恋は雲のようで
月明かりの朧な夜
アトラシュの家で泊まり部屋にいたが、何故か寝付くことができずカオルは中庭で空を見上げていた。
よく見える星の輝きはまるで昼に見る海に反射する光のよう。こんなにもはっきりと星の姿が見えるのに、カオルには星座のひとつも分からない。だけど、それでいいのだと思う。ただ何も考えず、ただ美しいと思う感情があれば……それだけでいいのだと
「夜風は冷えますよ」
カオルは上げていた顔を下げ、声のするほうを見た。
「ミラ……さん」
遠くはない、けれど近くはない距離でひっそりと立っていた。彼女はふっと微笑むと空を見上げた。
「あの時の夜も、このように星を見上げていましたね」
「……え?」
「いやだわ、忘れてしまったのですね」
彼女はくすくす笑いながらこちらを見た。
「貴女と会話したのはほんの一瞬でしたから、無理もありませんわ。船から海へ落ちてしまったのでとても心配していたんですよ」
カオルはハッとした。
そうだ、アリーに攫われ脱出を試みた時に星を見ていた女性と少しだけ会話した。
あの時の女性はミラだったのか
「星の会話しましたね」
「覚えていて下さったんですね」
ごめんなさい、今思い出しました。
「カオルさん、不躾な質問をしてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「船で一緒にいた男性とはどういう関係なのですか?」
「……どっちのこと?」
「どっちって、一人しか……」
イブンは確かあの時いなかったっけ? じゃあアリーのことだろうか
「知り合い、ですかね。お互いの素性も詳しく知らない、あっさーい関係」
何も言わないけれど、信じてはいなさそうだ。
カオルは特に何も言うことはないので、黙って再び空を見上げた。そういえば、彼女は何しにここに来たのだろう。まぁ、彼女の家だから問題ないと言えばそうだが
「……ロスタムさんとは、どういう関係なんですか」
「ん?」
絞り込むような声に、カオルは聞き逃しそうになった。
「ロスタムさんは、あなたが作った布を大事そうに持っていました。それと同時に、とても苦い顔をしていました。切なくて辛くて苦しい、そんな顔」
「怪我、してたんですよね。だからじゃないですか」
サイードから後から聞いた話、彼は流されているのをアトラシュに幸運にも助けられ、こうしてここにいると
なにはともあれ無事でよかった。
「そんなんじゃないです」
(断言されても……)
その現場を見たわけじゃないから何も言えない。
困っていると彼女は頬を紅く染めて謝りだした。
「ごめんなさい! 私ったら困らせてしまって」
「いえ、別に……私とロスタムさんの関係は、まあ、雇用関係ですかね」
「それだけなのですか?」
「まぁ」
人にはいろんな意味では言えない立場の私なので、説明できるのはここまでだ。
「そろそろ戻りますか」
カオルは立ち上がった。すっかり体が冷えてしまった。
歩き出すと、下を向いたままのミラがふと顔をあげ、目があった。不安に揺れた瞳にある強い意志に、カオルは彼女が何を本当に問いたいのかを知る。
いや、最初っから分かっていて、あえてはぐらかしていたが、それも彼女の言葉でそれすら許されなかった。
「ロスタムさんが、好きです。アナタも、そうなんですよね」
ただの控えめな淑女ではないらしい。さすが豪人アトラシュの娘。
カオルは立ち止まり、彼女をまっすぐ見据えた。
「はい」
回りくどいことは言わない。聞くなら答えよう。偽りを纏うつもりも遠慮するつもりもない。
「それを聞けてすっきりしましたわ」
本当にすっきりした顔で彼女はほっと一息ついた。
「サイードさんと一緒にいるので、もしかしたら違うのかしら? って」
「? ふつう、逆じゃないんですか」
「はい?」
「え? や、あのー……私がサイードさんと付き合ってるほうがいいのでは?」
「そうかもしれませんわね。でも、それだと不利ですから」
「不利?」
彼女は微笑んだ。
「手に入らないものほど、人は心にずっと思い出として残してしまうものですわ」
「はぁ」
「もしロスタムさんが貴女のことが好きなら、手に入らないあなたのことをずっと想い続けますわ。そうしたら、もし、私がロスタムさんと夫婦になったとしても彼の心にはあなたが残ることになります」
「なるほど、つまりハッキリさせたかったというわけですか」
随分好戦的だな。
カオルは微笑んだ。―――嫌いじゃない。そういうの、でも
「私はあなたと争うつもりも、ロスタムさんに媚びるつもりもありませんよ」
「……と、いうのは?」
「恋は雲でしょ」
首を傾げたミラに何も言わずカオルは歩き出した。
ずいぶんと長いごと外にいてしまった、冷えた体を自分でさすりながら部屋に戻る。
雲の様につかみどころもなくふわふわして、心を曇らせたりするし、真実を曇らせたりする。恋は盲目というし、できれば雲が流れるが如く、のんびりその様子を見ていたい
(私はできれば単純に生きたいなと思ってんだけど)
布団にもぐり、横になりつつカオルは考えた。
本人の知らぬところで好きだ好きだと言いまわっているが……本人にはなかなか言えないものだ。
タイミングがないと言えばそれまでだが
(なんか今ロスタムに『好き』って言ってもなんか渋い顔されそう。そういえば、なんであいつ私の顔見て不機嫌になったんだろう)
会うのが嫌だったわけではなさそうだった。
いろいろあって理由を聞かず仕舞いだったが、聞いたほうがいいのだろうか、しかしなにせロスタムはやや子供っぽいところがある。クダラナイ理由だったら馬鹿らしいと思い放置していたが。
(うーん……明日聞いてみようかな)
あくびを一つ、カオルは夢の世界へ落ちて行った。
これから始まる喧騒も知らずに……。




