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五 涙雨の章

《涙雨の章》



慶応3年11月15日(1867年12月10日)


昨日から雨が降り続けていた。



午後6時過ぎ、慎太郎が京都河原町の近江屋(おうみや)を訪ねた。


使用人の案内を待たずに彼は階段を駆け上がる。


早足だが足音を抑えた彼らしい歩き方だった。


「おぉ慎太、こっちだ!」


奥の部屋の方から龍馬の声が聞こえた。


一応、襖は丁寧に開ける。


その部屋で、龍馬が呑気な顔をして酒を飲んでいた。


慎太郎は龍馬の眼前に紙を広げて突き出した。


「これ、なにかぇ?」


「紙」


「ちがう、なんと書いてある!」


「おまえ、字が読めないがか?」


そんな龍馬のとぼけた態度に、慎太郎は紙を丸めて足下に叩きつけた。


「大政奉還てなんだと聞いちゅうが! なんてことしてくれたんだ…」


「なにか都合が悪ぃかえ?」


「悪いに決まっちゅう。こっちは兵の数も武器もそろえた。あとは幕府を討つだけじゃったがに、そのための薩長同盟じゃったがに、

なんで政権を幕府から朝廷に還したが!」


興奮する慎太郎を落ち着かせるように、龍馬は優しく微笑んだ。


「良かったやか。戦に行く手間がはぶけて」


「本気で言うちゅうかえ? アンタは…」


「薩摩と長州が仲良うなったがうに、幕府と朝廷も仲良うさせようと思って」


慎太郎は絶句した。


ゆっくりと首を振り、独り言のように呟いた。


「ほいたら意味がないがに…兵器で幕府を一掃せんと意味がないがに…」


龍馬は突然、慎太郎の胸元に掴みかかった。


「ほいたら、今ここでオレを斬れ」


続けて龍馬は激しく(まく)し立てた。


「今、オレたちも意見が対立しゆう。おまえにとっては迷惑な存在ちやな? オレもついでに、くるめたらえい」


途端に慎太郎は弱気になった。


「龍馬さんは…特別ちや。

殴り合いの喧嘩をしたとしたち、斬りたいと思ったことはない。個人的に恨みがある訳じゃーないき」


「それちや」


龍馬はにっこりと笑って、手を離した。


そして、慎太郎の胸元をポンポンと叩いた。


「その言葉を、この気持ちを、オレ以外の人間に向けたらえい」



慎太郎は、返す言葉を失った。


唇を固く閉じ、無言で腰を落とした。


そして黙り込んだまま、龍馬の言葉の意味を必死で探していた。




午後8時頃


突然、階段の方から騒がしい物音がした。


「ほたえな!(騒ぐな)」


龍馬が一喝する。



数分後、音もなく障子が開き、薄暗い室内に刃が光った。


「え…」


慎太郎は突き飛ばされた。龍馬の額から血飛沫が舞う。彼が仰向けで倒れた。


「龍馬さん…?」


龍馬が隣の床の間へ向かう。もう1人の使者の男が、彼の背中を狙った。


慎太郎は何が起こっているのか理解できなかった。


刀剣(とうけん)で後頭部を数回強打された。


その場に崩れる。使者を見上げた。


全身を黒い布でおおっていた。


ギラギラとした瞳が慎太郎を見つめた。


「お久しぶりなぁ、中岡さん」


女の声だった。聞き覚えのある。



刺客の刃が真っ直ぐ慎太郎に向けられた。


彼は屏風(びょうぶ)の後ろに隠した刀を手にするも、(さや)から抜くことができなかった。


抜きたくなかった。


降ろされる刀剣を、鞘越しで受ける。


使者の瞳から視線をそらせなかった。


「実歌さん…?」


その名を口にする。間違いであって欲しいと願いながら。



視界の隅で、龍馬の額に再び刀が降ろされる。



「実歌さん…、実歌さん、なんで…」


彼女は戦闘する意思を喪失した慎太郎の腕を狙った。


「刀を抜きよし!」


彼女が叫ぶ。



慎太郎は刀を抜きたくなかった。


不覚にも、この時初めて龍馬の平和思想を理解した。



「なぁ、君は、なにをやっちゅうが?」


慎太郎の問いかけには答えず、実歌は今度は彼の足を狙った。


うめき声が響く。立ち上がることもできない。


「中岡さん、三年前の今くらいの時間に、山中で斬った男を覚えていまっしゃろか?」


慎太郎の脳裏にその時の光景が浮かんだ。


暗殺を計画していた島津と間違えて斬った男だ。


「あなたが斬った男は、ウチの父やったんよ」




「敵討ちかえ?」


実歌は再び慎太郎の足めがけて刀を降ろした。


「そやねぇ…。夜の山道を歩いとったんやもん。あなたが居なくても(ぞく)にやて襲われとったでしょう。さかいに斬られたことは仕方へんと諦められた。

やて、悲しみが憎しみに変わったんは最後の言葉え。こないな所を歩いとるのが悪いって、あなたはそない言わはったのよ!」


「そしたらオレだけ狙えば良かったがに…。龍馬さんは関係ないはずだ」


実歌は隣室でうつ伏せる龍馬を眺めた。


「彼には悪いことをしたけど…、こないな所においやしたのが悪いんよ」


慎太郎は間違えて男を斬ったことは鮮明に覚えていた。しかし実歌の言う、その言葉を吐いた記憶がなかったのだ。


彼は必死に記憶を辿った。




── ほんなら、これ誰ちや?


(ひざまず)いて足下の男の顔を覗き込んだ。


罪のない人を斬ってしまった。取り返しのつかないことをしてしまったと、心の中で自分を責めた。


すると隣に居た隊士が、そんな慎太郎の心中を察したのか、なだめるような声で言った。


── こがな所を歩いちゅうのが悪ぃがやき。引き上げるがで(引き上げますよ)




慎太郎は息を飲んだ。


「オレじゃーないが」


「命乞いするん?」


「ちがう。よお思い出して。オレは自分の同心に尊敬語は使いよらん」


すると男の使者が歩み出て、慎太郎の両手足を滅多斬りにした。


「騙されてはいけません。こいつは命乞いしているだけです」


実歌は困惑した。


「慎太…」


隣室から龍馬のうなり声がした。


この位置からでは龍馬の表情がわからない。


「慎太、刀はあるか? 手は利くか?」


こんな時でも彼は慎太郎を心配する。



慎太郎が頭を抱えていた時、西郷に向かって土下座をしていた時、


勘違いした龍馬の口から出たのは、慎太郎の体調を心配する言葉だった。



「こいつ…、まだ生きていたのか!」


慎太郎は男の足にしがみついた。


「やめろぉ!」


男は舌打ちして、慎太郎の腕に刀を突き立てた。


そして、彼は意識を手放した。




腰に激痛が走った。


慎太郎はその傷みで覚醒した。


男が一太刀(ひとたち)を入れたのだ。


「もう、ええ!」


実歌が叫んだ。男は慎太郎の生死を確かめずに部屋を後にした。


「あなたは、人を殺めることでしか平和や秩序を守れなかったん?」


実歌が問い投げかける。涙声だった。



近江屋に静寂が戻る。雨音が強くなる。


「君の気持ちは、よおわかる…」




平和や秩序なんて本当はどうでも良かった。


ただ幕府が憎かった。


仲間を斬首された敵討ちをしたかった。


しかし、憎しみは憎しみを呼ぶ。龍馬はそのことを理解していたのだ。




慎太郎は腕を伸ばした。懸命に龍馬に向かって腕を伸ばした。


その指先が僅かに龍馬の足に触れる。まだ温かかった。



真っ赤に染まった部屋の中で、慎太郎は動かなくなった龍馬に向かって涙を流した。



「ちっくと待ってて…」


渾身の力を振るい這った。這って窓から物干し場へ出て、屋根に出た。


屋根伝いに隣家へ向かい助けを求めようとしたのだ。


強い雨が慎太郎の体を冷やす。体力が奪われる。思うように体が動かない。


「龍馬さん、ごめんやー、巻き込んでしまって…」


喧嘩してごめん、アンタの思想を理解できなくてごめん。謝りたいことがたくさんある。



雨と流れる血液が慎太郎の体を更に重くする。


そして彼は隣家にたどり着く前に意識をなくした。




『こいつとオレは何もかも正反対ながに、なぜか一緒に酒を飲んじゅうと楽しいちや』




重傷を負うも意識のはっきりしていた慎太郎は手当てを受けながら、土佐藩邸や陸援隊の仲間たちに事件のあらましを語り続けた。



一部を除いて。



そして、2日後の17日昼過ぎ。


付き添いの、陸援隊幹部となっていた田中に向かって、ぼんやりとした口調で言った。


「腹減ったなぁ…。焼飯が食いたい」


「先生、丸1日何ちゃあ食べてないながら、(かゆ)をご用意するがで」


「焼飯が食いたいが! 好きなもん食わせろや」


慎太郎の我儘(わがまま)に驚いたものの、食欲が戻ったことを喜んだ田中はすぐに焼飯を持ってきた。


皿に乗せられた焼飯をひとつ掴み、おぼつかない手つきで半分に割り、片方を皿に戻した。


そんな慎太郎の不思議な行動に、田中は首を(かし)げた。


「半分でよろしいがかぇ?」


「あい人もきっと腹減らしゆうと思って」




その日の夕刻、慎太郎は強烈な吐き気に襲われた。


食べた物を全部戻し、呼吸が激しくなる。


田中が叫びながら背中をさする。


次第に吐き気が治まり、呼吸が浅くなった。



慎太郎はうつろな瞳で何もない天井を見上げた。


涙が静かに流れた。



「ごめん、龍馬さん…。

助けられのうて、ごめん。

オレもすぐにそっちに行くき」








『涙を抱えて沈黙すべし』







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