広島と言えばマツダでしょう
その日はめずらしくこれと言った事件も起きず、刑事達は皆それなりに真面目に溜まった書類仕事に黙々と取り組み、気がつけば日が暮れていた。
その日、聡介は和泉と一緒に自宅へ戻った。
和泉の唯一財産と呼べる所有物は車である。
生まれも育ちも広島県民である彼は、迷うことなくマツダの普通車を購入した。主に通勤と仕事に使用している。
別れた妻から送られた荷物を車に積み、聡介の自宅マンションの駐車場から部屋まで何度か往復して運びこんだ。
最後の段ボール箱を運び入れようと玄関を開けた時、後ろから楽しそうな笑い声が聞こえた。
振り返ると若い女性と少年の2人連れだった。
少年は高校生ぐらいだろう。
腕に茶トラの子猫を抱いた少年は、並んで歩いている何やら女性に話しかけながら笑っている。
何とはなしに二人を見た聡介は、姉と弟かと思った。顔立ちが似ている。
「こんにちは」
子猫を抱いた少年が聡介達に気付き、挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
すると今度は若い女性の方が会釈をしながら、
「あの、先日引っ越してきましたお隣の506号室に住んでいる藤江といいます」
506号室と言えばつい先日まで空室だった。
「何度かご挨拶に伺ったんですが、お留守のようで……遅くなって申し訳ありません」
「とんでもない、わざわざご丁寧にありがとうございます」
聡介も頭を下げた。
顔を上げて正面から女性と向き合うと、その美しさに一瞬はっと息を呑んだ。
柔らかいウェーブのかかった髪は肩まであり、くっきりとした瞼に形の良い眉、すっと通った鼻筋、桜色の少し肉厚な唇がバランスよく配置されている。
「505の高岡と申します」
和泉のことを紹介しようかするまいか、少し悩んだが、
「その息子です」と、和泉が自分から名乗った。
「ご姉弟ですか?」
聡介が訊ねると女性は何故か少し複雑そうな表情を浮かべて、ええ、と答えた。
「主人の、弟なんです」
ということは義理の、ということか。
それにしては顔が似ている。
口には出さないが向こうだって不思議に思っているだろう。父子という割には顔が似ていない、と。
少年はぺこりと会釈をすると、子猫を抱いたまま玄関のドアを開けた。
失礼します、と女性も後を追う。
「美人ですね」和泉が言った。聡介も異存はない。「さくらちゃんによく似てる」
「……そうか?」
さくらとは聡介の長女である。
親のひいき目で見ても、確かにさくらは綺麗な顔をしていると思う。 しかし、今出会った女性とはまったく系統が違う。
「顔の造りじゃありませんよ、表情が、です」
娘のさくらには長い間、苦労をかけた。
今の女性もまた、何かとてつもない苦労を抱えこんで生きてきたのだろうか?
急にさくらに会いたくなった。
しかし、今からでは向こうも迷惑だろう。電話でもかけてみるか。