第78話『お元気で』
コップのなかの飲み物がすっかりなくなった頃、屋台にコップを戻して宿屋へと足を進めていた。もう帰っちゃうのかと残念だけど、宿屋でこもっているサディアスのことも気になる。どうせ、お昼もまだなんだろうなと想像がついた。本当に世話がかかるんだ。
クラウスさんはわたしの歩くペースに合わせて隣にいてくれる。しかもわずらわしそうな顔は一切せず、目が合うと笑って応えてくれる。
もし、だよ。クラウスさんと付き合ったりしたら、こんなしあわせな時間がずっと続くのかも。今は離れているけど、手と手が重なったらきっと素敵だろうなと思った。
だけど、宿屋まであと角を曲がればというとき、突然、クラウスさんに強く腕を引かれた。大通りからいきなり路地に入る。クラウスさんの突然の行動にわけがわからない。それなのに、また腕を引かれて、クラウスさんの胸板に頬がぶつかった。
「く、クラウスさん?」
「黙って」
低く押し殺したような声が耳元をくすぐる。太い腕のなかにいた。クラウスさんの固い胸板がわたしの背中に押しあてられている。男らしい手がわたしの唇を覆う。その意味は「しゃべるな」ってことなんだろう。
「追っ手が迫っています」
――えっ? わたしはまったく気づかなかったけど、クラウスさんは危険を察知したらしい。
「フォル、俺がこの手を離したらしばらくここでひそんでいてください。騒ぎが落ち着くのを待って、赤猫に向かうのです。サディアスに追っ手が迫っていることを伝えて、一緒に逃げてください」
「クラウスさんはどうするの?」と口を開こうとしても指が邪魔して、くぐもった声しか出せない。クラウスさんの表情はわからないけど、笑ったような気配がした。
「あなたのことだから俺の心配をしてくれているでしょうが、大丈夫です。絶対にあの連中から逃げおおせますから。それではお元気で」
クラウスさんは言ってから、口を塞いでいた手を離した。同時に背中に感じていたぬくもりも消えていってしまう。
叫びたかったけど、声にならなかった。路地を出たクラウスさんの後から追っ手が現れていた。ここで声を上げれば、相手に気づかれてしまう。わたしは路地の陰に身をひそめた。
クラウスさんが消えてしばらくして、彼の言った通りにしなくちゃと思い直す。赤猫の宿屋に戻り、サディアスに伝えないとならない。そして、一刻も早く逃げるのだ。




