運命の出会いなようで
陰干ししていた粘土板が倒れた。
「え? 今なんて?」
倒れた粘土板を起こすロスタムを横目でにらみながら、粘土板にまだへたくそな楔形文字を掘りこんでいく私に、彼はにこやかな笑みで言い放った。その憎らしい顔に粘土投げ飛ばしてやろうかとも思ったが、いいかげんいい歳なのでどうにか我慢できた。
「だから、アッシュールへ行くから、その準備をしろといった」
「え、いや意味わかんないし、アッシュールって首都じゃん」
「首都以外の何でもないな、ちなみにお前は俺の荷物持ちだ」
「ンなこと聞いてないよ。しかも嫌だよ」
私がこんなに嫌がっている理由は一つ。……まだ流暢に言葉を発せないからだ。
今こんな風にすらすらしゃべってるように聞こえるだろうが、私のイメージだし。実際はあれだ、カタコトしゃべってる感じだ。恥ずかしいヤダヤダ本当に笑われるんだもの。
それにロスタムなら本気で荷物持ちさせそうだし。たまにこいつ私のこと女とみてないんじゃないだろうかと思う。
「大丈夫、一年過ぎたあたりからマシに聞こえるようになってきた」
「褒めてないし。フォローにすらなってないし」
せっかく書いた楔形文字が手に力を入れすぎた結果、ただの粘土となってしまった。
ちなみに、この粘土板は河からとってきた泥で、板の形にして文字を刻むのである。現代では捨てるほどある紙はこの時代ではとっても高価で、王族でさえ手に入れるのが難しいのに、一般市民が手に入れられるわけがないよねって話。
泥に文字を刻むとか、現代では考えられなかったよ。
蛇足だけどこれに干し草を混ぜると煉瓦になるんだそうだ。
「お前にも幅広い商人としての顔を利かせてほしいという親心なのに……」
うぅっなんて嘘らしい泣きまねをし始めるロスタムに本気でイラッとする。
というかいつから親になったんだ。
「そういってカールムに連れて行って、笑いものにしたじゃんかよ!!!」
私は忘れない。笑いものにされたあの日を!
カールムとはアッシリア商人の居留区で、港を意味する。アッシリア商人の大使館みたいなものらしい。
いつのまにかロスタムは泣きまねから思い出し笑いに変わっていた。
「ひーひー! あっははは。アレは傑作だった! お前半年も経ってたのに、3、4歳児と同じぐらいしか話せなかったものな!『これ、かおる、私。よろしく』ぶはっははは!!」
笑いながら机をバンバン叩くものだからせっかくの粘土板が全部床に落ちる。
「くそ、腹が立つ」
失敗した粘土板をこねこねと手の中でもう一度こねなおし、長方形の形を整える。紙とは違い嵩張るし、やり直すのに時間かかるのが難点だ。
「っていうか、なんで首都私も行くわけ!? アクバルさんとサイードさんらと行くんじゃないの?」
「父上はまだ帰れないらしい、サイードは父上と一緒に出たろ?」
「あ」
サイードはロスタムの弟で、兄とは違い大人しいから気が付かなかった。
四兄妹の中でも一番おとなしくて賢いと思う。彼以外は我が強いというか負けん気が強い。それでよくアクバルさんに怒られてるのを見ているから尚そう思う。
「ま、正直興味本位さ」
「何が」
「首都に何しに行くと思う?」
「……?」
何って、商品売りに出たり、仕入れたりじゃないの?
ロスタムはふふん、と鼻で笑った。
「城に売り物を献上しに行くのさ」
「じゃあなおさら関係ないじゃん。そういうのってふつう男だけでしょ」
「お前ってほんっとう情報に疎いよな」
「まだ稚拙な言葉しか話せませんから」
威嚇するようにイーッダっと歯を見せれば、鼻をつままれた。ニヤニヤ悪戯を思いついたような子どもの顔をしたロスタムに嫌な予感しかしない。
「何さ」
「最近女神の象が売れるって、シーリーンから聞かなかったか?」
「あ……イシュタルの壺だっけ?」
「そう、それは前から人気だけど、もう一つ、イナンナの象さ」
イナンナ……ほとんどイシュタルと同一視されている女神で、天の女主と呼ばれている。確か金星の女神で、金星が見えたら皆イナンナの季節だねぇとかいってたような……。私は星を見てもすべて同じに見えるし、どれがどれだか分からないから共感できなかったが、古代では星と神は親密な関係にあるらしく、信仰の対象にもなっている。
「で? それが?」
「我らがアッシリア帝国に、イナンナが降り立ったらしい」
「馬鹿な、っていったら信仰者に殺されそうだから、無かったことにして。それで?」
「俺も同じ意見で、よくよく聞けば異国の見たこともない服を着ていたらしいし、よく謎の言葉を吐くそうだ」
「それって」
「あぁ、もしかしたら、お前と同じようにトリップというやつをしてきたかもしれない」
「なるほど!」
って、あれ?
「イナンナって女王みたいなもんでしょ? なんでそう呼ばれてんの」
女王様でも降り立ったの?
「それは知らん。勝手にそう呼ばれてるんじゃないのか? とりあえず興味持ったろ? 行くぞ」
手をつかまれ立ち上がる。
「っていうか一緒に行きたいなら最初から素直にそういえばいいじゃん」
「は? 一緒に行きたいわけないだろ、女ってすぐ腰痛いって休ませろーって煩いんだから」
「じゃあお留守番でいい?」
鼻を再びつままれる。自慢の鼻ではないが形が変わるからやめてほしい。
「自分を女神と讃えられているのは、異国から来たからだろ? 同じ境遇のお前を見つけたらイナンナ様はどうリアクションするだろうな!」
「性格悪いね」
ウキウキとした彼には言えなかった。
(正直、興味ないんだけど……しかもめんどくさいし)
狭い範囲だけで生きていたいと考えているカオルにとって首都も、ましてや同じ境遇にあるかもしれない女神様にも微塵の興味もなかった。
むしろ何故ロスタムがそんなに興味もっているの分からない。
ため息一つ吐き、しょうがないと諦めたカオル。
しかし、彼女との出会いがこの先の運命を変えるということを……予想だにもしなかったのであった。