旅たちの日は近いようで
温かい日の日差しが窓辺から部屋を暖かく包んでいた。
「待ってたわカオルさん」
部屋の中心で座っているマミトゥさんはカオルの顔を見るなり、優しく微笑んだ。
「お待たせしました。えっと、私に話とはなんでしょう」
「カリフさんに呼ばれてヒッタイトへ行くんでしょう? あそこはよく疫病が流行るの、貴女にもかからないか心配で、だから、これを持って行って女神イナンナの象よ」
アラバスター製のイナンナの象は滑らかで美しく、精巧に作られていた。
それを受け取る。そして私は必死にそれを眺める。なぜかって、マミトゥさんのほうを見たくないからだ。
ただしくは、マミトゥさんの後ろに山のように置かれている荷物の数々
「私心配で心配で、ほら、持つものがたくさんあればあるほどいいでしょう?」
笑いながら振り返り、背後においていた荷物のやまをゆっくりとした動作で目の前に置いていく、その様子はまるで今から商品を売るようで、私はそれを眺めながら遠い目をしてしまう。こんなに買う客も、そうそういないだろう。そして、これは売買のためのやり取りではなく、好意だからこそ、どうしようもできない。
おずおずと荷物の山を見上げながら彼女に問う。
「あのう、これもしかして」
「持っていきなさい」
「いえ、あのう。でも悪いですし」
「持っていきなさい」
「ただでさえ赤字なのに私なんかのために」
「持っていきなさい」
「や、でもさすがにこれちょっと量が半端でないというか」
「持っていきなさい」
「……」
「持っていきなさい」
何も言えない、声をかけようとすると
にこにこと言い切る。なんという、永遠ループ。しかし前から思っていたけれどマミトゥさんエゲツナイ。
こんこんとノックのする音が聞こえ、振り返るとシーリーンとホマーが立っていた。
「母さん、これ多すぎよ? あんまり大荷物だと門を超える前に兵士につかまって検問受けちゃうわよ」
「あら、そうかしら……?」
「そうよ」
思わぬ救い船。助けない宣言していたのにやっぱりシーリーンさんは良い人だ。
「必要な分だけでいいのよ」
「じゃあ、これと、これ、あら、これもでしょう? これも必要だし、あれも、それも、やっぱり革は持たないとねえ、知ってる? 革製の水袋ってとっても便利なのよ? そうそうこれ忘れてたわ」
「一向に減ってませんが」
むしろ増えましたが。今目の前で
「まあ、出立はあさってだし、のんびりしたら?」
「はぁ」
別の部屋にいたホマーが扉の外からこちらを覗き込み、目が合うと駆け寄ってきた。
「カオルまでいっちゃったら、さみしい」
そういって強く抱きついてくる。
「ホマーちゃん」
頭をなでる。彼女には現代の子どもには無い愛らしさと素直さがある。変におしゃまなところはあるが、やはり甘えたがりなところは年相応らしい。
「こら、ホマー。カオルさんを困らせないの。カオルさんは少しカリフさんのお手伝いで空けるだけです。必ず帰ってきますよ」
「うん」
「そうですよ、ホマーちゃん」
「ほら、ホマー。お姉さまなら私がいるでしょ?」
「うん」
そういってもやはり私に強く抱きつくホマー。
「ヤクソクよ? カオル」
「はい、もちろん」
私は明日。ヒッタイトへ向かう。初めての地で、初めての異国、そして旅をする。私って意外と怖いもの知らずだわ
手に持っていたイナンナの象を眺める。アラバスターできたそれは妖しくも美しい、人は、何故神に祈りを捧ぐのか、人は何故偶像を作ってまで神を崇拝するのか
「人は、人を信じないのかしら」
「え?」
「いえ、何も」
私は、神を信じたりはしない。かといって、私自身を過信したりしない。
運命、それが定めというなら、私は、今歩いている自分の道を信じたい、迷走でも
「イナンナって、作物は守っても、人は、守りませんよね」
「あ」
私の呟きに、あ、っという声を上げるマミトゥさん。
「ごめんなさいねぇ、つい、いいものだって言われたから」
「母さん……」
商人の奥様がついうっかりでいいのだろうか。それが彼女のいいところではあるが
「お気持ちだけ、戴いておきますね」
イナンナは置いて行こう。私には不要なものだから。私が信じる者はイナンナではなく、人である。
カオルは立ち上がりマミトゥの部屋を後にした。