県警捜査1課強行犯係所属の愉快な仲間達
こんなに2時間ドラマがみたい、という発想で書きました。
昭和レトロな香りがします……きっと。一応、舞台は広島県となっています。
その夜、和泉彰彦は家のドアを開けた瞬間に愕然とした。
仕事を終えて家に帰ったら、家財道具が一切消えていたのだ。
空き巣に入られたのかと一瞬思ったが、そうではないとすぐに気付く。自分の預かり知らない内に引っ越しされていたのだ。
床の上にポツンと白い封筒が残されていた。
拾い上げて中を確かめると、離婚届とともに一枚の便箋が入っている。
『あなたと一緒にやっていく自信がありません』
「……」
もしかしたらいつか、そんなことになるんじゃないかと思っていた。
あまりにも家庭を、妻をほったらかしにしすぎたのだと気付いてももう遅い。
次の部屋を見つけるまでどうしよう。
今まで住んでいたこのマンションは妻の名義で購入し、資金も彼女の両親がほとんど負担してくれていたので、実質的に和泉は妻と共に住むところも失くした訳だ。
広島県警捜査1課に勤務する和泉彰彦警部補は、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出し、父親の携帯電話番号に発信した。
『彰彦? どうしたんだ』
父親と言っても、血のつながりはない他人だ。正確には実の父親のように慕っている職場の同僚であり大先輩である。
「……聡さん……逃げられました」
『何だって?! そんな訳ないだろう、お前が自分で手錠を掛けた……』
「容疑者じゃありません、妻にです」
『……え?……』
「さっき、家に帰ったら誰もいなくて……荷物も全部消えてて……」
『ちょっと待ってろ、すぐそっちに行く』
いつかこんな日が来ると思っていた、と高岡聡介はずっと以前から思っていた。
しかしまさか『その日』が、こんな形で来るとは予想外だったが。
がらんとした家具も何もない部屋。
モデルルームに足を踏み入れた訳ではない。
つい昨日まで、人が住んで生活していた部屋だ。
フローリングの床の上に呆然と突っ立っている息子の背中を見つめながら、聡介は何と声をかけたものかしばらく悩んだ。
だから言っただろう、とかお前が悪いんだ、などとは決していえない。
たとえ瀬戸大橋を支える支柱並みに図太い神経の持ち主であるこの男だろうと、一応は人の子だ。
この状況に感情をかき乱されて、きっと深く落ち込んでいるに違いない。
その考えがおおいに間違っていたことは次の瞬間、すぐに明らかになった。
「しばらく、聡さんのところで居候させてもらっていいですよね?」
振り返ってそう言い放った息子の顔は、予想に反して明るく、さっぱりしていた。
「何を思ったか、僕の荷物まで全部運び出されてるんですよ。さすがにこれじゃ生活できないし、僕だって固いソファーとか道場のせんべい布団じゃなくて、たまにはちゃんとした布団で寝たいですからね」
「……」
「あれ、ダメですか? 僕がいると彼女をお家に呼べないとか……いたっ!!」
思わず手が出てしまった。
「なんでですか? ちゃんと家賃も、他にかかる費用も払いますよ」
「彰彦……」
「はい?」
「お前、この状況でどうしてそんなに落ち着いていられるんだ?!」
「だって、慌てて騒いだってどうしようもないじゃありませんか」
「そういう問題じゃない!!」
ダメだ、この男とまともに向き合っていると血圧が上がる。
落ち着こう。取り敢えず深呼吸をして……。
「いいか、彰彦? お前、今のこの状況を冷静に分析して俺に報告してみろ。普段から仕事でいつもやってることだよな?」
息子はきょとんとした眼で少し考えた後、
「えーと、今日は南区で起きた強殺事件の捜査本部が解散して、午後5時から捜査1課の刑事部屋で祝杯を上げて、それから報告書をまとめて退庁したのが午後8時半。本部ビルから歩いて10分ほどの距離にある自宅に約3週間ぶりに戻ったら、いるはずの妻が不在で、家財道具一切も持ち去られていました。現場に残されていたのは離婚届とメモ書きが一通。記載されていた内容は『あなたとはもう一緒にやっていけません』です。びっくりしたので聡さんに電話をかけて来てもらいました。以上です、高岡班長」
聡介は思わず頭を抱え込み、座りこんでしまった。
「聡さん? 言われた通りにしましたけど」
なおも不思議そうな表情で、息子も床の上に膝をつく。
「……この状況から読み取れる事実は何だ?」
「要するに、僕が奥さんに逃げられたということです」
「わかってるんなら、もう少し動揺しろ!!」
「いやでも、聡さん。動揺って、しろって言われてできるものじゃ……」
違う。問題はそこじゃない。
しかしこの男にそんなことを言っても仕方がない。
「まぁ、仕方ないじゃありませんか。向こうがもう一緒にやっていけないっていうんだったら、僕には引き留める術もありませんよ。いつかこうなるだろうとは思っていましたけど、それがたまたま、今日だったというだけの話です」
まるで他人事のように言う。
聡介にはこの男が何を考えているのか、未だに理解できない。出来るとも思っていないけれど。
「それはそれとして、さっそく今夜から困るのは僕の方ですよ。一夜にして宿なしになった訳ですから。聡さんのところでしばらく居候させてもらっていいですよね?」
まさかダメだなんて言いませんよね? と言外に匂わせている。
「じゃ、さっそく行きましょう。いやー、似たもの親子だと思ってましたけど、こんなところまで似るなんてね」
「一緒にするな! 俺はお前と違ってまともな人間だ!!」
「いいじゃないですか。これで晴れてバツイチ父子ですね。独り者同士、仲良くしてくださいよ……聡さん?」
なんでお前はそんなに嬉しそうなんだ?!
そう思ったが黙っていることにした。
広島県警捜査1課に勤務する高岡聡介は、高校卒業後すぐに警察組織に奉職してから約35年、刑事畑一筋でやってきたノンキャリアのベテラン刑事である。
県内でいくつかの所轄の刑事課に勤務した後、つい昨年階級が警部に昇進したと同時に捜査1課に異動となり、強行犯係の班長の立場を得ることになった。部下は5名。
その内の1人が、和泉彰彦という名の刑事である。
彼は聡介が県内東部の尾道東署刑事課にいた時、新人として入ってきた後輩である。
その時、上司から和泉の教育係を命じられた聡介は、長い間彼とコンビを組んであらゆる事件を解決してきた。
血のつながりはないが、互いに実の親子以上の絆で結ばれていると思っている。
聡介が捜査1課に異動となったと同時に、和泉も同じ部署への配置換えとなり、実質部下の一人となった。
聡介は仕事が好きだった。
刑事の仕事に誇りも持っていた。
だけど、そのせいで多くのものを犠牲にしてきた。この仕事を選んだことを後悔はしていない。
ただ、もう少し器用に振る舞えたら良かったのだろうかと、時々は考えてしまう。もう手遅れだけれど。
ところで、聡介自身も久しぶりに戻った自宅は案外綺麗だった。
前に掃除をしたのはいつだったかというぐらい、はるか昔のことだが、何しろ人がいないのだから埃も立たない。
広島市内の県警本部のある場所からほど近くにあり、一人で住むには少し贅沢すぎる3LDKのマンションは、しばらく娘と2人で住むつもりで購入したものだ。
聡介には双子の娘がいる。
妹の方は高校卒業後、早々に尾道市内で飲食店を営んでいる同級生の元へ嫁いで行ってしまった。
姉の方は高校を卒業した後、しばらく聡介と一緒にこのマンションで暮らしつつ、広島市内のデパートで働いていたが、彼女も2年前に尾道市内で暮らす男の元へ嫁いでしまったので、この広いマンションに一人で住むことになってしまった。
聡介には妻はない。
世間一般では彼のことをバツイチというのだろうが、内情は少し違っていた。
協議離婚でもなければ、和泉のようにある日突然出て行ってしまわれた訳ではない。
彼女は聡介を裏切って他の男と密通し、そうして行方不明になった。
遺体が上がらない状態を行方不明というのだと彼は考えている。
かつて妻だった女性が姿を消してから7年が経過した。法律的には死亡とみなされ、聡介は再婚の自由を得た。
上司や周りの同僚は再婚を勧めてくるが、彼はいつも首を横に振ってきた。
娘達はもう大人だし、トラブルの原因になりそうな財産などはない。 しばらくは一人でいようと決めた。
女性に対する不信感かと言われたらそれもあるだろうが、妻のことに関して自分にまったく非がないとは言い切れない。
もっとしっかりと家庭を顧みていれば、きちんと妻と向き合っていれば。
仕事と家庭を両立させることができている刑事もいる。
言い訳かもしれないが、自分はたぶん夫にも父親にも向いていない人間だったのだ。
そして実の息子のように思っているこの和泉彰彦という男もまた、家庭に向いていない人間だったのだろう。
彼も相当な仕事中毒であった。
たいていの女性が大切にする結婚記念日も、妻の誕生日も、自分の誕生日も何もかも忘れて仕事に打ち込んできた。そのおかげで何度となく表彰され、昇進もできた。
県警最強コンビと言われた二人の刑事は、家庭に戻るとただのダメな夫であり父親だった。
和泉の場合は、子供がいないだけマシだったかもしれない。
それにしても、妻に逃げられてどうしてこんなに平気そうな顔でいられるのだろう。
基本的に理解不能な男だが、今が一番よくわからない。
和泉には身内と呼べる人間はいない。
幼い頃に父親を亡くしており、母親がたった一人で育ててくれた。
その母親もまたつい3年前、病に倒れて帰らぬ人となった。
唯一の家族となった妻にも去られて、彼はついに独りきりになってしまった訳だ。
実家と呼べる家もなく、今まで住んでいたマンションは妻名義で借りていたものだったから、本当に何もかも失ってしまった。
そう考えると可哀想な気もする。
いっそのことずっと和泉と2人で暮らすのも悪くないか。