が、くっついてるよ」
鉄柵には雪がふわっと積もっていた。鍵はさすがに外れているけれども、正面に見える建物はまさに、いかにも教会といった雰囲気のものだった。翼をたわめた白い鳥が、くちばしをつんと天に突き出したまま家に化けた感じだ。外壁は真っ白、玄関の真上にはいかにもの十字架が取り付けられている。
「杉本のうち、クリスチャンなのか」
「イメージぴったり」
意を決して、上総は鉄柵を押して入ることにした。美里も自転車に鍵をかけた後、後を追ってきた。
両脇には小ぶりの庭が雪化粧したまま待ち構ええていた。あらためて玄関の呼び鈴を押した。
白い扉がかすかに開いた。顔を二十センチくらい覗かせて、年配の女性が無表情で現れた。あわてて美里を自分の肩近くに寄せた。
「あの、先ほど電話した」
「青大附中評議委員会の清坂です」
美里がすぐに言葉を引き取って名乗ってくれた。すぐに得心したのか、女性はかすかに微笑みながらドアをさっきの二倍程度開いて、深々と礼をした。 「ありがとうございます。遠くからわざわざ、うちの梨南ちゃんのために」
──ちゃん付けして呼んでるのか。
玄関に通された。やはり想像していた通り、ちりひとつ落ちていない、生活臭が漂っていなかった。
白い靴箱の上に、大輪の芍薬が桃色に自己主張している。
「足、きれいにしてきた?」
美里がささやく。そんなこと人前で答えられるわけはない。
ちゃんと二足、スリッパも用意されていた。ふかふかの茶色い毛皮で覆われたものだった。靴下に多少穴があいていても気にすることないだろう。
「では、こちらへどうぞ。ゆっくりなさってくださいね」
先に美里を先頭に行かせて、上総は廊下、壁、すべてをちちっと観察した。壁も白く、傷みもない。床も艶やかで滑りそうだ。ところどころ銀色の枠に包まれた油絵が飾られている。
「こちらのお部屋でお待ちくださいね。お茶を用意しますから」
「あの、杉本さんは」
おずおず、美里が切り出した。
「ほんの少しだけ、お待ちくださいませ」
また一礼をして、杉本の母らしい婦人はふたりを応接間らしき部屋に案内してくれた。柔らかいスリッパでつんのめりそうになりながら、上総はふと、階段を見上げた。暗い臙脂の、スカートの裾らしきものが上にちらりと覗き、用心深く扉を閉める音がした。
てっきり杉本が応接間で待っていると思っていたのだが、すかされた。
「ねえ、立村くん。本当に杉本さんいるのかなあ」
「いるよ、これから来るよ」
たぶん真上でちらちらしていたのは杉本だろう。様子をうかがっていたに違いない。
「直接電話で、杉本と話したんだろう」
「うん、『わかりました、待ってます』って答えてたよ」
「俺が刺し身のつまだってことも話しているんだろう」
「一応ね。来るな、とは言わなかったよ」
美里は短く答えた。
「で、立村くん、あのこと、どう話すつもりなの」
答えるのが難しい質問だった。上総はもう一度、濃い紫色のカーテンと、何も描かれていない白い壁、その上に飾られた上品な絵画。すべてを眺めてみた。とりたてて何が、というわけではないのだが、妙に広々していて寒々しい。ソファーの真ん前には、木目調のステレオデッキがどんと居座っていた。
「あ、わかった」
「何が?」
「なんか落ち着かないなあって思ってたんだけど。テレビがないのよ。それなんだわきっと」
指摘されると確かにそうだ。
「きっとステレオが替わりなんだよ」
「ええ? でも、ふつうのうちならテレビ、あるよね!」
きっと美里にはテレビを観ない生活なんて考えられないのだろう。杉本から聞いたことがあるけれど、いわゆる低俗な番組などは一切観ないで育ったそうだ。上総も似たようなものなので、納得はする。たぶんクラシック音楽の番組か、オペラくらいだろう。観る必要がない環境なのだろう。
隣りでひたすら、白い部屋の空気になじめずささやきつづけている美里。
──どうすればいいのかな。
自転車に乗りながら考え、玄関に入ってから口でもごもごさせ、部屋の中で熟成させている途中。
たぶん、杉本は上総が来ることを知っているはずだ。
さっきも二階から様子をうかがっていたことからして明白だ。
隠れることはしないだろうが、でも今、上総とは絶縁状態だ。美里がいるからしかたなく、というのが本音なんだろうか。
──どっちにせよ、俺は話さなくちゃいけないんだ。
美里に問われるまでもなく、決めていた。
──俺が引導を渡さなくっちゃいけないんだよな。
答えは決まっていた。問題は、切り出し方だ。
どんなにやわらかく言葉を選んでも、結論は同じなのだから、情け容赦なくはっきり告げたほうがいいのかもしれない。新井林を評議委員長にする以上、協力しそうにない杉本は外す。単純にまとめればそういうことだ。そして、決めたのは上総本人だということも。
──殺されても文句言えないよな。
もっと時間があると思っていた。順番がひっくり返ってしまった以上、杉本を傷つけないですむ方法は見つからなかった。とことんとどめを刺し、すべてをあきらめさせるほうがいいのかもしれない。
──残酷だけど、それしかないのかな。
まだ、別の道を探したかった。でも言い訳だけはしたくなかった。
「立村くん、杉本さんのためにしてあげることなんだからね。きっとわかってもらえるよ」
無言で頷いた。
「いい? まかり間違っても、杉本さんを責めるようなこと言ったらだめよ。ただでさえ杉本さんずたずたに傷ついているんだから。あーあ、できればお母さんと一緒に話するなんてことにならなければいいんだけどなあ」
──もっともだ。
お茶はまだ出てこない。後ろで石油ストーブががんがん燃えている。ちりちりと燃える音が聞こえた。汗ばみそうだったので、コートを脱いだ。
ふたりっきりで取り残されると、普段どおりの会話すらぎこちなくなる。
別に黙ったままでも平気なのだけれども、隣りの美里が沈黙を嫌うように話し掛けてくる。
「ねえ、遅いよね」
「そうだな」
短く答えると、不満そうに口を尖らせる。気に障ること言っただろうかと顔を覗き込むと、すぐにほっとした顔になる。静かなのが苦手なんだろう。
杉本のお母さんが再び現れたのは十分近く経ってからだった。優しい笑みをたたえていたけれども、頬が少しそげているせいか、淋しげだった。
「お待たせしてしまってごめんなさいね。梨南ちゃんのお部屋は二階なんですよ」
「あ、あの」
上総が口篭もると、杉本のお母さんは無言で見据えた。ほんの一瞬だけだった。すぐに微笑み直し、
「立村さん、とおっしゃるのね」
「はい」
「梨南ちゃんを、可愛がってくださって、本当にありがとうございます」
また、頭を低く垂れた。困る。美里につつかれてすぐに頭を下げ返した。
──俺のこと、知ってるんだ。
考えられるのは、杉本が親に評議委員会のことについて逐一報告しているのでは、ということだろう。
コートをひっかかえ、今度は上総が美里を従える格好で案内されていった。階段は比較的急勾配で、杉本のお母さんは息が上がっているようだった。上まで行くと、アパートの感覚で扉が閉まっていた。壁は白かった。同じく、扉がわずかにとろみのかかった白だった。
「梨南ちゃん、お連れしたわよ」
返事は無かった。戸がすっと開いた。
長く髪をたらしたまま、黒目勝ちの瞳と臙脂色の長いドレスを纏った姿が覗いていた。
杉本梨南が無表情のままじっと上総を射た。肩越しに美里を見つけたのか、小さく頷いた。最後に母親へきっと視線を向け、
「結構です。あとはこちらですべてします」
まっすぐで、有無を言わさぬ声だった。
「そう、おふたりとも、ゆっくりなさっていってくださいね」
無理にやさしくしたような、上ずった声で杉本のお母さんはまた一礼し、階段を下りていった。
足音が一階に消えるまで、杉本は扉を閉めようとはせず、一切身体を動かさなかった。静まり返り、本当に何も聞こえなくなったのを確認して、美里に向かい、
「お待たせいたしました。清坂先輩」
──俺には何もないのかよ。
少々不満がないわけではないけれども、入室を許可された。美里に背中をつつかれ、上総は招かれるまま杉本の部屋に足を踏み入れた。
──美術館みたいだ。
真向かいのカーテンは、学校の暗幕めいた重さだった。色を重たい臙脂にしているのは、冬だからだろう。じゅうたんは淡い灰色で、ごみが落ちても気にならない。机、ベット、本棚、そしてお茶とお菓子がセットされている丸いテーブル。色合いがみな焦げ茶。どの家具にも花模様の彫刻が施されていた。ヨーロッパの映画などに出てくる、古い家具、いわゆる「アンティーク」と呼ばれるものに近いような気がした。傷ひとつない。丸テーブルにはちゃんと、白いティーポットとカップ、お菓子として手の込んだチョコレートが皿に散らばっていた。机の上には一輪、玄関にかざられていたのと同じ芍薬が活けられていた。
「うわあ、杉本さんって、センスいいよねえ」
感嘆の声を上げるのは美里だった。杉本に案内されて、一番奥の椅子に招かれた。一切、上総を見はしない。当然、扉側の椅子に腰掛けることにした。 「これから紅茶を入れます。アールグレイです」
淡々と述べた後、杉本はティーポットを持ったまま出て行った。
「ねえねえ、なんかわかんないけど、すごいよねここ」
「いかにも杉本らしいよな」
美里はじっと、星とハート型が交互に混じったチョコレートを見つめていた。和菓子を小ぶりにしたようなデザインだった。ばらの花があしらわれたホワイトチョコレートなども混じっており、食べるのに罪悪感を感じそうだった。
「これだけ用意してくれたってことは、俺たちのことを歓迎してくれた、と見ていいよな」
「そうよねえ」
何も考えずに楽しくおしゃべりができれば、どんなにいいだろう。カーテンで仕切られ、昼なのに淡いライトがともされている室内。どことなく夕暮れの空気が漂っていた。美里がどう思っているかはわからないけれど、上総にとってはほっとするものばかりだった。見慣れている、という方が近いだろうか。
──母さんがいたころの、家の中に似てるな。
お茶飲みながらぼおっとしていたかった。
できれば美里も同じように黙っていてほしかった。
でも、美里はやはり美里だった。
「ねえ、立村くん、なにぼおっとしてるのよ」
「あ、ごめん」
「今のうちに言っとくね」
忘れてはならないことを美里は思い出させてくれた。ありがたいのか、疲れるのかわからなかった。上総も改めて向かい合った。
「杉本さんにどうしても話をしなくちゃいけないんでしょ。あんた。私がずっといた方がいいの? それとも、ちょこっと席を外してふたりっきりで話したほうがいいの? どっち?」
──困った。そうなんだよな。
空のカップを見つめながら上総は言葉を捜した。
「清坂氏に隠す必要ないよ」
「でも、杉本さんはどう思うかわかんないでしょ。私がいたら言いづらいようだったら、トイレに行く振りして部屋から出るよ。合図してくれればいいからね。遠慮しないでね」
──それの方がいいかなあ。
心が動き揺れる。でもやめた。
「いや、その必要、たぶんない。清坂氏には、いてほしい」
言った後で小さく頷いた。美里の顔に安堵感と不安とが入り交じり、泣き笑いみたいな皺をこしらえた。
「いいよ。無理しなくたって」
ドアノブが軋む音がした。振り返ると杉本が、ポットに紫のカバーをかけて戻ってきた。
美里に向かい、ゆっくりと、
「これから注ぎます」
上総に視線を一切向けず、白い器に紅茶を注いだ。もちろん、上総の方にも交互に注いでくれたが、最後に残った「黄金の一滴」は、美里のものだった。
「清坂先輩がいらっしゃるということだったので、よかったらお持ちになってください」
にこりともせず、杉本は裾を翻して洋服ダンスを開いた。
「一度も袖を通していないのですけれども、お気に召したら」
洋服が大好きなのは上総も永年のお付きあいで重々承知だ。美里の眼の色が変わっている。
「え、杉本さん、お持ちにって、もしかしてくれるってこと?」
「はい、私、こういうの好きではないので。でも清坂先輩にだったら似合うと思ってました」
──女子ってこういうことしたがるのかな。
上総も服にこだわらないわけではない。男子同士ではあまりネタにはしない。南雲を相手にちょこっと話す程度だろうか。貴史は身なりにこだわる奴をとことん軽蔑しているのを知っている。
「三着ほどあります。よかったら隣りの衣裳室でどうぞ」
──衣裳室?
同じく仰天したのは美里も同じらしい。思わず顔を見合わせた。
「衣裳室っていったい」
言葉を発したのは、上総の方。美里は何も言えず固まっている。杉本は上総を一瞥した後、すぐに美里に近づき、ハンガーにかかっているワンピースを三着取り出した。白いベットカバーの上に、一枚ずつ広げていった。手馴れている。皺ひとつなく、一番きれいに見えるように重ねていった。
一枚目は、赤と白の市松模様が細かくあしらわれている、膝丈くらいのワンピース。
二枚目は黒地に白い刺繍で二匹の猫が寄り添っている様を縫い上げた、真っ直ぐなラインのもの。
三枚目は蛍光ピンクのトレーナーと、チューリップ型につぼまったスカートのセットもの。あったかそうだ。胸に大きく、チワワの模様がプリントされている。
「うわあ、可愛い!」
思った通り、美里の声が甘くふくらんだ。手を伸ばそうとして、一度杉本にお伺いを立てた。
「このワンピース、冬でも着られるのってあったんだね。わあ、いいなあ。こっちのワンピースもいいな。猫ちゃんすっごく可愛い! あ、トレーナーっぽいのも可愛いなあ。これだったらタイツを色おそろいにしてもいいなあ。いいなあ、杉本さんっておしゃれだよ!」
「清坂先輩には似合いますが私は好きではありません」
冷たい言い方を変えず、ハンガーを手に美里へ近づき、そっとあわせてみる杉本。いかにも、洋服屋店員のようである。すぐに立ち上がり、美里も 美里が受け取り杉本と顔を見合わせた。
「鏡、見ますか」
「あ、嬉しい、ありがとう」
上総はすでに存在を一切ないものとして扱われている。仕方ないのでティーカップを持ち上げ、すするふりをしながら二人を観察した。美里とこずえ、というパターンだったら何度かみたことがあるが、杉本と美里、というのはかなり意外で、でも愛らしかった。
「でも、悪いよ。だってこれ杉本さん、一度も着てないんでしょ。もし着てみて気に入らないってのだったらいいけど、新品じゃない! この前雑誌にも載ってたけど、このワンピースすっごく高いよ。私、母さんに頼んだけど買ってくれなかったもん」
「いいんです。私が好きでないんですから」
鏡を美里とふたりで見つめながら、杉本は寄り添い続けた。
「私には今着ているようなワンピースが一番似合います。自分の好みは知ってます」
「でも、どうして今こういうのを買ったの? 杉本さんが選んだんじゃないの?」
「親に押し付けられました」
鏡の中に映る、臙脂色のドレス姿。裾を直すしぐさをし、美里にきっと向かった。
「先週いきなり私に着るようにって命令したんです。私がこんなのを嫌っていることを知っててこういうことするのですから」
「知っててって? お母さんが?」
恐る恐るといった風に、美里はハンガーを受け取り赤白市松模様のワンピースを撫でた。
「そうです。こういう服を着ると、佐賀さんと同じ『ふつうの子』になれるからだそうです」
言葉を少し怒らせて、杉本は襟を直しながらつぶやきつづけた。
「よくわかりませんが、『ふつうの子』でなくてはいけないそうなので、今私が着ているような気品のある服は、着てほしくないそうです。『ふつうの子』が好きなものをもっと聴きなさいってことで、せっかくクリスマスに聴きに行くつもりだった第九のコンサートも行けなくなりました。佐賀さんみたいな『ふつうの子』が好きな、下品なアイドル歌手のコンサートに行けと言われました。冗談じゃありません。個人の侵害です。許せません」
──『ふつうの子』か。
たぶん杉本には、美里に似合う服など一切似合わないだろう。
なんとなく確かめたくなった。上総は言葉を挟んだ。
「清坂氏、一度、着せてもらえばいいよ」
「え? 立村くん」
「清坂氏が着たとこ、なんとなく、見たいなと思ったんだ」
言葉は軽いけれども、意志を込めた。
「清坂先輩、よかったら隣りのお部屋でどうぞ」
一切上総の方を見ない。露骨に勢いよく背を向け、美里の背を押していった。そこまで嫌わなくてもよかろうにと、上総はほんの少し、ため息をついた。ひとり取り残された。
部屋の住人の前ではそうじろじろ眺めるわけにもいかなかったが、ベットにかかったレースの厚みや、手を滑らせて感触を楽しみたいビロードのカーテンとか、化学雑巾を使って磨いているであろう……単に上総のうちがそうだったからでもあるが……椅子に浮き出た木目、ひとつひとつが身体に添ってきた。男子の友だちとはよく部屋で遊んだりしたけれども、上総の日常とは異なる空気やつくり……兄弟姉妹の存在とか、漫画本の山とか、アイドル歌手のポスターとか…… に戸惑い、落ち着けなくなることが多かった。親戚のお姉さんの部屋も覗いたことがあるけれど、やはり同じ安っぽい雰囲気は否めなかった。どうも、匂いが合わないのだろう。
杉本の部屋が迎えるものは、みな、上総の日常と同じ空気だった。
もちろん怪しい写真集とか、数学の追試答案とかなんとか、男子の日常品とは異なるだろう。色合いだって全く違うだろう。もっと上総の部屋は殺風景だ。少女趣味という言葉そのものの杉本の部屋で、なぜこんなに落ち着けるのかわからない。ただ、座っている椅子は腰に優しいし、さっきひとつつまんだチョコレートは濃くておいしいし、紅茶も少し冷めかげんだったけれど上総の味わい好みだった。
──清坂氏の部屋ってどんなんだろう。
たぶん正反対だろうとは思う。さっき美里が「かわいい!」と連呼していた赤と白の市松模様ドレス。似合うだろうな、と過去の美里の映像をめくってみてそう思う。ただ、あの服を着た杉本梨南の姿は一切想像できなかった。似合わない、というよりも、この部屋にきっと合わない。
──やっぱり杉本は、人形になるべきだったんだ。
ほどいたままの長い髪。きれいに揃えられていて、市松人形に似ていた。
規則正しく、少しロボットのような振る舞いをするしぐさも、みな、つくりのしっかりした人形のよう。
──この部屋が、着せ替え人形の部屋みたいなものだったら、まさにぴったりだよな。
隣りの部屋で何を語り合っているのかはわからない。聞こえないのは防音がしっかりしているからだろう。上総は紅茶を飲み終えて、何気なく天井を見上げた。上のシャンデリアが自宅と似ていると思いながら。
──あれは、いったい。
ベットの枕側。真上。
額縁のようなものがたくさん、貼り付けられているのが見えた。立ち上がり、ベットの側からもう一度見上げた。正確な数はわからないが、だいたい六枚ほど同じ男性のポーズが続いていた。ドイツ語で「ローエングリン」と読めた。背伸びしてもう一度読んでみた。
──ワーグナーの「ローエングリン」だ。
一枚は日本の雑誌から切り抜いたものだろう。右端にわずかながら、日本語の活字が残っていた。二枚目は大きく、同じ男性オペラ歌手のポーズだった。天を仰ぐようにして、口を大きく開いている。どの写真も同じ歌手のものだった。ちょうど、枕から見上げることができるように、張り巡らされていた。
──ドイツ版「鶴の恩返し」って話だよな。
──ローエングリン様、ってこの歌手のことなんだ。
スリッパを履いたまま爪先立ってもういちど顔を覗く。杉本の惚れぬいた夢の恋人だというのは、本人の口から直接聞いていた。ローエングリン様以上の男子はこの世にいないのだそうだ。ローエングリン様のレベルからすると、上総のルックスは下の下だという。別に腹も立たないが、どういうレベルなのかは見極めておきたかった。
じっと見据える。にらんでみる。繋がった。
──やっぱりそうか。
たぶんドイツのオペラ歌手だろう。顔かたちはくっきりとして、目鼻立ちもよく、身体つきも敏捷そう。がっちりした体格だ。目の色は濃い茶。まだ二十代か三十代の前半だろうか。怒りに満ちた表情はどこの場面だかわからないが、いつか見た誰かの姿に生き写しだった。
──杉本、毎日こうやって見上げてたのか。
──ローエングリン様を。
白いレースのベットカバーが、枕の方だけこんもりと膨らんでいた。そっと触れた。撫でた。もう一度見上げると、ローエングリン一枚からじっとにらみつけられた。
どうしようもなく苦しかった。
天井のローエングリンを全員額縁から引きずりだしてベットに菱本先生ばりに正座させて説教してやりたかった。
じっとにらみ合っている間に、美里のお着替えは終わったらしい。ノックなしで戻ってきた。
慌てて椅子に座ったが杉本には冷たい一瞥を食らわされた。
「ごめん、つい」
無視の姿勢は一切変わらず、杉本は壁に埋め込まれた大鏡に美里を案内した。
「やっぱり清坂先輩はこういうお洋服が似合います。私は着ませんからどうぞもって帰ってください」
「そんなのできないよ! だって、後輩から高いものをもらうなんて悪いよ」 「いいえ、私が嫌いなものを差し上げるのですから、感謝しなくてはならないのは私の方です」
また遠慮と押し付け合いのシーソーゲームだ。口出しはしない。横目で美里を眺めた。思ったとおり、赤が映えてどことなくかわいらしい感じがした。いかにもお出かけ、といった風の格好よりも、ちょっと砕けた感じの普段着の方が合いそうだと、前から思っていた。良く見るとスカートの裾には一握りほどのフリルが施されている。杉本だったら、もっと長く、たっぷりとしたものを好んだろう。
「わあ、ほんと可愛いよね。でもでも、杉本さん。これはもらえないよ」
再度、きっぱり美里は告げた。
「お母さんが買ってくれたんだもの。友だちに押し付けたら傷ついちゃうよ」 「今は敵ですから」
全く響かない声で、淡々と続ける杉本。波がなかった。上総をちらっとうかがった後、鏡に向い発砲した。
「私の頭がおかしいと思って、無理やり病院に連れて行ったり薬を飲ませようとする人間を、信じることはできません」
「杉本、病院って」
思わず声が出た。聞かねばと、気持ちが焦った。
「私はおかしくありません。自分が良く知っています。でも薬を無理やり飲ませようとする人を信じなくて、何が悪いんですか」
「病院に、行ったのか」
静かに杉本が上総へ向き直った。感情を無にしようとして失敗している瞳だった。
「行きました。でも私はおかしくありません」
「薬が、出たんだろう」
「医者も誤診することがあると聞いてます」
「杉本、俺は別にお前を攻めてるわけじゃないけど、でもさ」
「私は狂ってなんかいません」
声がかすかに、本当に微妙な程度、尖った。
上総はこれ以上言い返さず、視線を美里ひとりに絞った。
こういう時南雲だったら「わあ、似合う似合う」と拍手するのだろうし、貴史だったら「けっ、いくら美里が化けても鈴蘭優ちゃんにはかなわねーよーだ!」と鼻で笑うだろう。上総はただ、気持ちだけ満足した顔でにやにや眺めるだけだった。
「でも、着せてもらうだけでも大満足! ね、ちょっとここでひとりはしゃぐのも恥ずかしいから、あとの二着、向こうで着せてもらっていいかな。ちょっとひとりで楽しみたいんだ」
上総に全身向けて、くるっと一回転した。小さい子がスカートを膨らませるのを楽しむように。
「まだ着る服、ありますよ」
「ううん、ちょこっとだけひとりで、見たいんだ。杉本さんごめんね。ちょっとだけ、着せてね」
にっこり微笑み、美里は上総へ真面目な視線を投げた。すぐに笑いでごまかすと、ベットの上に投げ出したままのハンガーを持ち、いそいそと部屋から出て行った。杉本の返事も待たなかった。別に止めなかったのは、杉本もかまわない、と判断したからだろう。いくら後輩とはいえ、我が家のように衣裳部屋を利用するのは、どうかと思う。
背を向けていた杉本が、ゆっくりと上総を見据えた。言葉はなかった。
ふたりっきりだった。
予定外のふたりっきり。もっと息が詰まるかと思っていた。
椅子から動かずに上総は言葉を発した。
「杉本、話したいことがあるんだ」
「私は先輩ともう話をしないと決めました」
「今だけだ。清坂氏が戻ってきたら、もう話さないから、聞いてほしいんだ」
返事を待たなかった。目を再び鏡に向け、背を伸ばした杉本に、上総は近づいた。さっき美里とふたり映しあっていたような感じで背中に向かった。
杉本は逃げなかった。背を向けて一点を見つめていた。
「評議委員を下ろされることは、もう聞いたよな」
「大丈夫です。来年四月になったら元に戻ります」
「いや、戻らない。もう決まっていることなんだ」
「どうしてそう断言できますか」
視線を鏡で重ね、正面を見据えながら上総は言い切った。
「俺が、桧山先生に、杉本を評議から下ろすように頼んだからだ」
答えはなかった。ただ、じっと鏡で自分の顔をにらみつけているだけだった。上総を片隅でちらと覗き、ふっと唇で息を吹いた。
「そうですか」
「でも、もし今から俺の条件を飲むことができるのならば、もう一度桧山先生に交渉して、杉本を評議に戻してもらうように話すことはできるんだ」
鼻で笑うだろう。思った通り杉本は冷たく吐き捨てた。
「頼み込んでまでしたくはありません。選ばれてこそです」
「無理なんだ。最後まで聞いてくれ」
鏡に映る自分の姿は、無理して虚勢を張っているのが見え見えだった。杉本にもそれは丸見えだろう。分かっていても、杉本の背がぴんと伸びているから無理してしまう。どんな時にでも、杉本は自分を乱さぬよう、必死にこらえているはずだ。上総が事実を告げた時も、他の子だったら泣き崩れるか噛み付くかのどちらかだろうに、しっかと立ったまま冷静を保っていた。
思いっきり、泣かしたかった。
「もし、杉本が来年以降、新井林を中心とした評議委員会に協力することができるかどうかが条件のひとつだ。できるか?」
「なんで新井林中心なんですか。私が頭を下げろというのですか」
「もうひとつの条件は、新井林と佐賀さん、それと桧山先生に頭を下げて、許してもらうように頼むこと。それもできるか」
「私はなんも悪いことしてません。なぜあやまらなくてはならないのですか。先輩が所詮ばか男子のひとりだとはわかっておりましたが」
声がだんだん震えでこわばってきている。おそらく他人には読み取れないくらいわずかだろう。
「杉本が謝らないのだったら、評議委員会としては、受け入れることはできない。新井林中心の体制を、杉本がしっかり受け入れて、一緒に手伝う覚悟があるかどうかってことなんだ」
「だからなんで、私が新井林なんかに謝らなくてはならないんですか!」
振り返り見つめあった。上総の顔をじっとにらみつけた。鏡を通してではなく、一対一で真っ正面から。表情はぎりぎりこらえているけれども、崩壊するのは時間の問題だ。息が詰まりそうだった。
「新井林も、佐賀さんも、今のやり方では一切相手にしてくれやしないんだ。ほんのわずかでも、あの二人に受け入れてほしいんだったら、あの二人に合うように自分を作り変えるしかないんだ。桧山先生に許してもらって融通利かせてもらうしかないんだよ。もしそれがいやだったら」
大きく息を吸った。自分の眼に涙がたまりそうだった。こんなところで泣いたら恥だ。杉本の大きな瞳は針のような鋭さを持っていた。
「評議委員会から外れて、別のところで迷惑かけないようにするしかないんだ。杉本が評議委員会以外で楽になれる場所を作るつもりでいるよ。でも、評議委員会の中だけはだめなんだ」
呼吸が苦しくて、心臓が跳ね上がりそうで。言葉が途切れる。
相変わらず杉本は冷たい瞳のままだった。
「ばかばかしい、立村先輩、いったい何をわけのわからないことをおっしゃていらっしゃるのですか」
無言で杉本は席に付いた。すっかり冷めたであろうティーカップを静かに口元へ近づけた。上総の斜め向いで、ベットを真正面に置いた状態でいた。
どうしようもない。どんなに言葉へ砂糖をまぶしても、答えは一緒。
口に出していくうちに、考えがまとまり、結論を出していくだけだった。
──杉本にこれ以上、憎ませてはいけないんだ。
上総へ激しい怒りと憎しみでもだえている最中に違いない。杉本の瞳の色を読むのはたやすい。心の中の声も、指先と咽元と、かすかなしぐさですべて読み取ることができた。杉本に対してだけだった。
──俺がローエングリンだったら、もっと別のやり方もあっただろうに。
そっと天井を見上げ、すぐに戻した。
──せめて、新井林の顔と身体と背丈があれば。
「来年、評議委員長になるのは、新井林だからだ」
天井のローエングリンにつぶやいた。
「俺がお前の兄だとしたら、新井林の下にお前を置いたりはしたくない」
頑なな瞳と唇がきりりと引き締まっていった。言葉が出ないままだった。
「このことを決めたのは俺ひとりだ。新井林も本条先輩も、佐賀さんも桧山先生も関わっていないんだ。だから、俺だけを憎め」
最後に、一言告げた。
「俺だけは杉本を嫌いにはならないから」
美里が戻ってきてからは、ふたたび一切無視の状態が続いた。洋服のネタでよくこれだけ続くかと思ったが、ある程度落ち着いたところでいきなり杉本が机の引き出しに近づいた、いわゆる学習机ものではなかった。ひっぱるところにも細かな花模様が掘り込まれている年代ものだった。
「清坂先輩、ごらんになられますか。私の愛する人を」
「え、杉本さんに彼氏いたの?」
すっとんきょうな声を上げた。彼氏、というのが似つかわしくない。やはり笑わずに引き出しを開いた。一冊、ファイルを取り出した。
「現実の男子は立村先輩を含めて馬鹿ばかりですので相手にはしません。こちらをごらんください」
──馬鹿か、しょうがないよな。
テーブルに戻り、クリアファイルを開いてすっと美里に差し出した。チョコレートはだいぶ減っている。あわてて最後の一つを美里は放りこみ、ファイルを受け取った。上総にも見えるよう、ページをめくった。
「うわあ、外人さんばっかり! 切り抜きでしょ。これみんな」
「そうです。小学校の頃から集めていました。この人以上に美しく素晴らしい人はおりません」
ちろっと上総に視線を向けた。どことなく、意識的だった。上総も受け止めたが言葉にはしなかった。
「ねえねえ、これはこれは? 英語の記事まで取ってるの?」
「はい。この人の活動拠点は主にドイツですが、よくアメリカ公演にも参加されるんです」
「ひゃあすごおい。杉本さん、はんぱじゃないね。貴史の鈴蘭優ちゃんファンなんて、目じゃないね」
「七歳の頃から集めてますから」
誇り高くつぶやいた。またちろりと視線を向けられた。今度はあからさまに、見据える感じだった。
──そうか、そういうことか。
ひとりごちた。佐賀はるみの言葉を思い出し、苦笑した。
──梨南ちゃん、好きな人と仲良くなるとかならず意地悪するんです。好きになればなるほど、そうなんです。赤ちゃんみたいに。
恋愛ではないだろう。外見ですでに上総は対象外だったらしい。でも、懐いてはくれていただろう。自分の味方だと信じてくれてはいただろう。
今でも上総は杉本を見守りたいと思っている。それは変わっていない。
でも、杉本にはそれが通じないだろうということも、覚悟していた。
──俺に裏切られたと、きっと思ってるな。
──きっと新井林も、佐賀さんも同じことされたんだろうな。
深いことを考えずに受け止めれば、どう考えたって嫌がらせ以外のなにものでもない。手のひら返した相手に対して、意趣返しをしているようにしか見えない。なんらかのきっかけで杉本が、新井林や男子たちにそういう振る舞いをするようになったのだろう。新井林もたまったもんじゃなかっただろう。杉本の本心がどこにあるかは別として、不愉快でならなかっただろう。同じく佐賀も、同じこと考えただろう。赤ちゃんのすること、と理由付けする事以外見つからなかっただろう。
上総も、もし杉本以外の相手にされたことだったら、真っ向から憎むだろう。かすかな悲鳴のようなものを感じなかったら、罪悪感一切なしに杉本を評議から下ろし、言い訳もしないでいただろう。
上総にそれはできなかった。
出会った時から、聞こえていた。
追い詰められておびえている野良猫のような瞳と、爪のしまい方を知らない前足を知っている。
「じゃあ、いきなり来ちゃってごめんね。また来るね。今度はひとりで!」
美里の切り上げ文句で、上総も慌ててコートを外した。
「その時は今度こそ、洋服を持っていってくださいね」
「うん、その時はね!」
明るい。上総ひとりだとよどんでいた空気が清浄化されたみたいだった。
杉本は部屋の戸口まで案内してくれた。階段を下りようとはしなかった。
「あ、ちょっと、お手洗い借りていい?」
美里がトイレに立った隙に、上総は杉本を無理やり捕まえ、ささやいた。
「花森さんがお前のことをものすごく心配している。だから、すぐに電話かけてあげたほうがいいよ」
「わかってます、そんなこと」
「それと、これなんだけど」
渡しそびれたものをかばんから取り出した。
「これを、冬休み明けまでに、チェックしてほしいんだ」
「どういうことですか。まだ私に用があるのですか」
「あるよ。俺も、三月までは評議委員だ」
含みを持たせた。茶色い封筒の中から、一冊、「奇岩城」のシナリオを取り出した。
「一月から撮影始めるから、それまでに、おかしいとこないかどうか、ざっとチェックしてほしいんだ。あと、これは『奇岩城』の原作な。読み比べてみて、杉本として音楽とかどういうのがいいか、こっそり教えてほしいんだ」
「どうせ私を評議から下ろすとおっしゃられたのに」
「下ろされるのは杉本だけじゃない。評議委員なんて、いつどうなるか、わからないんだ」
たぶんわからないだろう。それでよかった。
「俺は、杉本の感覚を信じてるんだ。それだけだ」
服を調え戻ってきた美里とふたりで階段を下りた。途中で見上げると、臙脂の裾がちらちらと覗いていた。
お母さんはまた、ふかぶかと頭を下げて見送ってくれた。
「変わった娘ですが、どうかこれからもよろしくお願いいたします」
美里と、次に上総へ眺めに視線をとどめた。
「こちらこそ、どうもごちそうさまでした」
明るく答える美里を横目に、上総はお母さんの瞳にどんよりした色を見た。すっかり疲れ果てた風だった。この人が桧山先生に呼び出されてショックを受け、近所の人に土下座して謝って廻ったという話。きっと本当だろうと思えた。杉本が追い詰められて壊れそうになっているのは、きっとその繋がりなのだろう。どうか、これ以上杉本を壊さないでほしかった。
杉本の味方は、花森なつめとローエングリンしかないないのだ。
「ね、立村くん、杉本さんとはうまくいった?」
終日笑顔で振舞った美里。突然かくんと大人しい口調に変わり、あせった。
「うまくいったって、なにを」
「私が着替えてる間、真面目に話してたでしょ」
「聞いてたのか」
「聞こえたよ。だって、すぐに声が聞こえるんだよ」
──なんだ、防音されてなかったのか。
拍子抜けした。それほど大きな声で話した記憶はないけれどきっとそうなんだろう。
「話したよ。評議委員のことと、それと」
ローエングリンのことを言う前に、美里は遮った。
「さっき衣装室に連れてってもらったでしょ。その部屋にはね、写真がいっぱい貼ってあったんだ」
「写真ってどんな?」
「ファイルに挟んでいた、オペラ歌手の外人さんよ。見てて思ったんだけど」 言いよどみ、周りを見渡した。別に知り合いがいるわけでもないのに妙である。
「新井林くん、そっくりだね。どの写真もみんな」
はにかむようにうつむき、唇を噛んだ。
──清坂氏、気付いたんだ。
あらためて思った。美里と別れて杉本と付き合い、新井林と交渉しないでよかったと。
天井の「ローエングリン」コレクションを一目見て、上総はすべて理解した。
「ローエングリン」と言う名はすべて、たった一人の男を表している象徴のようなものだということを。
──新井林健吾、あいつだ。
何度も確認していたとはいえ、明らかな証拠を目にするとやはり心がひび割れる。美里が見たらきっと同じことを思うだろう。こずえがきたら、やはり天井の「ローエングリン」を発見するやいなや叫ぶだろう。
「これって外人版新井林って感じだよね」と。
ローエングリン様とつぶやき、寝る前には天井を見上げ、愛するローエングリン様の写真に思いをかけて眠る。目覚めるといつも、大好きなローエングリンが見下ろして、微笑んでくれる。
杉本が恋することのできる、たった一人の男性だ。
ローエングリンの似姿ではなく、新井林健吾の似姿。
きっと杉本は気付いていないに違いない。まだ自覚もないだろう。新井林へかすかな想いを隠しているなんて、絶対に認めはしないだろう。新井林も佐賀も、みな丸見えなのにだ。でも杉本はひたすら、想いがローエングリンひとりだと信じきっている。ローエングリンを通して、ひたすら白鳥の王子を追い求めているわけだ。そんな深い思いを、いくら嫌われたからといって簡単にあきらめることはできない。
ローエングリンでなくては、だめなのだ。
なよなよとして不細工で、蹴りを入れたら一気に骸骨化して崩れそうな、立村上総ではお呼びではない。
──ローエングリン。あの子を、守ってやってくれ。
守られている自分を思い出し、上総は美里に尋ねた。
「清坂氏、ありがとう、何か俺にできることあったら言ってほしいんだけど」
ローエングリンを求めなくても、いつも側にいてくれた美里。
求める想いを返してやれない自分が歯がゆかった。
──やっぱり、クリスマスかな。
驚いた風に美里は上総を真ん丸い瞳で見つめた。手袋を指先軽くもみ、自転車を引きながら道路に出た。まだ自転車には乗らなかった。
「出来ることって、なんかとんでもないことお願いしちゃうよ」
「月に連れてけとか、宝石が欲しいとか、そういうんだったら困るけど」
「ううん、やだ、変なこと想像してたでしょ、立村くん」
ほどけた微笑みで、美里が上総のハンドルに手をかけた。耳もとでささやかれた。耳を疑った。
「それなら、品山に連れてって」
美里と手を振り分かれた後、上総は自転車のスピードを全開の上、「おちうど」へ向かった。あそこのおかみさんは女子が好きそうな和風の小物を安く売ってくれる。変なものをプレゼントするよりは、やはり大人の人がきっちり確認してくれたものの方がいいはずだ。
──うちに帰ったら次はスーパーで買出しだな。時間はまだあるから大丈夫か。料理は俺ひとりでつくるからいいとして、父さんはうちにいないからまあいいか。終業式まであと三日。徹夜だな。