第70話『看板の下』
市場を抜けてもわたしとサディアスはやりとりをやめない。不毛だとはわかっているけど、止まらないのだ。
「で、ウスノロって何なの!」
「ウスノロだろうが、歩くたびにいちいち立ち止まったりして、待つ方の身にもなってみろ」
「あんたこそ、何が『フォル……これがお前が見たがっていた森の外の一部だ』よ。格好つけたりしても全然ダメダメだから!」
「格好つけたわけではない。お前がアホ面をして突っ立っていたから、教えてやっただけだろう」
「誰も頼んでない!」
こんな言い合いをしながらも、気持ちが浮上していくのがわかった。路地で見かけた暗いものが忘れられそうなくらい、心が軽くなった。出会った頃にはすべての悪口にいちいち傷ついていたのに、今では軽く流せる。
むしろ、サディアスを攻撃して心のなかがすっきりするんだから、おかしな感じ。友達もいなくて泣いてばかりだったわたしは、ここに来て大分変わったんじゃないかと思う。
たまにヒートアップしちゃってクラウスさんに言い合いを止められるんだけど、長くは持たない。サディアスのほうから喧嘩をふっかけてくるから、またやり返す。その繰り返し。
街中を歩いて(時折、言い合いもして)いきながら、連なった建物のなかで赤い猫の看板を見つけた。
猫をモチーフにしたものって大体、白猫や黒猫のイメージが強い。赤い猫、店主さんの飼い猫かなあと思っていたら、クラウスさんの足が止まった。ここが目的地なのだろうか。
店の軒先でほうきを持ったおばさんが掃除をしている。声をかける前におばさんの顔が上がった。
「お客さんかい?」
「ええ、部屋は空いていますか?」
クラウスさんが率先して聞いてくれる。話を聞いていると、どうやらここは宿屋だったらしい。看板の赤い猫の下にある文字は宿屋と書いてあるのかもしれない。わたしにはまったく読み取れないけど。
「空いてるよ。男ふたりとそこのおじょうさんで2部屋だね」
「え、おじょうさんって」
今のわたしは男っぽい姿をしているのに、おばさんにはバレてしまったらしい。おばさんは得意そうに胸を張った。
「わたしにゃわかるよ。数年も宿屋のおかみをしてるんだからね。どうせ、わけありなんだろ?」
「ま、まあ、そんなとこです」図星を突かれてどもっちゃうわたしに、おばさんはほほえんだ。
「さあさ、お入り」
おばさんの言葉に甘えて、店のなかに入ることにした。




