私はそんな人のようで
優雅に香るこの匂いは何の匂いだろう。虫よけに香を焚くのだと言っていたが……甘ったるすぎてちょっと酔ってきた。
カオルは気分転換に外に出ることにした。その道中に灯りの点いた部屋があったのを見つける。
そっと覗き込めば何かを真剣に見つめるアリーがいた。
彼の部屋だったのか。
この家の使用人たちはみんな彼に頭を下げる。この家の主でさえ彼に愛想笑いを浮かべていた、けれどこの部屋は私たちがいる客人用の部屋よりも狭い。
「……」
カオルは扉を小さく叩いた。
「!」
アリーと目が合うと、彼はにっこりと笑った。明らかに作り笑いだ。けれどその作り笑いこそがもはや彼にとって本当の笑みなのかもしれない。
「寝ないの?」
「こっちの言葉だよ。女の子は早く寝ないとお肌にくるぞ」
「殴るぞ」
なぜか無性に腹が立った。
「まあまあ、そんなとこにいないでさ。どうぞ」
アリーはおいでおいでと手を動かすので、カオルは遠慮なく彼が用意した椅子に座った。
彼が見ていたのは書簡らしい。エジプトの文字は私には読めない。いや、古代の文字読めたらすごいけど。
「アリーってさ、お母さんヒッタイト人だったんだよね」
「そう」
「どんな人だった」
「さあ……」
アリーはベットに寝転がった。
「あんまり覚えてないなぁ。小さいころに疫病で死んだし……。人から聞いた話によると妓女だったらしいけど」
「へえ……きれいな女性だったんだろうね」
「まあ、俺がイケメンなぐらいだし?」
こっちを見て笑うアリーに、そっと握った拳を見せると「冗談です。」と即撤回した。
顔は悪くないんだから撤回しなくてもいいのに……ただイラついたから拳見せただけなのにね
「アリーって、イブンのことどう思ってんの?」
「え?」
嫌そうな顔を見せた。
「何?」
「いや、どういう意味で聞いてきたのかなって」
「普通に、心許せる相手的な……何だと思った?」
「内緒。……イブンねぇ」
アリーは起き上がり、机の上にあるツボを指さした。
「酒とって」
「重……はい」
「ありがと」
彼は酒を一口飲んで、にこっと笑った。
「イブンは俺にとって大事な駒だ」
「駒……」
「俺とイブンは血のまったく繋がらない兄弟でさ。あっちのが兄貴なのに、親父に言われたかどうかしんないけど、俺に黙ってしたがって子分扱いされてんの」
「……」
「親父的にはさ、俺の血に流れてる王の血に期待してるみたいなんだよね。ファラオはいつ崩御してもおかしくねー年齢だしさ。王宮内もいろいろ汚れきってるみたいだから、もしかしたらって思ってるらしーよ」
「どんな確率だろうね」
「俺がカオルちゃんとラブラブできる確率ぐらい」
「そうだよね。皆無だわ」
「……うん」
切なそうに酒を飲むアリー。カオルは手を伸ばした。
「頂戴」
「いいよ」
口に含めば酒の味が広がる。口内炎あるとき飲むと大ダメージ。
「ふあ……あぁ、たまにはいいもんだね」
「なんで急にそんなことを?」
「ん? んー。昨日さ、聞いちゃったもんだからさ。アリーが王族の血をひいてるって。普通にカミングアウトされると思わなかったけど」
「隠してないしね。王族的には知らねーよって無視されてるっぽいけど」
「まあ、そうなるでしょね」
「ね」
酒を机の上に置いた。窓の外から見える月はきれいな満月だった。
「俺的には、どうでもいいんだよね」
「何が?」
「俺自身どんなふうに思われようが、どう扱われようが」
「どうして?」
「他に行く場所ないからさ」
アリーはそう言って少し寂しそうに膝を抱えた。そうした行為から初めて彼が幼く見えた気がした。
彼は蜂蜜色の肌を見つめながら、ぽつりつぶやいた。
「本当の両親はいない。ここだって本当は俺の家じゃないし……王族の血をのけたら俺の価値なんてないんだよ」
「……」
「それを認めたくなくて、各国行き来して……イブンを引き連れて暴れてみたりさ」
珍しく弱弱しいのは、彼の心の闇に触れてしまったからか……それとも酒の力なのか。
カオルにはわからなかった。それでも、彼が今どうしてほしいのかはわかった。
「よしよし」
頭をなでる。
サラサラな短毛はなでるたびにはねる。
「……カオルちゃん」
「アリーは一人じゃないよ。アリーにはちゃんとそばにいてくれる人がいるじゃない」
「カオルちゃんだとうれしいな」
「分かってるだろ」
頬を軽く抓ると唇を小さく尖らせた。
素直じゃないな。カオルは小さく笑う。
「本当に嫌なら、あの人の性格上ハッキリ言うだろうし。気に喰わないものにはすごい目つきで睨んでくるじゃん?」
「……」
「駒なんて言ってるけど、ホントは頼りにしてんでしょ? イブンのこと」
口にはしていないけれど、彼のことを本当の兄のように頼り、甘えているのは傍から見てわかった。
酒に手を伸ばしたアリー。彼が飲もうとするのと同時に声が聞こえてくる。
「アリー様。まだ起きていらしたのですか? もう寝たほうが」
イブンと目が合うカオル。
彼の目がギラリと光った
「まったくぶしつけな人ですね。夜中に男性の部屋に上がり込むなんて。尻軽なんですね」
「なんでそこまで言われる?」
カオルは立ち上がった。
「別にちょっと話してただけだし。なに? あんたむっつり助平なの? それとも小姑なの? 小姑一人は鬼千匹に向かうって言葉知ってる?」
私は嫁じゃないけども。
「知りたくもありません」
ツン、とそっぽを向くイブン。アリーのほうをカオルは見た。いつものようにのんびりこちらのいがみ合いを楽しそうに眺めている。
「何? アリー」
「いや、相変わらず」
「「仲良くない」」
「記憶ないのにすごいハモリ具合」
「なんか酒飲んだらこの人のこと、物凄い面倒に見えてきたの」
「帰れ酔っ払い」
「一口しか飲んでない!」
アリーは立ち上がった。
「はいはい、喧嘩しない。寝る前に一杯付き合ってよ」
イブンに酒を渡すアリー。彼は素直に頷いた。
「じゃ、カオルちゃんお休み」
「うん、じゃ」
「あぁ、待って」
扉の向こうへ歩き出すと同時に呼び止められ、振り返るといつのまにか背後にいたアリー
ちゅっ。
軽いリップ音が耳元で聞こえた。
「っ」
「ばいばい」
扉を閉めるアリー。
「……油断も隙もない」
キスされた頬を抑えながらカオルはそう眉を顰めながらつぶやいた。
「アリー様はあの女に気を持ちすぎでは?」
「またその話か。いいんだよ俺の勝手だろ?」
「あの女のどこがいいのやら」
酒に酔っているのかやや赤い頬に手を置いて胡坐をかくアリー。
「そりゃ決まってるじゃん。……着飾らないところだよ」
人は愛想を浮かべ嘘つく
相手を見て態度を変える
平気で悪態を吐く
自分に王族の血があると知れば、へらへら笑いながら媚びを売ってくるのに。その血に価値がないとわかると手のひらを返したように蔑む。
そんな人間ばかり見てきた俺にとって、彼女は稀な人間だ。
誰であろうと手を差し伸べる。自分の気持ちをハッキリ言う。身分を気にせず、老人や子どもに対して常に気配りをする。当たり前のことだと人は言うが、できていない人間だって大勢いる。
俺は彼女のような人をずっと待っていた、探していた。
手に入らないということはわかっている。けれど、想うのは自由だろ。
それに
「まだ負けたわけじゃねーし」
頑固な彼女の心ではあるが、今はどうかな?
そう笑うアリーにイブンは小さくため息を吐いた。
「投げ飛ばされないようにだけは、気を付けてください。まったく」
小さく笑った。
「仕方ない人だ」
「酒入るとお前もご機嫌だなー」
「別に。あなたこそご機嫌ではないですか」
夜は深く。朝は遠く。とりとめのない毎日は続いていく。