水瓶の日のようで
カオルは割と近くに水場があったので、壺に水を汲みいれ少しだけと休憩に入る。水壺に縁がある日だと心の中で思いながらため息を吐いた。
―――なぁにしてんだろうなぁ
鳥が鳴いた声でいいかげん戻ろうと思ったカオルは、横に置いていた水瓶を持ち上げた。
と
「……」
水場の水を飲んでいた鼠と目があった。
「うぎゃ!!」
俊敏に動いたソレは一瞬カオルのほうへ向かおうとしたが、やっぱり気が変わったのか迂回して家の隙間へと潜り込んで逃げて行った。
カオルは心底ホッとしながら壺を見た。
「えー……」
ネズミも飲んだ水を汲んだことになるのだろう。さすがにこれを人に飲ませるのは……しかし、他に水場のある場所をカオルは知らない。
「……うーん、あぁ、そうだ。あーでもなぁ」
悩みながらカオルは病院に戻った。
「先生」
「おぉ、場所は分かったか?」
「えぇ、ところで水はすぐ必要ですか?」
「いいや? まだ大丈夫だが?」
「そうですか」
壺を持って再び移動する。
「そこら辺に置いてくれればいいぞ?」
「いえ」
カオルは振り返った。
「一度沸騰させてから、また水場で冷やして戻ってきます」
すごい二度手間だけど、こうしたほうが個人的に安心だ。
アレク先生は不思議そうにカオルを見ていたが、その後患者に呼ばれ去って行った。
しばらくして、冷やしていた壺を再び運んでいると、遊んでいた七菜たちが戻ってきた。
「ネー何してるの」
「ボク、運びます」
「頼むよ」
ルシアに壺を渡す。大きなツボにも関わらず、手慣れたもので安定して運んでいるのでやっぱりいいと断らずに済んだ。
「なんかねー。水が汚いぽいからあんまり水場の水飲まないほうがいいかも」
「綺麗だったよー?」
「いやいや、ネズミも水飲んでたから」
七菜はええっとひいていたが、ルシアと他の子どもたちは首をかしげた。
「生き物だから、水を求めるのは仕方ないかと」
「鳥さん飲んでるの見たー」
「私、カエルさん泳いでるの見たー」
鳥は百歩譲っていいけど、カエルさんは嫌かなー。
公開された水場は湧き口から飲めば安全なのだろうけど、溜められた水は少し怪しい。安全が確実じゃないと不安になる日本人的には、潔癖なまでにできる対処はしておきたい。
こういうときは細かいよねって友達に言われたことがあったとカオルは思い出した。
「もどりましたー」
「おう、お疲れ。なぜ沸騰させたんじゃ?」
「鼠が水を飲んでいるのを見たので、同じ水を飲むのはアレだったので、ちょっと殺菌できたらなぁって」
壺をルシアは運んで行った。それを横目にカオルは先生に聞いた。
「鼠、多いんですか?」
「そうさな。貿易が盛んになったり、去年の作物が豊作だったりすると増えるな」
まぁ、そうでしょうね。港で鼠を見かけたのは鼠も荷物にまぎれ海を渡るのだろう。
……ん?
「なんかペストみたいだな」
「何て?」
カオルは口を押えた。この時代には無い病名だった。
(危ない危ない―――私としたことがあやうく……)
「あー、私知ってるよ。ねずみが運ぶ病気だよね」
カオルは七菜を見た。
「え?」
何かやばいこと言っちゃった? みたいな顔をしている。いや、まぁ一番最初に口滑らせたの私だけど。
「病気とな」
興味深いとアレク先生は七菜に近寄った。
「こういう病気なのかな?」
患者を指差し、赤くなった肌を見せる。七菜は首を横に振った。
「肌が黒くなる病気だったと思う。確か鼠に噛まれると感染しちゃうんだよね?」
カオルは同意できず、さぁどうだったかなぁと誤魔化した。
「……ああああ!!」
七菜はカオルを掴んで連れて行った。
「何、何々!?」
「分かったよ紀伊さん!!」
「何が」
頬を赤く染めて興奮した様子で、満面の笑みを見せた。
「女神演じて鼠を駆除するの! そうしたら流行病は終わるわ!」
「鼠のせいにしちゃうの!?」
「絶対そうだよ! っていうかそうしちゃおうよ」
「おい」
最後願望になっていたぞ。
七菜はお得意のご都合展開を妄想しているらしく、キラキラと目を輝かせていた。
「でも、それで流行病治らなかったら?」
「すぐには治りませんって誤魔化す」
じゃあ鼠のせいにしなくてもいいのでは?
「カオルさん」
アレク先生がやってきた。
「そのお嬢さんと知り合いですか?」
「えぇ、まぁ」
「いやはや、お嬢さん。なかなかいい着目点を持っている」
というか思いつきなんだろうけど。
「鼠で病気になるという話もっと詳しく聞かせてくれんか? 確かに鼠に噛まれた成人男性が死亡した例があってな、もしかしたら流行病もそうかもしれん」
「…………」
七菜は笑顔を固めたままこちらを見た。
たぶん彼女の言いたいことを察するに―――私、ネズミに噛まれたら死ぬってことしか知らない。―――だろう。
カオルはため息を吐いて、七菜の前に立った。
「アレク先生。実は彼女黙っていたのですが、アッシリアの女神、イナンナ様なのです」
「え?」
七菜を後ろに隠しながら先生に迫る。
「ですから、このように我々にはわからぬことをよく言うのですが、あくまでそれはヒントだけなのです」
「なるほど神は、我々医者に試練を与えているということかね」
「えぇ、女神様いわく『鼠は海を渡る』とのことです。なので別のところの病気を運んできてこのヒッタイトに疫病をもたらしているのではないでしょうか」
嘘ではない。ねずみはその体に血吸いダニやノミなどをつれて人の蓄えている作物庫などに侵入したりする。家の中では寝ている人に噛んだり、水を飲んで細菌のある唾液を混ぜたりなど、さまざまな方法で病気の原因をつくる。
「故国を出てこのように女神に出会えるとは思いもしなかったな。嗚呼、私にはアスクレピオスがついていると思ってもよいだろうか」
「人から人への感染はないはずだから、看病頑張ればきっと治るよ」
七菜は見えない花をちらちらと飛ばしながら微笑んだ。
いや、それはないだろう。といいたかったが、女神様といった手前否定はできないし、まぁいろんな意味でその言葉に間違いはないので気にしない。
「ところで、アッシリアの女神がなんでヒッタイトに?」
当然の疑問だった。




