22時40分頃の
任意で富樫公一を引っ張りましょう! と、佐伯南署の石原警部補は叫んだ。
その夜、聡介は彼と管理官に葛西芳枝から聞いた情報を伝えた。
「しかし、まだ状況証拠に過ぎません」聡介はあくまで慎重である。「確かに被害者とその上司である富樫公一は深い関係に会ったようです。防犯カメラの画像を解析するなど、不倫関係の立証は可能でしょう。ですが……富樫にはアリバイがあります」
「そんなもの、いくらでも工作できるでしょう」
「仮に富樫が犯人だったとして、動機は何です?」
所轄の警部補は鼻を鳴らした。
「あんた、何年刑事やってるんです? 痴情のもつれ、これ以外にどんな理由があるんですか? 現場には争った跡がなかった。ということはごく親しい関係にある相手が犯人だということですよ」
確かに遺体は後頭部を強く殴られたことによる脳挫傷だ。
だが、
「石原さん、あなたは浮気をしたことがありますか?」
思いがけない質問を挟んだのは和泉だった。
ごつい顔をしていながら、中身は純朴そのもののような中年の刑事は、顔を真っ赤にして否定した。
「あ、ある訳ないだろうが? そう言うあんたはあるのか?!」
「ありませんよ」
さらっと答えてから和泉は、ホワイトボードに貼ってある顔写真を見渡す。
「すべての男がそうだと言う訳ではありませんが、浮気相手に本気になる男が果たしてどれぐらいいるでしょうね? 妻と別れるからやり直してくれ、なんて安っぽい昼のメロドラマじゃあるまいし。現実には各種面倒な障害が待ち受けていて、慰謝料だ養育費だ、何かとお金もかかるものです。それにあの富樫という男は自分の見る限り、ごく普通に平穏な暮らしを望む、気の弱い人間です」
「だったらあんたは、誰が犯人だと思ってるんだ?」
和泉は肩を竦めて、
「それがはっきりしてたら、とっくに裁判所へ逮捕状の請求をしてますよ」
石原警部補は一瞬目を点にして、それから聡介に向かって言った。
「あんた、どういう教育してるんですか?」
「……面目ない」
「とにかく、富樫を任意でしょっ引く!! それでいいですな? 管理官!!」
石原警部補の言葉に管理官は黙って頷いた。
『確かに彼女から、相談は受けていました。小野寺という男につきまとわれてかなり迷惑していると』
マジックミラー越しに取調室を見ていると、すっかり憔悴しきった富樫公一が、取調べを担当している刑事相手にそう答えていた。
『相談に乗っている内に、何となく……そういう関係になりました。でも、お互いに遊びだと割り切っていました。向こうもそうはっきり言ったんです、結婚は望まない、今は仕事の方が大事だって……』
任意同行ではあるものの、取調べをしている刑事達は既に富樫がホンボシだと決めてかかっている。
これではいけない。
冤罪を産みかねない。
聡介は何度か管理官にかけ合ったが、結局こうしてミラー越しに様子を窺うことしかできないでいる。
何とか彼が圧力に負けて、やっていないことをやったと言わされる前に、真犯人を捕まえなければならない。
聡介は隣に立っている和泉の横顔を見た。
「……彰彦、お前はどう思う?」
「共犯っていう線を除けば、富樫はシロですよ」
「共犯?」
「ああは言っていますが、実は結婚を迫られていたのだとしたら?」
「どうだろうな? 俺もタレント事務所の方に話を聞きに行ったが、確かにガイシャはなかなかの野心家だったようだ。いずれは再び東京に出て名を売りたいようなことも言っていたらしい。となると、不倫相手についてはやはり、一時的な遊び相手ぐらいに思っていたんじゃないのか」
和泉は考え事をする時の癖で、こめかみを人差し指でつついた。
「富樫の方が本気になったと考えるのも、少し無理がありそうなんですよね」
「動機ってことか……動機なら、やはり夫を寝盗られた本妻の方にありそうだな」
聡介が言うと、和泉は弾かれたように顔を上げた。それから、
「実を言うと、少し気になることがあるんですよ。富樫の妻は、元々同じコールセンターで働いていて、ガイシャとも顔見知りだったという話ですよね?」
「……そうだな」
「自分の夫が浮気をしている、相手は元の職場の同僚だった」
「知らない相手でも別れろって乗り込んで行くだろうが、知っている相手ならなおのこと、手を切れって言いに行くだろうな」
「ガイシャと顔見知りで、充分な動機を持つ人間。それは誰か?」
「……富樫の妻、富樫麻衣子か?!」
現場には争った跡がなかった。
だから、顔見知りの犯行と思われたのだ。
「話を聞いてみる価値はありそうですよ」
「行ってみよう、彰彦」
聡介は取調室に背を向けた。
「僕でいいんですか? うさこちゃんは?」
「……大詰めの時は、お前と一緒だって相場が決まっている」
すると和泉はにっこり笑って言った。
「今日の日経平均株価は、きっとバブル以降最高値ですよ」




