シルバーグレイは振り向かない
「……おい……」
「な、な、何なんですか?! あれ!!」
「落ち着け。いちいち腹を立てたり悲しんでいたら、身が持たないぞ」
行こう、と聡介は立ち上がる。
事件当日相川が日本にいなかったかどうか裏をとらなければならない。
それから、被害者の所属していたタレント事務所に怒鳴り込んで行ったという相川も妻にも話を聞かなければならないだろう。
納得がいかないという顔で、結衣はそれでも立ち上がった。
「この仕事をしていたらな、信じられないようなことを言ったりしたりする人間に会うことばっかりだ。気にするな、そのうち慣れる」
「……慣れるのがいいことなんですか?」
聡介は首を横に振る。
「わからない。俺達はただ、事実を突き止めることだけ考えればいい」
少し足早に歩き出した彼の後ろを、白ウサギが一生懸命追いかけてくる。
「次は、相川の奥さんに話を聞きに行くんですね?」
車のキーを取り出して、結衣が言う。
そうだ、と答えて聡介は微笑んだ。
テレビディレクターなんていう華やかな仕事をしているのだから、きっと一等地に建つ豪華なマンションに住んでいるのだろうと思いきや、相川の自宅は郊外の、外壁が黒ずんでいる古い団地の2階にあった。
インターフォンを鳴らすと不機嫌そうな女性の声で応答があった。
警察ですと名乗ると、しばらくしてドアが開いた。
「相川清美さんですね?」
そうですけど、と困惑気味に答えた女性の足元には、幼い少女が立っていた。目をくりくりさせて来訪者を見つめている。
「あっち行ってなさい」幼い少女は母親に命じられて、襖の向こうの部屋に消える。
上がってください、と相川清美は言った。
「いえ、すぐに失礼しますので」
「近所の目があるんです」
聡介は靴を脱いだ。結衣もそれに倣う。
そして中に入ったはいいが、足の踏み場がないほど物が散乱していた。
「あの事件のことでしょう? 川辺都の」
上がれとは言ったものの、立ったまま話をさせるつもりのようだ。
「確か、3日前の夜ですよね? アリバイならありません。私、この子と2人でここにいましたから」
刑事が来ることを予測しての回答のようだ。
「誰かが訪ねてきたとか、そう言ったことはありませんでしたか?」
「ありません。でも、私は殺していません」
相川清美は強い口調でそう言った。
「どうせいろいろ調べて来たんでしょう? ええ、確かに以前、あの女がうちのと浮気しているって聞いて、頭に来て事務所へ訪ねて行ったことはあります。でも、今はもう別れたらしいし、だいいち……そんなことをしたら、向こうの思うツボだわ」
「それはどういう意味ですか?」
それは直感だが、彼女はシロだ。聡介はそう感じた。
「だって、私が人殺しになったら、あいつは私と離婚する立派な口実を得ることになるでしょう? 慰謝料も払わなくていいだろうし、養育費だって……」
「ちょ、ちょっと待ってください、どうしてそんな話に?」
驚いた結衣が口を挟む。
相川清美は盛大な溜め息をつき、
「今は、相川には別の愛人がいるんです。その女と結婚したくて、私と別れたがっているんです。でもそんなこと絶対に認めない」
それに、と彼女は続けた。「あの子を人殺しの娘にだけはしたくないんです」
きっとこの女性は夫の女性関係や、日々の生活のストレスに苛まれているのだろうと聡介は思った。
表情を見ているとそれがわかる。
ただ可愛い娘の為にだけ、精一杯生きている。そんな感じがした。
彼女から聞くことはもうないだろう。
聡介は礼を言って、結衣を促して外へ出た。
外に出てふと何気なく上を見ると、窓から相川清美の娘が階下を見下ろし、手を振っていた。聡介も笑顔で手を振り返す。
不意に、隣で溜め息が聞こえた。
「……なんか、今どきの夫婦って……何なんですかね? あそこの夫婦だけが特殊なんでしょうか?」若い女性刑事は車の鍵を振り回しながら言った。
「夫婦の間には、外からはわからない複雑な事情があるもんだ」
すると結衣は意味ありげな視線で聡介を見つめてきた。
「……高岡警部のところも、そうなんですか?」
「……」
「あ、ごめんなさい……」
「昔のことだ」
そう、もう過去の話だ。
そして過去は振り返らないと決めた。




