別れのようで
むしむしとした暑い日がゆっくりと過ぎていく中、カオルは一つの不安を胸に抱きながら廊下を渡り、そっと部屋に入る。
水の入った桶を机の上に置き、持っていた布を濡らしてきつく絞った。
「ガイウス様、大丈夫ですか?」
彼はあの日から、いやあの日の前から体調を崩していた。
「今日はだいぶいいよ」
「とかいって、前も高熱だしたんですから」
「ははは、まあ躰の都合だからねえ」
おでこに触れ、熱を確認する。今は下がっているようだが安心はできない。起き上がろうとした彼を優しく押し、ふとんをかけ直した。
「ははは」
「笑い事じゃないんですよ」
医者を呼んだら、彼はもう助からないと率直に述べた。彼にかかっているのは悪疫性の発熱らしく、生命の気力を消耗させる死に至る発熱に分類されるとか言っていたが、カオルには理解できなかった。
現代の医者とは違い体中をスキャンして調べることはできない、古代の医者の腕を疑うわけではないが、発展した現代の医学を多少なりとも知っている故に、これで本当に大丈夫? と心配してしまう。
もっといい医者に診せるかとも考えたが、勿論そんなツテもないし、カオルがどうこうしてどうにかできそうな病気ではなさそうだ。
ただもどかしい。
「キィ」
「はい?」
軽く起き上がらせ、はちみつ入りの酢卵を彼に渡す。彼は弱弱しく手に取り、ゆっくり飲んだ。
軽く一口飲んだ後、彼はたどたどしく口を開く。
「もし私が死んだら、この屋敷を売り、君の財産にしなさい。また、私が死んだら君はもう奴隷ではない。主として君を解放しよう」
「ガイウス様!!」
カオルはガイウスの肩を掴んだ。
「バカなことを言わないで下さい! 病は気からっていうじゃないですか。そんな気弱なこと言わないでください……私まだあなたに返事だってしてないし、お礼もできてない! あなた死んだら、私一人じゃないですか!! 一人にしないでくださいよ……責任取ってくださいよ」
言いたいこと言いまくって、酸素を吸うけど、どうもすっきりしない。
分かってる。途中から自分でむちゃくちゃ言ってるのは分かってるけど、この溢れる感情はどうにも止められなかった。
今、カオルにとって頼れるのは彼だけ。
彼はそっとカオルの頭を撫でた。
「!」
その動作に顔をあげると、彼は微笑んでいた。
優しい笑み、彼と一緒に居た中で一番優しい笑顔。
もう、それだけでカオルは彼の言いたいことを悟ってしまった。
(嗚呼……あぁっ)
――――なんて優しくて……切ない、微笑み。
カオルは止められない嗚咽を漏らした。
「うっ、うぅ……わああああああああああっ」
お別れらしい、カオルは涙を流しながら拳を握りしめ立ち上がった。止めようと何度も目をこするが、涙は止まること知らず、赤く腫れていくのが分かる。
ガイウスは優しくカオルの背を撫で、何も言わない。
「ふっううう……ひっく、なっ、なんでっ、なんで……っ!」
どうしてガイウス様が死ななければいけないの? どうしてこんなに早く。何も私はできないの?
なんて無力、なんて無知、泣くことしかできないなんて
「ごめんなさい、もっと、もっと……一緒にいたい。うううっ、」
「キィ、ありがとう。ありがとう……ありがとう」
手を握られ、優しく言葉を紡ぐガイウス。
涙を流しながらカオルはなんとか呼吸を整え、頭を下げた。
「……っありがとう、ございました」
ローマで、いやこの古代で貴方に出会えて本当に良かった。会えるなら、また貴方に会いたい。
三日後、激しい高熱を何度も繰り返し、最後に大きな高熱を出してそのまま帰らぬ人になった。彼の遺言通り、邸を売り、奴隷の服を脱いで一般市民の服に着替えた。キィはもう奴隷ではない。
彼の財産の半分以上は彼の墓と、墓守を雇うことで消えた。わずかに残った財産で、さぁどうするか
「はぁー……」
涼しいを超えてやや肌寒い。
とことこ歩いていると後ろから声をかけられた。
「キィ!」
「イリアス様」
駆け寄ってきたと思ったら急に抱きついてきた。
「ガイウス殿、亡くなってしまったんだって? 大丈夫?」
「えぇ……なんとか」
サヴァスがゆっくり近づいてきてニヒルな笑みを浮かべながらカオルを見た。
「奴隷じゃなくなったんですね。奴隷解放宣言あの人なら確かに言い残しそうですが」
「黙れサヴァス! ごめんねキィ」
カオルは何も言わず、歩き出した。
「キィ、どこへいくの? 行く当てあるの?」
「行きたいとこはあります。でも行き方が分からない」
「僕が案内しようか?」
「いえ、案内できるほど近い場所じゃないので」
カオルは立ち止まって振り返った。
「私は帰りたいんです。私の故郷に」
アッシリアの、ナサ家のところへ……
イリアスは私の意思を感じ取ったのか、伸ばしていた手を引っ込めた。
「……キィ」
「?」
彼は涙を浮かべた瞳でカオルを見つめた。
「僕君が大好きだよ。僕のこと見た目だけで見なかったし、僕が危なくなったら自分のこと気にせず助けてくれた。他の人とは違う。君から色んなことを学んだよ。できたら恩返ししたいと思ってる」
「いえ、当然のことをしただけですから」
「キィといた日々は短すぎるよ。もっともっと君を知りたい。できれば……ずっとここにいてほしい」
カオルは口を開こうとしたが、それを遮る様にイリアスは「でも」と続けた。
「きっと、カオルの居場所は此処じゃないんだね」
「イリアス様」
「いままで本当にありがとう……さようなら。キィ、大好き」
「ありがとうイリアス様」
きっと、もう二度と会わないだろう。
お礼を込め微笑み、彼らに背を向け歩き出した。行く当てのない前進
ある意味、私らしい
ここで一気に恋愛フラグへし折ったという…
ぼちぼちアッシリア方面に戻っていきます。
……まっすぐ帰れないのがデフォルトですけど




