その10 疾風怒濤に揉まれて
コートを着たまま埋もれていた。部屋の中で散らばった本、本、本。
整理整頓に神経質な上総がこれだけ散らかしたのは初めてだった。
電気をつけずに、暖房も入れずに、ただものを投げつけていた。
本棚の中はほとんどからになった。表紙が広がったまま落ちている文学全集一冊、すっかりページが折れているものもあるだろう。知らない人が見たら、大地震の直後と思うかもしれない。
泣くだけ泣いた。わめくだけわめいた。身体の中に嵐が吹き抜ける。
カーテンを締めたまま、空気の凍った中でひとり。
もうだいぶ時間が経っているのだろう。父はまだ戻ってきていないだろう。母の眼がないだけまだましだ。いきなり「上総、なによその顔、また誰かに泣かされてきたわけ! まったくだらしないわねえ。もう少ししゃきっとしなさいよ、いくじなしが!」と怒鳴られることもない。
上総は床に投げつけた本の上に身を横たえた。
カーテン越しにかすかな街灯の光が刺さる。
一年の春だったか、本条先輩が泊りにきてくれたことがあった。
やはり、父が出張でいない夜だった。
その後何度か同じことの繰り返しで、いろいろ悪さもした。酒、エロ本、合成着色料のおやつ、本物のコンドーム、ビデオテープ。すべてに触れたわけではないけれど、本条先輩の手ほどきでほとんど初体験させてもらった。
今のように、散らばった状態ではないから、十分横になるスペースもあった。レコードもいろいろかけた。上総の知っていることと本条先輩の経験していることとは天地の差があり、いつのまにか聞き役に回っていた。黙っていると何度も頭を小突かれて、「全くお前はガキなんだから、ったく、俺がいなくなったらどうするんだよ」とささやかれていた。
──いなくなったらなったでかまわないってさ。どうせ本条先輩にとって俺はそういう存在でしかないんだからさ。
手の甲で何度も眼をこすり、上総は本の表紙に頬をつけた。
本は大切にあつかわねばならないと母に口うるさく言われている。
──かまやしない。たかが物じゃないか。
猫だったら爪とぎにしているかもしれない。
研がないかわりに、かみつこうとしてみた。さすがにばかげていてやめた。
ひとりで暴れていた時は寒さを感じなかった。横になると一気に汗が冷えて冷たくなってきた。コートを着てても寒かった。無理やり起こされたような気がした。もう一度ぺたりと座り込んだ。灯をつけたらいやおうなしに片付けに入らねばならない。もともと部屋が散らかっていると身体が勝手にお片づけマシーンにはや代わりしてしまうのだから。
家の中で両親に暴力をふるおうとしたことはない。ましてや友人や先生になんてとんでもない。新井林に言われたような、殴り合いなんてほとんど経験がなかった。したくないことをしなかったと割り切れればよかったのかもしれない。
でも、自分の部屋に戻った瞬間、何かが壊れた。自制していたはずの感情が押えられなくなった。ただひたすら手当たり次第ものを投げつけ、わめき散らしていた。日本語だけではなかった。さっき新井林に口走りそうになった各国のスラングを、口汚く罵っていた。
怒鳴り疲れるまで本を叩きつけ、気が付けばこの有様だ。BR> 時間はかなり、たったのだろう。
上総は右手に触れた本を膝に乗せ、腹ばいになりうずくまった。
何も見たくはなかった。
もう、評議委員長交代は三月あたりに発表されるだろう。一度は噂も流れていたのだ。それほど問題なく話はつくだろう。上総が覚悟を決めれば、本条先輩もこれからすぐに手を回して、新井林次期評議委員長を立てるための準備に取り掛かるだろう。
──これから俺はどうなるだろう?
曲がりなりにも十月の「次期評議委員会お披露目」を学校祭、合唱コンクールで終わらせて、あとは正式決定の三月を待つばかりのはずだった。上総の知っている限り、間の半年間で次期評議委員長は一通り仕事を覚え、二月中から行動を開始する。同時に、目星つけておいた一年をひとり選んで、自分の右腕にすべく行動を共にする。
──別に、無理に杉本をそうしたかったわけじゃないんだ。
杉本梨南が評議委員長として不適格だと気付いたのは、九月に入ってからだった。杉本の小学校時代やクラスでの状況、および、新井林、佐賀との折り合いなどを耳にするにつけ、共同作業のできる人間ではないことを感じさせられていた。もちろん上総の言うことだったら、一言二言文句は言ってもすぐに手伝ってくれるだろう。二、三年女子たちが指示したことだったら無条件で手腕発揮するだろう。きっと女子だけの委員会だったら活発に動いてくれただろう。
でも青大附中評議委員会は、男女が一緒だ。
男女ともに動かなくては、船が出ない。
杉本が船のこぎ方を覚えない限り、彼らは手伝ってくれはしない。
口には出さなかった。上総は別の評議委員長候補を探さなくては、と考えていた矢先だった。
──新井林でもいいけど、杉本ともっとうまく付き合いしてもらえればあきらめもつくよな。
上総なりに考えていたのは、新井林と杉本を仲直りさせて、改めて評議委員長を分け合ってもらうことだった。頭脳的にはふたりともイーブンだ。行動力を発揮すると強い新井林と、計画を綿密に立てて実行させるのが得意な杉本。もしこのふたりがコンビを組んだら、さぞや強力な組織になるだろう。特に最近は「部活最優先主義」が謳われつつあるこの頃だ。次期バスケット部キャプテン兼評議委員長。これぞ教師連中を黙らせるにはふさわしい。
もっというなら、杉本はひそかに新井林へ好意を持っているはずだった。
佐賀はるみに言われるまでもなく、杉本の行動がすべて「愛の裏返し」だと見抜いていた。男としては、どんなに苦手な子であっても、愛情をもたれていたらついふらっとしてしまうんではないか、と安易に発想していた。上総自身も正直なところ、付き合い相手の居ない状態で、顔を知らない女子に告白されたらふらふらっとするに違いない。男の本能ってそういうもの。
──甘いよな、俺もな。
世の中には、どうしようもなく嫌悪感溢れる相手が存在して、どんなに土下座して謝られても受け入れられないものがあると、知っていたくせにだ。自分ができないことを、どうして新井林に求められただろう。杉本の方がまだましだ。杉本は自分を意識していないだけで、本当は新井林、佐賀が折れてきてくれれば素直に言うことを聞くだろう。本心は恋、そして友情なのだから。誰も気付いていないのだろうが、杉本はただ、一途過ぎるだけなのだ。ひたすら人を思えば思うほど、裏返っていく。憎しみや嫌われ言葉を口にすれば、人は寄ってきてくれる。叩いても罵っても近づいてきてくれる、離れない。そう思っているだけなのだ。
──佐賀さんは鋭いな。
佐賀の言うとおり、杉本はまだ赤ちゃんだ。どうしようもなく子どもだ。
だから佐賀は懸命に杉本をあやそうとしているのだろう。見下すというよりも、母性愛だろう。良心的に受け止めようと思う。赤ちゃんが母親と対等になることはできない。どんなに同じ立場で話をしたかったとしても、最初から立った土俵は違っているのだ。しかたないことだ。上総が口すっぱく「もう勝負はついている」と口にしたのはそういうことだ。
どうしようもない嫌悪感。
存在するだけで吐き気がする。
ゴキブリのような存在。
杉本はそこまで嫌われていることを、たぶん自覚していない。
心の奥で、いつかふたりが頭を下げて
「杉本、ごめん、俺は決してお前を嫌いでなかったんだ」
「梨南ちゃん、許してね。私を守ってくれた大切な友だちだから」
と謝ってくれるのを夢見ている。
なんて惨めだろう。決してそういう夢のような結末なんて来ないって分かっているのに。杉本が懸命にひざまづいて頭を下げ、「許してください。私はすべてを壊しました。もう一度、私を好きになってください」と言わない限り、受け入れてもらえない。いや、ほとんどは受け入れてもらえないだろう。杉本の愛情表現は、新井林や佐賀にとって憎しみや軽蔑を生むだけのことだったのだから。謝って許されるなら、警察なんていらねえよ、てとこだ。
杉本を傷つけないようにして、新井林や佐賀を納得させた上でどうすれば、平和に収まるのかわからなかった。上総は自分の持つ能力をすべて発揮して走り回ったつもりだった。考えられることはすべて手を尽くしたつもりだった。でも、本条先輩には縁を切られた。新井林には鼻を鳴らされた。結局は、自分のひとり相撲で終わってしまった。
「どうせお前、前からそうなるだろうって思ってたんだろ? なあ、いつもそうだろ。悪いこと、悪いことを先回りして考えておけば、いつ最悪の事態に陥っても落ち込まないですむもんな。本を叩きつけるだけですむもんな」
いつものように、耳に響く影の声。額を床につけてさらに聞いた。
「本条先輩にいつも、『お前ガキだからなあ』って言われるたびに、ぐじぐじ悩んでいたのはどこの誰だったかな。一年の時は仕方ない、って思ってたけど、二年になってからも新井林たちの前でそう言われると、やっぱ堪えるよなあ」
一種の愛情表現だとはわかっているつもりだった。誰よりも可愛がってくれて、どうしようもなく苦しい時は自然に助言をしてくれた。美里に告白され、つきあい方について悩んでいた時も、本条先輩はすぐに背中を押してくれた。心ない噂でいろいろ傷ついていた時も、本条先輩は何も言わずに自分の側において、次期評議委員長候補の勉強をさせてくれた。
──この人みたいになれれば、きっと俺は認めてもらえるはずだ。
そう思って毎日、全身アンテナ状態で走り回ってきた。
本条先輩の読んでいる雑誌や本、音楽やビデオ、すべてを教えてもらって後追いして読んだ。わからないところだらけだったけど、きっといつかわかる日がくる、そう信じていた。
──完璧な評議委員長になれれば、きっと本条先輩は俺を認めてくれる。
命綱だった。
本条先輩が、家庭の事情で青大附高に進まず、公立のトップ高校青潟東に進学を決めたと知ったのが、七月の末だった。
スケベ話でしばししょうもないことをさらけだしたりしていた。その頃からやたらと説教くせが、菱本先生ばりになり始めていたのは気になっていた。特に上総に向かって、
「お前、二年の連中とうまくやってるのか?」
としつこく尋ねられるのに閉口していた。
「二年とうまくやれよ。あいつらの『あれ』のサイズくらい測らせてもらえよ」
とからかわれてむっときたりしていた。当時上総は、同学年の野郎連中と一線引いた感じで付き合っていたからなおさらそういわれたのかもしれない。二学期以降はだいぶ、軽い感じでしゃべることができるようになったけれども、それも本条先輩の命令があったからこそ。本条先輩に「ああしろこうしろ」と言われない限り、自分のしたくないことは決してしなかっただろう。上総に命令できるのは、本条先輩ただひとりだった。本条先輩が「大人になれよ」と言ったから、上総は必死に背を伸ばそうと努力した。本条先輩のように一年たちを手なづけようと頭をひねった。新井林といい関係を作ろうと努力した、つもりだった。
「なあに、要するにそれは『つもり』だったってだけだろ。馬鹿だな。お前、新井林なんてほんとはしゃべるのもいやだったんだろ。いいかげん認めろよ」
──だから認めてるじゃないかよ!
自分で自分をいじめて何になると、本当に思う。でも自分の身をかじらずには入られない。
「お前はもともと立村上総でしかありえないし、本条先輩みたいにはなれない奴なんだって、もっと前から気付いていただろ? クラスで相変わらずお高く留まって、性欲なさげな顔を通しているのも、やたらと難しい本を読んで踏ん反りかえってるのも。本当の立村上総はどうしようもなく泣き虫で、ちょっとしたことですぐ傷ついて、大好きな先輩に嫌われたら人生が終わったみたいに嘆き悲しむ、女々しい馬鹿野郎だってな。全く、見てて情けねえよ。いくら努力して背伸びしたって、お前の背は伸びないんだって、いいかげん認めろよ」
──だから認めてるだろ! わかってるって。
耳をふさいだ。妄想だと分かっていても、打ち消せない。咽の奥から耳栓代わりの声を出しうなった。「新井林にも言われただろ。所詮お前は自分の身の保身ばかり考えてる奴だってな。影でびくびくしながら、清坂、羽飛のふたりにくっついているってわけだ。いつ自分がハブにされるかもしれないとびびりながらな。おい、聞いてるのかよ」
──聞いているって。だけどそれがなんだっていうんだよ。俺だってこの学校で生きていくためにはそれしかなかったんだって!
「じゃあさ、なんで杉本梨南をあそこまでかばうわけだ? 本条先輩にもずーっと聞かれてただろ? 他の女子たちからも言われただろ。清坂さんと付き合っているくせに、なんであそこまでってな。あの子をかばいすぎたら、お前どうなる? 評議委員長を取られるだけならまだしも、今度はお前自身がもとのいじめられっ子に戻るかもしれないんだぞ。うざったい女のことばかり味方して、変態だとか言われてな。どうしてあんな女を守るんだ?」
──それは、簡単だよ。
自分を攻め立てる影の声にはっきり返事ができたのは、これが最初だった。上総はゆっくりと身を起こし、はっきり、自分の声でつぶやいた。
「本当は俺がしたかったことを、している相手、守ってどこが悪いんだ!」
通信がぱたりと途絶えた。完全にひとりだった。
上総は座り込んだまま、影の声に向い、心臓の奥で答えた。
──ああわかったよ。お前らがいう普通のことを俺も杉本もできないんだ。普通の連中が出来ることを俺はむかむかして何にもできないんだ。それが悪いか。でも悪いんだな。杉本みたいに、自分を受け入れてくれそうな手を全部引きちぎるように、俺だってクラスのうっとおしいもんを全部縁切りたいとおもったことだってあるさ。でも、そんなことしたら俺が作ってきた場所を全部取られるってわかってる。だから猫を被ってるさ。でも、杉本は一度も猫を被らないで、ただまっすぐ走って引っかいている。どんなにそうしたかったかわかるかよ。俺だってそうしたかったさ。尻尾と耳をつけたまま走り回りたかったさ。でもそれが叶わないならせめて、杉本を守ってやりたいと思うことのどこが間違ってる?
たぶん、間違っているんだろう。自問自答して続けた。
──そうだよ、間違ってるよ。お前らはみな、自分らの『普通』に邪魔しなければ、普通じゃなくても許してくれるんだよな。わかったよ。評議委員長なんてくれてやる。
評議委員長の座へのこだわり。
指名された夏休み以来、本条先輩のようになろうと決めていた。
思いつめていた氷柱のようなものが、ぽきんと折れて消えた。
──本条先輩、先輩の望む通り、次期評議委員長を新井林にすることに決める。俺をどうするかは本条先輩が決めることさ。そんなのはどうだっていい。ただ俺の感じ方や杉本の思いを、無神経に切り裂くことだけは許さない。俺は俺の感じ方を忘れやしない。杉本を無理やり土下座させて仲間に入れさせようなんてさせやしない。自分で望んで変わろうとしない限り、他人に手なんて出させはしない。感じ方を同じくできないってことで罵られたり馬鹿にされるなら謹んで受けるさ。
なぜジーンズが嫌いなのか、なぜオペラが好きなのか、なぜバラエティ番組を見るのが苦痛なのか、なぜささいな言葉が耳に突き刺さってくるのか。どうして「付き合い」をする時に恋心が沸かないのか。
理由がわからなかった。今でもわからない。
そういう自分が悪いんだと思い込んできた。必死に直そうと思ってきた。
でも、杉本は周りを蹴散らしながら、自分の感じることばを守りつづけている。やりすぎで、このままでは成敗されることが目2見えているのに、それでも戦いつづけている。上総がやろうと思ったらできたことだけど、あえて放棄してきたことばかりを、杉本梨南はしてくれている。
所詮お前たちふたりはガキだから、と言われるだろう。
自意識過剰と笑われるだろう。
──他人様の迷惑にならないようにはするさ、けど。
──感じたことばを奪わせはしない。
影の声が消えた後、上総は立ち上がり灯をつけた。
闇の中では意味ありげな山々に見えた床も、光のもとではただのわんぱく坊主がおもちゃを散らかした後と同じだった。しばらく見下ろしているうちに身体に冷えが襲ってきた。寒い。すぐに暖房のスイッチを入れた。温風が回り始めたと同時に、「お片づけマシーン」化してきた自分がいた。
──とにかく片付けることにするか。今度うちの母さん来た時には、本を汚したとか痛めたとかで文句言われないといいな。
明るい部屋の中で本を並べ直している間、上総は明日の案をもう一度考え直すことにした。
本の被害は幸いわずかですんだ。なんとか生活できる状態まで持っていき、制服のまま食事準備に取り掛かろうとした。時計を見た。ついでに居間を覗き込み絶句した。
「上総、落ち着いたか」
「父さん、いつ帰ってたんだよ!」
すでにリラックスした格好で、しかも風呂あがりらしく髪の毛が濡れている。タオルを肩にかけて父がテレビを観ていた。もちろん、部屋の暖房はがんがんついている。湯冷めの心配はない。
「もしかしてもう、風呂、焚いてたとか」
「当たり前だ。もう十二時近いぞ」
慌てて時計を見直す。六時くらいだと思っていたが、完全に時間の感覚が狂ってしまったらしい。六時間近く、部屋の中にこもっていたことになる。
落ち着いたか、と尋ねてきたってことは、落ち着いていない状態を知っているってことでもある。恐る恐る上総は父の表情を伺った。
「さっき、電話が二本入っていたぞ」
知らない。電話が鳴っていたらすぐ気付くはずだ。思わず首を振った。
「電話の音聞こえなかったけど」
「一本は難波くんからで、明日連絡くれとのこと。もう一本は、南雲くんと名乗っていた」
「どうして呼んでくれなかったんだよ! 部屋に俺が居たことくらい気付いてたよな」
父はにこりともせず、静かに答えた。
「話せる状態じゃなかっただろう」
気まずすぎて何もしゃべりたくない。ありあわせのご飯に卵をかけて書き込んだ後、大急ぎで風呂に入った。すっかりぬるま湯状態。風邪を引きそうだ。お湯を注ぎ足しながら湯船で一通り考え直すことにした。
評議委員長うんぬんかんぬんの問題については、結局本条先輩が決めることだからどうでもいい。おそらくひと悶着あるだろうが、そんなのも知ったことじゃない。一応は三月一杯まで、「立村次期評議委員長」という体制が続くだろうから、それまでにやりたいことをどんどん進めて置こう。四月以降新井林に取られたら、それはその時考えればいい。
新井林の納得がいく決着。本条先輩の要求だが。
今まで上総は、杉本を中心に物事を考えていた。杉本にあわせてふたりがうまく動いてくれるよう頼み込んでいた。もちろん杉本を説得したりもしていたけれども、どっちつかずのままだった。
発想を転換して、新井林を中心にしてみたらどうだろう?
単純明快、暴力的なところもあるが、先生や同学年からは評価が高い。評議委員の中では二年と相性が悪い以外、特別に問題があるわけでもない。なによりも「青潟大学附属中学スポーツ新聞」を無断発行し、とうとう学校内に「体育部重視」の動きが目立つようになったこと。佐賀はるみのためにならどんなにからかわれても態度を変えないところ。何よりも先生たちから高い評価を得ているところ。他の一年評議連中を見るにしても、これほど完璧な行動の出来る男はそういない。
新井林と対立しているから今はいざこざも目立たない。問題は来年以降の杉本の居場所だ。上総たちの代が現役のうちはよい。新井林評議委員長体制に進んだ段階で杉本はもう、敗北者としての扱いを受けることになるだろう。味方も誰もいない状態で。さらに、杉本の性格上、個人的感情を無視して新井林に協力するとは思えない。新井林が妥協案を出せば別だが、杉本の方から腰を折ることはよほどのことがない限りありえないだろう。また、他の評議連中も杉本を受け入れるだけの余裕はないだろう。
──要は、新井林の迷惑にならないところで固まってろってことだな。
──眼に入らないところにいれば、何をしても平気ってことだよな。
ごもっともだ。新井林も、佐賀はるみも言っていたではないか。
──それなら、そのご希望かなえてあげようか。
上総は湯船のふちに頬を載せて、横目で鏡を覗いた。自分の瞳でないみたいだった。微妙にゆがんで残酷そうに見える。
一風呂浴びると、今度こそ落ち着いた。南雲が電話をかけてきたというのは、やはりすれ違った時になにか気が付いたのだろうか。まさか涙ぐんでいたところを見られたとか言わないだろうか。本条先輩と後で顔を合わせてすべてばれているからなんて言わないだろうか。すでに明日の朝、クラス全員に上総と新井林との情けない決着が情報として流れているなんて言わないだろうか。
影の声に罵られるのはこういう時だった。
──そんなの、どうでもいいさ。
もう一度自分の部屋に戻り、闇の中で眼を凝らした。
いつ首を切られるかはわからない。しかし来年の三月までは上総自身も次期評議委員長としての活動ができるはずだ。半年あれば十分だ。
──俺と、杉本の逃げ道はある。
睡眠はかなり削られた。かろうじて遅刻すれすれでもぐりこみ、急いで教室に入った。
「あ、りっちゃん、おはよ」
特段悪口が飛び交っている様もない。南雲にどう声をかければいいか考えていたけれど、顔を見たとたん忘れてしまった。挨拶交わすだけだ。
「昨日、うちに電話くれたんだってな。ごめん、出れなくて」
「いいよいいよ。それよかさあ」
いつものようにカセットテープを差し出された。前にダビングを頼んでいた奴だった。
──よかった、気付いてないな。
上総はありがたく受け取り、ポーカーフェイスを通すことに決めた。
たぶん本条先輩とも顔を合わせてないようだし、新井林との対決は誰にも気付かれずにすんだようだ。しかしなんで本条先輩があの場に現われたのだろうか? 新井林がすでに話していたのだろうか? 上総は一言も話していないし、新井林が話をしない限りはばれないはずだ。
よくわからない。本条先輩に張られた頬が少しいたんだ。膿が残っているのかもしれなかった。
「ところでりっちゃんは、冬休みどこか行ったりするんか」
「しない。ずうっと、評議委員会のビデオ演劇撮影に費やす予定」
口に出して思い出した。そうだ、南雲以外にも電話もらっていた。評議委員同士でそろそろ話をまとめて一年に意見を請わねばならないことを。この辺は二年だけで話を進めればいいけれど、冬休み前には片付けておきたかった。いつどうなるかわからないのだから、できることだけでも早いうちにだ。
「じゃあ、そろそろ頼もうかな。衣裳のこととか」
「まかしておきなさい! 早く台本くれると助かるなあ」
上総は簡単にまとめておいた衣裳の内容を南雲に渡した。これでひとつ、することが終わった。
次だ次。
時間がどんどん過ぎていったけれども、誰も上総に対して意味ありげな視線を送る人はいなかった。ありがたかった。たぶん新井林と喧嘩して精神的なぼろ負けを喫したことはばれていなかったのだろう。 唯一の通行人、南雲が何も言わないのなら、たぶんそうなんだろう。
昼休み、いつものように図書館へ寄ろうとしたが、本条先輩とその仲間たちが入り口付近のテーブルで騒ぎまくっているのを聞きつけ、入るのをやめた。本を借りたり返したりするのは急ぎじゃないけれど、昨日の今日で本条先輩と顔を合わせるのは、やっぱりいやだ。
──どうせ、俺と縁を切るって言ってたもんな。
きびすをかえし、次の行動に出ることにした。
本条先輩よりも動かしやすい駒の彼に会った。
「桧山先生、今、よろしいですか」
英語科の机が集まっている場所まで行く。期末試験の採点関係も終わっているせいか職員室の中も空気が和らいでいた。単に空気が暖房の熱気で息ぐるしい。桧山先生はひとり、教科書サイズの写真集を開いて眺めていた。天文学関連の本らしい。ちらっと見た感じだと、英語の説明文がびっしりだった。
上総の方にちょっと気まずげに咳払いし、頬の上だけ笑った。
「立村くん、久しぶりだなあ」
「先日お借りしたものを、返しにきました」
心なしか、他の先生たちの席はだいぶ空いていた。別に先生同士で仲間外れにすることもないだろう。上総はすばやく封筒から、黒表紙の卒論を取り出した。
「どうもありがとうございました」
「読んでみてどうだった、ご感想は」
冷やかすように尋ねる。素直に言うこともできない。まさかこれが、全部担当教授の講義や論文の丸写しじゃないかってつっこむなんて、さすがに中学生の上総にはできなかった。
「大学って、勉強、大変なんですか」
まずは話を逸らした。
「いや、入ってしまえば楽だぞ」
──こんないいかげんな内容でも卒業できたのかよ。
決してハーディーの「テス」という作品が読みやすいとか、はまって抜けられなくなる「砂のマレイ」みたいな内容だとは思っていない。文学は文学だ。ある程度歯ごたえがあって当然。好き嫌いがあってあたりまえ。桧山先生は、この「テス」という作品に思い入れがあまりないのだろう。紋切り型の説明文と引用ばかりの内容は、上総も資料そろえれば一日で書き上げられそうな気がした。
何も言わないでいるのも、卒論を理解できないせいだと誤解されるだろうから、急いで言った。
「あの、『テス』の後半だったと思うんですけど、クレアがテスのもとを離れてから、お金に困ってクレアの両親のうちに行く場面があります。あそこなんですけど、もしあそこで、テスがクレアの両親に会って助けてくださいといえば、すべては丸く収まったはずなんだなって、いつも思います」
「そんなところあったっけか」
──読んでないよ、この先生。
いろんな助けの手が差し伸べられようとしていたのに、女主人公テスは気付かずに通り過ぎてしまう。必死に自分の能力と努力で、与えられた苦難を乗り越えようとしている。生活苦のためプライドを捨て、夫クレアの両親へ助けを求め出かけるが、クレアの兄たちの心無い言葉を耳にしておじけづき、結局会わずに帰ってしまう。その後も何度か救われるチャンスがあったのに、テスはそれを掴むことができなかった。人をあやめて絞首刑になる前に、もっとなんとかできなかったのか、というのが上総の正直な感想だった。テス自身は前向きに必死に生きているのだからしかたないにしても、周りがもう少し手助けしてやればよかったのに。気付いてやればよかったのに。
「でも、助けを求められなかったテスの立場は、わからなくもないです」
上総は言葉を切って桧山先生を見下ろした。もちろんにらみはしない。いつものように、こわごわとしたまなざしを保ちつづけた。お得意だ。
「たぶん、どうすればいいか、わからなかったんだと思います。つるし首になる前に、もっといい方法があることを、気付いていても自分ではどうしてもできなかったんだと思います。だから、そういう時は周りの誰かがなんとかしてやらないと駄目なんだって、思いました」
先生と名のつく人々には非常に効果的なしゃべり方だった。十四年間生きてきてマスターした方法だ。通用しないのは上総の両親のみだった。
「そうか、誰かが助けてやらないとなあ」
「あの、それで」
あらためて卒論を両手で渡しながら、上総は上半身をかがませた。耳を向ける桧山先生。近寄ってみると、ひげが濃いことに気が付いた。
「お願いしたいことがあります」
言葉にする前に上総は、思いっきり歯を食いしばった。
杉本梨南の、上総を見上げた時の震える瞳がちらついた。星の光のように光って刺さった。
「次期評議委員長として今後のために、杉本を来年の評議委員から、外してもらえませんか」
無言のまま、桧山先生は卒論の表紙をこつこつ叩き、何かを発しようとした。
「立村くん、それはどうしてだ」
──つるし首にしたくないからだって。
「テス」の例え話が全く通じていないようだ。この先生、「テス」のあらすじ、全部忘れていると思う。賭けてもいい。あえて上総は言葉を飲み込んだ。桧山先生の唇に少しずつ和らいだものが溢れだした。「やはり、評議委員会でも、杉本は扱いづらいのか」
上総は答えなかった。無言で桧山先生に視線を送った。顔だけ小学生に戻ったような顔をして見下ろしつづけた。情けない顔を、いつしか必要な時に作れるようになった。わが身を守るための手段として、演じることができるようになった。隠れ演劇部評議委員会で覚えた技だった。
「そうか、そうだよなあ。新井林ならともかく、杉本は上に立つものとして、迷惑だよなあ。わかったよ。まだ先のことだが、考えておくよ」
分かり合った男同士の会話、と言いたげに微笑んだ。
本人だけがそう思い込んでいるだけだとも気付いていない。
上総はもう一度礼をした後、職員室を出た。
──切り札だ。
涙で顔を汚すだけ汚し、本に埋もれてスラングで罵りつづけたあの夜。
真っ暗闇の中でも、カーテン越しの街灯の灯ははっきりと浮かんでいた。
部活動と違って委員会活動は、クラス男女各一人と制限され、毎回確実に選ばれるという保証もない。 結城先輩と本条先輩の尽力により出来上がった「青大附中委員会最優先主義」の評議委員会だが、だんだんほころびた部分が見えはじめている。新井林が強引に発行した「青潟大学附属中学スポーツ新聞」が委員会を無視して運ばれ、全校のものになろうとしているのがひとつの理由だ。なによりも委員会の辛さは面子が必ずしも毎回同じではない。部活動のように好き勝手にやめるわけにもいかない。いくら次期評議委員長を指名されても、クラス改選時の諸事情で落とされるとも限らない。来年、D組の評議委員が立村上総・清坂美里のコンビで決まる可能性は高い。しかし絶対ではない。もし上総が何かとんでもない悪さをしでかして、クラス男子の信頼を失ったとしたら評議に選ばれることはまずにだろう。
委員会とは、足場のゆるい場所に立った、不安定な場所だ。
もし、このまま一年B組の評議委員が杉本梨南と新井林健吾のままだとしたら。
クラスは阿鼻叫喚だろう。新井林はともかく、杉本への信頼関係はゼロに近い。
しかも現在は桧山先生が男子連中の絶対的味方としてついている。杉本に逃げ場所はない。
仮に女子たちの圧倒的支持で評議に選ばれたとしても、クラス運営には支障が出るだろう。もっというなら、女子たちまで桧山先生が懐柔した場合、純粋に杉本に付こうとする子がどのくらいいるだろうか。
人間は所詮自分の身が可愛い。同じ「佐賀はるみいじめ」の共犯者として扱われるくらいなら、すぐに寝返るに違いない。そうなった場合、クラスの代表たる評議委員に、杉本が選ばれる可能性は究めて低い。
また、このまま杉本が伝統にのっとり二年以降も新井林と評議に選ばれたとしても、修羅場は避けられない。かなりの可能性で新井林健吾が評議委員長に任命された場合……もちろん新井林が評議委員から外れる可能性もなきにしもあらずだが……、杉本が協力するとは思えなかった。上総が評議委員長として最後まで勤めるならまだしも、現在は新井林が四月から任命される可能性だってあるわけだ。 そうなった場合、杉本梨南は冷静でいられるだろうか。
裏切りを知り、佐賀はるみに対してしたことを繰り返す可能性がある。
評議委員会にとってはマイナスな行動を、自分の真実によって行うかもしれない。
気持ちはわかりすぎるほどわかる。そうしないと自分が壊れてしまうから。お前には価値がないと罵られたら、どうやって自分を守ればいいのだろう。必死に杉本が鎧を身につけぎりぎりのところで戦ってきたことがわかるのに。でもそれは、評議委員会を守るためには許されないことだ。
立村上総が評議委員長として、これ以上の混乱を避けるためにはどうすればいいか。
杉本へのいとおしさ、新井林への惨めな気持ち、すべてとっぱらい、駒として観るならば、本条先輩だったらどうするか。結論はすぐに出た。
──引き離す。これしかない。
簡単な引き離し方とは。
──圧倒的多数派の新井林を生かして、評議委員会にマイナスになるだろう杉本を捨てる。
裏の手を使い力技でやるのが本条先輩のお得意だ。
もう、逃げられないところまできてしまった。
ポケットに手を突っ込みながら、もう一度図書館に向かった。戸を開けた時目が合った。すぐに無視された。挨拶を受け付けないとの言葉通りだった。
仲間たちとはしゃいでいるところを見ると、たぶん期末試験の結果が良かったのだろう。
もう一度視線がかち合ったけれども、思いっきり跳ね除けた。会釈だけして本棚の影に隠れた。
──次期評議委員長としては新井林を中心に置け、という本条先輩の流儀に従う。でも。
上総は手帳を引っ張り出した。来年以降の各委員会長名がメモしてあった。住所と電話番号、学年、クラス、プライベートデータがすべて記入されている。顔を知っているのも知らない奴もいる。
──とりあえず本条先輩が下ろすと決断するまでは、次期評議委員長としての権限、とことん使わせてもらおうか。
早く動けばその分、付き合いが増える。付き合いが増えれば平の評議委員に戻されたとしても、繋がりは残る。繋がりのわだちが残っていれば、上総は杉本を連れてそこを渡って逃げられる。
──逃げ道はあるさ。