第50話『逃げたい』
夜には時を告げる鐘の音はなくなる。特に、神殿内は物音が少なくて、朝まで静かな状態で眠ることができる。
だけど、今夜は目がさえてしまっていた。ネグリジェに着替えたのに眠れない。
明日にはクマになっちゃうだろうなと思いながらも、どうしても眠くない。勢いよくベッドから起き上がり、窓の暗闇に近づいた。
暗闇には月がない。ここは地球ではないから当たり前なのかもしれないけど、変な感じだ。星の数だけはたくさんあって、この世界も宇宙に浮かんでいるのかなと考えたりする。
そこまで遠くのことを考えると、わたしはちっぽけだ。ちっぽけなのに大きな悩みを持っている。同じ悩みを持っていたかもしれないレーコさんの日記は、お城の神子の部屋に置いてきてしまった。だから、読めない。
「あー、もう!」
何でこんなはめになるのか。ようやく神子としてやっていけそうな気になっていたのに、今度は結婚なんて、面倒くさくて考えたくない。黒髪を手で乱す。本当に嫌だ。
――逃げたい。でも、逃げるといってもどこに逃げればいいのだろう。神子としての責任を放り投げて逃げる場所なんてどこにもない。
――もとの世界に? 絶対に無理でしょ。
受け入れるしかない。ベルホルンにいたいなら、結婚してジルベール様の妻になって、ニーナさんの義理姉になる。ニーナさんにいびられるかもしれないけど、退屈しないで結構、面白いと思えるはずだ。
なんて、強がりだ。強がんないとダメだ。しゃがみこんで目に力を入れていないと、涙が出そう。本当に泣きたくなくても涙は出る。
「うっ」
もう泣きたくなかったのにこみ上げてくるものを抑えられない。体を丸めながら嗚咽をこらえていたとき、頭上から何かが窓にぶつかる音がした。
何だろう。そう思って顔を上げたら、窓の外に暗闇があった。よく目をこらしてみると闇に同化したフードが揺れて、誰かの口元がのぞいた。




