開幕
静かだ・・・
いつもなら校庭から運動部の声や、上の階で練習する吹奏楽部の演奏が聞こえてくるはずなのに、今はほとんど何の音も聞こえてこない。
学校内であれば必ず何かしらの音がある、授業中なら先生の講義の声があるし、テスト中でもペンの走る音があちらこちらから聞こえてくる、ましてや放課後のこの時間は最も音が溢れている時間帯であるはずなのに、聞こえてくる音は、この狭い美術準備室で向かいに座って本を読んでいる女性がページをめくる音だけだ。
彼女の名前は山野・・・さち・・いや、ちさだったか?さっき聞いたばかりだったのに忘れてしまった。まあ名前で呼ぶこともないだろうから問題ないが。
学年は俺と同じ高等学部の二年生で特進(特別進学)クラスだったはずだ。黒髪ショートカットで銀縁眼鏡、スカートの長けは膝がギリギリ見えるぐらいの長さ、もちろん化粧もネイルもピアスもない、絵に描いたよな地味系女子。
廊下で何度かすれ違ったことがあるので彼女の存在事態はなんとなく知ってはいたが、接点が無さすぎて卒業するまで・・いや、一生話をすることはない同級生の一人だと考えていた。
では、なぜそんな同級生という以外に、何の接点もない人間と一緒に美術準備室なんかに居るかというと。単純にこの美術準備室にから出ることができないのだ。
◻
「何ですか?」
美術準備室に入ると突然女子生徒に声をかけられた。
「あっ、美術の三鷹先生を探してるんだけど」
なんとなく見覚えのある女子生徒にそう告げると、その女子生徒は何かを思い出すように天井を見上げてから、読んでいた本に再び目を落とす。
「三鷹先生は職員会議があるとおっしゃっていたので、職員室に居ると思いますよ。」
本に目を落としたまま、こちらを見ることもなく会話を済ませる。
『なんだこいつ?いくら興味がない相手だとしても、その態度はないだろ!』と若干苛立ちながらも、まあこんなコミ障女にイラついたところでしょうがないかと思い、ここに来た要件だけ伝えてさっさとこの場から去ろうと考える。
「美術の課題をここに置いていくから、三鷹先生が帰ってきたら伝えといて。」
「・・・・・・」何も言わず、ただ手元の本を読み続ける。
コミ障にも程があるだろと呆れつつも、こんな奴とこれ以上話をしたところで時間の無駄だなと思い、美術準備室を出ることにする。
入って来たドアを開け、準備室を出てから苛立ちの主張を込めて少し強めにドアを閉めた。
その瞬間、目の前の景色にとてつもない違和感を覚え、パッと横を振り向く。
「!!」
さっきのコミ障女が先ほどと変わらない体勢で本を読んでいる。
本を読んでいたコミ障女が呆然と立ち尽くす俺に気付いたようで、訝しげな表情で問いかける。
「まだ要件があるのですか?」
「いや・・あの・・・」
『美術準備室から出たら美術準備室に戻ってたんだよ!』なんて言ったら、きっとこの女はゴミくずを見るような目で俺のことを見るんだろうな、と考えてなんとなく愛想笑いでやり過ごす。
とりあえず、もう一度このおかしな現象を確かめる為に180°振り返り、再び美術準備室のドアに手をかける。
ドアノブを回しゆっくりとドアを開けていく。コミ障女が俺から伝わる異様な雰囲気を察したのか、じっとこちらを見ている。
「!!!」
目の前の光景にはっと生きを飲む。
本来は美術準備室のドアを出ると美術室があるのはずである、それは先ほどこの美術準備室に来る為に自分自身が美術室を通って来たのだから間違いない。
なのに、現在目の前にあるのは美術室ではなく、自分の後ろにあるはずの景色がそこにあった。
そう、これは間違いなく美術準備室と美術準備室がドアで繋がっているのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
時が止まったように固まっている様子に、さすがに何かおかしいと思ったらしくコミ障女が声をかけてくる。
「お・・おい、なんだこれ?どうなってるんだ?」
「どうなってるって?何があるんですか?」
読んでいた本を椅子に置き、出入口まで近寄ってドアの向こうを覗き見る、一瞬驚きの表情を浮かべるがすぐに表情を戻す。
「不思議ですね、あっち側に行ってみていいですか?」
『不思議ですね』って、この状況を目にしてリアクションが薄すぎないか!?なんだか狼狽え過ぎてる自分が恥ずかしくなってきたぞ。
「あっ・・・ああ、でもこれ危なくないか?。」
「まあ大丈夫でしょう。さっき真下君も通ったのでしょ」
たしかに何もなかった(何もなかったといえるのか?)けど、この不可思議な光景を前に恐怖心がないのだろうか?
スッと俺の横を通り過ぎドアの向こう側に進む、こちらの部屋から向こうの部屋に体がすべて入ったと思った瞬間だった。
さっきまで背中を見せて扉の奥に進んでいたはずなのに、今は顔を見合わせた形で俺の正面に立っている。
「なるほど、先ほど真下君が体験したことはこういうことなんですね。」
妙に納得した様子でフムフムとうなずいてから俺を見上げる。
「確認したいのでいろいろやってみましょう。」
「確認って、あんたこの状況がわかってんのか?」
「わからないからいろいろ調べるんですよ。それと、『あんた』はやめてください、私の名前は山野幸です。」
「あっ、俺は真下・・・そう言えば、なんで俺の名前をしってるの?」
「あー・・・それは・・同じ学年の人ならだいたい名前はわかりますよ。普通そうじゃないですか?」
普通ではないと思うが、頭のいい奴にとっては普通なんだろうなと思い一応納得する。
「で、いろいろって何をするんだ?」
「そうですね・・・」
◻
いろいろとやってみた結果、美術準備室から出ることは無理だった。
とりあえず、携帯電話での連絡は電波がなく無理だった。
次にやったことは色々な扉の出方を試してみた。二人で同時に出てみたり、素早くもしくはゆっくり出てみたが結果は同じだった。
グラウンドに面した窓は窓を閉めた状態だとグラウンドが見えるのに、窓を開けると美術準備室が現れた。
その他に大声で叫んでみたり、壁を叩いて助けを呼んでみたが、ただただ疲労感がつのるだけであった。
そんなこんなで、自力での脱出と外部への連絡は無理だと諦めて途方にくれていると。
「仕方がないので三鷹先生が戻って来るのを待ちましょう。」
相変わらず落ち着いた表情で山野が元いた椅子に座る。
「待つって、三鷹先生が戻って来るのか?」
俺の質問に対してスッと奥の机を指で指す。そこには茶色のビジネスバッグが置いてあった。
「カバンがあるので戻ってくるはずです。」
たしかにあの白いトートバックには見覚えがある。三鷹先生とは通学のバスの中で何度か会ったことがあり、たしかにあのようなカバンを持っていた。
「外部から何らかのアクションがあれば、どうにかなるかもしれませんよ。」
どうにかって、今度は先生と三人で閉じ込められたらどうするんだ!?そもそも、外からこの部屋に入って来ることができるんだろうか?
色々疑問と不安が湧いてはくるが、再び本を読み始めた山野の姿を見ていると、一人であたふた考えてるのが恥ずかしくなって近くの椅子に腰をおろす。
気が張っていたのか腰を下ろすとドッと疲労感が湧いてくる。
しかしながら不思議な事が起こるものだ、案外夢の中の出来事なんじやないだろうかと思えてくる。
そういえば、小学生の頃にも不思議な体験をした記憶がぼんやりとあるのだがほとんど内容を思い出せない。
たしか、その不思議な現象を今は亡き祖母に話した事があった。その時祖母はなんと言っていたのか・・・
『ここは境界の街なのよ。コウちゃんは境界って言葉を知ってるかい?』
幼い俺は少し考えたあと、横を首にふる。
『なにかとなにかを分けている、さかい目のことを境界と言うの、この街は海と陸、山と海の境界であり、あっちとこっちの世界の境界でもあるのよ』
『あっちとこっちの世界?』
『そうよ、おばあちゃんやコウちゃんが住む世界と神様の住む世界の境界線の街。だから不思議なことも起こるのよ。』
祖母は優しく俺の頭をなでながら、遠い日を思い出しているような目をしていた。
『コウちゃんは少しだけ境界線の向こうに行ったんだね。』
◻
カクッと首が落ちかけて、まどろみから意識が戻って来る。あまりに静か過ぎて居眠りをしかけていた。
久しぶりにおばあちゃんのことを思い出したなと考えながら、目を覚ます為に両腕を上げて背中を伸ばす。
「うーん」とおもいっきり伸びをした瞬間に、下腹部に違和感を感じる。
「あっ」
まずい!この感覚はまずすぎる・・・この状況で一番起こってはほしくない現象。
『オシッコがしたい』