冷静なようで
ひっそりと、いや訂正しよう。堂々とナナとルシアを置いて私はウガリットへ一人戻った。
私の給料では二人の面倒を見るのは無理だ。ルシアはともかく七菜はなんか金かかりそうだったし、何より彼女には彼女のすべきことがある。
根拠のない予想だが、あそこの病院は単に人手不足のような気がする。アレク先生は聞けばギリシアの有名な先生らしく、腕はすばらしいモノと評判だった。なのになぜあのように患者が多いのか。
考えられるのは先生のすばらしい評判に患者が縋りつきすぎたせいか、もしくは原因不明の病のせいか。
七菜は病気はネズミのせいだといった。これまた根拠はないが、私もそう思う。
先生が包帯をまいてくれんかと、患者に包帯を巻いたとき、患者の腕に何かに噛まれたような穴があいていた。何も思わずただ従っていたが、ネズミのせいなら合点がいく。
だとしたら、人から人への感染はない。
「七菜がネズミ狩りをするか分からないけど、したらきっとあとは先生次第かな」
感染病ではないなら病原の根元を潰せば、あとは病気になった患者を先生が治すだけだ。
投げやりといえばそうだが、私にできることはない。
先生は研究熱心な人のようだからきっとこの病気はなくなることだろう。
それでも滅んでしまうのは栄枯衰弱、仕方のないことだ。私がどうこうできる範囲ではない。
「……」
「カオル殿?」
ハッと正気に戻ると、自分が先ほどまで手に持っていた粘土板が床に落ちているのが見えた。
「あ、すいません。ボーっとしてました」
「大丈夫ですかな?」
ニコリとほほ笑み頷く。どうやら考え込みすぎたようだった。
(まぁ本当は最後まで付き合ってやりたかったんだけど)
一度手をつけたものは最後までやり通すという頑固な性格のカオルだったが、自分で三日間だけ付き合うというふうに決めていたので断念せざる得なかった。
カオルにとって、恩人の家の手伝いをすること。それがなによりも大切な優先事項だったため、中途半端になってしまった。最初から最後まで付き合えるとは思っていなかったが、やっぱり気になる。
けれど一番気になることは
『商人の人が、商人の、あの男の人……私を助けるために、敵と一緒に川に落ちっちゃったの』
あの時の七菜の言葉。
一体誰? 商人のあの男の人ってだれのこと? 川ってどんな川なの? 流れが速いの? 岩が険しいの?
(死んでしまうような川なの……?)
「カオル殿」
「あ」
カリフに肩を優しくつかまれ、粘土板を取られた。集中しなければと思えば思うほど、うまくいかない。
「今日はもう休みなさい」
(私、ダメだなぁ)
普通なら怒られてもしょうがないというのに、優しくカリフはそういい、カオルの背を押した。
何も言えず、ただ頭を下げて家へ戻っていく。
家に戻っても、何もやる気が出ない。食事をとる気にも、材料を買いに行く気にもならなかった。
ただ気怠い感覚がカオルを襲った。仕方なくもう寝ようと布団に入ったが、日はまだ高く、眠りにつくことはできなかった。
(……?)
手が震えていることに気が付いた。
嗚呼、そうか。
「怖い……怖いんだ」
私は恐怖していたんだ。
「誰が居なくなっても、誰が欠けても嫌だ。怖いんだ」
そうか、変わらない日常を私は求めていたんだ。
「もう、異変なんていらない。世界が変わる変化なんて求めてない。神様、お願いですから」
私から誰も奪わないで、世界すら変えてしまわないで、恐ろしい。怖くてどうしようもできなくて、もどかしい。私は、ただ普通に生きて、普通に過ごしていたいだけなの、お願いだから、大事な人たちを私の日常を奪わないで
「ロスタム、みんな……ッ!」
御願いだから、いなくならないで……!
ふわっと、何か温かいものに包まれた。
「!?」
顔を上げると、アリーが居た。
普段なら何故ここにいると怒鳴り散らすところだが、人恋しい切ない気持ちが勝り、その抱擁に甘えた。
「カオルちゃん、泣かないで」
泣いていたのか、と頬に手を当てると、確かに濡れていた。
「な、んで、ここに?」
「夜這い」
バカという言葉は熱く荒い口付で飲み込まれた。
「世界がツレナイのなら、いっそそんなもの捨ててしまって。俺と、二人だけで旅に出る?」
流れた涙の後を舐めながらアリーは言った。
「嫌」
カオルはハッキリ断った。
「傷つくわぁ」
「嫌。だって世界はまだ近くにいるから」
遠くに去ってしまったわけではない、まだ私はここにいると実感できている。まだ、できることなら縋っていたい。この世界に
アリーは微笑んだ。
「そっか、なにがなんでも俺といるのが嫌っていうのね」
「誰もそうはいってない」
「へぇ」
アリーは、カオルを自分のほうに引き寄せた。
「俺もカオルの世界に入れてよ」
カオルは腹部に痛みを感じ、意識が遠くなるのが分かった。
「あ、アリー……?」
「というか、俺の世界においでよ」
気絶したカオルの頬をなでながら、扉の前で待機していた部下に声をかけた。
「戻ろう。エジプトへ」
カオルの頬に再び唇を落としながら微笑む、そんな彼を見ながら従者はため息を漏らした。
「どうなさるんですか、その婦人」
「もちろん、俺の嫁にする」
その掛け合いはカオルには届かない。意識のないカオルは体を運ばれても抵抗できないままだった。




