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第一話

足の裏に刺さった石は、そのまま体の中心まで食い込んでくるみたいだ。

明るくなっていく空と、それで地面に映りはじめる私の影。

置いて走ることができたらきっと体が軽くなるのに、さっきまでの記憶みたいに、それは私についてくる。

後ろから吹いてくる風に誘われるみたいにして振り向くと、屋敷はずっと向こうに見えた。その距離に少し呼吸がゆっくりになって、足が止まる。

私は、死なない。

適当に声を出したら、そんな言葉がとん、と落ちてきた。

それを蹴とばすように、その辺にあった石を左足で転がした。

この痛みがある限り、私はまだ倒れない。


死なない、死なない。

そうやって口に出して、音を確かめる。

何処に逃げるのかも分からないまま、ただ確かめる。


私がその屋敷を訪れたのは、魔術の研究を発表するためだった。

有名な貴族のひとが人材を探しているなんて聞いて、教室のみんなはこぞって手を挙げた。力を入れていた論文を出したら、すぐ私に声がかかった。

お母さんとお父さんの顔を思い出した。最近ついてないことばかりで心配かけたけど、と書類を渡したら、文字が涙でぐしゃぐしゃになるくらいのあたたかさをくれた。


そんな二人のことを裏切ったのは、私だった。

私が選ばれた理由が、鮮やかに脳を突き刺してくる。

平民の女だったから。


住み込みの依頼を快諾した私を待っていたのは、ただの地獄だった。

目が覚めた私の上できらきらしていたシャンデリアを睨んで、私はシーツから這い上がった。

必死に手にしたのは屋敷の鍵と、それから懐中時計だった。

鍵は捨ててきたけれど、時計はまだ左手に握りしめている。

これを売ったら、ちょっとの間は生きられる。

……生きるため。

痛いのかなんて分からなくなってきた。見えているものもだんだん揺れてくる。でも、それでも歩かなきゃいけない。

それは、男に押し倒されてから、ずっと頼りにしてきた閃きだった。


――私は生きて、それで人間をやめる!


赤い目をした女は不吉って、教室の誰かに笑われたことがある。人間とは違う遺伝子が組み込まれているとかなんとかで、馬鹿な子だと笑ってしまいそうになった。赤い目をした男なら天才だなんて、矛盾の塊みたいなものだし。

でもきっとそれで良かった。もしその話が本当なら、私は化け物になれるのかもしれないから。

――さっき、あの男の喉笛を掻き切れたのかもしれないから。

もしも、っていうのは都合のいい考え方だ。もしも天才だったら、もしも魔力が人よりたくさんあったら。

でも、そうやって思っていればちょっと遠くへ行ける。

人間じゃなくなる世界を夢に見れば、こんなに痛い関節だって重い体だって、まだ少しは動かせるんだ。


赤い目をした不吉な女、それでこうやって搾取された女。私の周りの空気だけぐるぐると黒くなっていくみたいだ。

頑張ってきたレポートも実験も、チャイムが鳴るまで籠っていた図書室も。目を隠そうとして買ったフードも全部、全部がもうどこにもない。

貴族の屋敷から時計を盗んで逃げた女、しかも屋敷の「真実」を知っている女。

笑ってしまいそうなくらい。

きっと私の大捜索がされるだろうし、お母さんもお父さんも必死で頭を下げるんだろうな。


ヴァイレート様、と小さく口にしてみた。

みんなが知っている不死身の魔法使い。

小さな村を救うために、平民だったのに貴族を倒したとか、いやヴァイレート自身が貴族で弟を倒したとか。

私と同じ赤い目を持っていると噂のその人に、私はずっと憧れてきた。

彼だったらこんな理不尽には屈しないし、貴族の男なんて八つ裂きにできちゃうんだから。


頭の中とは反対に、そろそろ私の肉体は限界のようで。

ふぅ、と息を吸うと肺が痛む。目の前がだんだん白くなっていく。気づいたら森の中まで歩いてきていた。

膝の関節が、もう使い物にならない。

がく、と上半身が傾いて、私の目の前には草と土しかなくなった。


私は人間なんかで終わらない。

赤い目の化け物になってもいい。人間じゃなかったらそれでいい。

でも、もしも、全てが叶うなら、同じ赤い目でも。

――ヴァイレート様、あなたみたいな神様になりたい。



私は知らなかったけれど、人間の肉体は案外丈夫だった。

一か月、私の心臓は動き続けた。

時計を金に換えて生活を続けていたけれど、当然それも長くはもたない。今私の右手に握られているのは、ひとかけらの乾いたパンだ。

――そろそろ仕事を探すか、またどこか遠くの街に逃げるかしなきゃ。


すっかりお馴染みとなった路地裏には、たまに貼り紙がしてある。

怪しい仕事の求人、闇市の宣伝に配給のチラシも。

指で壁をなぞるようにしていると、ふと白い紙に目が吸い寄せられた。


「赤い目の娘がシャーラエ領で行方不明」。

その一瞬で、この街全てが私を襲ってくるような気がした。人差し指が大きく震える。

そこにある数字の桁を見ることが、できない。


黒い布きれを取り出して、顔にぐるぐると巻き付ける。

視界は悪くなるけれど、ばれるよりはこっちの方がいい。

……それに、暗い世界にはもう慣れている。


そろそろこの街からも出ないと、怪しい見た目をしていればいずれ声がかかる。

咽せながらパンの味を嚙み締めた私は、もうほぼ見えない地図を取り出した。

「……こっち側か」

小さく声にだすと、喉からは枯れた草みたいな音がした。

こうやって声を出せる日々にも、いずれ終わりが来るんだろう。それでもまだ何かに縋っていたくて、私はもう一度「こっち、ね」と口にした。


晴れ渡った空はあまりにも眩しくて、この体ごと呑み込まれそうだと思う。静かな風が髪を揺らして、その先まで誘ってくるみたいだ。

通りは色とりどりの幸せで溢れていて、私の黒だけが混ざれない。そんなものに負けてたまるかと思ったから、重い足を引き摺ってでも、ここを歩ききってやろうと決めた。


「離して!」

よく聞こえなくなっている耳にも鮮やかに飛び込んでくるくらい、その声はまっすぐだった。

目を凝らした私には、私がもう一人いるように見えた。

手首を掴まれている少女が、身を捩っている。

服は髪と同じように乱れていて、それがすべての視線を奪っていた。


「そう言ったってこっちにも事情があるんだよ。契約の意味分かるだろ」

男がそうぶつけると、彼女は「知りません」と泣き叫んだ。

通行人は皆目を逸らすし、私もそれが正解だと思う。こんな厄介ごとに巻き込まれたっていいことはないし、どう頑張ったって彼女は助からない。

どうしようもないことは、いつだってどうしようにもできない。


私は知っていた。

たとえ彼女が今逃げられたとして、すぐに私みたいに衰弱していくのだと。

そのまま生きることなどできやしなくて、どうせまた身を売るか死ぬかの選択を迫られるのだと。

その全てを知っているから、私の体は動かない。

一瞬。

私が目を離したその隙に、女の子は通りを駆けていた。

その手に握られていたのは、男が身につけていたブローチだった。


あ、と小さく声が出る。

私と同じだ、と思った。時計を持って逃げた私と同じだ。

彼女がどこの誰であるとか、この後どんな人生が待っているかとか、私には知る由もない。

ただ、彼女は生きたいと思ったんだ。


夜道の危険さとか、カビの生えたパンの味とか、人の醜さとか。

――彼女は、まだそれを知らなくていいんだ。


ふら、と足が前に出る。一歩、また一歩。

彼女を追いかけていた男が、私とすれ違ったその時を狙って声を出した。

「お兄さん」

思っていたよりもずっとはっきりとしたその響き。

男はゆっくりとこちらを振り返った。

「お兄さん、私にしたらいいんじゃないですか」

「……は?」


ゆっくり布切れを外すと、眩しかった空がもっともっと明るく見えて目が眩んだ。

正面に視線を移し、男と目があったことを確認してから後ろを向く。

「おい、お前――」

「赤い目の娘。賞金は覚えてませんけど」

その言葉に、男が反応したのが分かった。


じんじんと痛むふくらはぎを駆使して、よく知っている路地裏の方に駆け込む。

後ろを見なくても、私を追ってくるだろうと目星はついていた。


少し暗い路地を、足を引き摺って、でも走っていく。

右、右、左。狭い方へ狭い方へ、迷路を抜けるようにただ走っていく。


足だって速くないし、体は痛くて攣りそうだ。

でも今。

――今だけは、私は人間じゃない。


領主に復讐したかったなあ。

女の子は、これからも生きていけますように。

お母さん、お父さん、ごめんね。

頭の中にあったんだろう、いくつもの言葉が駆け巡ってくらくらする。


筋肉の落ちた体にはもう限界が近い。

「っはぁ、はぁ」

地面に足の裏がぶつかる度、全身がぎしぎしと痛む。


「赤い目の女!」

遠くから確実に迫ってくる声。それがちょっとおかしい。

「ふ、あはは」

人間だからだ。ここが現実だからだ。私は逃げられないし、生きていくこともできない。

――だめかあ。

人間で、無力で、不吉な女。

くだらないものに囚われるのがただただ悔しくて、私の目から何かが零れ落ちた。

掠れた笑い声にそれが染み入って、天気雨みたいで不思議だった。


手をつくと、地面は硬かった。

残っている痛覚が心地いい。

「はは、あはは」

そうして、私はまた人間に戻る。

目の前が暗くなっていくのを、ただぼんやりと眺めていた。


「お前か?赤い目の娘って」

空から、声が降ってくる。

今まで聞いたことのないくらい、淀みがなくて、冷たい水みたいな声。

「まだ生きているなら返事をくれ」

だって、ここで返事でもしたら連れていかれるじゃない。

もう震えない声帯は使い物にならなくて、私は瞼だけを持ち上げた。


深紅の瞳が、私の顔を覗き込んでいた。

「――ぁ」

さっきまで何も働かなかった喉が、少しだけ動いたみたいだった。

「生きていたか」

やっぱり水みたいな声だと思う。ぼろぼろの服も体も、その響きで流れていく。

「神様……?」

その人の髪は、雪のような白だった。

「なんでもいい。立てるか?立てないなら運ぶ」

まだ痛い全身が教えてくれる。これは夢じゃない。


「――っもう行きたくなくて、もう、もう痛いのはいや」

貴族か何かだ。

きっとこの人は、こうやって私をどこかへ連れていく。

「死ぬぞ。残念だな、僕はそんな娘を放っておくほど薄情じゃない」

「――誰なんですかっ」


声に出した。

その時、電流が走ったみたいに、私の中を一個の仮説が駆け巡る。

びりびりと痺れるみたいな脳が告げている。

彼は、彼はもしかして。


「ヴァイレート・アムレア」


私のすべてが撃ち抜かれた。声にならない声が漏れる。

「なんで……本当に?」

「説明はあとだ。何度も言いたくないが、死ぬぞ」

「でも、そんなはず」

そんなはずがないと思う。きっと彼は嘘をついていて、でもこんな人がヴァイレート様、その人以外にいるとも思えない。

「分かった。しょうがない」

彼が杖のようなものを取り出すのを、私はただ見ていた。

ああ、やっぱり。

赤い光がゆっくりと、私を包み込んでいく。授業で見たことのある魔方陣が浮かんで、私は目を伏せた。

――転移魔法。

目覚めた先にあるものは、きっとベッドが牢獄だ。


衝撃は一切なかった。

ただ、少しだけ風が吹いている。

「目を開けろ」


雲が、近い。

白と青だけが、目の前に広がっていた。

こんなことなんてあるはずがないと思う。視線を少しずつ下に移すと、街が遥か下に広がっていた。

さっきまで寝そべっていた路地なんて、もうどこにあるか分からない。全部が小さくて、些細なものに映る。

緩やかに私を包み込む風は、彼の白髪を揺らしていた。

「こんな魔法が使えるのは、世界で僕だけだ」

いつか聞いたことがある。ヴァイレート様は、空を散歩するのが好きだとか。

彼の横顔は穏やかだった。

彼を中心に、その時世界は回っていた。


「……綺麗」

「だろう?」

ふと、その綺麗な瞳が私を見る。

「苦労したようだな。――これで、少しは信じてもらえたか?」


私は目を見開いた。

私を説得するのなんて、どこかに行ってからでもできるのに。

ただ信じてもらうそのために、私を怖がらせないために、こんな景色を用意した?

私の中から、言葉が零れて宙に舞っていく。

「ヴァイレート様だ」

「そうだ」

「……ヴァイレート様、です。あなたは」


街を見下ろす彼を見つめる。視界が歪みそうになって、もったいない。瞳にこの景色を焼き付けるそのために、私は瞬きをやめた。

「娘。名前はノマ・ラフメルで合っているか」

「はい」

「ノマ。ここから街を見ると、人間なんて小さなものに見えるだろう」


目くばせしたヴァイレート様に、私は思わず口を開いた。

「あの!」

彼がこちらに視線を向ける。その赤い瞳が、私を映している。

「私、人間をやめたいんです!化け物でも神様でもなんでもいい、ただ人でない何かに」

言葉は、まるで弾丸のように空を飛んで行った。

「いや、すみません、その」

ヴァイレート様は目を伏せていた。彼が腕を組んだのを見て、私は慌てて両手を振る。


「厳しいぞ。人をやめるのには、それなりに苦労が要る」

「――それって」

「手助けをしよう、ノマ」

この世界はあまりに酷で、あまりに泥臭くて。

――でも、もうそんなことはどうでもいい。


今度こそ、目の前がゆっくりと閉ざされていく。

「おい待て寝るな!落ちたらどうする」

最後に聞こえたのは、慌てたような神様の声だった。


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