表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ピノキオの父殺し[完成版]

作者: 赤松


 息子が、もうずいぶん昔から人間に焦がれてやまないことは知っていた。あれは、いわば人間のなりそこないだ。当の本人は、自分がまともな人の姿をしていないのを――それは同世代の子供なら皆同じことだというのに――まるで自らの致命的な欠点であるように考えていて、人間になりたい、とそればかりをくり返す。だが、私は内心、もうしばらく今の姿でもいいのではなかろうか、とも思っていた。子供に、いつまでも子供のままであってほしい。親心のようなものなのかもしれない。長年、いくら望めども人の親になれなかった……なれようもなかった、私の。


 私があれを授かった過程は、ごく普通の家族とは異なるものだった。もとより、連れ合いに先立たれ、その後誰とも結婚をしなかった寂しい男に、子供などできるはずもなかったのだ。あのじいさんはずっと偏屈な人形職人として、町の片隅で余生を送ることになるに違いない、と人に囁かれたものだが、誰より私自身が、そうなることを疑っていなかった。それを考えれば、あれがちょっとばかり悪さをしていても、未熟な親には未熟な子供が丁度いい、と気持ちの折り合いくらいはつけることも出来るだろう。


 そう、折り合いをつけなければ。来週は、息子の誕生日だ。いくら、普段は腹立たしいことばかりする息子でも、せめてあれの生まれた日くらいは、怒鳴らずに済ませてやりたい。裕福な訳ではないが、少しは蓄えもある。七面鳥は高くて無理でも、いつもは買えない甘いケーキくらい買ってやろうか。

 それから、誕生日といえばプレゼントだ。思えばあれは、何が欲しい、と私にねだることがほとんどない。好き嫌いのはっきりしている質ではあるのだが。去年は本を贈ったが、結局読んでいるところを一度も見たことはなかったから、恐らく教科書の時と同じで遊ぶ金欲しさに売ってしまったに違いない。いったい、あれくらいの子供は何を欲しがるのだろう。

色々と思案した結果、今年は手作りの玩具をやることにした。とは言え、私に作れるものといったら、ほとんど一つしかないのだが。


 人形を、とびきり可愛い傑作を作ってやろう。長らく子供を持たなかった私にとっては、自らの手で作り出す人形たちこそが、愛する息子であり、娘であった。完成した子供には、必ずその靴裏に、しっくりくると思った名前を彫る。それが、独り身の孤独を癒すささやかな自己満足だ。本物の子供がいる今は、可愛い操り人形を贈って、あれに遊ばせてやりたいものだ。

 しかしながら、あれが人形遊びと言うと、ひどく奇妙な遊戯になるかもしれない。息子は、ピノキオは……人間にもかかわらず、まるで人形のような姿をしているのだから。


      ○      ○


「ピノキオ、早くのぼってきな。今になって怖気づいたのかい」


 少年ピノキオは、まるで空から話しかけられたような感覚に陥った。声をかけたオオカミはと言えば、少女ゆえの身軽さも手伝ってか、あっという間に町一番高い一本杉を登っていってしまって、その姿は茂る枝葉の間からほんの少し見えるばかりだ。ピノキオと同じく、オオカミの思い付きに付き合わされる羽目になったネコは、オオカミのいるより数メートル下の枝にしがみついている。運動は得意だが、彼はひどく臆病者で、今も風に吹かれて枝がしなる度に、大きな図体をびくりと揺らしている有様だ。

天高く伸びているこの杉は、そのてっぺんまで登れた者の願いを叶えるという言い伝えがある。真偽は分かっていないものの、この町では有名なその噂のせいで、一時期は多くの子供たちが木登りに挑戦していた。だが、雲に届くという話すらある一本杉は、実際にはとてもとても、子供に登れるような代物ではない。怪我をする子供が続出し、いつしか大人たちは、願いを叶える一本杉には登ってはいけないと、子供に言い含めるようになった。

 ピノキオは不安そうに、木の幹と、自らの木製の手を見比べる。


「木の幹がツルツルしているんだけど、肉球のない僕にも登れるかなあ」

「なあに、登れるさ」

「君らはともかく、僕はもし落ちたらバラバラになってしまうんじゃないかなあ。ねえ、ネコはどう思う?」


ピノキオに話を振られ、ネコはオオカミを一瞥した後に、おどおどと答えた。


「オ、オオカミが……登れるって言うんだから、登れるんじゃないか」


 弱気な発言を繰り返すピノキオに、オオカミが苛立って舌打ちした。


「あんたが一人前の大人になりたいって言うから、“度胸試しの一本杉”に登ることにしたんだろうに。まったく、お前といいネコといい、最近の男は弱腰でいけないねえ」


勝気な少女に発破をかけられたせいもあり、ピノキオは意を決して、太い幹に指をかけた。オオカミの言った通り、一見滑らかに見える木の表面は、近くで見ればゴツゴツとしていて、同じ木でもやすりにかけられたようなピノキオの手とは大きく異なっている。両腕に力を込めて、片足を上げる。長い鼻が邪魔になるから、多少首が痛くてもピノキオは横を向いて登るより仕方ない。ピノキオは改めて、生まれ持った珍妙な鼻を忌まわしく思った。

片足が地面についているまでは良かったのだが、地面を蹴って両方の足が浮くと、途端にピノキオは自分がとんでもなく危険な状況にいて、一歩間違えれば大怪我をしそうな気になってくる。オオカミに馬鹿にされるのが目に見えていたので告白していなかったのだが、ピノキオは生まれてこの方、木登りなどした経験がなかったのだ。彼にとって、体がバラバラに壊れることは死と等しく、恐怖以外の何物でもない。だが今は、それでも死の恐怖に固まる体を突き動かして、何とかこの杉を登らなくてはならないような使命感が、彼の内にはあった。無論、このまま止まっていれば、少女にさらにからかわれるという理由もある。それだけでも、年頃の男の子であるピノキオには耐えがたいことだ。だがそれ以上に、今のピノキオの胸には、自らをも焦がしそうな熱い衝動が渦巻いていた。


(僕は、人間になるんだ。今のまま、変に鼻の長いおかしな人形の姿のまま生きるくらいなら、人間になるために、生き死にくらい賭けたって構わない)


ピノキオは、ごくありふれた少年だった。人間でも、子供の内は人間以外の姿をしていることは当たり前であるし、場合によっては何十歳と歳を重ねても、人間になれない大人もいる。いったい何が子供を大人にするのか、そのきっかけは判然としていない。ある日突然姿が変わり、動物の姿をした子供たちは人間になる。そうなって初めて、子供たちは一人前と見なされる。ピノキオも例外ではなく、いつかそうして大人になるであろう、平凡な少年の一人に違いなかった。

しかし、多くの人間は、ピノキオをごく普通の子供としては扱ってくれなかった。



『ピノキオ、お前というやつはどうして、こんな易しい問題もできないんだ。脳みそがないのか? ああ、人形だから仕方ないか』


ピノキオの脳裏に、学校の教師の嘲笑が過ぎった。


『気味の悪い見た目で生まれたぶん、もっとしっかり勉強して、中身で埋め合わせしようとは思わんのか。長い間子供に教えているが、こんな物わかりの悪いやつは初めてだよ』



普通の子は皆、何かしら動物の姿をしているものなのに、ピノキオは人形という非生物の形をとって生まれてきた。そのことが、教師の目には異端と映ったらしい。何かにつけて、彼はこんな調子でピノキオにとげとげしい言葉を向けてきた。

子供を教え導く立場の大人でさえこうなのだから、学校の子供や町に住む他の大人はなおさら、ピノキオをよく思っていなかった。幾度となく、差別的な視線や残酷な仕打ちにさらされた。

「普通」ではない扱いを受け、心に傷を負った少年は、「普通」の子供よりもずっとずっと強く、人間の姿になることを願うようになった。



ピノキオは、子供を大人にするものは自信なのではないかと考えていた。

大人は落ち着いていて、失敗しない。堂々としている。子供の出来ないようなことを何でもできる。ピノキオの持つ大人のイメージは、大人の実態を知らない子供そのものとも言えるのだが、ピノキオは自分の想像を絶対のものと思っていて、想像するような大人になるためには、自分に自信が足りないのだと考えていた。

大人になるためには自信がいる、自信をつけるには皆が恐れるようなこともやりとげなくてはならないだろう、ならばこの死の恐怖は大人と子供を隔てる壁だ、これを乗り越えれば大人になれるのだ……その思考が、時にピノキオを突き動かし、いつしか無鉄砲な悪童という、周囲の評価を作り上げた。ピノキオは常にひたむきだ。だがそのひたむきさは、周りを冷静に見回すことのできない客観性の欠如と表裏一体だった。


ピノキオが恐怖を切り捨て、さらに杉の木を登っていこうとしたその時、木肌にはりついた彼の背後から怒声が響き渡った。


「まずい、ゼペットのじじいだ!」


下を見下ろしていたオオカミはいち早く逃げ出した。枝が大きくしなり、葉の擦れる音が響く。彼女は一番高い位置にいたにもかかわらず、飛び降りたのだった。一方、飛び降りることを躊躇したネコはかなりもたついたが、ゼペットは真っ先にピノキオの襟首を引っ掴み、木から剥がしにかかったので、幸運にも捕まることはなかった。地面に引きずりおろされたピノキオは、ゼペットの憤懣遣る方ないという表情を見て凍り付く。


「何をやっとるか、この悪たれが。ここの杉は登っちゃいかんのだと、あれほど言ったのをもう忘れたか」


ゼペットの岩のような手がピノキオの頬を張り飛ばした。鋭い痛みがピノキオの頬に走ったが、拳骨でなく張り手を選ぶあたりにゼペットなりの手加減が感じられて、ピノキオは不満げに眉をひそめる。彼としても、なにも好んで殴られたいとは思っていない。だが、自分が一端の大人ではなく、手加減されるべき子供として扱われるのが、背伸びをしたい少年からすれば不快なのだ。そうするのが、彼の親代わりであるゼペットならば、特に。


「やめろと言っても聞かずに、あんな悪童どもと付き合いおって。もっとまともな子と付き合わんか。あのじゃじゃ馬娘の方は特に、町の評判は良くないぞ。学校には行かない、気性は荒いし、手癖も悪い。子供じゃなかったら、当の昔にしょっぴかれているだろうに。あんなのと一緒におったら、お前もいつか悪いことに巻き込まれる」

「まともってなんだ。人の持って生まれた容姿を散々馬鹿にするやつらがまともか。だったら、僕はまともなんてくそくらえだ! そんなやつらに黙ってやられるくらいなら、強いオオカミと一緒に仕返しする方がよっぽどいいや」


 ピノキオが憤って言い返すと、ゼペットは大きくため息をついた。


 「人が親切心で忠告してやっとるのに、愚鈍なやつめ。こんな厄介な荷物になるなら、お前なんてやっぱり引き取るんじゃなかった。お前の父親との縁も早々に切っておくべきだったな」


 ゼペットの言葉に、ピノキオはかっと頭が熱くなった。先程までの、恐怖を振り払う時のような熱さとは違う。怒りに近いが、単純なそれでもない。ゼペットに対しての恨めしさと、胸を締め付けられるような息苦しさを、小さな体で感じていた。まともな肺も心臓もない体が、ゼペットの言葉一つでどうしてこうも苦しくなるのか、ピノキオには分からなかった。そうさせているゼペットに対し、うまくその感覚を説明することもままならず、結局はゼペットを睨み付けるくらいしか、ピノキオにはできない。

 

「僕だって、あんたみたいな人に引き取られるって知っていたら、生まれてこなかった」


売り言葉に買い言葉と、ピノキオは言い返す。今度こそ殴られるかもしれない、とピノキオは身を固くしたが、予想に反してゼペットは、静かにピノキオを見つめただけだった。意表を突かれ、深いグレイの瞳を吸い寄せられるように見つめ返していたピノキオだったが、ゼペットが昔悪くしたという右足を引きずりながら、家へと踵を返してしまったので、慌ててズボンに付いた土を払い、彼の背中を追いかける。問う暇さえなかった。


どうして、そんなに哀しげな目で自分を見たのか、と。



    ○     ○


「いいかい、どんなに普段悪い遊びが過ぎていたとしても、今日は、今日だけは、早く帰るんだよ。君の誕生日なんだからね。ゼペットさんと君が、家族になった日なんだからね。ケーキと、とびきりのプレゼントでお祝いしなくっちゃ」


 昼間家を出る前に、コオロギがそうまくしたてたのを思い出して、ピノキオは顔をしかめた。コオロギは、オオカミやネコと違って、人間の子供がコオロギの姿をしている訳ではない。コオロギとして生まれているし、大きさも子供が掴めるくらいであるし、何よりもう立派な大人だ。彼はとても長生きで、ピノキオが生まれるよりもさらに前から生きている。そのせいか、彼は人間のことを客観的に見ていて、家族だ、愛だ、思いやりだと、人間独特の思想や概念についても、何かにつけては議論を投げかける。加えて、根っからの理想主義者でもあった。それでも、ピノキオの周りにいる友人たちの中では、彼は一番聡明で、まともであると言えた。もし彼が人間の姿をして、ピノキオの友人として名乗り出ることができたなら、さぞかしゼペットを安心させたことだろう。


 ついつい説教がましく、口うるさくなってしまうのが、ほとんど唯一と言っていいくらいのコオロギの短所だ。口うるさく世話を焼くのも、誰に対してもという訳ではなくて、若いピノキオを心配するがゆえなのであるが、当のピノキオはどこ吹く風で、コオロギの言葉を聞き流すことがしばしばあった。

現に今、ピノキオは彼の忠告を無視して、悪い友達二人と共に夜の祭りに身を投じている。この町の祭りは様々な屋台が出て、非常に盛り上がるのであるが、少し人気のない場所に行くと大人たちの裏取引の現場に出くわすこともあるので、子供たちだけで行ってはならないことになっているのだ。表向きは取引の禁止された物品を、秘密裏にやり取りする……子供には伏せられているが、この町にはそんな手段で金儲けをする悪い大人が、そのようなルールができる程度には沢山いる。


しかし、悪名高いオオカミが大人の言いつけを守るはずもなく、彼女はネコとピノキオを連れて、祭り会場の片隅で煙草をふかしていた。


「ピノキオ、あんたも一本吸ってみるかい」


オオカミが、艶々と光る赤銅色の金属の箱から煙草を一本ピノキオに寄越した。先刻まで彼らが通ってきた方からは、かぐわしい食べ物の匂いが漂い、屋台の明かりがあちらこちらから漏れているのだが、今いる場所は人の足音も笑い声も聞こえず、耳を澄ましてやっと、遠くで砕ける波の音が聞き取れる、という具合だ。深い闇に閉ざされた会場の端は、手入れのされていない草がぼうぼうと生えている他、何も見当たらない。かと言って、そのまま先に歩いても寂れた港しかない。昼間ならばまだしも、夜のとばりが下りた後はわざわざ人が足を運ぶようなところではないのである。最も彼らのように、人目につかない方が都合のいい場合は最適な隠れみのになるのだが。

ピノキオは、彼の人差し指ほどの太さと長さをした煙草をしげしげと眺める。バニラの甘い香りがかすかに鼻をついた。


「美味しいの? 煙草って」

「いや、別段美味いって訳じゃない。でも、あんたの好きな大人って生き物は、よく吸うよ。あんたは、大人になりたいんだろう」


あんたは、という含みのある言い方に、ピノキオは疑問を呈する。


「オオカミは、僕とは違ってずっと子供のままでいたいんだよね」

「そりゃあ、そうさ。あたしの場合はあんたと違って、人間になっても今より弱くなるだけだからね。ただのか弱い女として、男に従うなんてまっぴらさ。毛むくじゃらの泥んこでも、今の方がよほどいいよ」


「じゃあどうして、大人が吸うものって分かっていて、煙草を吸うんだい」


今まで、じっと黙って、大きな体を縮こまらせるようにして座っていたネコが――彼はいつも静かで大人しい――視線でピノキオの発言を咎めた。ネコという男は、怒りっぽいオオカミの機嫌を損ねることを何より嫌がる。逆を言えば、例えば仲間のピノキオがオオカミの機嫌を損ねかねないことを言ったり、したりしない限りは、ネコが自ずから行動することなどほとんどない。大抵は、オオカミの言うことなすことにウンウンと頷いて、彼女の後ろをついて回るだけである。単純に仲がよいから従っている、ということもあるだろうが、それにしてもこの男からはたびたび、とてもそれだけで終わりそうにないオオカミへの執着が垣間見えることがあった。


オオカミはネコの予想とは反して、ピノキオの質問にさして気分を害した風でもなく、尖った口から煙をぷかりと吐く。


「どうしてだって? 大人がやっちゃ駄目ってうるさいから、やってやるのさ」


ピノキオも彼女を真似て、ぷかりと煙を吐いてみる。吸う前の甘い芳香とは裏腹に、苦々しい後味が口内に広がって、ピノキオは勢いよく咳き込んだ。それを見たオオカミが、無遠慮にげらげら笑う。


「どう、大人の味は。まだ大人になりたいかい」


 腹を抱えて笑い転げるオオカミに、ピノキオは面白くなさそうに舌打ちした。


 「ちえっ、意地が悪いぞ。周りがどう言ったって、僕はきっと大人になって、この長い鼻をなおすんだ。今は何一つうまくいかないし、この見た目のせいで馬鹿にされるばかりだけど、人間にさえなれれば皆が僕を好きになってくれるさ。ゼペットのことだって、見返してやる」


 あまり興味もなさそうに話を聞いていたオオカミだが、ピノキオの言葉に訝しげに首をひねった。


 「あんたは人形なんだから、そんなに長い鼻が嫌なら、それこそゼペットに短く切ってもらえばいいじゃないのさ。あの人、腕は確かなんだろ」


 オオカミの提案に、ピノキオはかぶりを振って、いまいましげに吐き捨てる。


 「それならもう、自分でとっくにやろうとしたよ。あの人の使う、大きくてとびきり切れ味のいいノコギリでね。だけど止められて、すごい剣幕で、危ないから二度とするなって怒鳴られた。あと一歩だったのに」


 怒られた時のことを思い出して、ピノキオは両の拳をきつく握り、ふくれ面になる。


 「あの人は、人間の癖に人の痛みってものが分からないんだ。僕が大人になれないために、どんなに苦しんでいるかが。いや、あるいは、すべて分かっている上で、どうでもいいと思っているのかもしれない。だってあの人、僕の本当の父親じゃないもの。僕は、あの人の本当の子供じゃないんだから」


 言いながら、ピノキオは自分の胸が苦しくなるのを感じた。数日前にも、やはりこんな具合に苦しくなったのを思い出して、ピノキオは、自分は何か悪い病気にかかっているのかもしれない、と思い始めた。

 そんなピノキオの不安に気づく様子もなく、オオカミは媚びるような口調でネコに詰め寄る。

 

 「なあ、分からず屋のピノキオはああ言ってるけどさ。ネコはもちろん、あたしと同じで大人になりたくないよな?」


 普段なら迷うことなくオオカミの言い分に首肯するネコが、この時は珍しく考え込んで、返事をするのに時間を要した。やがて、躊躇いがちにぼそぼそと呟く。


 「……俺は、一人で大人になっても意味がない。だから、今はこの姿のままでいい」


 実に曖昧な返答に、曖昧さを嫌うオオカミは、つまらなさそうに鼻を鳴らした。その時、遠くから複数の重い足音が近づいてくるのが聞こえて、三人は会話を止めて息を潜める。足元の砂利を蹴り進む乱暴な足取りは、子供たちから五、六メートルほど離れた場所で止まった。やってきたのは大人たちだった。


彼らの内の一人がランプに火を灯すと、静まり返った闇の中でそこだけが浮かび上がるようにして、男たちの人相が見える。一人は山のような大男で、背丈はゼペットとあまり変わらないが、老いた彼とは違って体中にごつごつとした筋肉がついているものだから、二倍くらいには大きく見える。明かりに照らされたことで、男は全部で三人いることが分かったのであるが、子供たちは真っ先に、他の誰でもなくその大男の方を見た。とにかく大柄で、傷だらけの凶悪な顔が印象的なのである。ピノキオたちは恐ろしいその男の顔を見ただけで、こいつはこれから悪事を働くに違いない、と直感した。隣にいる細身の男は、蛇か鷹のように鋭い目つきが恐ろしいと言えば恐ろしいものの、先の大男に比べれば、昼の町中で見かけてもおかしくない普通の人間と言えた。残りの一人は鼻の下にひげを少しばかり蓄えた、見るからに商人風の小太りの男だ。


人目をはばかるように話している男たちの会話の内容は、背の高い草の間に隠れるピノキオたちからはほとんど聞こえない。だが、男たちが包みから出した箱の中身は視認することができた。商人の箱には、きらびやかに輝く金色の貨幣がぎっしりと詰まっていた。対する大男の箱には、ぎらぎらと血に濡れて光る、赤黒い塊が入っている。知識のないピノキオやネコからすれば、鬼のような男が不気味な生肉を持っている、という程度の認識しか持ちようもなかったのだが、オオカミはその肉について知識があったようで、驚きのあまり、かすかに声をもらした。


 「クジラの肉だ……」

 「クジラ?」


クジラという単語に、ピノキオは漠然と、クジラに船ごと飲み込まれて死んだという両親のことを思い出した。当時のことはまったく知らない。ただ、物心ついた頃にゼペットに聞かされただけである。


オオカミは小声ながらも興奮した様子でまくしたてた。


「うん。危ないから、ほんとは捕っちゃいけないらしいんだけどさ、すごく貴重で、すごく高い値段で売れるんだって」

「すごく高い値段で……」

「そうさ。金貨百枚くらい」


そう言われて、ピノキオは改めて、箱からあふれんばかりの金貨を見つめた。ピノキオくらいの子供にとって、金貨は本の中でしかお目にかかれないような、非常に価値の高い単位のお金だ。町一番の人形職人であるゼペットでも、人形を一体売って稼げるお金は、せいぜい銀貨二、三枚が限界だろう。しかも人形も、毎日売れる訳ではない。もし金貨が一枚あれば、贅沢をしなければの話だが、二人でも十日はゆうに食べていけるに違いない。

金貨一枚でもそれくらい魅力的な価値があり、同時に希少であるというのに、目の前にはその百倍のお宝が転がっている。ピノキオは、生唾をごくりと飲み下した。


「……なあ、あの金貨、あたしらで横取りしないかい」


不意に、オオカミが悪戯っぽく微笑んだ。その双眸は、獲物を見つけたとばかりにらんらんと光っている。


「危ないんじゃないか。相手は三人だぞ」

「なあに、こっちも三人だから大丈夫さ。ピノキオ、あんたはどうする?」


思いとどまらせようとするネコの言葉を軽く流して、オオカミはピノキオに誘いかけた。ピノキオは、二人の顔を見比べる。オオカミは強奪に積極的だが、ネコは気乗りしない様子だ。普段オオカミの提案に口答えしないネコが止めるということは、それだけ危険な行為を彼女がしようとしている、ということでもある。いくら傍若無人な振る舞いの多い彼女とはいえ、ピノキオとネコの協力がなくては難しい以上、二人とも協力を渋れば、思いとどまらせることも不可能ではないだろう。


(……でも……)


ピノキオは、少し走れば手の届く距離にある金貨の山をちらりと見た。


(あれは悪いやつらが、悪い手段で手に入れたお金だ。それを奪うことなんて、普通なら怖くてとてもできやしない。でも、それをやりとげたら? 僕は自信が持てるかもしれない。うまく人間になれるかもしれないぞ。それにあれだけの大金を持ち帰ったら、ゼペットだって喜ぶはずだ)


先日目にした、哀しそうなゼペットの表情がピノキオの頭を過ぎる。ゼペットは、感情が顔に表れにくい男だ。いつもむっつりと黙っていて、本人は怒気を感じていなくても、傍から見ると怒ったような表情をしていることが多い。だからこそ、木登りをしようとしたピノキオを叱った後のゼペットの眼差しが、少年の中でわだかまりとして残っていた。

普段から憎まれ口同然にゼペットが少年に言っている台詞を、同じように言い返しただけであるのに、滅多に見せない哀しみの表情を見せられて、ピノキオとしては釈然としない。だが、理由は分からずともそんな顔をさせてしまったことに、幾ばくかの罪悪感は覚えていた。常に家計のやりくりで頭を悩ますゼペットへの土産に金貨を持って帰ることは、少年自身のわだかまりを解消する最良の策であるように思われた。


「やろう、オオカミ。あの金貨、僕たちで山分けしてやろうじゃないか」


 途端、オオカミの表情は喜色に染まり、ネコは諦めて首を振る。長い付き合いもあり、流石に臆病なネコ少年も二人を見捨てていく真似はしなかった。子供たち三人にとって、やはり一番の弊害となり得たのは件の大男である。

最も機敏なオオカミが大男の気をひき、その隙に二人がかりで金貨を持ち逃げする作戦が、その後素早く立てられる。大男をうまく攪乱しても、向こう側にももう二人の大人がいる訳だが、商人の方はリンゴ同然のずんぐりした体形でいかにも足が遅そうだ。細身の男一人くらいであれば、逃げおおせることもできる。それが、子供たちの計算だった。

しかしながら作戦開始直後、いきなりその計算が、それも最もむごい形で崩される羽目になるとは、この時誰も想像していなかった。


男たちの注意が逸れるのを見計らって、オオカミが飛ぶ槍のごとき速さで駆け出す。暗闇の中での彼女の姿は、少年二人の目には俊敏に動く黒い影としか捉えられない。そのまま、小さな影が速度を落とさずに、大男の頭に飛びつく。大男が、少女の急襲に悲鳴をあげ、彼女を振り払おうともがいた。しかし、オオカミが渾身の力でしがみついていることもあり、大男の視界が塞がっていることもあり、なかなか少女を振りほどけない。

慌てふためく大男に、細身の男が注意を向ける。少年たちはこの時点で、自分たちの勝利を確信した。ピノキオはネコに合図を送り、すぐさま金貨の方へと駆け出す。


だが、その瞬間にかすかに聞こえた空気を切る鋭い音と、大男が喚いているのとは明らかに違う甲高い悲鳴に、それまで絶対に止めまいと思っていたはずの二人の足は止まってしまう。一体何が起きたというのか、少年たちには、正しい予測などできるはずもない。その目で見てなお、理解はできなかったのだから。


振り返ると、小柄な体が大男の頭の高さから落下したのが見えた。ピノキオは即座に、今のはこらえきれずに振り落とされたことであげた彼女の悲鳴だったのだろうと判断した。受け身もとれずに無様に落下するなど、ピノキオの知る日頃のオオカミからは想像もつかない。よほどひどい落とされ方をしたのだろう、これは金貨どころじゃない、助けてやらないと。気が急くあまり、ピノキオは声を上げた。


「オオカミ! だいじょう……」


声は、凍り付いた。オオカミを助けなければならないというピノキオの使命感は、一瞬にして、オオカミを見捨てて逃げなければならないという正反対のものに塗り替わってしまった。地面に落とされたオオカミは、ごろりと転がるように顔をピノキオたちに向ける。ほうけた表情のままぴくりともしない彼女の額には、細身の男が投げた大型のジャックナイフが、深々と突き刺さっていた。死というものをまだ知らない子供から見ても、それはもう否定も誤魔化しもする余地を残さず、ただ絶命しているという事実を彼らに突きつけた。つい先刻まで生きていた友達が殺されたという衝撃が、ピノキオの頭をがんと殴りつける。彼の思考は、真っ白になった。


「……よくも、よくもオオカミを殺したな……!」


しかし、もう一人の少年の方は、同じ光景を見て同じ衝撃を受けても、反応は正反対だった。常日頃はまどろんでいるかのようにぼんやりとして覇気のない瞳が、今は見開かれて赤く血走り、憎しみの炎に轟々と燃えている。もしも、視線で人を殺すことができるのならば、ナイフを投げた男も、大男も、直接は手出しをしていない商人でさえ彼は殺めてしまったに違いない。

手足をわなわなと震わせ、全身の毛を逆立てたその姿は、彼の図体とも相まって、猫というよりは豹を思わせた。激昂したネコの剣幕は、彼をよく知るピノキオには衝撃的だったものの、男たちには大した動揺も感じさせなかったようで、大男はいやらしく口の端を歪めて笑っている。相手が子供であることが分かって、余裕を感じているのだ。その手に握られた無骨な斧を見て、ピノキオは絶叫した。


「ネコ、逃げてくれ!」


けれども、怒りにとらわれたネコの耳に、ピノキオの叫びは届かなかった。大男に突進するネコと、彼に向かって振り下ろされる斧。それ以上を目撃するのを心が拒み、ピノキオは独り逃げ出した。背後で、鈍い音と歪な悲鳴が聞こえても、今度は足を止めることなく、一目散に走り続けた。

祭りで賑わう道を、転がりそうな勢いで駆け抜ける。行き交う人の波に時折ぶつかっても、構う余裕は彼に残されていなかった。足を止めたら、飛んでくるナイフに、振り下ろされる斧に、命を奪われる。そんな脅迫的な妄想に突き動かされ、ピノキオは疲労のたまった足を動かし続けた。あまりになりふりかまわず走ったものだから、途中で勢いよくつまずき、片腕が外れてしまったが、腕を拾うこともせずに、家に向かって力の限り逃走した。ようやく、ぼろぼろの姿で家の前についた時、ピノキオはへたり込んで、さめざめと泣きだす。男たちは、追ってこない。逃げきったのだ。だが、ピノキオの震えは止まらなかった。


(大人って……大人って、なんて汚いんだ! いくら子供だからって、あんな風に、虫けら同然に殺すなんてあんまりじゃないか!)


今まで彼にとって、ただただ憧れる対象でありつづけた大人たちが、突如暴力の権化として襲ってきた。ピノキオは、先程まで起こっていたことが未だに信じられない。信じたくない、という方が適切かもしれない。できることなら、これが悪い夢で、起きたら怖い大人はいなくて、二人は生きていて、勝手に人を殺すなよ、と笑ってほしい。ピノキオはそう願ったが、頭に残るオオカミの死に顔やネコの断末魔が、夢というにはあまりに鮮明すぎた。


間違いない、二人は死んだのだ。強奪を実行するというピノキオの最終的な判断が、二人の死を招いた。世の中には残酷な大人がいるということを知らなかった彼の無知が……ピノキオの、無邪気な“大人”への憧れが、二人を殺したのだ。


(オオカミとネコ。唯一、こんな姿の僕を受け入れてくれた友達。大切な、かけがえのない仲間。死んでしまった……僕のせいで、僕が、やろうなんて言ったせいで!)


ピノキオは考えれば考えるほど、二人の死が男たちのせいではなく、自分のせいのような気がしてならなくなった。しかし、それをそのまま受け入れるのは、今日十四になったばかりの少年には酷というものだ。

ピノキオは、すっかりしょげてしまっていた。いつものドアが、今は何倍も重たく感じられる。


(ゼペットに合わせる顔がない。こんなことが知れたら、いよいよ愛想をつかされて、軽蔑されるに決まっている……隠し通せるとは思わないけれど、言えるはずもない……)


ピノキオは、残った片腕でドアを押し開ける。家の中は暗く静まり返っていた。時刻は真夜中なのだから、それが自然なのだ。一瞬、ピノキオはゼペットがもう寝ているのでは、と期待する。だが、奥から近づいてくる重い足音に、淡い期待は簡単に打ち砕かれた。


今日は早く帰るようにと言われていたものを、夜がすっかり更けてから帰宅したのだから当然と言えば当然、ゼペットは憤怒の表情でピノキオを出迎えた。ピノキオの片腕が無くなっているのに気付き、一瞬だけ唖然としたものの、すぐに顔を引き締めて、玄関で怒鳴り散らす。


「こんな時間まで、一体どこをほっつき歩いておったのだ。えっ、この役立たずの木偶の坊め! 早く帰れと言ったのを、覚えていなかった訳じゃないだろうに。お前は日頃の行いが悪いから、腕もなくすし、人間にもなれんのだ。さあ、さっさと入れ。罰として、庭でまき割りだ。この時期の夜の寒さは体にこたえるというのに、夜更けまで人を待たせおって、まったく……」


ピノキオを家に入れると、ゼペットはそれ以上彼に構うこともなく、居間へと戻ってしまう。少年は一抹の寂しさを感じながら、今度ばかりは言いつけ通りに庭へ向かった。


裏口を開けて庭に出ると、冷たい夜風がピノキオの頬をなぞる。余計な草のない整えられた庭は、手入れをしているゼペットの性格をよく表していた。ピノキオはほとんどここに足を踏み入れたことがない。この庭には、ゼペットの亡き妻が育てていた薔薇が植えられているため、ゼペットが入れさせなかったのだ。薔薇は虫のつきやすい花だが、今も大切に育てられているだけあって、害虫に葉を食われた跡はほぼない。薔薇が咲き誇る暑い時期はもう過ぎており、ほとんどの花が終わって葉ばかりになっていたが、三輪だけがいまだ散らずに、目立たず密やかに残っている。寄り添うように咲いた二輪の赤い薔薇の間に、小さな可愛らしい蕾が、葉の隙間から顔を出していた。それはまるで、両親が赤ん坊を大切そうに抱いているようにも見えた。


今朝も、人形を作るためにゼペットが木を切ったのだろう。まき割りに使う斧は小屋にしまわれず、古い大きな切り株に突き刺さっているままだ。その大きな斧は、自然とピノキオに先程までの惨事を思い出させた。


ピノキオは、ふと気づく。あのようなことをしでかして、まだなお自分が家に帰ったのは、心のどこかで、ゼペットに慰めてもらいたいと思っていたからではなかったのか、と。しかし実際は、冷たく拒絶され、縋る暇すら彼には与えられなかった。

ピノキオは孤独だった。仲間が殺され、無我夢中で逃げていた時だって、今この時に比べればまったく孤独ではなかった。追われる恐怖を思い出したのが契機となって、何もできなかった自分の無力さ、残忍な大人への怒り、家へ着いた時の安心感、そして、期待に反してゼペットに突き放された失望。今まで状況に圧倒され、消沈していた様々な感情が、息を吹き返すかのように燃え上がり、渦巻き始める。その中でもとりわけ強かったのは、ゼペットを恨めしく思う気持ちだった。


(あんな奴を喜ばそうとするなんて、僕はどうかしていた。ゼペットときたら、事情も聞かずに僕を怒鳴ってばかりだ。一番助けてほしい時、どうにかかばってほしい時でも、木偶の坊扱いなんて。だいたい、ほんの少しでも息子を愛している父親であれば、腕をなくして帰ってきた息子を怒鳴って、まき割りなんてさせるはずがない。絶対、絶対に、父親だなんて認めてやるものか)


ピノキオは、燃えるように熱い感情とは裏腹に、自分の理性が冷えていくのを感じる。斧を切り株からひっこぬいて、その鋭利な刃を、ついさっき人を殺せると学んだ道具を、少年はじっと見つめた。刃に映った少年の眼差しは、あるいはその斧よりも鋭いかもしれなかった。勢いあまって手にかけるのではなく、ごく冷静に、人を殺そうと思って殺せること、それが人間の持ちうる最大の凶器なのだと、少年は身をもって思い知る。


(ゼペットも、大人だ。あの男たちと同じ存在だ。いつだって僕は、ゼペットのせいで苦しめられてきた。ゼペットの心無い言葉で、傷つけられてきた。あんなにも大人になりたいと願っていたのに、他の誰よりそれを知っていたはずなのに、僕の自立を妨げるのはいつもゼペットだった。自分を守って、何が悪い。あの人のいないところで、操り人形ではなく一人の人間として生きたいと、そう望んで何が悪い)


少年は斧を片手にぶらさげたまま、居間に引き返す。ゼペットは、ピノキオの帰りを待つ間にすっかり冷めてしまった晩御飯を、暖炉で温めなおす準備をしていたところだった。ピノキオの異変には気づくことなく、ゼペットは背を向けて彼に語り掛ける。


「もうじき日付が変わってしまうがな。今日は、お前の……」


途中で振り向かれそうになり、ピノキオは反射的に、ゼペットの頭を狙って斧を振り上げた。だが、ゼペットが動いたために狙いが逸れて、刃は彼の肩口を抉り取る結果となる。ゼペットの手から零れ落ちた食器が床に落ちて割れ、その上に、ぽたぽたと鮮血がしたたり、見る間に血だまりができていった。ゼペットが目を見開く。


「……ピノキオ」


彼が動揺を見せたのは、ほんの少しの間だけだった。

肩を裂かれた痛みをこらえているとは思えないほど、ゼペットは穏やかに、ピノキオに呼び掛ける。優しく光るグレイの瞳が、哀しげにピノキオを見つめた。その瞳を見て、ピノキオは己を迷わせるものを撥ね退けようとするかのように、斧を振るう。最初に斧を振り下ろした時の冷徹な表情とは打って変わって、今のピノキオは泣き出しそうな顔をしていた。


振るわれた斧が、ゼペットの腹に突き刺さる。古ぼけたベストがじんわりと赤く染まった。ゼペットの腹や肩から噴き出すのも血、床に溜まったのも血なら、彼が咳と共に吐き出したのも、また血だ。人形の持たない命の証。ゼペットの命そのものとも言える温かい血が、みるみるうちに流れ出してゆく。最早、助からないのは明らかだった。


「お前……私を、殺すつもりか……」


荒い呼吸と共に吐き出されたゼペットの問いかけに、ピノキオは答えることができず黙っていた。言葉を出してしまえば、それと一緒に今まで隠していた感情が、気づかぬふりを貫いていたはずの感情が暴かれてしまいそうで、少年は一言も発することができない。涙を流すことのできないピノキオは、それでも“泣いて”いるのだとはっきり分かるくらい、眉根を寄せ、唇を噛みしめて両の拳を握り、ぶるぶると肩を震わせている。

そんな少年を見て、ゼペットは呆れたように笑った。この男がピノキオに見せた、初めての笑顔らしい笑顔だった。


「……せめて、殺すなら……ケーキを食った後にすればいいものを……せっかく買ったのに、無駄になる……だろうが、………本当、生まれた時からお前は、馬鹿なやつだよ」


息も絶え絶えの今、どうしてゼペットが冗談をまじえて笑うのか、ピノキオの理解は到底追いつかない。だが、困惑するピノキオを後目にゼペットは、何らかの覚悟を決めた面持ちで、作業机にたてかけられた彫刻刀の一本を握った。


「待って……、生まれた時って、なに? 僕は引き取られた子じゃなかったの? それに……なにするんだよ、それで…………ねえ、やめてよ……」


「ピノキオ……よく、聞け。何も親らしいことなど、お前にしてやれなかったが……最後にひとつだけ、教えてやる」


ピノキオの制止を聞き届けるそぶりも見せず、ゼペットは迷いなく、己の首筋に彫刻刀をあてがった。



「例え、盗人だろうと人殺しだろうと……どんな馬鹿でも、お前は私の息子だ。可愛い子供を……死なせたい親がどこにいる」



ゼペットは穏やかな笑顔のまま、彫刻刀を喉に滑らせる。がくがくと痙攣して震える二本の腕が、喉に刃を食い込ませ、最期の力で半ば引きちぎるように喉を切り裂いた。大きな体が床の血だまりに崩れ落ちる。いつもピノキオを見つめていたグレイの瞳が、かっと見開かれ、そして、動かなくなった。


絶命した。ようやく、絶命したのだ。オオカミの時とは違い、ゼペットはすぐには死ななかった。彼女の時はいつ死んだのか、ピノキオの分からないうちに気が付いたら死んでいた。ネコにいたっては、本当に死んだのかどうかすら、彼は確認していない。おそらく死んだのだろうと、推測しただけだ。

二人の死を実感した時は、これほど恐ろしいことが他にあるものか、とピノキオは強く思っていたが、半死半生の状態であがき苦しみ、自らの喉を切るゼペットの死に様は、それらとは比較にならない壮絶さがあった。一人の人間が、しかも自らの育て親が力尽きていく様を、ピノキオは目撃したのだ。彼は微動だにせず、その場に棒立ちになって、死にゆく老人の最期を見ていた。見るに堪えないほど苦しむゼペットの姿は、ピノキオの心をずたずたに引き裂くには十分だったが、彼は決して、一瞬たりとも目を逸らさなかった。逸らすことは許されないような気がしていたのである。


長い苦しみの時間が終わり、とうとうゼペットが事切れたのを悟って、ピノキオは腰を抜かし、その場に崩れ落ちる。ゼペットは最後の最後になって、二つの不可解な謎をピノキオに残していった。ゼペットは常にピノキオのことを、彼の弟とその妻が死んだために引き取った義理の息子だと、彼に話した。ゼペットは弟夫婦の写った写真を一枚も持っていなかったので、生前の二人との交流はなかったのだろう、とピノキオは想像している。何にせよ、本当の親ではないゼペットが、ピノキオの生まれた時を知るはずはないのである。

そしてもう一つの謎。それは、最期の彼の言葉だ。ピノキオを死なせたくない、という意味の台詞は、ピノキオが死ぬ危険にさらされているならまだしも、ゼペット本人が死にそうになっているというだけの状況では、出るはずがない。死ぬ間際の支離滅裂な妄言として片づけることもできない訳ではないが、先の謎から考えても、ゼペットがピノキオに、何か決定的なことを秘密にしていたというのは、想像に容易かった。


だが少年は茫然と、これ以上何を考えることもできずに、ゼペットの遺体を眺めるばかりだ。語らぬ死体に、動かぬ少年。居間の中だけが、世界から切り離されて、時を止めてしまったかのようであった。



     ○      ○



 どれくらいの時間が過ぎただろうか、遠くの空が白み始める頃合いになって、外出していたコオロギが二階――ピノキオの部屋の窓――から入ってきた。昔からこの家に居候している彼は、ピノキオの知らないゼペットの姿もよく知っていて、ゼペットがそれは熱心に誕生日の準備をしていた様子も見ていたので、今夜ばかりは家族水入らずで過ごさせてやろうと、彼なりに気を利かせたのである。

窓際には、ゼペットの作ったピノキオそっくりの可愛らしい人形が立てかけられていた。その出来栄えの素晴らしさに、コオロギは大きく頷く。人形の靴の裏に彫られた文字を見て、彼は思わず笑みをもらした。


(<愛する息子 ピノキオ>ねえ……あの頑固なゼペットさんが、これを彫っている時の顔をぜひとも見たかった。きっと、ありったけの勇気を振り絞ったに違いないよ。でも、これならその勇気の甲斐あって、あの喧嘩ばかりの親子もめでたく仲良くなれたかもしれないな)


機嫌よく口笛を吹くコオロギは、ふと、ピノキオがベッドにいないことに気が付いた。普段ならとうに二人とも寝ている時間にもかかわらず、下の階から明かりが漏れていることに気づいたコオロギは、首をかしげつつ居間へと降りていく。

その後のコオロギの仰天と言ったら、言葉に表すまでもないだろう。


にこやかに食事をする二人の不器用な、しかし善良な親子。いつもは食べられない砂糖たっぷりの甘いケーキに、十四本のろうそくを立てる父親。ケーキの味に顔をほころばせ、はにかみながらプレゼントを受け取る息子。ささやかな、とびきり幸せなホームパーティ。


そんな光景を思い浮かべていたコオロギが見たのは、割れた食器の散らばる荒れた部屋と、変わり果てた父親と、赤く濡れた床に座り込む息子の姿だった。


「ピ、ピノキオ! これはいったいどうしたんだ、強盗にでも入られたのかい!?」


真っ青な顔のピノキオのもとへと跳ねたコオロギは、いつもにも増してけたたましく叫ぶ。


「こりゃあ大変だ、ゼペットさんを助けなくっちゃ! ピノキオ、ぼうっとするんじゃない、早く、早くお医者を呼ばないと……」


コオロギの言葉は途中で途切れた。黙り込んでいるピノキオの右手に握られた、血のついた斧を見て、それまで忙しく動いていたコオロギの口がぴたりと止まる。白目のない円らな複眼が、今度はピノキオを見た。何度も何度も、その視線は斧とピノキオを往復する。コオロギの頭の中で、少年の持つ斧と血塗れで倒れるゼペットが線でつながった時。ようやく、コオロギは震える声音で問いかけた。



「…………ピノキオ、……君が、やったのか?」



緩慢な動作で、しかし確かにピノキオが頷いたのを見て、コオロギは落胆しこうべを垂らした。


「なんて……なんて、馬鹿なことを。絶対にこんな悲劇、起きちゃいけなかった……起きていいはずもない。……しかし、待てよ。君がこうして無事というのは、いったい……ピノキオ、私に事情を聞かせておくれ。できるだけ、詳しく」


ピノキオは、ゼペットとコオロギの言いつけを破り祭りに出かけてから、今に至るまでにあったことを包み隠さず彼に打ち明ける。ピノキオの説明はうまいとは言えず、時折話が前後した。ひどく時間がかかった。だが、どんなに拙くても、コオロギは口を挟むのをじっと我慢して、仕舞いまで静かにピノキオの話に耳を傾けていた。


話のすべてを聞き終わり、コオロギは哀しそうに溜息をつく。理解はできても、納得がいかない、そんな様子だった。彼は憐れみの目でピノキオを見つめ、やがてこう切り出す。


「ピノキオ、よくお聞き。彼が亡くなった今はもう、隠す意味もない……ゼペットさんの秘密を教えてあげよう。それを聞けば分かるだろうさ。君とゼペットさんの間にあった問題なんて、こんな悲劇の引き金になりようもないくらい、本当はほんの些細なことだったのだとね」



コオロギは話し始めた。語られなかった、当の本人が最後まで語ることのなかった昔話を。



     ○      ○



 男は、絶望していた。四十年間連れ添ってきた最愛の妻を、突然の病気で亡くしたのだ。彼は町では有名な、非常に腕のいい人形職人だったが、今まで休まず打ち込んできたその仕事さえ、まるで手につかなくなってしまう。元々、彼……若い時分のゼペットが人形作りを始めたのは、妻ロゼッタが人形を愛していたからであった。


頑固だが実直なゼペットと、穏やかで心優しいロゼッタは、つり合いのとれた仲のいい夫婦だった。しかし、ゼペットには一つだけ、残念に思っていたことがある。二人とも子供を望んでいたにもかかわらず、結局子供ができずじまいだったのだ。ロゼッタが急死したその時も、もしも彼らの間に子供がいたのなら、ゼペットの悲嘆もこうまでにはならなかっただろう。ゼペットはこの時五十八、ロゼッタは五十六。まだまだ共に過ごしていけると信じていた矢先に妻に先立たれ、独りになってしまったゼペットの哀しみは深かった。


生きる気力を失ったゼペットは、半ば死ぬつもりで、町一番高い一本杉に登りはじめる。雲にも届くその高度は、まるで体が空に浮いているようで、普通ならば臆して引き返してしまう高さだが、ゼペットには迷いがなかった。

老いた手足をいじめ抜き、何度も落ちそうになってはふんばり、その木を登る。節くれだった指には血が滲んだ。肺の奥からヒュウヒュウと妙な呼吸音が漏れた。ようやくたどりついた木のてっぺんからは、ゼペットの住む町どころか、隣町まで一望できる。その光景は、木の上から見ているというより、まるで天から世界を見下ろすかのように広大だった。

ふと、ゼペットはその杉にまつわる逸話を思い出す。町一番高い、天にも届く一本杉のてっぺんまでたどり着けた者は、一度だけ女神に願いを叶えてもらえるという、もうずっと昔に聞いた話を。ゼペットは、胡散臭いとは思ったものの、たどり着いたからには一つ願ってみようと考えた。真っ先に思い付いた願いは、死んだ妻に生き返ってほしい、というものだった。

しかしながら、彼はすぐにその願いを考え直す。


(死んだ者を呼び戻すなど、それこそ実現できたら神の所業だ。しかし、再び蘇ることを、ロゼッタは望んでいるのだろうか? 彼女を失って、苦しいのは事実だ。だが彼女の方は、病気の苦しみから、やっと楽になれたのかもしれない。私の都合だけで呼び戻して、果たしてよいものか)


ゼペットにはもう一つ、気がかりなことがあった。もし、ロゼッタの方も生きたいと望んでいて、この願いで蘇って、再び二人で暮らせるとしたら、それはゼペットにとって願ってもやまないことである。

だが、人の命は有限だ。ここで引き伸ばしても、いずれは必ず死に別れる。その時、生き残るのが自分なら、まだいいとゼペットは考えていた。しかし、生き残るのがロゼッタの方だったら。自分が先に死んでしまったら、今度は彼女が、今の自分の苦しみを背負うことになる。その可能性を思うと、ゼペットはどうしても、彼女の蘇生を願う気になれなかった。


ならば、妻以外に何を求めているのかと考えて、ゼペットは再び行き詰る。何せ、死ぬつもりでここまで登ってきたのだ。自分の命さえ見限った男に、そうそう望みがあるものではない。ゼペットはしばらく悩んだ。そうして、たった一つだけ生前の妻と、ほしいほしいと言い合っていたものを思い出す。それはあるいは、死者の蘇生より難しいかもしれなかったが、叶わなければそれで仕舞いと、ゼペットは声を張り上げた。


「女神様、もしご慈悲をかけてくださるなら、子供を! 私にロゼッタとの子供をください! 死んだ妻によく似た子を。それ以外のものは、もうなにもいらない。くださるなら、心をこめて育てますとも。もう一度、あれの夫になれないなら、せめて最後に、私を父親にしてほしいのです」


その時、ゼペットを支えていた細い枝が折れて、彼は真っ逆さまに地上へと落ちていった。杉の木の下で倒れたゼペットを通りすがりの人が見つけ、介抱したのだが、不思議なことに雲の上から落ちたにもかかわらず、ゼペットは右足首を痛めた他は何ともなかった。眠っている間に聞いた不思議な女の声を思い出しながら、ゼペットは自宅で木を彫る。妻が亡くなって以来、人形作りはしていなかった。


(ゼペット、あなたの願いを叶えてあげましょう。あなたの望む子供の姿をした人形を作って、満月の光にあてなさい)


ゼペットは声の言った通りに、出来上がった人形を月光の当たる窓際に置く。少し鼻の長い、小さな男の子。それが、ゼペットの作った子供の姿だ。彼の死んだ妻のロゼッタも、人より少し鼻が長かった。ロゼッタはそれを気にしていたが、あばたもえくぼというように、ゼペットは妻には言えないながらも、その鼻を可愛らしいと思っていたのである。


人形はしばらく月の柔らかい光に包まれて笑っていたのだが、ふいにぐらりと前に揺れたかと思うと、床に落ちてしまう。はて、倒れないようにしっかり立てかけておいたはずなのに、と疑問に思いつつ人形を抱いたゼペットは、仰天した。

さきほどまでぱっちりと青い目を開き、微笑んでいた人形が、目を閉じてすやすや寝息を立てていたのだ。人形に触れている手からは、温かみが伝わってくる。見る者の心を和ませるあどけない寝顔は、小さな子供そのものだった。まぎれもなく、生きて、眠っている。動転しているゼペットの耳に、再び夢の中の女性が語り掛ける声が届いた。



『その人形には、命が宿りました。いずれ大きくなれば、他の子供のように完全な人の姿になるでしょう。しかし、忘れてはいけないことがあります。あなたは、この子供がどうやって生まれたのか、この子や他の人間に言ってはなりません。この魔法は私と、契約をした者との間の秘密によって力を得ていますから、約束を破ってあなたが他言をすれば、彼はただの人形に戻ってしまいます』


「はい……他言はしませんとも」

『それともう一つ、約束を守ってください』


どこからともなく聞こえる神秘的な声に、ゼペットは神妙な面持ちで耳を傾ける。女神の最後の言葉は、こうだった。


『あなたは、心を込めてこの子を育てると誓いましたね。その誓いに違うことなく真心を込めて、優しい子に育ててください。絶対に、人を手にかけることがないように……他のことがどんなに優れていても、その手で人を殺めるようでは、その子育ては失敗です。万が一、人を殺してしまった時は、彼は即座に木片と化してしまうでしょう……』


    ○     ○



 コオロギの口から語られた言葉に、ピノキオの顔は蒼白となる。恐怖ではなく、自分のしたことの意味に今更ながらに気づいて、がたがたと震えはじめた。


「僕は、ゼペットの手で作られた人形? ゼペットが、自ら望んで僕を作ったの? いらないのに、仕方なく引き取ったんだって、あの人はいつも言ってた。それは、本当のことじゃなかったの?」


「そうだよ。あの人は、君への愛情を言葉で表すのは下手だったかもしれないけれど、君がずっとゼペットさんの本当の子になりたかったのと同じで、あの人も、ずっと君の父親になりたかったのさ。……ゼペットさんが君を、ほしくてほしくて堪らないと感じていたからこそ、君は生まれたんだ。君は父親に望まれて生まれてきた。……だから、今ここで生きているんだよ」


 喉の裂けたゼペットの亡骸を見て、コオロギがやりきれないという表情で首を振る。


「女神様との二つ目の約束がある以上、ピノキオの斧で自分が死ぬ訳にはいかなかった。そうなれば、それほどまでに望んだ大切な息子が木片になってしまう。ゼペットさんには、自ら命を絶つしか道は残されていなかったのさ」


ピノキオは立ち上がった。ふらついた足取りで亡骸へと向かう。


「僕は、それならいったい何のために、この人を殺めたんだ。自信をつけるためにか。悪い大人を征伐するためか。……いや、ちがう! 僕は、僕は!」

「……ピノキオ」


コオロギのやんわりとした制止の呼びかけも、今のピノキオには届かなかった。


「僕のやったことは、自立するためでもなんでもない、ただの人殺しだ。感情に任せて、なんて馬鹿なことをやってしまったんだ。自分の馬鹿さに気づくのも遅くて、友達も、親も、大切なものを何もかも失ってしまった。……力を持った気になって、自分が正しいって信じ込んで、そんな子供が、大人になれるはずなんてなかったのに」


まだ、彼の体はほんのりと温かい。たまらなくなって、ピノキオはゼペットを抱きしめた。



「父さん」



ピノキオは、嗚咽のような声で、何度もそう繰り返す。彼は今まで一度も、ゼペットを父として呼んだことがない。本当の親子ではないという負い目から、呼ぶことができなかったのだ。


「父さん……父さん。ずっと、……ずっと、あなたをこう呼びたかった。僕は、本当は、大人になんてなれなくてもよかったのかもしれない。他人がどう言っても、あなたに認めてもらいさえすれば、きっと……本当はそれでよかったんだ」



ゼペットが斧の一撃を食らった際にこぼれた暖炉の火が、パチパチとはじけ、ゆっくりと床の上で燃え広がっていく。木でできた床から黒い煙が立ち上り、周りの人形や家具に移っていった。

長らく見守って、幸せを願っていた親子の悲劇を、コオロギはいたましく思い、やりきれないというように首を振る。


「ピノキオ、お逃げ。このままじゃ火事になって、出られなくなるよ。君は、危うく木片になるところを、ゼペットさんに助けられた。あの人が君を生かしてくれたんだ。何も君まで死ぬことはないんだよ」


コオロギが促しても、ピノキオは遺体を抱いたままぴくりとも動かなかった。

木造の家は炎に包まれていくのも速い。暖炉に近い裏口の戸の周りは、炎が人の身の丈ほどまで高く上がっている。


「死ぬつもりか。これ以上燃えたら、君の体はひとたまりもないぞ。彼を無駄死にさせる気か? いい子だから、私と逃げるんだ、さあ」


事態がひどくなれば、当然ながらピノキオだけでなくコオロギ自身の身も危ない。話しかけても反応のない、茫然としている少年を必死に説得するのは、まるで石の像でも相手にするかのようだった。しかしそれでも、コオロギは決してピノキオを見捨てて逃げはしなかった。


「……ねえ、コオロギ」


不意に、ピノキオが口を開く。一刻の猶予もない緊急事態で、やっと得られた反応である。コオロギは続くピノキオの言葉に耳を澄ませた。


「僕、今まで大人になりたいって、ただそのためだけに行動してたんだ。自分のことばかりで、他の誰かのことなんて、考えようともしなかった。ねえ、今からでも取り返しはきくって、君は言うの? こんな僕が、これ以上生きて、それで今までの失敗をやり直せるって思うの?」


その問いは、コオロギに答えを求めている訳ではなかった。ただただ湧き上がる自責の念が、とめどなくピノキオの口からこぼれ、彼の心を蝕んでいく。罪悪感に押しつぶされそうになっている少年は、言葉で自らをどうしようもないほど傷つけようとしているようにさえ見えた。


「……やり直せないよ。過去っていうのはね、誰にも変えることなんてできやしないんだ。言った言葉も、やったことも、二度と消えないんだよ。だから皆後悔するんだ。後悔しながら、それでも生きてるんだよ」


コオロギの言葉に、ピノキオは自嘲的に小さく笑う。


「大人って、後悔なんてしないんだと思ってたよ」

「してるさ。しないどころか、後悔ばかりだ。でもね、ピノキオ、よく覚えておいで。一度も転んだことのない大人なんていないってことを。自分が痛い思いをしているからこそ、他人に優しくできるんだってことをね」


ピノキオが、コオロギを見つめた。先程までの、弱々しい眼差しではない。青いガラスの瞳には、力強い光が宿っていた。

ようやく我にかえったように立ち上がり、赤々と燃えるリビングを見渡す。


「……大変だ。火だ、家が燃えている! このままじゃ、父さんが大切にしていた薔薇も燃えてしまうかもしれない。ねえコオロギ、薔薇を助けなきゃ!」

「ピノキオ、消火はできないのか?」

「この家、水道がないんだ。井戸は離れたところにあるから、水を汲みに行くのは難しい。とにかく、早く庭に行かないと!」


燃え盛る裏口には、木でできたピノキオは近づくことができない。水が手に入らない現状で火が体に燃え移りでもすれば、そのまま致命傷になりかねない。ピノキオは正面玄関に駆け寄った。

ノブを掴んで、ずっしりと重い鉄の扉を力の限り引っ張る。しかし、ガタガタと何かが引っかかったような歪な音が響くだけで、なぜか扉が開くことはなかった。


「どうして! 帰った時は、いつも通り開いたのに!」


ピノキオが悲鳴じみた叫びをあげる。一階から外に出られるのは、この正面玄関と裏口だけであるのに、その両方が塞がれている。

炎は二人を囲み、徐々に逃げ場を狭めていく。このままでは薔薇を助けるどころか、二人とも焼け死んでしまうのは必至だ。ピノキオは反射的に居間全体を見渡して、二階への階段に向かって駆け出した。


「待つんだ、ピノキオ! 火事の時に上に登っちゃいけない、余計逃げられなくなるだけだ!」

「僕の部屋の窓から、庭に出られる」

「そりゃそうだが、高さがある。飛び降りる気か? バラバラになってしまうぞ」


「大丈夫、ロープがあるんだ。よく夜中にそれを使って、遊びに行ってたから間違いなく降りられるよ」


ピノキオの言葉に、コオロギは唖然として言葉を失った。


「君ってやつは! 私のいうことを、一度だって素直に聞いた試しがない。ああもう、今は説教をしている場合じゃない。それなら早く二階へ行こう!」


コオロギは小言を漏らしながら、軽やかに跳ねて階段を昇っていく。ピノキオも階段に足をかけたが、ふと思い出したように居間に引き返した。

少年は、苦悶の表情で絶命している父親のもとへ歩み寄る。


(……ごめんなさい、こんなお別れになってしまって)


ピノキオは、ゼペットの見開かれたままの双眸を静かに閉じさせる。喉や肩口から血が噴き出した遺体の凄惨さは変わらないが、眠るようなゼペットの表情は先程より幾分か和らいだように見えた。


「さよなら、父さん」


小さく呟いて、ピノキオは今度こそ、迷いのない足取りで二階に上がった。




階段を昇ると、窓際でコオロギが彼を待っていた。


「ピノキオ、ロープってこれのことかい?」

「うん、そうだよ……あれ、こんな人形、部屋にあったっけ」


ピノキオの目に、窓際に立て掛けられた可愛らしい人形がとまった。ピノキオにそっくりの、鼻の長い操り人形。途端にコオロギは、ふっと表情を曇らせる。


「……それは、ゼペットさんから君への、誕生日プレゼントさ。もうずっと前から、熱心に作っていたんだよ」

「父さんが?」


自らに大きさも造形もよく似た操り人形と、靴の裏に彫られた文字をピノキオはじっと見つめる。この緊迫した状況に似合わず、人形は穏やかに微笑んでいた。

ピノキオは泣き出しそうな表情で、それでも無理に笑顔を作ってみせる。


「作られたものは作り手に似るって言うけど、本当かもね。この人形、僕に似せて作ったんだろうけど、あの人が笑った時の顔にちょっと似てるよ」



ロープを窓の外に垂らすピノキオに、コオロギが怪訝そうに問いかけた。


「ピノキオ、つかぬ事を訊くけど、どうやって私を連れて降りるつもりだい」

「そりゃあ当然、片手に君を乗せて、もう片手でロープを……」


ピノキオは、腕を使ってその動きをジェスチャーで示そうとした。しかし、できなかった。

何故なら、彼の片腕は男たちから逃げる際に、失われていたのだから。

コオロギは、呆れたように笑って首を振った。


「こうなったら、やむを得ない。私は置いていって、君一人で降りなさい」

「そんな! 嫌だ、コオロギが行かないなら、僕も降りない。これ以上、誰にもいなくなってほしくない!」

「馬鹿なことを言うな。ピノキオ、私は理想主義者だよ。でも不可能なことを可能だと言うほど、馬鹿じゃない。二人助からないとしても、せめて一人助かった方がいいに決まってる。これが最善なんだ、分かってくれ」

「分からないよ!」


ピノキオは鋭く叫んだ。


「僕は子供だ、それもとびきり物分かりが悪いんだ。友達が死ぬって言ってるのに、はいそうですかって言って自分だけ助かれるもんか。もうこれ以上、誰も殺させないでよ! 君までいなくなったら、僕は本当に独りぼっちだ」


縋る思いで、ピノキオは部屋中に視線を巡らせた。何か、この絶望的な状況を打破させる何かを見つけなければと、必死だった。あまり時間は残されていない。今ごろ一階が火の海になっていることは、想像に容易かった。いつ二階にも火が回ってくるか分かったものではない。


(早く見つけないと、コオロギが危ない。でも、腕の代わりになるものなんて……)


クローゼットを開け、かごをひっくり返して探す。ピノキオも、内心では分かっていたのだ。腕の代わりなどという極めて非日常的な代物が、自分の部屋に普段置いてある物の中にあるはずがないということは。しかし、それを認めたくなくて、半ば無駄と知りつつも、部屋中の物を無我夢中で漁っていた。


ふいに、誰かに呼ばれたような気がして、ピノキオは顔を上げる。しかし、コオロギは少年に背を向けていた。空耳か、と作業に戻ろうとしたピノキオは、ある物に気づいてそれから目を逸らせなくなる。じわじわと、少年の表情が歓喜に染まった。


「コオロギ、大丈夫だ! 助かるんだよ、二人ともだ!」

「なんだって、腕の代わりがあったのかい? いったい何が……」


驚きのあまり、散らかった部屋を見渡すコオロギにピノキオはかぶりを振る。


「違うよ、コオロギ。あるのは腕の代わりじゃない、『腕そのもの』だ! それも、これ以上ないほど、おあつらえ向きのね」


ピノキオは指差した。それが、この状況で部屋にあるのは一種の奇跡と呼べるかもしれなかった。普段部屋に置いている訳ではない、昨日初めて、それもまったくの偶然に、この部屋に置かれたものだったのだから。

コオロギは、ピノキオの言葉の意味を理解して笑った。しかし、その笑顔は奇妙にひきつった表情になってしまう。こんな巡りあわせが、本当にあるものなのか。歪な笑みは、彼の驚嘆の大きさを物語っていた。



「なるほどね。君、人形として生まれて、案外良かったんじゃないか? 普通に生き物の姿だったら、こうはいかない。仮に腕をすげかえたって、動きやしない。でも、君なら……人形の体なら、これができる」


コオロギのうめくような呟きに、ピノキオはからりと笑う。


「分からないものだね、人形として生まれたことに、感謝する日がくるんだから」

「あとは、すげかえた腕が無事動くことを祈るばかりだね。……『もう一人の』ピノキオの腕が、さ」





     ○     ○




 明け方、その町の住人たちは鳴り響くサイレンに起こされる羽目となった。夕べ遅くにも、祭りの会場で二人の子供が死んでいたことで、大人たちの間では相当な騒ぎとなっていた。小さな町で、ここまで立て続けに事件が起こるのは珍しい。話はすぐに、町中を駆け巡った。


「外の連中から聞いてきたよ。町一番の人形職人の家が、夜中に火事になったんだと」

「というと、ゼペットじいさんかい。あの人も気の毒にねえ……」


「じいさんは死体が見つかったらしいんだが、不思議なことに、息子の方は見つからないんだそうだ」

「息子? あのじいさんに、息子なんかいたっけ」

「ほら、あの無鉄砲な悪童さ。昨日殺されたっていう子供らとつるんでいた……もっとも、木でできた人形そっくりだったから、跡形もなく燃えちまったのかもしれないが」

「ああ、あの子……珍しいから覚えているよ。長い鼻の子だったよねえ。でも、それなら大して不思議でもないような気もするけれど」


「馬鹿、続きがあるのさ。火事の片付けをしている消防のところにな、突然見知らぬ青年が、じいさんの遺体を引き取らせてほしいと訪ねてきたんだと。どうせ身寄りのないじいさんだったし、黒焦げで悪用できそうにもない状態だったから、そのまま渡してやったらしいんだが」

「へえ、物好きがいたもんだね。どんな男だったんだい」

「この辺りでは見たことのない大人だったそうだ。だが、察するに、しばらく前に死んだロゼッタばあさんの方の親戚じゃないか?」

「そりゃまた、どうして……」



「連中が言ってたんだよ。その男が、死んだ息子やばあさんと同じように、長い鼻をしてたってさ」






        ○         ○




町中で噂されている張本人は、『度胸試しの一本杉』の下にいた。

天まで届くと言われる一本杉のもとには、かつて、登るのは不可能と言われたその杉に登り願いを叶えた、頑固で実直な人形職人が眠っている。


「うん、上出来じゃないか? さすがは親子だ、君も器用なんだねえ。初めて作ったとは思えないくらい、綺麗だよ」

「庭から持ってきた薔薇の花が、ここでもちゃんと育ってくれるといいんだけど。この場所なら、きっと女神様が見守ってくれているよね。天国に、ちゃんと行けるよね?」

「大丈夫さ。君が心を込めて作ったお墓だもの」

「……本当は、オオカミやネコもちゃんと葬ってあげたかった」

「残念だったけれど、仕方ないよ。私らより、役人の方が仕事が早かったんだから。ゼペットさんだけでも間に合って、よかったと思うしかない」


青年の足元で、コオロギは励ますようにピョンピョンと跳ねた。それを見て、青年は笑みをこぼす。


「ねえ、コオロギ。なんで僕、大人になれたのかな。正直、一生大人になれない覚悟もしてたのに」

「さあね。世界には答えのない問いがたくさんあるから。君みたいなきかんぼうの駄々っ子でも、こうしていつか大人になっちまうんだものなあ。不思議な世の中だよ、まったく」


辺りには青々とした草が茂り、心地よい風が吹いている。

すすのついた片腕の人形が真新しい墓に寄りかかって、二人を見守るように、静かに微笑んでいた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 子供の無知ゆえの悲劇、大人になりたいと背伸びするがゆえの無鉄砲な行動というものを上手く描いていると感じます。 大人の心を理解できずに凶行に走ってしまうピノキオの姿は、恐ろしいですが現実にも…
2014/03/01 00:46 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ