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冬が本格的な厳しさを迎え社交会シーズンに突入する直前に、四年生は卒業となり、学園は休校となる。
休校期間は社交会シーズンの三か月間。連日王都各所で開かれる夜会に、教師をはじめとして生徒の親たちも、とても子供たちの対応などしていられない、というわけで、「冬休み」という名の長い長い休みが用意されているのだ。
社交界の流れは、大きく三段階に分けられる。
最初の一か月は今年の卒業生たちを見定める期間。卒業後、それぞれがどんな道を歩ませたいのか、どんな繋がりを持たせたいのか、親に引きずり回されながら、家督を継ぐ者はひたすらに人脈を築き上げ、婚約者がまだ居ない者たちは、そういった集まりの中に放り込まれる。これが年末まで行われるそうだ。
そうして迎えた新年からの一か月は調整期間。
前年に得た情報や繋がりを元に、今年一年の領地をどう経営していくか、腹を探り合いながら足を引っ張り合いながら、立食しながらダンスを踊ったりしながら、新旧領主が額を突き合わせ、とかく何らかの傍らで、計略を立てていくそうだ。
夜会に参加できるのは、学園を卒業した者か、18歳以上の成人した者のみ。
まだ参加できないリアンがこれらを知っているのかと言えば、冬休みの間も続いているシェルティとのお茶会にふらりと現れたセイが教えてくれた。腹の探り合いがとても楽しいそうで、ラジェンダ公爵家の将来は安泰だ。
そして最後の一か月間、これはリアンも知っている。唯一、未成年でも参加できるのがここだ。
社交デビューと呼ぶには微妙かもしれないが、学園の新一年生となる年齢……つまりは14歳になる者が、親に伴われながら方々に挨拶をし、運が良ければ学園に上がる前に友人を、味方の陣営を、見つけ増やすことが出来る唯一の場だ。
このデビューを得て、学園に上がる資格を得られるとも言われているいわば通過儀礼のようなもの。
初々しい子供たちを肴に、大人たちは一年の計略を最終調整する。
二年前、リアンも参加した。チェスターにエスコートされながら、期待と緊張と喜びを持って。
ドレスアップしたリアンを嬉しそうに褒めてくれて、ファーストダンスを踊って、少しだけ自分たちの友人を作りに離れて、でも帰りは一緒の馬車に乗り込んで。
翌日からはお互いの家を行き来しながら、夜会の感想を語り合ったものだ。
そんなこともあったなと笑い話にするには、胸に走る痛みが邪魔をする。うっすらと疼くようなものだが、いつかはちゃんと消えるだろう。
家同士の行き来や手紙のやり取りすらなくなった今年の冬は、ずっとシェルティと触れ合っていたから。あのふくふくした両のほっぺや、体温の高い小さな手と手を繋いでいるだけで安らげた。思い出すだけでリアンの口元はほころぶ。やっぱりシェルティは天使だ。
「シェルティ様にお会いできるのは、今日からまた週に一度に戻ってしまうのよね……」
ほぅ、と頬に手を当ててこの三か月間を思う。
時間があるのなら詰め込みましょう、とマナー講師や歴史の教師たちがなぜか張り切り、二日に一度の頻度でリアンはラジェンダ家に通うこととなった。
なぜ? という疑問をそれとなく顔出しに来たセイに尋ねてみたところ、「爵位を譲ったり次がちゃんと育っていると、領地経営に口出しはあまり望めない、夜会に出ても夫に付き合うばかりでほぼやることがない。つまるところ、夫人たちは暇なんだよ、子供も立派に成人した社交シーズンって」とのこと。「生贄が居てくれてよかった、去年は大変だった」と続けてくれた言葉は、出来れば聞きたくなかった。
まぁつまり、暇つぶしという名のやる気に満ち溢れた夫人たちのお陰で、リアンは三か月間、仕草は洗練され、これでもかと教養もみっちり詰め込み磨き上げられた。ありがたいことだと思う。
何せ忙しく過ごしていたお陰で、チェスターとの手紙のやり取りがなかったことに気づいたのはつい先日だったのだ。そういえば、という程度での思い出しだったので、駆けるように過ぎた濃厚な三か月は無駄ではない。
三か月。そう、もう三か月も経ったのだ。
瞬く間に過ぎた日々のほとんどはラジェンダ家で過ごしたものばかりで、ほんの一年前まではのんびりと子爵子女としてチェスターとの未来を夢見ていたはずなのに、今の自分は全然違う。
「……なんだか変な気分ね」
くすくすと一人馬車の中で笑う。
窓の外を見れば、草木は青々とし始めている。雪の季節は過ぎ去り、日々の日差しは暖かくなる一方だ。
新しい年になって、新しい季節が来て、リアンは新しい学年へ上がる。
何もかもが変わっていくのだから、リアンも変わらなくてはいけない。今日の訪問は、その一歩だ。
「シェルティ様が、気に入ってくだされば良いけれど……」
思わずごちてしまうが、大丈夫だと思うよりない。所在なさげに後ろ首に触れつつ、呼吸を整えたところで馬車はラジェンダ家に辿り着いた。
変わらず豪奢な作りの館を横目に、リアンがくぐるのは正門ではない。
正門をだいぶ通り過ぎたところに、正門に比べれば随分と小規模の門が設置されており、その前で降りる。簡易来客用の為にあつらえられた門で、行儀見習いで通うようになってからはここを使用するように言われている。
実に正しい判断だ。ここならリアンとセイの年が近くても、変に仲を勘ぐられることはない。何せ他の行儀見習いで通う子女たちも、講師の先生も、この門をくぐるのだ。
とはいえほとんどの子女の行儀見習いと言えば、上位の子女に仕えるための侍女見習いとなる者の方が多いので、リアンのように淑女講座を受けるためにやってくる者は少ない。
最初リアンはてっきり侍女としての行儀見習いかと思っていたのだが、それではシェルティとの時間が取り辛いとのことで、淑女講座を受けることになっていた。
最もそこには、リアンのマネをしたがるシェルティへの見本の意味が大いに含まれていたらしいが。
一生懸命にリアンの仕草のマネをするシェルティは本当に可愛らしくて可愛らしくて、だからこそリアンも気を抜くことが出来なかった。なにせ自分のやったことがそのままシェルティに行くのだ。
無様な様子はもとより、公爵家の御令嬢たるシェルティに、下手な癖などつけられるわけもない。
侍従の手を借り馬車を降り、しずしずと歩く中、先行して歩いていた侍従が足を止めた。そして道の脇にリアンを誘導する。
されるがままに脇に控えれば、前方から誰かが歩いてきた。どうやらリアンより身分の高い人が屋敷からでてきたようだった。
ここで人とすれ違うのは珍しいなと思いつつ、失礼にならない程度に相手を確認してみて、リアンは唖然とした。歩いてくるのはセイではないか。
どこかへ出掛けるらしく、外套を羽織りゆったりとした足取りで歩いてくる。
向かい先は勿論、今しがたリアンが降り立った来客用の門だ。思わず、と侍従を見れば、彼の眉根は寄っている。つまり、セイがこの道を使うのはおかしい、ということだ。それもそうだ。来客用の門である。次期当主が使う門ではない。
どう反応したものかと悩みつつも、リアンも侍従に倣うよりない。大人しく彼が通り過ぎるまで淑女の礼を保っていると、通りざまにセイは声をかけてきて、
「やぁこんにちは。今日はとても良い天気です……―――」
なんとも中途半端な挨拶で、すれ違うはずだった彼の足はリアンの少し先で止まった。
あまりに不自然な止まりように、不作法を承知でリアンはゆっくりと礼の形を緩める。つまり顔を上げてみれば、驚きの表情を張り付けたセイがリアンを凝視したまま固まっているではないか。
「……その泣きボクロ……もしかして、リアン嬢、か?」
「はい。ごきげんよう、セイ様。気づいておられませんでした?」
「……うん。ただの習いに来た人かと……」
驚くほど素直に頷く彼の顔にはまだ驚きと戸惑いが張り付いていて、澄ました顔を多く見てきた分だけなんとなく気持ち良い。思わず口元が緩むリアンに、セイは言葉を選びながら問うてくる。
「なんていうか。随分と思い切ったもので……。ええと、理由とか尋ねてみても?」
「さして理由なんてございませんわ。強いて言うのなら、気分転換です」
「気分転換」
「ええ、気分転換です」
オウム返しに口を開くセイの驚いた顔を見ているのは本当に気持ち良い。浮かれ気分が今のリアンを少し大胆にさせる。
にこりと淑女の笑みを浮かべて、彼が少しだけひるんだ様子を見せたところに、
「シェルティ様にお逢いする前に少し勇気を下さいませ。―――似合っていますか?」
くるりと一回りして全身を見せれば、先ほどよりもさらに驚きを強くしてセイは固まった。
リアンの回転は軽い。冬着から春着に替えたことで裾は広がりやすい素材になっているし、足元のブーツも厚みを少なくしている。
何よりも、いつもならば羽織った薄手のケープのはためきに添うように流れていた髪がない。背にそれらが降りる感覚がなく、代わりに耳元に少しくすぐる程度に掛かってくるのを感じた。
すっきりと。ばっさりと。じつに潔く。
細く白いうなじまでしっかり見える程に短く髪を切ったリアンの軽やかな回転に、
「…………セイ様?」
反応はなかった。セイはただ無言でリアンを凝視するだけだ。
完全に固まってしまったセイを前に、リアンの背にどっと冷や汗が流れる。同時に、顔に熱が集まる。
しまった。やってしまった。浮かれすぎた。回転までしてしまうなど、それではまるで幼子のようではないか。
シェルティがやればさぞや可愛いだろうが、リアンももうすぐ16歳。許される年齢ではなかった。
ましてやリアンは、淑女教育の為にラジェンダ家に来ているのだ。
学んだことを全部放り投げるような行動を起こしてしまうなど、ましてやそれを次期当主の前で披露するなど、どう考えてもあり得ない。
セイはずっと無言だ。呆けていた顔をさらに驚きに拡げてただただリアンを凝視している。シェルティと同じ紫色の瞳がひたすらに見てくる。
今すぐ帰りますと言いたい気持ちを全力で押さえていると、ようやくセイの硬直が解けたようだ。
ゆっくりと驚きの表情を緩めて、それから眉間にしわを寄せて、ゆるゆると口元に手を当てて、
「……あー……んー、……これは、どうしたものかな」
どうしたものかな、とは。
発された言葉の不穏さにリアンの動悸が怪しくなる。既に背中はびっしょりだ。リアンの少し後ろで同じように控えている侍従からも、なんともいえない空気を感じる。ちなみに侍従は馬車から降りてきたリアンを見て少し驚いた後、何事もなかったかのようにいつも通りに振舞った。さすがはラジェンダ公爵家に仕える者だ。
身じろぎすら出来ない程の緊張に追い込まれたまま焦るリアンの内心など勿論知らず、セイは何事かを悩み続け、やがて停滞していた空気を打ち消すように、「よし」と何かに区切りをつける。
貴族の微笑を張り付けて、次期ラジェンダ公爵は言う。
「リアン嬢。本日はコートフール子爵、貴女の父君は在宅か?」
「―――え? え、ええ。出掛ける予定は聞いておりません」
戸惑いながらも答えたリアンに「よし、よし」とセイは一人頷いている。それから、
「貴女が帰るのは夕刻前だったな。うん、それまでに手紙をしたためておくから、父君に渡していただけないだろうか?」
「はい。かしこまりました」
疑問符を大量に浮かべながらも粛々と頭を下げる。叩き込まれた淑女教育が息を吹き返してくれたようだ。
「うん、ではまた後で。訪問は今日が最後だったっけ? 楽しいひと時を」
先ほどの失態を挽回すべく、ふらつくことなく優雅に一礼するリアンをセイは満足げに見納め、悠々とした足取りで門の外へと去って行った。
礼の形を取ったままその背を呆然と見送って、ゆるゆると息を吐く。不興を買わずに済んだらしいことへの安堵に緩んだ気は、一瞬の現実逃避のためにか、ふとリアンはどうでも良いことに気が付いた。
子爵と呼んだ後に父と言い直したのは何だったんだろう。それと、また後で、と言われ顔を上げた時、リアンは随分と顔を上げねばならなかった。
それはつまり、
「……セイ様、背、高くなられましたね……?」
侍従のむせる声が聞こえた気がしたが、聞こえなかったことにした。
リアンの短く切った髪は、シェルティに大変好評だった。
口を大きく開けて、目をキラキラとさせて見上げてくるシェルティにリアンは先ほどまでの緊張を全部忘れ去り、「アンおねえさまかわいい!」というシェルティの可愛さにデレデレでメロメロをしっかりと発動させた。
講師の女性陣にも、ラジェンダ公爵夫人にも好評を貰えた。
貴族女性の髪は長い方が喜ばれるが、短くすることを格別とがめられることはない。
ただ長い方が、色々と着飾れて装飾品が着けやすく。装飾品を飾れるほどの裕福さを面に出すのに好都合だというだけだ。つまり、そう裕福というわけでもない子爵家のリアンには、あまり関係のない話だった。
それでも父はリアンの短くなった髪を見て落ち込んでいたし、家の者たちには惜しまれた。
「リアン様の髪は、絹のように美しかったですものね。惜しいと言われれば確かにとも思いますわ。……でも、短くされてもとてもよく似合っていましてよ」
「ありがとう存じます、公爵夫人」
「でも、やはり少し寂しくも感じてしまうものね。髪飾りなどは揃えてらして?」
「じつは、本当に先日思い立って切ったばかりで……一番にシェルティ様にお見せすることだけ考えていたので、何も揃えられていないのです」
「リアン様は肌も白くいらっしゃるから……濃い色合いのリボンなども良さそうですわね」
そう言われるとその気になってしまう。手持ちにあるのは色味が薄いものが多かった為、今度探しに行く際の参考にしよう。
帰りしなに侍従よりセイからの手紙と包み紙を渡された。
包み紙は片手で持てる程度の大きさで、随分と軽い。手紙と合わせてさした重量でもないためそのままリアンが手に持ち、帰宅しすぐにどちらも父に渡す。
ラジェンダ公爵家嫡男からの手紙に父は不思議そうにしつつもリアンを労い改めて髪を短くしたことに寂しそうにして、書斎に入って行った。
リアンは自分の部屋に戻り、リアン宛で渡されていた包み紙を開く。カサリと開いたその中に入っていたのは、小振りだけど良い布質の黒いリボン型の髪留めだ。
リアンが髪に何も飾っていなかったことに気づいてくれたのだろう。出先でそのまま買い付けてくれたような手軽なそれは、なんだかセイらしく感じる。
自然、口元がほころぶ。
そっと髪留めを袋から取り出して鏡の前で飾ってみる。自分では選んだことのない濃い色合いのそれは、よく見ればリボンの縁は紫に彩られているようだった。
「まぁ……」
慣れない色に戸惑うし、色の意味合いにもドキリとしてしまう。
だけど、鏡に映る髪の短い自分にはとても映える様に思えてしまう不思議さ。
髪を切った理由は、誰に対しても嘘はついていない。
気分転換。その一言に尽きる。
ただちょっと、思ってしまっただけだ。
春になって、いつもなら届いていた幼馴染からの手紙が届いていないことに気づいた時、今年は去年までと全然違う環境と心境でいる自分に。
なのにふと顔を上げた先、鏡に映っている自分の姿には見事に変わりがない。
勿論背が伸びただとか、少し大人っぽくなってきただとか、そんなことぐらいはあるだろうけれどともあれ、成長以外に変化のない自分の外見に気が付いたのだ。
だから気づけばハサミを持ち出し、髪紐でひとまとめにして、差し込んでリアンは大いに頷く。
置かれている状況が見事に様変わりしたのだから。
見た目だって、思いっきり変えなきゃ駄目だったわ!
さぁいざちょっきんと……なんて思った瞬間に、ノックと同時に乙女の部屋に入り込んできた不作法な兄の悲鳴でもって、リアンが自力で髪を切り落とす悲劇は一応収められたのだった。
「素敵……今日は、とても良い日ね」
真新しい切り口の触り心地は新鮮だ。さわさわと短くなった髪に触れながら今日を振り返る。
「シェルティ様に喜んでもらえたし」
何も言わずに行って正解だった。驚きながらも喜んでいたシェルティの姿を思い返せば自然と笑みが零れてくる。
「それに、セイ様の貴重なお顔も観れたし」
あの意地悪な、あの人が!
呆然とこちらを見つめる様子は、実にシェルティとそっくりだった。兄妹なんだなと改めて思いながら、くすくすと笑う。
髪留めをそっと撫でればますます楽しくなって、リアンはすっかりこの髪留めを気に入ってしまった。
今日は本当にとても良い日だった。もうすぐ始まる新学期へ挑み、そこで会う人たちの反応を楽しむだけの勇気を十分に貰えた日だ。
改めて鏡の前でくるりと一回転してから、お茶にしようと自室を出たリアンは、血相を変えてリアンの下にやってきた父から手紙の内容がとんでもなかったことを知らされ、今日と言う日を改めて思い知ることとなった。
春の陽気に包まれた活気ある食堂で目立つのは、新入生たちだ。
微笑ましくその様子を眺めながらも、三学年に進級したチェスターはそっと息を吐き出す。
視線の先には新入生たち以上に目立つ王子たちの集団がいて、その輪の中にはマリーシアもいる。
名目はマリーシアのマナーレッスンも兼ねて、だったはずだ。それなら他の女生徒でも、それこそチェスターにだって教えられる。
けれど、どうせならば王族の最高級の食事マナーを間近で見た方が良い、という話になり、ああやって昼食は王子たちと取っている。
チェスターのように、遠巻きにその様子を見ている者の数は少なくない。
それはチェスターをはじめとしたマリーシアに焦がれる男子生徒であり、同じクラスの者を中心に、マリーシアを侮蔑の目で見る女生徒達だ。
全員がそうと言うわけではないが、特に女生徒からの目線は厳しい。婚約者のディアナを差し置いて、王子の隣に子爵子女が座っているのだ。はた目には奇妙な光景だろう。
だがその光景にチェスターは否を唱えたい。そもそも、ディアナが居ないのだ。
学園には来ているようなのだが、彼女はあまり教室に顔を出さない。成績優秀のため授業は全て免除されているらしく、顔を出すのはごく稀だ。
そして顔を出した時でさえ、ディアナがマリーシアに何かを言うことはなかった。
他ならぬ婚約者が何も言わないのだ。なら、関係のないその他の者たちが何を言うというのか。
彼女たちは最初のうちこそマリーシアにあれこれと囲い込んでは厳しい言葉を投げつけていたが、ここ最近は鳴りを潜め、遠巻きに睨むだけで終わっているようだった。それが、今の昼食の風景だ。
「なぁ、そういえば。理由は聞いたのか、チェスター?」
「……? 何の話だい?」
マリーシアに向けていた目を、一緒に昼食を食べに来ていた友人に向ければ、彼はわざとらしく大仰に肩をすくめ見せた。
「彼女だよ、彼女! お前確か仲がかなり良いんだろう? リアン・コートフール子爵令嬢だよ」
「すまない、話の先が見えないが……リアンがどうかしたのか?」
昨年マリーシアと何か話している様子を見かけて以降、ほぼ見かけていない。
あのまま冬期休暇に突入したし、やり取りしていた手紙も今年はなくなった。家族からリアンの手紙を見かけないことに不思議がられて、ようやく気が付いたほどだ。
「なんだよ、知らないのか。使えないなぁ」
「最近はあまり顔を合わせていなくてね。彼女がどうかしたのかい?」
指と視線であちらを見ろ、と言ってくるのは同席している別の友人で、チェスターは指示されるがままに食堂の外にあるテラスへ目を向ける。
指し示された先、隅に近いテーブル席には女生徒が二人で昼食を取っている最中で、何やら話は盛り上がっているようだ。
特に濃い茶の髪をツインテールにした少女が身振り手振りで向かいに座る相手に何かを話していて、その度に相手は緩く肩を震わせていた。白く細い首が露わになった、髪の短い薄桃の髪の少女だ。
ツインテールの少女には覚えがある。デイジー・フース男爵令嬢。一学年の時に同じクラスで、リアンと仲良くなっていた少女であり、昨年末チェスターに鬼のような形相で二度とリアンに近づくなと言ってきた。
口調も仕草も出逢ったころから比べ物にならない程に洗練されたというのに、その言い回しの裏側に潜む意味は物騒極まりなく、気迫負けしたことは今でも苦い記憶だ。
そう、デイジー・フースはリアンと仲が良い。昼食は大抵二人で取っていることが多い。
だというのに向かいに座るのは見慣れぬ短髪の少女で、首元の寂しさ分か、やや大ぶりの黒いリボンで短い髪を飾っていた。
リアンならば髪は長く、そして暗色は好まない。だからデイジー達が座る周辺に長い髪の主を探すのだが、それらしき姿は見られなかった。
見つけられず目線を彷徨わせるチェスターに、友人たちは人の悪い笑みを浮かべるではないか。
「おおっと。幼馴染でもさすがに判らないものか? まぁ俺達でも充分驚いたのだからそうだよな」
「揶揄うのも程々にしてくれ。どこにリアンがいるんだ?」
「いるじゃないか」
再び指さされるのは、やはりデイジーが座るテーブルだ。
訝し気に目を細めるチェスターは、しばしその方向を見つめなおして、気づく。
「……え?」
まさか、あの髪の短い少女がリアンだというのか。
「そう驚くってことは本当に知らなかったんだな。そうだよ、コートフール令嬢、今学年より髪を切ったみたいで、まるで別人のようだよな」
頷きあう友人たちに返す言葉がない。チェスターの記憶にある限り、リアンの髪が短かった時など一度もないのだ。初めて会った時から長く伸ばしていて、絹糸を思わせる触り心地の良い髪に、チェスターはずっと触れてきた。
それが、ない。綺麗さっぱりに。
言い表しようのない衝撃で固まるチェスターを放って、友人たちの会話は続く。
「遠目にも綺麗な髪だっただろ。一度で良いから指で梳かしてみたかったんだよね、俺」
「おいおい、まさか気があったのか?」
「いや、話したこともない。クラスも違うし。でも時々見かけていたし、チェスターが以前よく話題に出していただろう? だからなんとなく知った人の気持ちでいたのは確かだな」
「なるほど。まぁ……どちらにせよ残念だったな。チェスターはすっかりマリーシア嬢に入れ込んでいるし、コートフール令嬢の美しかった髪は無残にも散ってしまった。我らに権利が舞い降りる時は訪れなさそうだ」
「非常に残念なことだな! ああ、でも……」
ふいに友人は言葉を区切り、未だ動けずにいるチェスターの視線を辿る。
「……勿体なかったと思うけれども、とても似合ってもいるな、彼女。以前より顔が見えるようになったというか」
もう一人の友人も視線を辿り、同意するように頷く。
「そうだな。一度も話をしたこともない令嬢相手に何を言ってるのだと思いはするが……うん、やはり機会があれば声をかけてみたいな」
「……二人とも?」
友人たちの会話にようやく思考が追い付いた。彼らが言っていること、つまりはリアンに近づきたいと言っているように聞こえる。
「いいだろ、チェスター? 声をかけるぐらい」
「君とコートフール令嬢の関係は終わったのだろう? マリーシア嬢も確かに気になるが、あちらは王太子たちのガードがきつい。でもコートフール令嬢なら、それこそ今すぐにでも話しかけに行ける」
いや、今すぐは駄目だ。デイジー・フース男爵令嬢が側に居る間は絶対に駄目だ。
言いたいが、言えるわけもない。第一説明も難しい。
「……リアンはそんな簡単な子じゃないよ」
「少し話をするだけだよ。噂も気になるし」
噂? と眉を寄せるチェスターに友人はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべ、
「従妹が彼女と同じクラスだから少しだけ話を聞けたんだ。何やら長期休暇の間に婚約者が出来たという話で、髪もその相手の為に切ったとか。ほら、あの黒いリボン、あれは婚約者からの贈り物らしい」
「……は?」
「今日は黒いリボンだが、先日見かけた時は黒のチョーカーだった。ブラックオニキスの髪留めを着けていた時もあったようだぞ」
「相手の髪の色か、瞳の色か。随分と独占欲が強いと見た。まぁ、どちらにせよ彼女と話せば判るだろう?」
君が知っていれば早かったんだけどな、と続いた声はすり抜けていった。
リアンのあの美しかった髪が、婚約者の為に切られた? そのうえで、彼女の趣味とまったく合わない装飾品を着けさせられている?
それはつまり、
「……僕のせい、で?」
指通りの良い髪をすくい上げそこに口づけを落とせば、頬を染めたリアンを見られた。
雰囲気に似合った柔らかな色合いの髪留めやブローチを、何かの節目のたびに贈った。
その度にリアンは嬉しそうに笑ってくれた。それは今でもチェスターにとっては良い思い出で、リアンを嫌いになって別れたわけではない証拠でもある。
どうしようもない気持ちでリアンを改めてみる。デイジーと何を話してるのかは判らないが、一見、以前と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべている。
露わになった首筋は寒そうだが、続く細い肩から伸びた腕はゆったりと昼食を切り分けていく。
その寒そうな首筋の白さに、遠目ながら目を奪われかけた自分に、チェスターは驚く。
そして思う。
自分なら、リアンの趣味に合わない装飾品など贈らない。彼女の好みは知っている。昔からずっと一緒だったのだから。
自分なら、そもそも髪を切らせたりしない。あの手触りの良さを知り尽くしている。リアンが大切に手入れしていることも。
長さの分だけチェスターと共に居た証拠でもあったのに、あんなにも綺麗さっぱりに切り落とされていて。
それはまるで、チェスターごと切り捨てられたようにも感じて。
「…………」
いい気はしない。当然だ。リアンの良さを潰しにかかった相手に対して、そしてその意志に従ったリアンに対して、嫌悪感が湧き出てくる。
黒い色。髪か瞳か。
少し考えて最初に出てきたのはラジェンダ公爵家のセイだった。黒髪で、リアンとの接点がなぜかある。
彼からは昨年邪険に扱われ、以降近寄らないようにしてきた。
昼食時にリアンと話をしていたところを引き離され、マリーシアについて苦情を言われたのだった。
どうやらマリーシアはセイの教室まで行ってしまったようで、付きまとうのならチェスターも連帯責任を問わせるぞ、と脅しをかけられたのだ。
あの頃マリーシアはディアナのことで悩んでいて、どこに居るのか判らないディアナよりも、居場所がわかり同じ公爵家であるセイに助言を求めただけだったというのに。
言うとおりにするよりなかった。貴族になりたてのマリーシアには理解が難しかったようだが、子爵家の人間が気軽に公爵家の人間に話しかけるなど、ありえないことなのだ。
納得させることに骨の折れた、苦い記憶だ。
だから、セイがリアンの相手であるはずもないのだ。家格に差がありすぎる。たとえ学園の森奥で茶会を開いていようと、格の違いはどうにかなる問題ではないのだ。
ならば他の相手ということになるが、皆目見当もつかない。
訊ねなければならない。現状がチェスターのせいならば、チェスターには知る義務がある。
数か月ぶりにかつての恋人の背を見つめながら、チェスターは密かに決意していた。
とはいえ、決意したと言えども思った以上にリアンが捕まらない。
棟が違うために授業の合間にすれ違うことはできない。昼食時は相変わらずデイジーの視線が厳しいし、何よりも、リアンに興味を持っている友人たちを撒いて、リアンに接触できる気がしない。
それならば放課後と思うが、例のお茶会はとっくにやめていたようだ。
新入生が既に使用していて、彼らは息を切らせてテーブルに近づいたチェスターを不思議そうに見てきた。
春はあっという間に終わり、季節は夏の暑さを知らせる頃、転機は訪れる。
放課後のテラスで、リアンが一人テーブルについていたのだ。
周囲を見るもデイジーの姿は見えない。幸いにも友人たちは既に帰宅している。
帰宅する前に少しだけ茶を貰おうと訪れていたチェスターにはまさに降ってわいた幸運に思えた。
リアンの横顔と、静かに口づけるカップの曲線、その制服の半袖から伸びた白く細い腕を見て、あの指が自分の腕に触れていたことを思い出す。
信頼するように、頼る様に、親愛を持って触れられていた。
嚥下する喉の小さな動き。静かに戻されるカップ、その仕草。格上の令嬢のような、美しい所作だった。
リアンはもともとマナーは得意だった。この一年の間に、さらに磨かれたようだ。
そうして天啓が下りた。
そうだ、リアンにマリーシアのマナーを見てもらうのはどうだろうか。殿下達では身分も性別の違いもあって参考になり辛い。彼女の所作がなかなか上達しないのは、きっとそのせいなのだろう。
それにリアンはよく、デイジーの所作を見てあげていた。デイジーのマナーの向上率はなかなかのものだった。
どうして今まで気が付かなかったんだろう。そもそも、もっと早い段階からリアンに頼めばよかったのだ。
そうすればリアンは髪を切ることなどなかったし、マリーシアの淑女教育だって見違えるほどになっていただろう。
何よりも、チェスターとリアン、二人の距離が離れるようなことだって無かったはずだ。
クラスが違って、気持ちがマリーシアに傾きすぎてしまったが、チェスターは決してリアンを嫌いになったわけではないのだから。
はやる気持ちを抑えられず、自然、チェスターの歩みは早くなる。
ちょうどリアンから見てやや左後ろ側から、他のテーブルをよけながらまっすぐに向かう。ほとんどリアンしか見えていなかった。だから、気づくのに遅れが出た。
リアンが椅子から立ち上がる。見本のように美しい立ち姿。口元はふわりと綻んで、丁寧に瞳は伏せられた。
制服の裾を摘み上げ、静かに腰を落とす。
リアンがそこまで動いてようやく気が付く。リアンが座っていたテーブルの向かいに、誰かが自分より先に辿り着いている。
黒髪の、背の高い男だ。笑みを浮かべた紫の瞳は、まっすぐにリアンを見ている。
二人の会話が耳に入る。
「迎えに来たけど、ちょうどよかったようで?」
「まだお茶を楽しみたいので、少し早かったと思います」
「判った、飲み終わるまで付き合おう」
「ありがとう存じます」
男が座る。リアンの向かいの席に。当然の顔で。
周囲から色めいた声が上がる。男のかんばせは整っていて、中性めいた美しさがある。誰もが見惚れる美形だ。
どこかで見た覚えがあるのだが、どうにも思い出せない。
リアンの皿から最後のクッキーを勝手に取り上げて、男は続ける。
「ところでこちらもお茶が欲しいのだけど」
「承知いたしました。淹れ直しますか?」
「いや、必要ない」
口に放り込んだクッキーを緩く咀嚼しつつ腕を伸ばす。リアンの手の中にあったカップを奪い取り、
「―――はい、飲み終わり。じゃぁ行こうか?」
「…………」
斜めに見たその時のリアンの顔は、長い間幼馴染兼恋人でもあったチェスターでも、一度も見たことのない顔だった。
こいつどうしようもねえな、という声が聞こえてきそうなじっとりとした目で相手の男をすがめるように見て、ふう、と諦めの息で覆い隠す。
次の瞬間には淑女の顔で微笑を浮かべ、優美に立ち上がる。
「承知いたしました。セイ様」
言われた衝撃の名前に、周囲から声のない悲鳴が上がる。
実際チェスターも必死に声を抑えた。もう少しで叫んでしまいそうだった。
(セイ……ラジェンダ!? うそだろ、卒業式の時と別人じゃないか!)
たった半年でここまで背が伸びるものなのだろうか。声質の変化も見受けられるし、一概に本人と断定しにくい。
けれども、リアンは確かにセイだと言った。彼女はこういう場で、公爵家を騙る嘘は言わない。
セイらしき男が差し出した手に、リアンのほっそりとした指先が乗せられる。
そこから自分の方に引き寄せる様子は、傍から見てもちょっと近寄りすぎなのではと思ってしまうほどで、案の定リアンは非難めいた眼をまた一瞬だけした。
けれどもセイはお構いなしで、エスコートの為に乗せられたリアンの指先をぎゅうと握ると、ふいに、それらをはっきりと視認できる距離まで近寄っていたチェスターに目線を寄越し、鼻で嗤った。
「―――――!」
わざとやったのだと知れた。そしてチェスターに向けて、セイの唇が動く。
声には出してない彼の言葉が、はっきりと分かった。
「もう、おまえのじゃないよ」
……その後からしばらくは、チェスターはただ茫然と過ごした。
学園内の話題は一気にリアンとセイの話で盛り上がった。子爵家と公爵家との身分差の大きい婚約に、セイの別人のような成長具合、どちらも真実も邪推も織り交ぜながら、全てがリアンに向けられていく。
リアンはそれらを粛々とさばいていっていた。
あの日セイが現れることでこうなることは予想ついていたのだろう。手際よく誰からも反感を買わぬよう、要らぬ騒ぎとならぬよう、よからぬ嘘や噂で真実が捻じ曲げられぬよう、一つ一つを丁寧に処理していく。
リアンの周囲にはリアンの友人である女性陣ががっつりと防御を固め、そこにどういう気まぐれなのか、ディアナが加わってからは一気に流れが変わった。
そう、学園に来ているかどうかさえ怪しいあのディアナが、ある時お茶をしていたリアンとデイジーの卓に座り、リアンが公爵家に嫁入りすることを歓迎すると、確かに明言したのだ。
同じ公爵家の者が味方をするということの力の大きさを見た瞬間だ。
途端に様々な欺瞞を含めた噂話は鳴りを潜め、リアンが最初から一貫して通している真実とされる婚約に至るまでの話が浸透していく。
それは、チェスターの知らないリアンとセイ、二人だけの物語。
学園の森のテーブルでセイの妹を介して出会い、ゆっくりと育んでいかれた緩やかな恋物語は、主に女性陣の関心を大いに引いたようだ。
チェスターは知らない。最初それはチェスターとリアン、二人だけの約束の場所だったはずなのに、いつの間にかそれがセイにすり替わっているなんて、知らない。
すり替わる前の相手は自分だったと声を上げることもできない。
ならばなぜすり替わっていったのかの説明をするには、マリーシアと距離が離れてしまったし、おそらく今不要な声を上げれば、王太子を始めマリーシアの周囲に居る高位貴族たちからどんな報復をされるか分からない。
結果として、口をつぐむよりなかった。
チェスターの友人たちはチェスターからろくに話を聞き出せないと分かると、肩をすくめてそれ以上は尋ねてこなかった。
たまにすれ違うリアンは緩く会釈するだけでチェスターに声をかけないし、声をかけようとするにも常時一緒に居るデイジーの威嚇が怖い。
必ずデイジーが威嚇するものだから、気づけば周囲の女性陣にもそれがうつり、リアンと親しい女生徒はチェスターを遠巻きに見るようになった。
あっという間に年末となり社交シーズンに突入すると、大々的に発表されたラジェンダ家の婚約に両親はチェスターを問い詰めに来た。
春先に手紙が来なかったこと、去年から徐々にリアンと出かけなかったこと、さりげなく気にかけてはいたが、のらりくらりと誤魔化し続けてきたツケがここで爆発した。
母はリアンが娘になることを楽しみにしていたし、父は逃がした魚の大きさに遠回しにチェスターをなじりに来る。
セイの婚約者としてともに夜会に出席し、堂々とした振る舞いで挨拶をするリアンは、それはそれは見ほれるほどの所作で立ち回っていたらしい。
なんでもラジェンダ公爵家では才能がありそうな娘の淑女教育に力を入れているらしく、子爵の娘があれほどの所作を手に入れられるのなら、と各家の娘たちの花嫁修業先としての良い宣伝にもなっているのだとか。
流れは一気にラジェンダ家に傾き、次期王妃を輩出する予定のスターレット公爵家は影となる。残る二家もここ数年は大きな話題もないため、リアンは学園に居るとき以上の時の人となった。
最終学年である四年生に上がった年。
新学期の準備をしながらふと、チェスターは鏡を覗き込んだ。
そこに居るのは見慣れた自分だ。見慣れている、昨日とも一昨日とも変わらない自分。
……一年前はどうだっただろうか。
あの時自分は、リアンのことなどほとんど頭になく、新学期をマリーシアとどう過ごすかで彩られていた。
結局ほとんどは王子たちに時間を奪われてマリーシアと話す機会などなく、リアンのこともあり呆然と過ごした一年だった。
……二年前の今頃は、リアンとの日々に喜びを感じていたのに。
なのに気が付けば、リアンの手を放しマリーシアの手を取っていた。秋にはもうリアンとのお茶会は自然消滅していたはずだ。
……三年前、新入生のころは、期待と不安に胸を躍らせていて。その行きつく先が、今鏡の前に居る自分だ。
最終学年の今はなんだろう。
背が伸び、肩幅も拡がり、手足も長くなった。顔つきだって変わっているのを実感している。
自分を取り巻く環境だって、身近な人だって見事に変わったというのに。
こんなにも取り残されたような気がしているのは、どうしてなんだろうか。
良くも悪くも、きっかけは間違いなく、公爵令息と子爵令嬢の婚約だ。
本来ならば成立しない婚約は、過去に婚約解消を起こしていた公爵令息には何らかの欠陥があると考えられた結果、子爵令嬢であっても縁を結ぶことが可能とされたのだ。
社交界を賑わせた二人の恋物語は格好の娯楽の種だった。良い解釈も悪い解釈も、「都合の良い解釈」も存分にされる。
その結果の一端が今だということを、ココット・ツェンカ侯爵令嬢は良く分かっていた。
王都で人気のティーサロンの個室。華やかなテーブルクロスを挟んだ向かい側には、元婚約者のアルベルトがココットを睨んでいる。
「どうして婚約破棄なんてしたんだ」
テーブルの上にはマカロンが数個と、飲みかけの紅茶、そしてココットの手の中には読みかけの小説。
お気に入りのお店で、お気に入りのお菓子で、お気に入りの紅茶を嗜みながら、大好きな本の世界に没頭していたというのに。
唐突に勧めてもいない席の向かいに座った彼にココットはそっと息を吐く。その小さな音に彼の眉がさらに持ち上がるが、ため息以外にどんな反応をしろというのだ。
「破棄ではございません、解消です。両家円満に解消させていただきました。その場に同席されていたではありませんか」
「口を挟む間もなく、父たちの間で話がまとめられた! 僕は何も聞いてなかったんだぞ」
破棄も解消も同じことだ! と逆巻く彼にまたため息が漏れる。全然意味は違う。
「ご説明もありましてでしょう? 学園で過ごされた結果、このままでは両家の為にならないとの判断をお父様たちがなされたのです」
「父上は、僕に瑕疵があると言った! 君が何か余計なことを言ったんだろ!?」
ヒートアップしていく元婚約者に、今日はこれ以上読めそうにないなと本に栞を挟む。
「わたくしは確かに、学園での貴方との過ごし方を両親に伝えました。二学年頃から貴方との接点はなくなって、気候の挨拶も無視され、卒業パーティでのエスコートもおざなりであったと」
誕生日プレゼントも貰わなくなったことは言わなかった。さもしいと思われるのは矜持に反する。たとえ、自分からは選び贈っていたとしても。
自覚はあったのか、アルベルトの顔が歪む。卒業パーティのエスコートは最悪だった。
約束の時間通りに来ない、歩調を合わせてくれない、会場に入れば放置される。入り口だけ一緒ならいいだろ、と直に言われたのだ。
この人はいったい、学園での四年間をどうやって過ごしていたのかと本気で驚いた出来事だった。
そうして極めつけは、その卒業パーティでの王太子のやらかしだ。
かの王太子は婚約者であるディアナをエスコートせず、まさかのあの子爵令嬢マリーシアと寄り添うようにして会場に現れたかと思えば、大々的にディアナに婚約破棄を告げたのだ。在学中の彼女の様子が、王妃にふさわしくないとかなんとか、そんな理由で。
王太子と子爵令嬢が結ばれるなんて、そんなことあり得るわけがない。
なのにどちらの発案か、はたまた周囲からの入れ知恵か、彼らは思ってしまった。
あの公爵令息と子爵令嬢の例を出して、位ある者に瑕疵がつけば、位の低い者と結ばれることは可能なのだと。
あっけにとられる会場の中心で高らかに婚約破棄を告げられたディアナは、公爵令嬢という立場にふさわしい、それはそれは美しいカーテシーを披露し婚約破棄を受け入れ、騒がせたと周囲に謝罪をし、会場から去っていった。
凛と美しいその動作に周囲が魅入る中、ココットは気が付いた。
おざなりなエスコートで自分を放置した婚約者が、寄り添う王太子とマリーシア側についていることに。
あ、これ無理だわ。
貴族として清濁飲み込むにしても、飲める濁りと飲めない濁りがある。
少なくとも、友人であるリアン・コートフール子爵令嬢の素晴らしい恋物語を歪曲解釈してきた相手と一生を共にするなど、とてもとても無理。
あの場に居た卒業生を含む生徒たちには、ココットを始め王太子に見切りをつけ早々に帰宅した者の数はそれなりに居たという。
特にリアンとクラスメイトだった一同は余計にだ。
ココットたちは見てきた。子爵令嬢という立場であっても、たとえ相手の公爵令息に瑕疵があっても、リアンは何もせずにいたわけではないことを。
リアンはクラスメイトどころか学園中から注目の中、悪くなかった所作をさらに洗練しつくし、話術に華を開かせられるようになり、苦手分野の学力も着実に好成績を収めていくようになった。
公爵夫人となるための努力を彼女は確かにしていて、そうして申し分ないと言えるほどのものを手に入れていったのだ。
その様を、蛹から蝶が羽化する様を、ココットたちは確かに見てきた。
そんな彼女と、未だに王太子の腕に自分の身体を絡める様にぶら下がり涙をこぼして我が身の可愛さを訴えるなどという、ひど過ぎる所作を姿を衆目の中で見せてくるマリーシアを、同列に扱うなんて!
普段は本ばかり読んで物静かな娘の怒り心頭の言葉に、ココットの父であるツェンカ侯爵はまずは驚き、社交界に飛び交う様々な推測への主にラジェンダ公爵家への評価を上方に軌道修正し、酷くざわつくこととなった王太子周辺に憂慮を見せ、領地に引きこもったディアナ公爵令嬢のその後の様子を視界に入れつつ、最後に娘の婚約者の家である同格の侯爵家を呼び出した。
そうして様々な検討を両家で行った結果、婚約解消という流れになったのだ。
やったぜ晴れて自由の身。次の婚約は、しばらく読書で英気を養ってから! と父に宣言し軽やかな気持ちでページをめくっていたのに。
だというのに。すべての気分が台無しだ。
「婚約は解消です。破棄ではございませんわ」
ココットはあえてもう一度、ゆっくりと相手に言い含めるように言った。破棄はお互いの瑕疵だ。認めるわけにはいかない。
「どのみちマリーシア様は王太子の婚約者にはなれません。貴方も狙っているのかもしれませんが、わたくしに時間を割いている暇は無いのでは?」
というか侯爵家と子爵家ならぎりぎりいけるのではないだろうか。あのマナーでは無理だろうが。
アルベルトが狼狽える。
「べ、別にシアとのことを言いに来たわけじゃない。卒業したら君と結婚するつもりでいたんだ。いきなり進路を絶たれた僕の立場を考えてほしい」
「まぁ。愛称で呼ぶほどの仲でいらしたのね。それはさぞかしご心配でしょう。あと条件はわたくしも同じですの。婚約が解消となったのを知ったのはわたくしも同じタイミングでしたので」
「こんなところで本を読んでいるということは、君も将来が決まってないということだろう? なら僕と婚約しなおそう。お互い今から探すのは大変だ」
「あら。まぁ」
閉じた本をテーブルに載せて、ココットは静かに立ち上がる。飲みかけの紅茶を手に取り、遠慮なく元婚約者の顔にかけた。
「お断りです。ねぇアルベルト様。わたくし読書が大好きなのですわ。その時間を邪魔するなと、何度か言いましたよね? 覚えられないような方とこれからを考えるのは本当に無理ですの」
ぽたぽたと顔から水滴をこぼしながら、アルベルトは呆然と元婚約者の少女を見上げた。
「あなたはディアナ様を、淑女を辱める側におりました。それはリアン様を、わたくしの大切な友人を侮辱したことと同列だわ。わたくしは、あなたをもう信頼しておりません。お帰りになって?」
何かを言おうとして、でも何一つ言葉をつづけられなくて、じっとりと睨みつけるココットと目が合うとびくりと身体を揺らし、視線から逃げる様にアルベルトは慌てて去っていった。
空になったカップを手に持ったまま、ココットはしばらく空席を見つめる。
予約していた個室に強引に割り込んできて勧めてもない席に座られ、意味不明の持論を展開し不愉快な提案をしてくる。
あれと婚約していたなんて、信じられない。本当に、信じられない。
ふいに、足元から震えが来た。全身はあっさりとその震えに包まれ、指先にまで走る震えでカップが落ちてしまう前に、そっとテーブルへ戻す。
すとんと椅子に崩れ落ちる。カタカタと、小刻みに身体が震える。ゆっくりとココットは自分の身体を抱きしめた。
「ふ…ふふ、ふふふ……」
その震えを誤魔化すように声に出す。
「あは……はは、うふふ……う、ぐす、………ふふっ」
ぽたりと、スカートに水滴が落ちる。
ぽたりぽたりと、後を追って落ちていく。
「やった、やりましたわ……わたくし、がんばりました……」
大声で泣きわめきたい気持ちを押し込んで、ココットはひたすらにぎゅっと己を抱きしめた。
怖かった。不快だった。逃げ出したかった。
そして、とても、悲しかった。
あの卒業パーティ以来、婚約を解消した家は幾つも出たそうだ。そのほとんどの原因はマリーシア絡みで、やはり在学中の態度で関係が冷え切った者たちが中心なのだという。
早い家はその日のうちだったし、ココットだって帰宅直後父親を捕まえ思いの丈をぶちまけた。
アルベルトとの未来は無理だった。それは間違いなくココットの本音だ。
「ふふ…う、うぅ……」
だけど。
でも。
そんなものにしたくなかった。
ほんの数年でも、将来を共に見据えたはずの相手だった。愛はすぐには難しくても、尊重し合えればと思っていたはずなのに。
何かがあったとしても、こんなにも簡単に切り捨てるものになるはずなんて無かったはずなのに。
それなのに現実はこんな結末で、自分の四年間はなんだったと憤りたくなる。
ぽたぽたと、スカートの上に水滴が増えてく。
ぎゅうといっそう自分を力強く抱きしめて、ココットは声を絞り出した。
震えを少しでも誤魔化す様に、震える声で。
「……本当に、リアン様は凄いわ」
ココットは想う。彼女の結婚式は来月で、この後一緒に招待されている友人と落ち合う予定が詰まっている。涙は早急に止めなければ。
「同じように傷つかれてるはずなのに。ちゃんと前を向かれて、あげく公爵家の方とだなんて、ああ、羨ましい!」
凄まじい努力を見てきた。自分ではできそうにないなと思っていたことを。だから、本音は格別羨ましくはない。
だけどあえて口に出す。なんてことのない言い方で、この瞬間をなんて事のないものにしたい。
「まるで物語の主人公みたい! 二人のお話が本になればきっとベストセラーですわね。だって誰も思わないわ」
「いっそお嬢様が書かれては? 当事者の真相をご存じなのでしょう?」
傍で静かに控え続けてくれていた侍女が、そっと冷えたハンカチを差し出しながら言う。
アルベルトが侵入してきた際になんとか止めようとしてくれた侍女だ。アルベルトは本当に強引に入ってきた。あいつほんと嫌い。
そんな彼女の言葉に、差し出されたハンカチに、今この場に一人ではないのだということに、ココットの震えが少し収まる。
「…………自分で、書く。いいわね、それ」
ハンカチを受け取りながら、ココットは濡れた目を細めた。
脚の震えはまだある。指先だって油断すれば震える。だけど想う。想うことで、自分の意識を、気持ちを、持ち上げたい。
ハンカチで目元を押さえながら侍女からの言葉を考える。
自分で本を書く。大切な友人の本を。
確かにそれなら、変に誇張されたり華美された話ではない、自分が知っている話が出来上がる。
セイとの話はいくつかリアンから聞き出せてある。なんでか時々ちょっと遠くを見るような目をする時があるけどどのエピソードも素敵だった。
ああ、そう。そうね。悪くないかもしれない。
だって本にしてしまえばそれらのエピソードを、「自分のお気に入りの話」を、何度でも読み返すことが出来るようになる!
「素敵……!」
と震える口元をこらえて口に出してしまえば、あとはするりと気持ちが綺麗に切り替わった。
ココットの性格を理解している侍女が微笑むのを見ながら、震えを吹き飛ばすようもう一度立ち上がる。
「自分で書く、とても素敵だわ! ええ、そうね、そうしましょう! ねぇ、帰ったらお父様に進言しましょう。ラジェンダ公爵家へ取り次いでいただいて、執筆許可を取るわ!」
まだ泣きたい気持ちも、痛む胸も、震える思いも、全部を切り替えられたわけではない。
それでも全てを淑女の仮面の裏に押し込んで、ココット・ツェンカ侯爵令嬢は優美に笑った。
「主役を張れるほどではない小さな恋をしていた女の子が、森のお茶会をきっかけに主人公へと駆け上がっていく物語……タイトルはそう、『脇役令嬢は森でお茶会を』とか、悪くないわね!」




