その1 闇の声が聞こえる
「ったく、だからお前はガキだっていうんだよ、立村」
今日も同じ怒鳴り声の繰り返し。三年A組の教室に閉じ込められたまま、上総は本条先輩の言葉をうつむいたまま聞いていた。
「第一な、一年野郎を手なずけられないでどうするんだ。俺がいるからまだ押さえがかかっているようなもんだが、それをなんだ? 顔色ばっかりうかがってびくびくしながら覗き込んで、結局無視か。もちろんビデオ演劇のことだけだったらまだいいだろうよ。二年中心でやるのも手だ。だが、お前の本音はそうじゃねえだろ!」
答えない。ここで口にしたら、もう逆らえない。上総は目を見ないで乗り切ることにした。
「おい、いいかげん顔を上げろよ」
顎に指がかかり、無理やり本条先輩とにらみあわされた。
教壇の上で対峙する自分と本条先輩。完全に背丈は頭ひとつぶん高い。
本条先輩の目を見るにはかなりぐいと顔を上げなくてはならない。
──まずい、本条先輩本気だ。
片手を握り締めたり緩めたりして、緊張をほぐす。いつもならばへらへらと馬鹿話で現を抜かすこの人なのに、今日ばかりはかなり火薬庫状態だ。
「またかよおいおい。目をうるうるさせてどうするんだよ。お前男だろ。新井林じゃねえけど、ついてるもんがついてるのかって言いたくなるぜ」
必死に目をそらす。また元に戻される。今度は首の後ろを押えられて動かせない格好に持っていかれている。
「自分の立場、わかってるんだろうな。立村、お前は評議委員長なんだぞ。指名した俺の立場も考えろ」
「申しわけありません」
時間稼ぎだとわかっている。あやまってしまう。すぐに見抜かれてしまう。
「そうやって、またごまかそうとしてるんだな。お前の魂胆が見えないと思ってるのか馬鹿野郎。もう、お前には愛想尽かしてえよ。全く、どうしてお前なんかに委員長任せることになってしまったんだろうなあ」
深々とため息を疲れ、放り出された。少し後ずさりした。
窓の外には白い雲がたっぷりとかかっていた。放課後、日の落ちるのは早く、すでに三年の教室には誰も人気がなかった。残っているのはそれぞれの委員会関係者と、部活動に参加している奴くらいだろう。風が冷たそうだし早く帰りたかった。でも、手を緩めてくれる気配すらない。上総は観念して、もう一度うつむいた。
学校祭、合唱コンクール、中間テスト、一通り片がついた。次期評議委員長という肩書きのもと、二年全校集会も無事に仕切り終えた。立村上総次期評議委員長という名前は、十月、この一ヶ月で全校に知らしめたはずだった。
青潟大学附属中学において、それぞれの委員会トップは、委員一致の選出ではなく、前委員長の指名によってほぼ行われていた。いろいろ問題があるとも言われているけれども、評議委員会においては今のところ特別反対の声も挙がらなかった。二年に上がった段階で同期連中も
「評議委員長は立村、お前で決まりだろ」
と応援してくれていたし、本条里希評議委員長もなにかと上総をひいきしてくれていた。他の委員会はどうかわからないけれども、今のところ上総が来年以降評議委員長として引っ張っていくことは決定事項だった。
「あのな、俺が言いたいのは別に、二年の連中だけで『奇岩城』をやるのが間違ってるってことをつっこみたいからじゃねえんだ。いいじゃねえか。アルセーヌ・ルパンだろ? ラブロマンスだろ? しかもお前の出番もあるだろ?」
コートをじろっとにらんで一瞬だけ笑ってくれた。その瞬間につけこみたいけれどできない。何も言えずうつむくだけ。「悪役ホームズも出てくるもんなあ。去年の忠臣蔵に比べたらまだ、人数も少なくてすむ、楽だってことは分かる。セットも全部青大附中の校舎を使ってやるってのもいいアイデアだと思う。けどな、なんでだ? なんで一年連中を巻き込もうとしねえんだ?」
「だから、今の一年は部活動中心ですから、冬休みはみな使えないはずです。それに、もともと演劇をやりたくて入ってきた連中ではないですから」
「そういう言い訳しながら、結局一年が怖くてびくついてるくせにか!」
響かせた怒号。
──怖い。
言い返したくても言い訳が見つからない。
本条先輩の言うことはすべて本当だ。この人の言うことに嘘はない。
教壇を降りて本条先輩は、上総の隣りに立った。反対側を向いたまま、扉に向かってゆっくりと話し掛けた。
「言い分はわかる。今年の一年どもが部活最優先主義を貫きたがってるのもわかる。お前が二年の気心知れた連中と楽な気持ちでやりたいのもわかる。それ以上にもうビデオ演劇にこりごりだってのもいやって程わかる。お前が評議委員長になってからだったら来年以降はやめてもいいや。とりあえず俺の顔を立てるためにやってくれてるんだったら、ま、それはありがとさんと受け取るぜ。だがな」
振り返り、ふたたび上総の顔を見上げた。うつむいている顔を覗き込む。逃れられない。見られている。
「お前、奴が怖いんだろ」
「怖くなんかないです、そんなこと」
「新井林のことが、おっかねえんだろ。顔見たら全部書いてるぞ」
──そんなんじゃない。
言い返そうと口を開きかけたとたん、本条先輩は一気にまくし立てた。
「悪いが評議全員みんなお見通しだ。なにをだ? 今回のビデオ演劇は二年生中心で冬休み行う予定なので、一年は無理に参加しなくてもいいです。ただ、大道具や小道具関係などで手伝ってもらうことがあるかもしれないので、参加してみたい人は申し出てくださいってか。お前、それだったら去年の忠臣蔵、逃げただろ? 浅野の殿様なんてやりたかねかっただろ?」
去年のビデオ演劇「忠臣蔵」で大石を演じたのが本条先輩だった。上総は本条の命令で泣く泣く、松の廊下にて刃傷沙汰をやらかす浅野の殿様をやらされた。
「な、そういうもんだ。やりたくなくてもやらねばなんない時があることを お前は気付いてないとは言わせねえぞ。一言でも、高校生探偵イジドールを新井林に振るとか、そういうことくらいは考えたっていいだろう」
「だから、新井林はバスケ部の試合かなにかで忙しいと話していたじゃないですか」
言い訳その二だとわかっていても、言うしかない。思いっきり頭をはたかれた。耳がきんとなる。
「そこを頷かせるのが評議委員長の役目だろ。お前も他の一年連中は手なずけているみたいだが、はっきり言って使えねえ連中ばかりだろ。一年で使える奴ったら新井林くらいだろ。やる気もあって、ばりばりで、エネルギー全開で」
「新井林にはやる気なんてないでしょう。評議委員会なんて特に」
「そんな懐狭いこと言ってどうするんだ! 馬鹿野郎」
いつもの冗談めいた頭ぐりぐりでは終わらない。耳もとをおもいっきりはたかれた。
「悪いが新井林は、お前なんかと違ってずっと大人だ。そりゃあ、ガキっぽいとことかもないとは言わないが、少なくとも今の立村よりははるかに頭も働く体も動く成績もいい人望もある、完璧じゃねえか。ったく、どうしてあいつがお前と同じ学年でなかったか、つくづく後悔したぞ。本当だったら俺だって、お前なんかよりも新井林の方を早めに見繕って指名できればって何度思ったかなあ」
全身がうずく。耳まで赤くなっているに違いない。手が震える。顔を見たくない。黒板がわを向いたがまた元に戻された。
「それなら下ろしてください。まだ来年まで間があるんですから」
「ばかやろう、それができたら俺だってとっくにやってる」
目の奥が痛くなった。必死にこらえた。
「あれだけ使える万能人間を先に手下にしねえで、それで結局は、趣味に走るわけか。目が曇ったってわけか」
「何を言いたいんですか」
声が震えていく。わかっている。本条先輩が何を言いたくて、なにをさせたいのかがわかっている。自分でも、これからどうしなくてはいけないかがよくわかっている。わかっている、わかっている、わかっている。
「巨乳に触りたいからっておべっか使ってるんじゃねえよ」
「本条先輩、それは相手に対して失礼でしょう」
思わず声が出た。咽の奥にひっかかったような感じだ。咳払いを何度かした。
「俺もその辺の気持ちがわからないとは言えねえよ。だがな、立村。お前がしていることは、明らかに青大附中の評議委員会にとってマイナスなんだってこともわかっているんだろうな」
「一年同士をうまくいかせようとしていることがですか」
かろうじて答えた。
「とんでもねえなあ。お前のしていることは一言で言って、自己発電の極地だ。たまたまあの子がいたから、おかず本代わりにして」
「いいかげんにしてください」
すべてを汚される。 いくら本条先輩でも言わせておけなかった。
「要するに先輩は、俺が杉本のことをひいきしているのが気にいらないだけでしょうか。今の話聞いているとそういう風にしか聞こえません。もちろん俺だって一年の評議委員たちをまとめたいし、できれば協力参加させたいと思っています。ただ、今年の連中は先輩もご存知のように、部活最優先です。運動部の場合は特にそうです。練習もきついだろうし、今の二年たちのように時間のある連中も少ないです。そういう相手に無理やり、演劇をやれとか命令しても動くと思いますか。むしろやる気のある奴だけを巻き込んで、それから少しずつ動かしていけばいいじゃないですか」
「と、お前は言い訳するわけだ。やる気のある杉本だけを、ってな」
「当たり前でしょう。杉本は一生懸命です」
杉本梨南の、ポニーテールに結い上げた艶やかな長髪が目に浮かんだ。
笑顔はない、いつもにらみつけるようなまなざし。口にする言葉は、上総を誹謗するような言い方。本条先輩の耳にはそう聞こえているのだろう。大多数派の言葉しか伝わっていないのだろう。
「へえ、不細工、馬鹿とさんざん罵られているのも知っててか。それともお前、マゾっ気あったの?」
突然背中をぐりぐりと拳骨でしごかれた。
「そういうんじゃないです。なんでそういう話になるんですか。そりゃあ、俺のことを『不細工』だとか『頭が悪い』とか言われていい気はしませんよ。でも、それ以上に杉本は必死なんだってことが伝わってきます。喜んでもらうにはどうしたらいいか、って毎日一生懸命考えてるんだってことが。そんなことも悪いけど、本条先輩、わからないんですか」
「ああ、わからんな。悪いがあの子のお言葉を翻訳できるのは、立村、お前ひとりだ」
続けてとどめを刺した。
「評議委員長を務められるのは、同時通訳なしに俺たちとコミュニケーションの取れる奴だけだ。それも気付かないで、お前、なあに杉本にばっかりくっついてるんだ。いいかげんにしろ」
「評議委員長にするしないとは関係ないでしょう。本条先輩。それよりも一年の男女が仲悪すぎるんだから、なんとかしてやらないとって思うのが、先輩としての自然な感情ではないでしょうか」
「ごほうびにあの巨乳触らせてもらえるんだったらそのくらいするわな」
完全に血が昇った。
「俺のことを本条先輩、そんな風に見てたんですか!」
「でなかったら、新井林をあそこまでお前が無視する理由、説明つかなかったからな。違うのか? やはり、単に新井林のことが怖くて、近寄るのがおっかなくて、それでびくついてたんじゃねえのか」
「あたりまえでしょう」
鼻を鳴らしていきなりやさしく肩を叩かれた。
「ふうん、そうか。立村、本当に新井林のことが怖くないのか」
「下級生におびえて何ができるっていうんですか」
言葉にはさっき怒鳴った気迫が残っている。たぶん見抜かれないだろう。
「じゃあ、新井林とお友だちになることもできなくはないな」
「俺は出来ても向こうがいやでしょう」
「あいつは性格が出来た奴だからな。頭を下げてきたら迎えてくれるぞ。体育系の奴ってそういうもんだ。典型的文化系の誰かさんとは違って、ねちねちうらみを持ったりしないんだ。ただ、まあ、お前は運悪く先輩になっちまったから、プライドだけは人一倍高いしなあ」
「何を言いたいんですか。要するに俺が新井林とうまくいってないってことを、文句いいたいだけでしょうか。それは少しずつ仲良くするようにしますよ。もちろん好き嫌いはあるかもしれないけれど、そのくらいのことは」
「ふおお、できるのか? あいつの前に出ると、言葉がひっくり返って妙に緊張しているように見えるのは、気のせいかな。あいつに敬語使わせてしゃべらせられるようにできるのかな」
また肩を三回叩かれた。どうして自分はこういう時、気の聞いた言葉を口にできないのだろう。惨めだ。顔をじっと見つめて、ふざけるなと言えないのだろう。悔しい。涙が出る。泣きたい。それも声を出して。
「まあいっさ、お前もその辺、自分が何をせねばならないかくらいは分かるだろう。俺はお前がふさわしいと思って指名したし、三年連中にも納得させた。二年連中もお前を気に入ってるってことだ。だがな」
肩に食い込む手が重たい。
「俺は最後の最後まで、評議委員長を変更する権利を持っているってことは忘れるな。お前が本当に堂々と評議委員長になりたいんだったら、新井林を手なずけてみろ。立村先輩のためだったらついていきますくらい言わせてみろ。もしできないようだったら、三月の段階で評議委員長変更もありうる。誰を指名するかは、想像に任せる」
言葉は冷えていた。
──本条先輩、本気だ。
「わかりました。覚悟しています」
もう一度、顔を指で無理やり上げられた。完全に涙目になっているところを見られている。
「まったく、立村、お前はどうしようもなく、ガキだな、情けねえ」
そのまま振り返らず本条先輩は教室を出ていった。
取り残された上総は、まず窓の鍵がかかっているかを確認した。だいぶ暗くなってきている。運動部の掛け声が響き、時折生徒を呼び出す放送がかかっている。追試の連絡もまだ後だろう。人からは「シャーロック・ホームズ風」と呼ばれるコートを羽織り、教室を出た。
──なんで俺のことをガキだガキだってみんな言うんだよ!
袖で急いで目をこすり、廊下に誰もいないのを確かめた。今の顔は誰かに見られたらかなりまずい状態にある。清坂美里たちにも先に帰るように頼んでおいてよかった。男だからこそ、泣き顔なんて死んだってみられたくないプライドがあるのだ。
──プライドばっかり、ってなんだよ、いったい。
先輩だから逆らえない。特に本条先輩には。
言い返したいこともあるけれども、否定できないのが悔しかった。
──評議委員長として、だからしてることじゃないか!
──あの一年連中が仲悪すぎるから、少しずつよくしていこうって思ってるだけだって!
──杉本のことだって。
そうだ。何も分かっていないのだ。本条先輩はいつも、一年ホープと新井林健吾のことを持ち上げている。バスケ部のホープと謳われ、成績も抜群、精悍な顔立ちと筋肉質の身体つき。大きな瞳に光るのは狼に似た表情か。上総もそれは認めないわけではない。上総と対峙するといつも見下げた格好でしゃべる。首を下げているからそう見えるのだろう。
──けど、新井林が俺を嫌っていることくらいわかるだろ。俺にばかり頭を下げさせようとしないで、少しは向こうに協力してくれるよう言ってくれたっていいじゃないか。嫌われたって当然だってわかってるけど、俺にはあれしかできないんだって。
自転車置き場に向かった。まだ雪が降らない時期なので特別気がねもいらない。ただ、冷え込みは日々厳しいので、指なしの手袋が欲しいとも思った。
「あれれ、りっちゃん」
声をかけてきたのは南雲秋世次期規律委員長だった。上総と同じような立場である。上総は慌てて目をしばたき笑顔を作った。慣れている。
「今日もまた、本条先輩と話か?」
「そんなとこだ。日々、厳しいお言葉を頂戴してるってわけだ」
「ふうん」
南雲もどちらかいうと、毎日現在の規律委員長から引継ぎのあれこれを教えてもらっているはずだ。ほとんどがファッション小冊子作りの委員会と思われているようだけど、それなりに「校則」関連の厳しい話なども聞かされているらしく、たまに
「胃が痛いよなあ、りっちゃん」
とぼやかれたりする。
「ところでさ、冬休みのビデオ演劇の件だけど」
「ああ、あれな」
もう一度ため息をついた。そうなのだ。二年生中心でビデオ一本に録画して行う、「奇岩城」。アルセーヌ・ルパンが主人公の冒険活劇、だがフランスまで録画旅行なんてするわけもない。学校内で上手に撮って組み合わせようと話し合いがついている。ただ、せっかくなので衣裳を集めてほしいというお願いを、現在南雲に頼んでいる。
「人にもよるけど、体型のでこぼことかは特にないのかな」 「ないと思う。今のところは。ただ、その時になってみないとわからないなあ」
頭の痛い問題がここにもひとつ。
「それはそうとりっちゃん、なんか最近妙に疲れていませんか」
「別に、いつものことだけど。追試の前はやたらと疲れるな」
「数学?」
図星だ。上総は大きく頷いた。
しばらく軽い話題をかわした後、上総は自転車をこいではるかかなたの我が家へ向かった。品山まで自転車で約四十分弱。いやスピード上げればもっと早いかもしれない。近道を発見したのでだいぶ短縮されている。父が家に戻っていることはまずないし、大抵はひとりで食事をする。自分で作るのが普通だけれども、疲れた時はありあわせのもので間に合わせることもある。
──疲れてるかもしれないな。
昨日の残り、カレーライスをまずは胃の中に収め、上総はぼんやりと食卓でスプーンをくわえていた。
──なんか、食べても食べても、腹が空くっていうか。
そのくせ、食べようとすると食欲がなくなる。よくわからない自分の体内。
──何もかも忘れて、寝たいよな。
皿を下げて、食卓のテーブルにほおをつけてしばらくそのままでいた。あわてて起き上がり、牛乳をもう一杯飲んだ。一日牛乳一リットルは消費しなくてはと、自分に課している。立ったついでに柱に背を当てて、頭の上へ見えないようにこっそりボールペンで線を引いた。
──たったこれっぽっちかよ。
まどろっこしいくらい、一年の頃にくらべて伸びが足りない。五センチ、伸びたか伸びないか。まだまだ本条先輩には届かない。
──だからガキ扱いされるんだ、きっと。 くさくさしてきたので風呂を焚いてさっさと入ろうと決めた。
小さい頃から心の中に見えない友達が一緒にいて、慰めてくれたりおしゃべりしてくれていた。悔しくて泣きじゃくっている時には、耳もとで
「大丈夫、かずさは悪い子じゃないよ、大丈夫だよ」
と話し掛けてくれるような存在だった。人に言ったら変態扱いされるのは目に見えていたので、もちろん内緒にしていた。
それが最近になっていつのまにか、ずうずうしい相手にすりかわっている
「何甘ったれてるんだ、要するにお前が悪いんだろ、背は低いし泣き虫でどうしようもなく小心もんで、おどおどびくびくしやがって、ほんっと馬鹿だよな。十四にもなって指先使って計算してるなんて情けねえ奴だ。そのくせ、スケベなことには耳ざといくせに。ほら、今夜は何してたか白状してみろよ」
と罵る。
耳をふさぎたくても、聞こえてくるものは消せない。
結局そう感じるたびにひとりで声を押し殺して枕に顔をうずめるしかない。 もしくは言われる通りに写真を見たり妄想にふけったりして気を静めたりする。そして大抵後悔して、また泣きじゃくるはめになる。
──中学に入ったら、絶対に泣かないって決めてたのに、なんでだよ。
自分で自分を罵ると、心の中でわめく声も消える。いつも上総はひとりで自分を貶すことにしていた。数も数えられない、頭も悪い、性格も陰気、人の顔ばかり見ておどおどしている救いようのない奴だと。背も低くて、全然伸びなくて、結局は本条先輩にどやされる相手。
──最低だ、こんな奴、生きてて意味ないよな。
──本条先輩に見捨てられて当然なんだ。
評議委員長に選ばれることは、一年の段階で決まっていたから誰も反論はなかった。ただ、一時期
「一年の新井林に逆転するんではないか」
という噂が流れたことがある。表面上何も気にしないふりをしていたけれども、本条先輩がやたらと新井林と楽しげに語らっているのを目の隅で捕らえるたびに、また奥底から声が聞こえた。
「あいつ頭いいし、腕力もあるし、ルックスも最高じゃねえか。お前みたいに指を折って計算なんかしてないんだぜ。なによりも本条先輩がお気に入りにしてるじゃないか。お前にはいつも『お前ガキだなあ』というくせに、新井林にはため口叩くこと許してるだろ。新井林もお前のこと、先輩だなんてこれっぽっちも思ってやしねえよ。ほら、この前言われただろ。『ついてるかついてないかわかんないような奴』ってな。お前は内面ではスケベなことばっかり鬼のように考えているくせに、表面ではのぼーっとした顔で通してるからそう思われるんだろうなあ。よかったなあ、一年でも早く上でいて。ま、運良く評議委員長になれたらその時はラッキーと思えよ。お情けなんだからな、お情け」
いつも本条先輩からは
「お前ってガキだからなあ」
とため息を吐かれていた。言われても仕方のないことばかりしてきたから反省している。でもいつかは本条先輩に認められたくて、必死に走ってきたつもりだった。だから評議委員長に無事指名された時は、心からほっとした。役職が欲しかったからじゃない。
──本条先輩に、認めてもらいたかっただけだ。
「ふうん、認めてもらったと思ってるのか、甘ったれてるよな」
また馬鹿にする声が聞こえる。風呂場の水がちゃぽちゃぽとゆれる。何度も湯船に潜っては出て、また潜りを繰り返した。
「あれだけお前が委員長の座に汲々としていたから、本条先輩も同情してくれただけだろ。本当は本条先輩、絶対に新井林のことをひいきしたくてなんなかったはずだぜ。そうだろ」
──だったらどうするんだよ。
顔を湯で洗い目をこすった。
「最後の最後までどうなるか、気を抜かないことだな、がんばれよ」
──わかってる、わかってるけどさ。
見事、声は正しいことを言ってくれた。その通りだ。
──三月に逆転の指名可能性ありって奴かよ。
上総はのぼせる寸前まで湯船につかり続けた。ぐったりすれば、声も消えてくれる。ただ何も考えずに寝ることができる。声が物笑いにするような儀式もしないですむし、これから先評議委員会で何を言われるかを考えないですむ。
──ああ、わかってる。俺はどうしようもなく頭が悪くて、永遠に数学を覚えることできなくて、もしかしたら裏口入学だったのかもしれなくて、馬鹿なことばかりして本条先輩に怒られて、究めつけは下級生に物笑いにされてるんだ。表向きはいいかっこばかりしているけれども、写真集みては変なことを考えてる、そんな最低な人間なんだ。それだけ言えば十分だろ! 俺は評議委員長なんてできる器の奴じゃないんだって!
何も言わずに、声は上総を寝させてくれた。ありがたかった。
──いったい誰が「奇岩城」なんかにするって言い出したんだよ!
別に脚本を作るとか、いいかげんな英語劇にしようとか、そういうのだったらかまわない。上総も手伝うにはやぶさかではない。いいさ、演出くらいやってやろう。衣裳だって作るの手伝ってやろう。二年生評議一丸になって、去年の「忠臣蔵」を越えるようなビデオ演劇をこしらえてやる。
しかし、よりによってシャーロック・ホームズを指名されるとは思わなかった。「奇岩城」原作はルブラン。アルセーヌ・ルパンシリーズの名作だ。ルパンと高校生探偵イジドール少年との対決が見ものの推理恋愛小説だ。失敗したのはこの作品を上総は読んでいなかった。シャーロキアンなB組の男子評議の影響で、ホームズものは一年の段階で読破したが、しくじった。
──ホームズが出てくるなんて知らなかったんだからさ、あれって絶対、だまし討ちだよな!
にやついていた連中の顔を見て、なんとなくおかしいとは思ったのだ。
夏休みの評議委員会合宿で
「もしホームズやれなんて言われたら、俺は評議委員長の権限でやめさせるからな、忘れるなよ!」
と釘をさしておいた。案が出た時にホームズものは一作も出なかったので安心していた自分が馬鹿だった。
──よりに寄ってホームズがラストに、悪役として出てくるなんて知らなかったんだからさ。なんで、ルパン対ホームズなんて、作者が違うのに意味のないことするんだよ! 確かホームズ書いたコナン・ドイルが激怒したんだよな。そりゃそうだ。異国の俺が大迷惑こうむってるんだ。当然だ!
理屈は通っていないのは承知の上だ。上総はたんすの中にしまいこんである、とんびのマントを思い出してはため息をついた。きっと、あれのせいだ。
授業が終り、冬休みの予定をそれぞれ確認した後、上総は各クラスの評議委員連中に文句を言いながら「ビデオ演劇」の予定を立てた。クランクインは一月に入ってからでいい。できれば冬休み一週間以内で撮り終えたいということ。使うものは家庭用ビデオカメラを三台ほど。編集は青大附属高校にいらっしゃる結城先輩に手伝ってもらおう。大道具小道具などは一年生に手伝ってもらおう。イジドール少年だけだれか一年にやらせようか、などなどだ。
決めたいことはたくさんあるけれども、実際動くのはまだ先のことだから、上総もまだまだ余裕をもって話ができる。
「おい立村、本当に一年入れるつもりなのか?」
「本条先輩のご命令」
不承不承上総はつぶやいた。
「俺はやだぜ。あいつら何考えてるんだよ。そりゃ本条先輩には懐いてるぜ、今の一年連中。けどさ、あいつらの態度なんだよ。特にあの新井林の奴は」
「言うな。腕力勝負では勝てないって」
ちっと舌を鳴らしみな、二年連中は黙る。 ここでぐちぐち不満をもらすしかない二年の立場も問題だと、上総は思う。なんとか暇がある時に、うまくなだめようとしてみたのだが、うまくいかない。なにせ六月の一年生全校集会以来の怨念が、二年連中には漂っている。一番侮辱された上総が懸命に押えても、気持ちを変えることはできないわけだ。
「立村、お前も言う時ははっきり言えよ。本条先輩の方ばっかり向いてねえでさ」
「うん、わかってるよ」
これ以上話を聞いていると、自分の馬鹿さ加減で泣きそうになるので早めに切り上げた。これから杉本梨南と、「おちうど」にて話をするつもりだった。
もちろん清坂美里には、きちんと理由を告げている。