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三日夜の魔魅

作者: 江馬 百合子

―――一日目


 細い、細い、お月様。


 どうか、哀れとお思いならば、


 どうか、私を連れ出して、


 そちらの世界へお連れになって。


 


 三日夜の魔魅


 


 いくら、月に願おうとも、そのような願いが叶うなどとは、少女は、はなから考えていなかった。

 家を捨て、身一つで逃げ仰せるわけにはいかない、ということも、わかっていた。

 入内前の娘子が、入内前に逃げ出したなど、自分のせいで、家中の者達が世間の物笑い草となってしまうのだ。

 勿論、それだけでは済まされまい。天子様の顔に泥を塗ることになるのだ。家中の者が死罪となる可能性さえ、決して低くはない。

 そのようなことが、少女にできるはずはなかった。

 自分のような者を、ここまで養い育ててくれた。

 それが、情から来るものではなく、世間体を気にしてのことだったのだとしても、その恩を、忘れるわけにはいかない。

 しかし、少女は、知っていた。

 自分は、これ以上狭い世界では生きられない、ということを。

 故に、こうして祈るのだ。

 私を、自由にしてください。

 私は、まだまだ広い世界が見たいのです、と。

 叶うはずのない願いばかりが繰り返される。

 そうして、眠れぬ夜を明かすのだ。

 それも今日で四日目となる。

 入内は、三日後まで迫ってきていた。


「藤、まだ起きていたのか」


 静かに障子を引きながら部屋へと入ってきたのは、白髪混じりの初老の男だった。

 歳をとってはいるものの、その仕草や佇まいから、聡明さ、有能さが窺える、そんな男であった。

 少女、もとい藤は、すっと振り返る。

 まるで、初めからその男の登場を予知していたかのように。


「父上様こそ、こんな遅くにどうされましたか?」


 その声音には、先程の憂いは一欠片も残っていなかった。

 表情すら、まるで、先程とは別人の様。

 穏やかに、にっこりと微笑んでいる。

 月影に照らされたその笑顔は、何とも言えず優美であった。

 父と呼ばれたその男もまた、その笑顔につられたかのように、にっこりと微笑んだ。


「お前が、眠れていないのではないかと思ったのだ。案の定、のようだな」


 父のその言葉を聞いた藤は、一瞬、表情を影らせたが、すぐにまた先程の笑顔を貼り付けた。


「その様なことはございません。ただ、今宵のような三日月も、なかなか風情のあるものだなぁ…と思いまして。ついつい見惚れてしまっておりました」


 確かに、その晩の月は、その細さにも関わらず、不気味なほどに明るく世を照らしていた。


「…それなら良いのだが。ただ、入内前に体調を崩してしまってはことだ。もう休みなさい」


 明るい月影に見送られ、男は障子の向こうへと消えていった。


「…はい、父上様」


 藤のその言葉を聞き届けたものは、ただ、ただ、明るい月光だけだった。


「成る程、お前が藤か」

「……え?」


 あまりの出来事に、藤は空いた口が塞がらない。

 父の帰っていった今、この部屋にいる「人」は、藤だけのはずなのだから。

 何故、この部屋の窓に、見知らぬ男が悠々と腰掛けているのか。


 入内のこともあり、藤の家の警備はここ数週間、いつにもまして厳重だ。

 まして入内を三日後に控えている今、藤に会うことが出来るのは、父と母、そしてお付きの女房、この三人だけだ。

 それこそ、鼠一匹この部屋へ近づくことはできないはずだった。


 呆然としている藤が余程面白かったのか、その男は、くくっと、喉を鳴らして笑った。


「藤…この京では非常に高貴な花とされる、藤花からとった名だそうだな。こう言ってはなんだが、ここまで名前負けも甚だしい例を見たのは初めてだ」


 この言葉を聞いて、藤は我に返った。


 この男、今なんと言った…?


「貴方が何者かは存じませぬが、その程度の身分の者に、私の容姿をとやかく言われる覚えはありません!それに、初対面の女に向かってその言い草はあんまりではありませんか!?教養のなさもやはり身分相応なのですね!」


 元来、藤は人の身分など全く気にすることはない。

 しかし、この男に何かを言い返そうと思い、欠点を探したところ、そこしか見つからなかったのである。

 容貌、容姿、共にここまで整った殿方を見たのは初めてであった。

 幸い、見たところ男の身分は自らの父の身分よりかなり下であったため、このような返しをすることができたのだが。


 それも束の間、男は耐えきれなくなったかのように、声を立てて笑い出したのだ。

 その笑い顔にまた唖然とする藤。


『何故罵られて笑うのだろう…』


 その藤の疑問は至極当然と言える。


『…なんだか、危ない人かもしれない…』


 その考えもやはり真っ当なものだった。


『そうだ。いつの間にかこの男の雰囲気に流されてしまっていたけれど、言い合いをしている場合ではないわ…』


 ようやく、そこまで考えの至った藤であったが、なんだか、必要以上に騒ぎ立てる気にはなれなかった。


「貴方は、何者なのですか?」


 声を立てて笑い続けていた男だったが、この問いを聞くと、待ってましたとばかりに不敵に笑い、


「俺は、月の使者だ」


 堂々と、そう言い放った。



―――二日目



『昨晩は、実は眠っていたのかも…ここ最近はろくに寝ていないし…』


 藤は、昨晩よりも更に細くなった月を眺めながら、そのようなことを考えていた。


 あの後、なんと言葉を返せばよいのやらと戸惑っていた藤を尻目に、男は、


「まぁ、今日のところは挨拶に来ただけだ。この辺でおいとましとくか」


 そう言って、すっと立ち上がり、窓の向こうへと消えていった。


『ただ、夢でないのなら、あの方は、本当に月からやって来たのかもしれないわ…』


 昨晩からずっと考え続けて出した結論だった。

 実際、警備の厳重さを鑑みれば、それが最も合理的、かつ現実的な結論だと言えた。


「いつ見ても、難しい顔をしているのだな」


 …藤はもう、驚かなかった。

 昨晩の口ぶりからすれば、今晩来てもおかしくはないと、心構えをしてあったためである。


「まぁ、私にも何かと事情があるのです」


 窓辺に座る男に、藤はそう答えた。


「本当に可愛げのない女だ。どうやら、噂は本当らしい。…ときに、事情とは?」


 月の使者を名乗る男は、あくまで藤に突っかかるつもりらしい。

 藤にしても、腹が立たないわけではなかったが、結局、不毛な言い争いをしても仕方が無い、という結論を下したようだ。


「私は、二日後に入内しなければならぬのです」


 月からの使者になら、何を話しても大丈夫だと、そのように考えてしまったのかもしれない。

 平時なら、口が裂けても言えないようなことを、藤はさらりと述べてしまった。

 これには、月の使者も驚きを隠せないようで、目を見開いている。


「入内とは、天皇陛下の室に入るということではないのか?どのような娘子であってもその地位に憧れるものだろう。…お前は、それを気が進まぬと言うのか?」


 使者の言う通りだった。

 入内すれば、自らも華やかな宮廷生活を送ることが出来る。

 その上、その一族までもが政治的な発言力を得る。

 まさに、誰もが羨む地位と言えよう。


「それでも、私は、あのような狭い世界では生きられぬのです」


 何故、出会って間もないこの死者に、そのようなことを打ち明けてしまっているのか…それは、藤本人にすらわからなかった。

 ただ、一度打ち明けてしまえば、もう、止まらなかった。


「私は…もっともっと、広いこの世界を見ていたかった。その世界の中で、私は、自由に生きたかった。山も、川も、丘も、林も、森も、海だって…世界には、もっと沢山の美しいものがあるはずなのに。何故、私があのような狭苦しい宮中になど押し込められねばならぬのか…!」


 涙を流す藤に、使者は驚きを隠せないようだ。

 落ち着いたふりをしてはいるが、実際、目のやり場に困ったかのように、おろおろと視線を彷徨わせていた。

 その様子が、あまりにも平時とかけ離れていて可笑しかったのか、藤は涙を流しながらも、少しだけ、口元を緩ませた。


 それを見た使者は、少し安心したのか、また先程の様な悠々とした態度に戻ってしまった。

 藤にはそれがとても残念なことのように思われたのだが、それが何故なのか、このときには、まだ本人にもわからなかった。


 漸く調子を取り戻した使者は、優雅に足を組みながら、こう切り出した。


「それでも、ここを逃げ出さないのは、父への贖罪のつもりか」


 まさに、青天の霹靂。

 何故わかったのか。

 藤の言わんとすることを察した使者は、哀れむ様に笑った。


「お前、知らないのか。お前のことは随分と前から京中で噂になっているのだが。

『女子の身でありながら、男の様な格好をし、毎日の様に屋敷を抜け出し、山河に遊ぶ娘がいるらしい。その娘の父は、その娘のおかげでひどく恥をかいており、また、その娘が帰らぬときは、自ら探しに出向かなければならぬという、大変な苦労人らしい』

 まとめれば、こんなところか。俺も、その噂を聞きつけ、面白そうな娘がいたものだと思い、遥々この世界にやってきたのだが……おい、聞いているのか?」


 藤は、それどころではなかった。


『噂になっていた!?それも京中で…!それでは……』


「私がここを逃げ出さなくても、既に家中の者は、世間の物笑い草となっていたのですね…」


 やりきれなかった。

 いても迷惑、いなくなっても迷惑、とは。

 自分は、一体どうすれば良いのか。

 藤は、また、顔を覆って泣き出してしまった。


「…何故そのように泣くのだ…」


 使者は、自分の発した言葉がここまで藤に衝撃を与えるとは思っていなかったのだろう。

 先程のことで若干免疫ができていたにしても、やはり困惑してしまっていた。


 小さな体を更に小さくしながら、震えるように泣き続けるその姿は、誰が見ても痛々しい。

 その上、その原因は他ならぬ自分にあるというのだから、彼女を見ている使者まで、なんだか悲しくなってしまっても、なんら不思議なことではなかった。


「…すまない。無神経なことを言った」


 なんとか、泣き止んでほしい。

 しかし、藤の返事はなかった。


「…おい、藤」


 呼びかけてみても、やはり返事はない。

 あまりに細い月影に照らされた藤の姿は、あまりに、儚く。

 ぼんやりと浮かび上がったその姿は、そのまま消えてしまいそうだった。


「…藤」


 使者には、どうしても彼女をそのまま放っておくことは、できなかった。

 ふわりと窓枠から舞い降りると、音もなく藤へと近づく。

 その身のこなしは、やはり、人のものにしては、あまりに優雅だった。

 どんな高貴な身分の者でも、このような立ち振る舞いは出来るものではない。

 揺れる衣のさらさらという音が、使者の姿を、一層美しく魅せていた。


「…もう、泣いてくれるな」


 そう言うと、藤の目の前にあぐらをかき、その手をとった。

 驚いたのは藤の方だ。

 突然、目の前に使者が現れ、その上、手をとられたのだから。

 だが、嫌ではなかった。

 むしろ、何故か有難かった。

 自分の中の溜め込み続けて汚れてしまったものが、触れている手の部分から少しづつ浄化されていくような、そんな、不思議な感覚を覚えた。

 いつの間にか、涙も止まってしまっていた。

 使者は、僅かに頬に残る、彼女の涙を拭い、優しく微笑んだ。


「お前は入内を嫌がっていたが、しかし、お前が父に報いたいと思うのなら、それより他、道はないように思われるのだが」


 確かに、その通りだ。


「はい、私が入内すれば、家の者達も厄介払いができます。それから…何より…私のせいで盲目となってしまった、父の地位を支えることができます…」


 使者は、何も言わなかった。

 ただ、静かに藤の手を握っていた。


「…何も尋ねないのですね」

「俺を誰だと思っている。月の使者にはその程度のことはお見通しだ」


 それを聞くと、藤は安心したように笑った。

 語るのも、憚られるのだろう。


「私は、ひどい娘でした」


 それは、彼女の人生全てを悔いるような、否定の意しか含まない言葉だった。


「そのようなことは、ない」


 その言葉を、使者はあっさりと切り捨てた。


「お前の父はお前を恨んでなどいない。お前は、ひどい娘などではない。お前が、悔いるようなことは、何もないのだ」


 何の根拠もないように思われる、その言葉に、藤は、救われたような気がした。


「何故、そのようなことがお分かりになるのですか…?」


 かつての、幼かった頃のような笑顔をたたえながら、藤は、戯れに問うてみた。

 すると、やはり使者は不敵に笑いながら、


「俺を誰だと思っているのだ。…まぁ、お前にも、いずれわかるさ」


 そう言って、去ってしまった。


「私にも…?」


 一欠片の、疑問を残して。



―――三日目



 揺れる枝に、たわむ幹。


「父様!助けてください!」

「藤!そこを動くなよ!」


 頂上まで登り切れば、空に手が届くのだと思っていた。

 だが…


「あっ…!」

「……!藤!!」


 目の前には、地面。

 空なんて、どこにもなかった。

 そして、次の瞬間。

 両目から血を流しながらも、安心したように微笑む父が、眼前に現れた。

 その傍には、赤く染まった太い枝。

 …先程まで、自分が座っていた枝だった。


「良かった…無事か、藤」


 父の腕に抱かれながら、私は、ただただ泣いていた。


 …――どうして、今更こんな夢なんて…


「……?夢……?」


 寝ぼけた頭では、思考がなかなかまとまらない。


『先程までは、真っ赤な夕日が…』


 そこで、ようやく意識がはっきりとしてきた。

 どうやら、いつの間にやら眠ってしまっていたようだ。

 辺りはすっかり闇に覆われてしまっている。

 月を探してみたものの、見つからない。

 どうやら、今宵は新月らしい。


『どうして、今になってあのような夢を見たのだろう…今宵が、新月だから…?入内が、明日に迫っているから…?それとも、あの使者様に会うようになったから…?』


 いずれにせよ、藤にしてみれば、傷口を見事にえぐられた形となる。

 決して触れたくない、過去の古傷だった。


 …藤の父は、本当に有能な人物だった。

 現在の天皇陛下の御父上に当たる方、ひいては現上皇様に仕え、その方から、「息子のことも頼んだぞ」と、そのように頼まれる程だった。


 だが、盲目となってしまっては……


 今現在は、天皇陛下の強い要望もあって、まだ以前と変わらぬ地位を保ったまま宮中に御仕えしているが、それも、時間の問題だろう。


 藤にとっては、この入内は、罪滅ぼし以外の何物でもなかった。

 そして、それが自分に課せられた使命であるとも感じていた。

 しかし、ここ最近は、何故か、その意志が揺れてしまう。

 ここから逃げ出したい、と、そう思ってしまう。

 そして、また、それはできぬことだと自ずから打ち消す。

 寄せては返す、まるで、波のような、落ち着かない心境であった。


『…できることなら、使者様と共に、今は見えないあの月へ…』


 そこまで考えて、藤は、はっと我に帰った。


「私は、今何を…」


 頬に手を当ててみる。

 とても熱い。

 胸の辺りが、なんだかこそばゆい。

 何なのだろう…この感じは……

 まさか……


「…病?」


 そうだ、きっとそうに違いない。

 ここ最近はあまりにも眠らなかったため、父上様の危惧しておられたように、体調を崩してしまったのだ。


「明日に備えて、今日は早く寝てしまおう」


 立ち上がり、振り向いた、瞬間だった。


「先程から、赤くなったり青くなったり、忙しい奴だな。なんだ、今宵はもう休むのか」


 目の前に、例の使者が現れた。


「きゃあ!」


 かつてない取り乱しようだった。

 使者も、何事かと目をぱちくりさせている。


「おい、どうした」


 一歩近づけば、


「こ、来ないでください!」


 一歩下がる。


「一体なんだと言うのだ」


 使者は、全くわけがわからぬ、と言った風情だ。

 そんな顔をされたところで、藤にだって、わけがわからぬのだから仕方が無い。


『何故こんなに顔が熱いの!?何故こんなにこそばゆいの!?』


「と、とにかく、今日は体調があまり優れぬ故、明日に備えて早く休むのです。父上様からも、明日は早いからなるべく早く休むように、と、そう言われておりますので!」


 なんとか、平常心を保っているように見せようと努めるが、


「確かに、少し顔が赤いな。見せてみろ」


 それは逆効果だったようだ。


 本人に悪気はないのであろうが、藤にしてみれば、元凶がそのまま近づいてくるようなものである。


「い、いえ、だ、大丈夫ですから!」


 顔の前で両手を振りながら後ずさるが、背後には壁。

 逃げ場はどこにもなかった。

 一方使者はといえば、


「本当に、今日はどうしたのだ」


 呆れたように、藤に近づき、その顔を覗き込んだ。

 勿論、藤にその顔を直視できようはずがない。

 ぎゅっと、固く目を瞑り、何とかこの場を凌ごうと必死だ。

 その様子を見た使者は、漸く合点がいったようだ。


「そうか、わかった」


 そう言うと、藤から離れ、例の窓へと近づいて行く。


「入内を控えた身で、他の男に近づかれるなど、迷惑千万。俺の考えが足りなかった。許せ」


 そう言うと、窓枠に、手をかけた。


「あ……」


『…行ってしまう…月の世界へ、帰ってしまう……私を、置いて』


 体が、勝手に動いていた。


「……!おい!」


 藤は、その背にしがみつきながら、


「…行かないでください!」


 必死で懇願していた。

 何故、そんな馬鹿げたことをしでかしたのかは、自分にもわからなかった。

 ただ、彼に置いて行かれるのだけは耐えられなかったのだ。


「…行かないで……お願い…」


 初めは驚いていた使者だったが、その目の色は、段々優しげなものへと変わっていった。

 窓枠から手を外し、藤に向き直り、ゆっくりと、抱きしめる。


「本当に、何なのだ、お前は」


 呆れたように、笑いながら。


「…私にもわかりません。…なんだか、顔が熱いのです」


 それを聞くと、使者は目を見開き、口までぽかんと開かれ、全く、心ここに在らず、と言った様子となった。

 しかし、抱きしめられている藤には、その表情を確認することはかなわなかった。

 ただ、身を任せるだけである。


「お前、それは…」


 言いかけて、やめた。


「やはり体調が優れぬのだろう。今日はもう休め」


 そう言って、藤を寝所に連れて行こうとするが、


「…嫌です」


 藤はしがみついたまま、びくともしなかった。


 使者は、そんな腕の中の藤を愛おしげに見つめると、思わず、その頭を撫でた。


「お前が眠るまで、側で見ていてやるから」


 言うと、藤も納得したのか、


「それなら、仕方が無いですね」


 使者を見上げ、嬉しそうににっこりと笑った。

 藤が横になっている枕元に、使者は優雅に腰掛けている。

 時折、藤の長い髪を弄びながら。


「…もし、俺がお前を『一緒に月まで来ないか?』と誘ったら、どうする?」


 藤は、ぱちぱちと目を瞬かせると、柔らかく微笑んだ。


「心が揺れない、と言えば嘘になりますけれど、やはり私は、入内します。私は、どのような運命からも、逃げません。貴方様を、逃げ道には、したくありません」


 その顔は、心の底から晴れがましかった。

 使者も、その言葉を聞けて、この上なく満足そうに笑った。


「ときに、今宵は新月ですが、月がなくてもこの世界に渡って来ることが出来るのですか?」

「まぁ、月がなくなるわけではないからな」

「貴方様は、どうして私を訪ねて来られたのでしょう」

「奇異な娘に興味を持ったまでだ」

「…父上様は、私のことを…」

「…心配するな」

「…最後に。私のことを、どう思われますか…?」

「…聞くな」


 その言葉を最後に、藤の意識は途絶えた。

 入内前夜の、幸せな『夢』だった。



――――……



「藤!準備は出来ているか!」

「はい!父上様!」


 翌朝、いつにもなくぐっすりと眠れた藤は、一番鶏の鳴く前に目を覚ました。

 空になっていた枕元に、一抹の寂しさを覚えなかったと言えば嘘になるが、何故か悲しみは感じなかった。

 未来を前向きに捉えることが出来る。

 家財道具や着物などを牛車に詰めている間も、見たこともないような豪華な衣装を着付けている間も、藤は、決して絶望を感じなかった。

 薄もやのかかるその先には、青い青い、空がある。

 そんな、清々しい心持ちだった。

 そして、とうとう、出立の時がやってきた。


「父上様、どうか御達者で」


 遠目には自分の子とも気づけないであろう、見違えるように着飾った娘を見つめながら、藤の父は、嬉しそうに笑った。


「宮中には、なかなか馴染めぬ事が沢山あろう。馴染めぬ人、馴染めぬ習慣、馴染めぬ環境…しかし、今日からそこが、お前の居場所なのだ。お前なら、大丈夫。どこであろうと、強く、生きてゆける。お前のその心根の優しさに、多くの人が惹かれ、お前の力となってくれるはずだ。だが……辛くなれば、いつでも帰ってきなさい。いつまでも、ここが、お前の帰る家なのだから」


 藤は、ぎょっとした。

 父の閉ざされた双眸から、きらきらと涙がこぼれていたのだ。

 お荷物だった娘を送り出す折に見せるような表情では、決してなかった。

 彼女には、父の真意がわからなかった。

 結局、


「はい、ありがとうございます。ここまで、立派に育てていただき、まことに感謝しております。その恩に報いたく存じております故、しっかりと、この任を果たしてゆきます。それでは、失礼致します」


 このような、通り一遍の、素っ気ない挨拶となってしまった。

 寂しげに娘を見送る父の顔が、藤の視野に入ることは、最後まで、なかった。



――――……



 見上げる空は、どこまでも高く。

 幼い頃にはつかめると信じていたあの青さに、今は苦笑するしかなかった。

 門が、見える。

 あれをくぐれば、もう自らの足で外の土を踏むことはないのだろう。

 そう思うと、地の土でさえ、愛おしく感じられた。

 見慣れた門をくぐると、牛車が何台も並んでいた。

 どの牛車も、色とりどりの花々で飾り立てられており、まるで春の野原のようだった。

 入内のための牛車の装飾にしては、螺鈿も鼈甲も金箔も使用されておらず、藤の身分を鑑みても、素材はお粗末としか言いようがなかった。

 しかし、『これでよかった』と、素直に思えた。

 どんな豪華な装飾品も、この花々にはかなわない。

 強がりではなく、心からそう思える。


『しかし、これだけの花を、一体どこから、どうやって…?』


 これもまた、素直な疑問だった。

 勿論、この場でそのようなことを考え込むわけにもいかないので、藤は、静々と、案内されるままに、最も大きな牛車に乗り込んだのだった。

 すると、目の前に、


「…遅かったな」


『……!!ど、どうして…!?』


 月の魔魅が、現れた。


 男は、予想通りの反応に、愉快そうに笑っている。

 藤の頭は混乱を極めるばかりであった。


『と、とにかく、一度落ち着いて、頭を整理しなければ…』


 案内をしてきた者に不審に思われないように、「ありがとう。ご苦労様、お下がりなさい」と声をかけ、とりあえず、使者と思しき男の前に座した。

 そして、牛車は走り出す。

 車内には、上機嫌そうな男と、眉根を寄せた藤の、二人のみ。

 耐えきれなくなったかのように沈黙を破ったのは、やはり、藤の方だった。


「…説明を、求めます」


 発したのは、その一言だけ。

 しかし、彼女の目が、その質問から逃れることを、決して許さなかった。

 明らかに、怒気を含んでいる。

 世間一般の殿方が見れば、裸足で逃げ出してしまいそうな、静かなる怒りをはらんだその視線にも、その男は殆ど動じていないようだ。

 降参の意を示すかのように両手を挙げながら、しかし、明らかに口元を緩ませながら、釈明の言葉を並べ始めた。


「すまない、騙すつもりはなかったのだ。ただ、此方にも都合というものがあってだな…「それでは」


 たどたどしい話し口に横槍を入れ、


「その都合とやらを、お聞かせ願えますね…?」


 藤は、にこやかに先を促した。

 目が、明らかに笑っていない。

 彼女にしてみれば、男がもっと流暢に話せるように、といった気遣いのつもりなのだろうが、明らかに逆効果だった。


「あ、あぁ…」


 男は、背中に冷や汗が流れるのを、生まれてこの方、初めて感じた。


「まず、俺は、本当は月の使者ではないのだ」


 これは、初めから予想はしていたことだった。


「はい、それはもう予想はしておりました。…それで?」

「…俺が、お前の散々嫌がっていた入内の相手なのだ」


 一瞬、言葉の意味を考えた。

 それから、車内の天井を見つめた。

 そしてまた、男へと視線を戻した。


 相も変わらず楽しそうに笑っているその顔に、藤は心底腹が立ったが、それどころではない。


「え、そ、それでは、私は天子様にあのような……!」


 悔しいやら、恐れ多いやら。

 自分が今取るべき態度がわからない。

 数日前の自分を殴ってやりたい。


『わ、私は…なんという失礼を…!態度もそうだが、何より天子様に向かって入内を嫌だと…!本当に、私は何ということを…』


 このままではいつまで経っても話が進まないと判断した帝は、


「…続けるぞ?」


 こう言って、また話を再開した。

 勿論、天子様の命に逆らうことなど出来るはずもない。

 藤は、居住まいを正し、先程より幾分上品に、その話に耳を澄ませた。


「そもそも、お前の入内の件は、お前の父親が俺に頼み込んできたがために起こったことなのだ。確かにそうすれば、お前の父は心置きなく俺に仕えることが出来ようし、俺も、それを望んでいた。

 妻が何人に増えようと、俺の方に不都合は無し、不都合どころか、お前の父親の地位を保つことが出来るのなら、と俺は二つ返事で了承した。

 しかし、これ程有能な男の娘が、どのような娘子なのか、気になるではないか?俺は、すぐに尋ねてみた。ところが、お前の父親は何だか言いづらそうに口ごもる。これは、何だか訳有りそうだな、と思い、無理に口を割らせたのだ。

 そこで、お前のじゃじゃ馬振りを嫌という程聞かされたよ。いや、笑わせてもらった。…笑えぬ話も、混じってはいたが。

 俺は、思わず聞いた。


『それは、厄介払いなのではないか?』と。


 しかし、それを聞くとあの男にしては珍しく怒りだしてな。


『…例えどのような娘であったとしても、私の大切な、大切な娘です。この度入内をお願い致しましたのも、自らの不注意でこのような体となってしまった私では、あの子の後ろ盾になってやれぬ。そう考えたが故でございます。

 本当は、いつまでもいつまでも一緒にいたい…あの子のあの輝くような笑顔を、もう一度取り戻してやりたい…!ですが、あの事件以降、あの子の笑顔は凍ってしまった。そして、きっと私では、その氷を溶かしてやることは出来ません。

 きっと、他の殿方の元へ嫁がせても、溶けることはないでしょう。それどころか、そのような狭いところへ送り込んでしまっては、あの子の氷は厚くなるばかりです。

 ですが、貴方様の元でなら、きっとあの子はまたかつてのように笑えるはずだと、私はそう信じたのです。

 どうか、あの子をよろしくお願い致します…』


 怒りながら頭を下げるものだから、俺も挨拶に困ったものだ。

 そこまで言われては、俺も断るわけにはいくまい。

 それに、その問題の娘のことも気になった。

 そこで俺は、入内前の三日の間その娘と会わせる、ということを条件に、その願いを聞きいれたのだ。


 身分を偽ったのは、そんなもの、お前の本質を見るために決まっているだろう。

 身分も何も持たない相手への態度が一目瞭然ではないか。

 …と、まぁ、大方こんなところか。

 何か質問はあるか?」


 質問、どころではない。

 涙が、止まらなかった。


「父上様は…私のことを、それ程までに想ってくださっていたのに…」


 最後の最後まで、笑えなかった。

 ろくに、話も出来なかった。

 機会は、いくらでもあったはずなのに。


「私は…自らを不幸だと決めつけ、愛情を疑い、勝手に傷ついて、挙げ句の果てには、本当に大切に思ってくださっていた人をも、傷つけていたのですね…」


 謝ろうにも…


「もう、謝ることも出来ない…」


 後悔しても、しきれなかった。

 そんな藤の肩を、帝は、優しく抱いた。

 ゆっくりと、牛車は進む。


「まぁ聞け。あの男が何故俺にお前を託したのか教えてやる」

「…え?」


『後ろ盾になっていただくためではないのだろうか…?』


「自慢ではないが、俺の宮廷を抜け出す頻度はお前にも決して引けをとらないのだ。自由に、どこにだって行ける。俺にも、お前にも、足があるのだから。お前が父に会いたいと願うなら、いつ何時でも共に行こう。それだけではない。山も、川も、丘も、林も、森も、海だって、どこにだって行ける。連れて行ってやる。

 それどころか、俺達なら、あの空にだって、手が届くはずだ。藤、お前は、いつまでも、自由に飛ぶことが出来る」


 わかるか?

 そう微笑む帝に、藤はやはり涙を止めることが出来ない。

 こんな幸福なことがあるだろうか。

 あの青を、もう一度、追い求めることが、出来る。


「…私は…こんなに幸せで良いのでしょうか…?」


 涙でくしゃくしゃになった顔で微笑む藤に、帝は愛おしげに微笑んだ。


「人は、誰もが、いつかは幸せになるものだ。お前も、俺もな」



 あれ程高い空だって、自由を知る貴方様なら、掴めるのでしょう。


 忘れかけていた青さを、これからは、私も共に。





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