第弐幕
昨日は7時過ぎまで美術室で山野が戻って来るのを待っていたが、結局、山野が美術室に戻って来ることはなかった。
一人で先生達に、天井に大きな穴を開けた訳を説明したところで、信じてもらえないどころか頭のおかしい奴だと心配されるだけだろうと考え、逃げるように学校を出たのだった。
教室に向かう前に一度、美術室の様子を見に行くことにした。俺が帰った後に美術の三鷹先生が荷物を取りに美術室に戻って来たはずだ。さすがにあんな大きな穴が天井に開いていたら気付かないはずはないだろう。
犯人探しが始まれば間違いなく、俺が疑われるだろう。なぜなら、昨日は美術部員が美術室にいなかったことと、美術準備室には俺が昨日提出しにいった課題が残っている。と、言うことは昨日の放課後に美術室に行った証拠があるのは俺しかないのだから。
昨日のうちに先生に説明するべきだったか、しかし、上手く説明できる自信はなかった。
クソッ、なんで山野は逃げやがったのか?
美術室の前に付く、誰かに美術室に入るのを見つかるとまずいと思い、左右をキョロキョロと見渡し誰もいないことを確認する。
美術室のスライド式のドアを横にスライドさせる。ガチャッと音が鳴りドアは数ミリ動いただけで開くことはなかった。
『ドアが閉められている。』
美術室も他の教室と同様に前後二ヶ所の入り口があるが、どちらのドアも鍵が閉められていた。
これで間違いなく、昨日俺が帰った後に美術室に来た人間がいたことが確定する。その人物は恐らく三鷹先生だろう。
きっと、朝のホームルームで美術室の天井に大きな穴が開けられていたことが公表されるはずだ。もしかしたら、もうすでに生徒達のあいだで話題になっているかもしれない。教室に行くのが気が重い。
美術室のある棟は家庭科室や音楽室などの特別な授業の部屋しかなく一般教室はない。なので、通常は朝のホームルームが始まる前にこちら側の棟に来る人間はほとんどいないはずである、いるとすれば一限目の準備をする為に来る教師ぐらいであろう。
美術室の様子を確かめることができなかった為、教室に行こうと渡り廊下に向かっていると、一般教室棟から渡り廊下を渡って向かって来る人影が窓から見えた。
まずい!と思い窓の下に身を隠す。チラリとしか姿が見えなかったが、あの人影は美術の三鷹先生に間違いなかった。
腰を低く落として窓の下に身を隠したまま、急いで逆側にある渡り廊下まで移動する。
柱の影に隠れて三鷹先生の様子を伺う。三鷹先生は紺のジャケットを羽織り、スキニージーンズに黒のパンプスといつも通りのラフな格好だ。
たしか、年齢は28歳で、教師になったのは二年前だと美術の授業の時に言っていた。それまでは東京でCGデザインの仕事をしていたらしい。
この田舎町の学校にはいないような都会的な女性で、見た目も結構な美人であるために、男子生徒の間でもかなりの人気がある。
三鷹先生が赴任してからは、選択授業で美術を取る生徒が倍近く増えたと、三年の先輩が話しているのを聞いたことがある。そういう自分も美術を選択したのは『せっかくなら美人の先生の授業を受けたい』という理由なのだが。
三鷹先生が鍵を開けて美術室に入っていく。表情を見ていた感じでは、いつも通りのハツラツとした明るい表情であった。美術室と準備室の天井にあんな大きな穴が開けられていたのに、その事について不安に感じてないんだろうか?
三鷹先生に見られなかっただろうか?とりあえず、教室に行こうと思い急ぎ足で渡り廊下を歩いていく。
2年3組の教室はいつも通りの朝の賑わいだった。特に美術室の事件の話しが聞こえて来る訳でもなく、昨日のドラマの話や今度の休日の予定など、思い思いの話題で盛り上がっている。
自分の席に付き、これからのことを考えて大きなため息がもれてしまった。
「朝からため息なんてやめてよね。」
ニヤニヤとした顔で隣の席の女が話しかけてくる。
この女は八日紗希、みんなからはハッピーと呼ばれている。俺とは中学校時代からの付き合いで、なにかと絡んでくる煩わしい友人の一人だ。
「ハイハイ、スンマセン。」
今はハッピーと無駄話しをする気分ではなかったので、適当に話しを終わらせようとする。
「なんでそんな不機嫌なのよ。あっ、もしかして三鷹先生に告白して振られでもしたの?」
「バッ!な!なんで三鷹先生が出てくるんだよ!」
予想もしなかったところから、三鷹先生の名前が出てきた為に、必要以上に動揺して声が裏返る。
「え!マジで告白したの!?」
意外な反応にハッピーもびっくりして聞き返す。
「してねぇよ!なんで三鷹先生なんだよ!?」
あまりの剣幕にハッピーは若干戸惑いながらも話しを続ける。
「だって、昨日コウちゃん、美術室に課題を提出しに行ったまま戻って来ないんだもん。ファミレスで遼太郎と二人でずっと待ってたんだよ!携帯も通じないし・・・」
すっかり忘れていた。たしかに昨日は美術の課題を提出した後に、ハッピーと遼太郎に合流する約束をしていた。
(ちなみに、遼太郎というのはハッピーの彼氏であり、俺の小学校時代からの友達でもある。)
「コウちゃん、まったく連絡もしないでブッチするから、遼太郎怒って『三鷹先生に告白して振られた』ってデマを言いふらすって言ってたよ。」
ぐっ・・たしかに遼太郎に、三鷹先生はタイプの女性だと話したことがあったが。
「すまん、昨日は急に体調が悪くなって家に帰って寝てたんだよ。」我ながら苦しい言い訳だ。
「ふーん、何があったか知らないけど遼太郎にも謝っといてね。あと今日の放課後奢りね。」
「あぁ、わかったよ。」
始業のベルが鳴り、会話はそこで終わる。担任の教師が教室に入って来ると同時に生徒達が自分の席に戻りだす。
「おはようさん。出席取るから早く席に付けよ。」
先生はいつも通りの挨拶をして出席を取り始める。
美術室での事件を生徒達に報告するなら、朝のホームルームの時だろう。さっきのあの慌てぶりは不味かった。美術室の事件と聞いてハッピーは俺が犯人、もしくはなにかしら関係していることに気付いてしまうかもしれない。ハッピーはヌケてるようでなかなか鋭い。
出席の確認が終わり先生からの連絡事項が話される。
「夏休み中の夏期講習の締め切りが今週までになってるから、できるだけ参加するように。まだ2年だからってダラダラしてると、来年苦労するからな。」
「あー、あと美術室の天井」
『きたっ』予想はしていたが緊張で体が固くなる。
「美術室の天井から水漏れが起きて、天井が一部壊れたらしいので、今週の選択美術は技術室でおこなうそうだ。あと立ち入りも禁止だからな。」
『えっ!?』
先生の言葉に耳を疑う。
水漏れ?そんな馬鹿な。天井を壊したのは俺(正確には山野も壊したが)であって、水漏れなんて一切起こっていないはずだ。なぜ先生はそんな嘘を?
それ以上の連絡はなく、朝のホームルームが終わって先生が教室から出ていと教室内に再びざわめきが戻って来る。
「美術室の水漏れって、昨日コウちゃんが行った時には水漏れしてたの?」ハッピーが後ろを振り向き話しかけてくる。
「いや、水漏れはしていなかった。」
「へー、じゃあ夜の内に洩れてたのかな?それだと美術室は水浸しだろうね。」
「ところでね、遼太郎が・・」
ハッピーが何か喋っていたが、俺の耳にはほとんど届いていなかった
。
天井裏を移動している時に偶然水道管でも壊したのだろうか?いや、あの後一時間以上あの場にいたが、水漏れしているようなことは何もなかった。
そもそも、あの穴はどう見ても人が開けたとわかるはずだ。しかも天井の破片もしっかり片付けられているんだから、水漏れでが原因で穴が開いたと思うはずがない。
と、言うことは三鷹先生が嘘をついて事件を隠している?なぜ?
考えられるのは、山野が三鷹先生にお願いして自分達がしたことを隠してもらった。というとこだが、お願いしたところで三鷹先生が了承してくれるだろうか?
大体、山野はなぜ三鷹先生がいない美術準備室に一人で居たんだ?
まさか、山野と三鷹先生は付き合っている!?それなら色々と山野のお願いを聞いてくれそうだし、自分達の関係を気付かれないようにする為に、今回の事も揉み消したのかもしれない。
何はともあれ、山野から話しを聞かなければ、納得できない事だらけだ。昼休みにでも山野を捕まえて、昨日はなぜ何も言わずに消えたのか、なぜ昨日の事がなかった事になったのかを聞き出してやる。
「コウちゃん!」
ハッとその声に意識が戻される。ハッピーが怒った顔でこちらを睨んでいる。
「ちょっと!全然話し聞いてないでしょ!」
「悪い。ちょっと考えごとをしてて。」
俺の真剣な表情を見てハッピーの表情が曇る。
「大丈夫?コウちゃんなんか変だよ?」
「変?確かに変なことだらけだ・・・」
ボソリと呟きが漏れる。