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 冬が本格的に始まる前に、学園の庭で行われていた秘密のお茶会は終了を告げた。

 代わりに今、リアンは週一でラジェンダ家に通っている。

 理由は実に単純で、外でお茶会を開催するには寒くなりすぎたからだ。

 昨年チェスターといた時は、場所をそのまま空き教室へ移して開催していたが、さすがに部外者であるシェルティを毎週のように教室に入れるわけにはいかない。

 セイが提案し、シェルティが喜べば、リアンに拒否権などどこにあるというのか。

 ただ、それらを差し引いたにしても、リアンにとって単純にお茶をしに毎週遊びに行く、というにはラジェンダ公爵家の敷居は高すぎた。だからこれもセイの提案で、名目を作ることとなった。

「つまりはだ、行儀見習いとかどう思う?」

「行儀見習い、でございますか……」

「実は我が家は何名かそういう名目で人を集めていることがあってね。双方の面目が立つ、下手な勘繰りも抑えられる、何よりも堂々と通えるだろ?」

 学園卒業後の令嬢たちの将来はそれぞれだが、中には自分より位の高い令嬢の傍で手助けをする、専属侍女となる者も少なくはない。いわゆるキャリアウーマンだ。憧れの職業だと言えるだろう。

 その為のマナーを公爵家直々に手ほどきされるというのだ。婚約者がいない令嬢にとってまたとないスキルアップの機会。断る理由はない。

「でも……本当に宜しいのですか? 私に都合の良い事ばかり起こっているようですが……」

「先日の誕生パーティでの立ち振る舞いで、可もなく不可もなくとの見解が出てね。気まぐれの一種だと受け取ってくれて構わない。母が大層面白がっていて……違った、母からの許可もちゃんと得ているから、気にしなくていいよ」

「大変気になる言葉が紛れていたようですが……!?」

 笑ってセイはそれ以上取り合ってくれなかったが、シェルティが上目遣いに「アンおねえしゃま、きてくれないの……?」と言ってリアンの制服の裾を握りしめにきたりしたものだから、細かいことなどもうどうでも良くなった。この可愛い天使を悲しませるくらいなら、公爵家の遊びに存分に付き合おう。

 そんなわけで、授業のない週末はラジェンダ公爵家へ通うこととなった。

 本当に名目だけであることを覚悟していたが、意外にもきちんとした行儀見習いを仕込んでくれるようだった。

 食事や立ち姿、歩く姿勢といった基本のマナーレッスンのおさらいから、茶葉の銘柄や歴史の習得、対話の練習などやることは様々だ。

 学園で教えられることの延長にあるそれらはリアンが学んできた以上に洗練されていて、大変刺激的だった。

 そんな合間に、シェルティとのお茶の時間は用意されていた。

 たっぷりと用意されているそれは、学園の時と違ってシェルティと二人きりでいることが多かった。メイド達もシェルティが下がらせてしまって、その途端にいそいそとリアンの膝上によじ登ってくる。大変可愛い。

 セイもいないその時間をリアンは十分過ぎるほどに満喫させてもらっていたが、一か月目にして嵐が訪れた。

 最初に訪れたのはセイだった。実をいうとセイは、毎回お茶会の最初と最後に同席している。最初の頭10分ほど、軽い挨拶をかわして一息つく程度の時間と、終わりを告げに彼はやって来るのだ。

 だがこの日彼は、珍しく憔悴した顔をしてリアンに言った。

「悪い、リアン嬢。今日はぜひとも貴女には頑張っていただきたい。止めようとしてみたが無理だった。力不足を許してくれ」

 まさかの全面謝罪だ。一瞬本気で何か悪い物でも口にしたのかと思ったぐらいに、セイの様子はおかしい。

 既にメイドは下がらせてあるのでシェルティはリアンの膝上だ。不思議そうな顔をして兄を見上げてくる様子に、セイは力なく笑い返していた。

「酷いことにはならないと思うんだ。ただちょっとあれなだけで、大丈夫、貴女ならなんとか乗り越えられるんじゃないかと期待している部分もある。恨み言があるなら後で責任を持つから。……まぁ、いつかは絶対言い出すなと思ってはいたんだ。予想より早かったなぁと」

「ええと……セイ様、話が見えないのですが?」

「まぁ、つまりはなんだ。母が来られる。覚悟してくれ」

 言い終わると同時に、タイミングを計ったように扉が開いた。

「おかあしゃまっ」

「はぁい、シェルティちゃん。良い子にしてるわねぇ? あらあら、うふふ。可愛いことになって! 良いのよ良いのよ、そのままでね」

 おっとりとした口調でありながらも有無を言わせぬ何かがあった。

 ラジェンダ公爵夫人はにこやかに微笑んで室内に入ってきては、立ち上がったセイに椅子を引かせ優美な仕草でリアンの正面に座る。

「ねぇシェルティ、今日はお母様もご一緒させてくださらない?」

「いーよぉっ」

「嬉しいわぁ。セイ、貴方は下がっていてね。女の園ですもの。殿方は遠慮すべきよ?」

「かしこまりました。ただ、あまりいじめないで下さいよ」

「人聞きの悪い子ねぇ。旦那様に良く似たこと」

 苦笑してセイはまだ固まったままのリアンを見る。声には出さず「がんばれ」と口を動かし今度はにっこりと笑って、夫人に言いつけられたとおりに出て行ってしまった。

 どっとリアンの背に汗が流れ落ちる。シェルティが膝上に乗っていて立ち上がるタイミングを完全に逃したと言えども、お世話になっている家の――ましてや公爵家の夫人に、未だ挨拶をしていない!

 いやそもそも、その娘を膝上に乗せてしまっているのだ。礼儀作法を身に付けに来ているというのに、全部をかなぐり捨てた行動を自分は取っている!

「――ああ、良いのよ良いのよ、そのままで。急に押しかけてきちゃったんだもの。挨拶も、立ち上がらなくて良いわ」

「あ、あの、でも……っ!」

「ごめんなさいねぇ。怯えさせちゃって」

 言って、ラジェンダ夫人は立ち上がる。言葉も顔色も無くしたリアンに近づき、夫人は柔らかく、震えるその肩に手を置いた。

「大丈夫よ、リアン様。この場は無礼を咎めません。だって貴女は、急に立ち上がることで私の娘に怪我をさせてしまうかもと、思いとどまってくれたのでしょう? 大丈夫よ。ねぇシェルティ。貴女の大好きなお姉さまが、ぎゅってしてほしいって。してあげて?」

「はーいっ」

 元気よく返事をして、シェルティがリアンの首に抱き着く。ふわりとした温かさが血の気を無くした頬に触れる。膝上にあった重みがそのまま温もりに変わる。肩の力が抜けたことを確認して、夫人はリアンから離れた。

「少しだけね、お話ししたかったの。シェルティが貴女の話をするし、セイの印象も悪くないようだったしね。お嫁に来てもらっても良いのかしらって、確かめに来たのよ」

 どうして誰も彼も二言目にはそれなのだろうかと思うが、それが貴族として生きる仕事のうちひとつなのだからどうしようもない。セイの相手が早く埋まれば済むはずなのだ。そう、つまりセイが悪い。

「わたくしでは、セイ様のお相手を務めることも、公爵家の方々のお目を汚さぬ程度でしか振舞えません。こうしてシェルティ様とお会いできる時間を頂いているだけでも僥倖にございます」

 ぎゅうと抱きしめてくれるシェルティをそっと抱きしめ返す。小さく、温かく、優しい匂いのするいとおしい存在。

「あら。振られちゃうなんて、あの子も全然だめね。ちょっと顔が良く生まれたからって驕っているからこうなるのよ」

 実の息子に随分な言い様だ。ねぇ、と同意を求められても返答に困る。シェルティの温もりがなければ現実逃避が難しい所の質問だ。

「ふふ、良いのよ、あの子にはそれぐらいで。そう言われる立場に自分を置きたがるんだから。じゃぁあの子のことは忘れちゃいましょう。その代わり、恋のお話をなさらない?」

「へっ?」

 早すぎる展開についていけそうにない。ラジェンダ夫人は口元を隠して上品に笑った後、ゆっくりと着席した。





「それで、ずっと夫人の惚気話聞かされたの? 凄くないそれ!」

「デイジー」

「ずっと夫人から旦那様の馴れ初めを語っていただいたの? 羨ましいですわ、コートフール様。どんな素敵なお話でしたの?」

 宜しい、という意味を込めて頷く。

「ええ。最初、夫人は旦那様の事を気にしておられなかったのですって。でも何度も求婚されて、信頼できるようになっていったのだと」

「信頼、ですの」

「婚約にしても結婚にしても、信頼できる相手と出会うことがベストなのですって。染み入る言葉にございましたわ」

「まぁ」

 それだけ言って、デイジーはわざとらしく口元を扇で隠した。

 そうして、小さな小さな声でリアンに請う。

「ねぇリアン……そろそろ限界なんで、お嬢様講義ここらでやめてもらっていい?」

「もう、デイジー。まだ一時間ぐらいよ?」

「もう一時間だよっ。……ていうかね、なんだか最後の夫人の言葉が、恋愛聞いてるというより商売みたいね、なんて思っちゃったら、こう、現実が戻ってきたというか」

 もう、とリアンは扇を閉じて、要望通り講義終了の合図を告げる。

 それを見たデイジーも同じように扇を閉じて、ずるずると崩れ落ちる様にテーブルに頭をうずめた。

「デイジー」

「うう~……、はい、ごめん遊ばせ、申し訳ございませんっ。ちょっとぐらいいいじゃない」

「駄目よ。ここは学園なのだから。いつ、どこで、誰に。この三つを忘れないで。全て注目されていると思わなきゃ」

「ふぁ~い」

 しぶしぶという返事は聞かなかったことにしてやる。表情の疲れは繕えていないが、少なくともデイジーは姿勢を正すことはしたのだから。

 温室の中は外に比べればうんと暖かい。

 自習時間という名のお茶会の最中に話の種としてリアンが出してきたのは、始まったばかりの行儀見習いの小話だ。

 もちろん、公爵家に世話になっているなんて言ってない。セイはおろか、シェルティの名前すら出しておらず、そこそこな家系にちょっと伝手を用意してもらったので学ぶことが出来ている、とぼかして話をしている。嘘は言っていない。

 そしてこういうぼかし入れた際には、深く追及しないことも貴族間のマナーの一つだ。だからこそあれこれ推測し、相手の懐具合や動向をより探ろうと勘ぐるのが貴族の嗜みなどと言われてしまう時もあるが、ともあれデイジーは深く尋ねてくることはなかった。

 紅茶を丁寧な手つきで飲み一息吐いてから、デイジーは言う。

「でも、ようやく謎が解けたよ。ここ最近リアンの仕草とかとても綺麗になってきてたから、何してるのかなって思ってたら。リアン、最初に逢った時からお作法綺麗だったけど、磨きがかかってきたね! やっぱ友達になってて正解だったよ~」

 一年の時、声をかけてきたのはデイジーの方からだった。

 男爵と子爵はその権威力の低さから往々に地位を同じだと言う者もいるが、厳密には違う。

 子爵とは王より爵位を賜った正真正銘の貴族であり、男爵とは庶民が発言権を持つために、金で買い求めた地位を指す。

 そこには絶対的な違いがあり、子爵家の者として断固注意をせねばならぬとリアンはデイジーを叱ったのだ。

 曰く、貴族として過ごしたいのなら、下位の者が上位の者に気軽に声をかけてはならない、と。

 デイジーは声をかけた姿勢のまま固まって、それから笑って言った。

「私ってば正解! リアン様、ご指摘の通り私は作法を知りません。何せ半年ほど前に男爵の爵位を得たばかりのしがない庶民なのです。ですがこの学園にて、金で積んだなりの貴族としての振舞いを学んでいきたいと思っております。私よりも上位の貴族として、世に生まれる前より貴族だった貴女。是非ともわたくしめにご指示をいただけませんか? そして友達になってほしいなー」

 本音と建前の入り交じりの凄まじさにリアンが頭を抱えそうになったのは言うまでもない。

 最初に指導せねばならなかったのは、作法とか以前にその喋り方だったからだ。

 とはいえ、デイジーのしゃべりは不思議と不快にはならない。実家が客商売をやっているだけに口は巧く、丁寧な言葉遣いも問題はなかった。たまに行き過ぎるが、興奮した時ぐらいなものだ。つまり最初の会話の時、彼女はとても興奮していたのだと後から知った。ともあれ。

 ただそれはあくまでも不快に感じない程度の庶民が話す丁寧語であって、貴族に通用する言葉使いではなかった。そこをリアンは徹底して言い直させ続けてきた。

 結果は、少なくとも半日ぐらいはごまかせるレベルにまで持ち上がってきている。頑張ったものだ。主にリアンが。

 そしてリアンと行動を共にし、すぐ近くでその所作を盗み見ることによって、デイジーの所作も又格段に洗練されたものになっていった。言葉使いよりも、こちらの習得具合は本当に素晴らしかったといえるだろう。

 デイジー曰く、友達になったら楽しいし何よりもめっちゃ近くでマナー講義無料で受け放題なんだから、こんなに儲けのあることはない、だそうだ。

 学園の授業の中には、自習時間と称したお茶の時間がある。この時間を使って、デイジーはリアンの所作を盗み見ながら貴族の会話を覚えてきた。

 その努力を見てきたのはリアンだけではない。少なくとも、一学年目に同じクラスだった者たちは知っていたし、二年になってから初めて目にした者も、軽口を叩きながらも着実に吸収していくデイジーを知っている。

 その努力の甲斐あって、男爵家ということを理由にデイジーは簡単に軽んじられることはほぼなくなった。

「……ねぇ、デイジー。デイジーは貴族の振舞いは大変?」

「んー? まぁ、大変って言えば大変かな。庶民の感覚からしたら随分と一つ一つが仰々しいし、面倒。でも商売人ですからね、覚えますよ! 在学中に上客捕まえて、紐づいて、ずっと御贔屓にしてもらうためには面倒な事でも覚えますよ!」

 鼻息荒く言う様子に、隣の席で本を読んでいた侯爵家の娘が、読んでいた本に隠れる様にして肩を震わせた。

「申し訳ありません、ココット様。デイジーはまだまだ勉強不足のようです」

「いいえ、リアン様。これもデイジーの魅力でしてよ? むしろ勉強不足はわたくしの方になりそうね」

 つまりは普段通りのデイジーの様子に、笑いを耐えきれなかった自分の負けだと言いたいらしい。

「ココット様ひどいー」

『デイジー』

「意地悪ですわ、ココット様! わたくし一生懸命でしてよ?」

 重なった注意にしれっとした顔でデイジーが返すものだから、令嬢の笑いのツボをさらに刺激してしまったらしい。

 ますます本の中に顔をうずめて数秒震え続ける。程なくしてからココット・ツェンカ侯爵令嬢は顔を見せた。

 目じりの涙を拭いながら、

「ふふ……デイジーが頑張っていること、ちゃんと判っておりますわ。むしろこの二年でよくそこまで上達致しました。……男爵家の貴女はこんなに頑張っていらっしゃるというのに……」

 ふぅ、と思わずという様子で吐息を漏らすココットに、二人は首を傾げた。

「ココット様、いかがなさいましたか?」

「あ……いぇ、申し訳ございません。ちょっと他の方のことを思い出してしまって」

 またもや揃って首をかしげてしまったリアンたちに、ココットは淡く苦笑する。たいしたことじゃありませんの、と前置きをして、

「実は、わたくしは直接の知り合いではないのですが……デイジーと同じように、急に貴族に召し上がった方がいらっしゃるの」

「急にということは、庶民として暮らしていらっしゃったと? ……ココット様、その方は……」

 もしかして、と消える様に続いたリアンの言葉にココットは頷く。

「ええ、もう一つのクラスの方ですわ。お噂ぐらいは耳にされまして?」

 あー、とデイジーも頷いた。

「春に貴族だって判明して入ってきた子爵令嬢の方でしたっけ? 猛烈に貴族訓練してると思ってましたけど、違うんですか?」

 二学年は二クラスのみ。だが互いの教室の接点は少ない。個人での行き来はあるようだが、基本的に交流はない間柄だ。

 ココットはゆっくりと首を振る。

「未だに、基礎的なことがうまく出来ていないご様子です。幾度となく叱責も受けているようなのですが、度重なるそれに一部の方々が庇う様になってしまわれたようで」

 それは既に夏に聞いた話だが、どうやらさらにエスカレートしているようだった。

「男性がこぞって庇われるものですから、御令嬢たちが面白いはずございませんわ。中にはご自分の婚約者も含まれていればなおさら……。しかも彼らは庇うだけで、彼女に秩序を教えようとはなさらない様子なのです。そのせいか、一向に淑女としての気質が身についてないようで」

「それは……大変そうですね。どちらも。……ん? あれ、ココット様、確かお隣のクラスって……」

 ええ、とココットは少し目を伏せる。

「わたくしの婚約者の、アルベルトがいるクラスですわ。今のお話は、アルベルトから聞いたものです。可哀想な子がいるんだよ、と教えてくださいましたわ」

 なんだか似たような話を聞いた気がする。嫌な予感を覚えつつリアンは耳を傾ける。

「わたくし、デイジーを見てまいりましたから。最初のうちは仕方がないと思いましたわ。知らない世界に突然放り込まれるんですもの。さぞや心細く、何もかもが大変でしょうと。昨年のデイジーは何をするにもありえない程にダメダメで、頭を抱えるなんて可愛いことではありませんでしたが……それでも、学ぼうとされておりました。リアン様が根気よくお付き合いしているのを見て感心もしていましたのよ。だから、アルベルトから話を聞いて、可哀想ではないと答えたんです。貴族として生きるのならば、その方は努力をなさるべきだと。周囲は見守り導くべきで、庇ってしまってはその方の為になどならない、と」

 急に温度が冷えたと感じたら、デイジーがそっとリアンの傍に身を寄せてきた。ココットは気づいていないのか、どこか一点を不機嫌に見ている。

「そうしたらアルベルトったら言いましたの。『そんなことをいう君は何て心が狭いんだ。彼女はいつも、十分すぎるほどに頑張っているというのに、まだ頑張らせるというのか?』ですって。……残念ながら、わたくしその方の努力をしている姿をお見掛けしておりません。ただ周囲のお噂と、アルベルトが話す内容から推測したのですが、気に召してはいただけなかったようで。一か月ほど前の事ですけど、未だにアルベルトとお話ししておりませんの。すっかり信用を無くしてしまったようです」

 ふふ、と笑えどもその瞳に柔らかさは全くない。溜め込んだものを吐き出すように息をついてから、ココットはようやくリアンたちを見た。

「……ごめんなさい、思い出すとどうしても気が立ってしまって……。先ほど信頼の話もされていたでしょう? 不作法ですけど、聞こえてしまって。ああ、アルベルトはわたくしを信頼していたから話をされたけれども、わたくしの答えを気に食わず、その信頼を下げてしまったのかしらって思ったら、なんだか……」

 ふぅと小さく息を吐いて、ツェンカ侯爵令嬢は力なく笑った。

「信頼されなくなったら……信頼できなくなったら、それはただの政略結婚以下なんでしょうね、って」




「さっきのココット様、怖かった……目が完全に笑ってなかったよ」

 昼休み、テラスで食事をとりながらデイジーが震えていた。確かにあの時のツェンカ侯爵令嬢は恐ろしかった。リアンもあまり思い返したくない。

 でも、とデイジーが腕をさするのを止める。

「ね、リアン。あの話ってもしかしなくても、チェスター君も関係してた……?」

 遠慮がちに、デイジーは切り込んできた。

 チェスターとの繋がりが切れたことはやんわりとしか説明していなかった。ただもうすれ違って、言葉を交わすことが辛くなったのだ、と。こんな形で説明しなおすことになるとは思わなかった。

 頷いて見せればデイジーの顔は判りやすく曇った。聞いちゃいけないことを聞いてしまったと書いてある顔にリアンは笑う。

「済んだことよ。それにね、正直に言えば、ここ最近すっかり忘れていたの」

「え? そうなの?」

「ええ」

 これは本当だ。チェスターの事もマリーシアの事も、思い出すことはほぼなくなっていた。学園内ですれ違うことでもあれば気づくが、積極的に探し、目で追うような日々はいつの間にか遠くなっていた。

「心配ありがとう。わたくしは、もう大丈夫ですわ。それに今は、覚えなきゃいけないことがたくさんありますもの」

「夫人ののろけ話とか」

「それは大事な教訓として承ります」

 ひひ、と淑女らしからぬ笑い声を漏らしてデイジーは目を細める。良かった、と嬉しそうに目を細めるデイジーに首を傾げれば、

「リアンに元気が戻って良かった。リアンが笑ってくれるようになるまでもう少しだね!」

「なに、それ?」

「ひひひ……いひゃいごめんなひゃい……うう、ほっぺ引っ張るのは淑女としてどうなの!?」

「その淑女らしからぬ笑いをやめなさい」

「うわぁあんリアンってば今日も厳しいー」

 そんな気楽なやり取りをしている最中に、

「あ、あのっ……」

 ふいにかかった声に、デイジーと二人揃って向く。

 果たしてそこにいた人物に、リアンは最初こそ驚いたものの、すぐに目線を下げた。デイジーは目を丸くしたまま迎え入れる。

 二人のテーブルに近づいてきたのは、マリーシア・ルドルフその人ではないか。つい先ほどまで話題に上っていた人物であるために、二人とも身構えてしまった。

「昼食中にごめんなさい、少し教えてほしいことがあって……」

 胸元で手を握りしめ小首を傾げる様子は愛らしい。ぽかんとその様子を見納めた後、先に動いたのはデイジーの方だった。

「だ、ダメですよ! そういう時は、『ご歓談中大変失礼いたします。不躾ではございますが、少々伺いたいことがございます。宜しいでしょうか?』って言わなきゃ。あと、」

 慌てて早口でアドバイスをした後、デイジーは言葉を区切ってゆっくりと立ち上がった。

 椅子から身体をずらし、スカートの端を持って腰を落とす。

「お初にお目にかかります。わたくしはロック・フース男爵が娘、デイジー・フースと申します。本日はどのようなご用件にございましょう?」

 流れるように名乗られたマリーシアは「え?」と困った声を出したまま固まってしまっている。その様子に、デイジーは元気づける様に大きく頷いて見せ、反応を待っていた。

「あ、あの……?」

「……えーと、名乗り返していただいても? 私たち初対面ですので」

「あっ。ああ、はいっ。その……マリーシア・ルドルフと申します」

「ルドルフ様。本日はどのようなご用件でしょうか?」

 名乗りを待ってからリアンは口を開いた。デイジーのお陰か動悸は落ち着いている。

「あの、リアンさまに訊きたいことがあるんです」

 またも慌てて、デイジーはマリーシアの傍に寄る。

「家名で呼ばなきゃダメですよっ」

「えっ?」

「お名前で呼ぶのは、許可が下りてからです。私は男爵家ですので名で呼んでもらって構いませんが、ルドルフ様とコートフール様は同じ子爵となります。同格それ以上の階級は、不用意に名を呼んではいけないんですっ」

「え、えっと、……コートフールさま?」

「はい、ルドルフ様」

 おずおずとデイジーに確認を取った様子を見納めて、リアンが答える。混乱したようにリアンとデイジーの顔を見比べていたが、デイジーもリアンもそれ以上何も言わないことで結論が出たのだろう。

 リアンにあらためて向き合って、何度目かになる言葉を口にした。

「お尋ねしたいことが、あるのです。お時間いただいても宜しいでしょうか?」

「お伺いいたします」

 椅子は勧めなかった。長居してもらう気も、長居させる気もない。

「チェスターさまの事です。その……リア、……コートフールさまとチェスターさまは昔からのお知り合いでいらっしゃると」

「世間的には幼馴染と申す部類にございますわ」

「とても、とても仲が良かったって聞きました」

「そうですわね」

「でも、今はそうではないと」

「はい」

 マリーシアを見ることはできない。彼女がどんな顔をしているかなんて知らない、興味はない。

 見たくない。

「おっしゃる通り、ここ数か月、話どころか顔を合わせてもおりません」

 しっかりすっかり忘れていたのに。

 もう気にしないでいられるはずなの。

 どうして、貴女は来たの?

 どうして、私に思い出させようとするの?

「わっ、わたしのっ、……わたしの、せいでしょうか……?」

「いいえ、違います」

 思う以上に冷たい声が出た。マリーシアがびくりと震えたのが判る。

 見ることなく続ける。

「他の方は関係ありません。この件はわたくしとチェスター様のお話です。ご質問は以上にございますか?」

「で、でもっ……」

 それ以上取り合わず、リアンは冷めた紅茶に手を伸ばす。温室の中に居るといえども、冬の飲み物は冷めるのが早い。

 動こうとしないマリーシアにデイジーが退室のやり方をレクチャーしている。頑なにそちらを見ようとしないリアンに諦めたのか、おずおずと言われた通りのことをどうにか口にして、マリーシアは去って行った。

 冷え切ったお茶は、身体を冷やすほどに冷めていて、とても苦くなっていた。




 放課後、気遣うデイジーにやんわりと返して、リアンは学園の森の中に居た。

 約束のお茶会の席だ。冷え切ったテーブルも椅子も恐ろしく冷たかったが、気にせずにリアンは腰を下ろしていた。

 ぼんやりと座って、どれほど時間が経ったのだろう。思い起こされるのは昼間のマリーシアとのやり取り。

 そしてそんなマリーシアとリアンを、遠くから睨みつけてくるチェスター。

 デイジーに見送られたマリーシアにいち早く近づいて、次にデイジーに通せんぼされて、リアンの傍まで来れなかったチェスター。

 しばらく立往生をしていたが、マリーシアが何かを言ったらしく、チェスターはマリーシアの肩を抱いてテラスから去っていった。

 彼は、いったい何を言うつもりだったのだろう。

 長い間甘い時間を共に過ごしてきた幼馴染は、一度も見たことのなかった怖い顔で、リアンにどんな言葉を放つつもりだったのだろう。

 リアンは何もしてない。何も言ってない。質問されたことに答えただけだ。

 もしかして、噂されているようにリアンも彼女に意地悪を言ったとでも思われていたのだろうか。

 小さなころから一緒だったというのに、リアンはそんなことをする者なのだと、チェスターは思ったのだろうか。

 だとしたら、なんて、

「なんて、ばかばかしいの……」

 そう思い込んでいるチェスターも。

 そう思わせるマリーシアも。

 そんなことで、傷ついてしまっているリアン自身も。

 みんな、みんな、馬鹿馬鹿しい。

 傷つく必要なんてないのに。リアンにはシェルティが居てくれるから、もう傷つかなくていいのに。

 あの愛らしい声が。小さな手が。暖かく柔らかな体温が。全部を肯定してくれるようなその存在が。

 いつだってきらきらとした瞳で向けてくれた笑顔が、リアンから悩みなど吹き飛ばしてくれていたのに。

 なのに、今は、どれだけ待ってもシェルティは現れてくれない。

 一昨日逢った。ラジェンダ家のお茶会。あれが最後で、次に会うのは週末。あと四日もある。

 そんなに待ち耐えるなんて、とても無理だ。

 気づいてしまうと崩壊は早い。

 止める間もなく、涙が一粒零れ落ちた。

「…………」

 一つ零れれば後もそれに続くだけだ。両の瞳から静かに涙は零れていく。落ちていくそれを無言で見送るよりない。

 泣きたくなかった。絶対に泣きたくなかった。

 ずっと彼は笑顔を向けてくれていた。

 優しい言葉でリアンを迎えてくれていた。

 手を取ってくれて、時に柔らかく髪を持ち上げて、そっと口づけを落として。綺麗だねと嬉しい言葉をくれて。

 未来を思う言葉をくれて、満たされた気持ちのまま寄り添っていられた。その、幸せな時間のすべて。

 すべてが、涙一つ一つに含まれて流れ落ちてしまいそうで。

 それがどうしても嫌だったから、泣きたくなかったのに。

 手放したくなかった思いが零れ落ちていく。

 笑う時に目を細める、その仕草が好きだった。

 困ったときに目を逸らすその流れが好きだった。

 悲しい時には親指を握りこむ癖があって、それを解くのはリアンの役目だった。

 怒るときは声はあまり荒げず、無言の圧力を相手に向ける。今日のように。

 ココットの言葉が蘇る。信頼されなくなったら。信頼できなくなったら。

「私と、貴方は」

 公爵夫人の言葉が突き刺さる。結婚する相手に求めること。

「……いつの間にか、信頼できない間柄になってしまったのね、チェスター」

 ああ、認めてしまった。

 途端にあふれる涙の量が増えた。どれだけ拭おうとも追いつかない。

 恋の終わりを。

 幸せで、大切にしていた気持ちの終着を、こんな形でつけなければならないなんて。

 嗚咽も漏らせずに涙が、リアンの気持ちが、恋が零れ落ちていく。枯れるまでだろうか。それとも、枯れても落ちるものなのだろうか。

 枯れることなんて、あるのかしら。

 思うけれども、正解なんて見つけたくもない。判るのは、空っぽにならないとこの涙は落ち着かないだろう、ということだけだ。

 周囲の景色はゆっくりと陰っていく。冬の寒さは静かにリアンを追い詰めていく。

 だけど流れる涙が熱くて、刺すように痛くて、縫い付けられたようにリアンは動けない。

 このまま、枯れ尽きるまで泣くしかないんだ、なんて動けないまま思い始めた時、ふと気が付いた。

 テーブルの向こう、向かいの席に、いつの間にかセイが座っていた。

 脚を組み、頬杖をつき、目を伏せて、実に優雅な様子で。

 リアンの存在など目に入っていないかのようなその振舞いに、逆にリアンは落ち着いて受け入れることが出来た。

 驚いた分だけ少し止まりかかっていた涙がまたぽろぽろと落ちていく。

 セイは何も言わない。どうしたのかと声をかけるでもなく、大丈夫かと肩を叩くでなく、涙を拭きとるためのハンカチを差し出すことすらしない。

 ただ、そこに居る。

 でも、ただ、そこに居てくれる。

 ぼんやりとその姿を目に収めて、泣き止まなくちゃな、とリアンは思う。

 泣き止まなくちゃ。立ち上がって、ご挨拶を。淑女の礼を取って、ここから去らなきゃ。

「……ひっく、」

 出てきたのは喉の引きつった音だけで。

 零れ落ちる涙の様子は変わらなくて、痛いほどに熱い瞼を冷やすには熱を持った涙で。

「ふ、……、」

 言わなきゃ。立たなきゃ。泣き止まなきゃ。

 思うのに、身体に力が入らない。涙を拭うことすらなく膝の上で握りしめていた手は硬くなってしまっていて、動く気配はない。

「……う、……ひっく」

 足の感覚だってとうにない。自分が今椅子に座っているということも、思い出すのに時間がかかった。

 さぁリアン、泣き止んで。

 泣き止んで、立ち上がって、謝罪と礼をするのよ。

「うう……。う……ふ、ぇ」

 セイはこちらを見ない。ただただゆったりと座っている。リアンを待っているわけでも、急かすわけでもない様子で。

 でも、そこに、居てくれる。

 どうして。いつから。余裕が持てればそれも聞きたい。

 ああ、でも本当にどうしてだろう。セイの様子を見ていると、なんだかとても。

「ふ、ぅ、ぅぅっ、……」

 喉から声が漏れる。かすれた止められない音。ダメだ、と思ったら本当にもう駄目だった。

 なんだか、とっても腹が立つのはどうしてなんだろう?

「……う、わああああああああんっ」

 急に上がった泣き声に一番驚いたのはリアン自身だ。さっきまであんなに何もできなかったのに。

 だけどせり上がった泣き声は止められなくて、思うがままにわんわんとリアンは泣くしかなかった。

 唐突に声を張り上げたリアンに、さすがに驚いたセイが頬杖から滑り落ち、慌ててこちらを凝視してくるのを涙の向こうに見つけて、これでもかと泣きわめきながら。

 ちょっとだけいい気味だ、なんて思ってしまった。




 森の奥で一人泣いているのを見つけた時に思い出したのは、妹との約束だった。

 あのね、と手招きされて屈めば、小さな手をセイの耳に添えて、シェルティが内緒話を始める。

「はじめてあったときね、アンおねえしゃまね、ないてたの。もりのおひめしゃまね、ないてたの。おにいしゃま、おーじしゃまでしょ?」

 だからおねがい、とシェルティは言う。

「アンおねえしゃまをね、たすけてあげて? おーじしゃまは、おひめしゃまをたすけうのよ」

 かかる息のこそばゆさに耐えていれば言われたのはそんな言葉で。

 シェルティを見れば、小さな淑女はとても真剣な顔をしていた。

 泣いていたのはシェルティの方だろうなんて茶化しは利かない顔だ。齢三歳の矜持は侮れない。小さくても立派なレディよ、舐めてはだめよ。母の言葉を思い出す。

 だからセイは、胸に手を当て紳士の礼を執る。

 物語のお姫様に憧れる、夢見がちな妹の為に何度か演じてみせたシェルティ理想の王子様は、他ならぬシェルティのための王子様のつもりでいたのだが、その相手から直々に頼まれたのなら断れるはずもない。

「我が姫の望みの通りに」

 そして今、シェルティが言ったように『森のお姫様』は一人静かに泣いていて、これは確かに『物語の王子様』の出番そのものだった。

 だがどうしたものか。

 声をかけ、慰めるのが正解だろうと思う。優しい言葉をかけて、心を解きほぐしてやって、涙を拭ってやる。

 王子を全うするならそうするべきなのだが、果たしてそれが今のリアンの為になるだろうか。

 見ないふりをしてやるというのも優しさだ。頑固で、色々な意味で矜持の高い娘だ。誰かに泣き顔を見られていいと思うなら、とっくの昔に知り合いの前で泣いている。

 しかしそれもやはり懸念がある。

 彼女がいつからここに居たのか判らないが、真冬のこの寒空の下、放置するわけにはいかない。

 悩み下した結論は、彼女自身に泣き止んでもらうこと、だった。

 自分より身分の高いセイの姿を見つければ、彼女は泣き止むはずだ。帰宅を促すこともできる。

 思い出を刺激する、冬の寒いこんな場所で一人泣くよりも、暖かい部屋の中に逃げた方がずっと良い。

 はらはらと涙をこぼしているリアンの向かいに座る。予想以上に椅子は冷えていて、コート越しでも長時間の滞在は遠慮したい環境だった。

 程なくして、リアンはセイに気が付いた。泣き濡れた顔がのろのろと持ち上げられて、どこを見ているわけでもなかった視線がセイに固定される。

 急かすわけでもなくセイはゆったりと待つ。リアンから身体をずらした横向きで椅子に腰かけ、冷えたテーブルに肘をつき、足を組む。

 そもそも紳士は、不用意に淑女の泣き顔を見るべきではないのだ。

 同時に淑女にもまた、不用意に泣き顔をさらしてはならないという教えがある。

 果たしてリアンは。視界の端でくしゃりと顔を歪めてセイを睨みつけてきた。

 耐えるように引き結ばれた唇がわなないていて、零れるようにうめき声が少しだけ聞こえる。我慢しようと、努力している。

 そうだ。取りあえず今は泣き止め。

 矜持を思い出し、取り戻す時間ぐらい待ってやれる。

 だが堪えるような声を漏らした後に響いてきたのは、予想を大きく超えた泣き声だった。

「うわあああああああんっ」

 即座にリアンの方へ振り向いてしまった。

 大粒の涙を巻き散らすようにこぼして、口を大きく開けて、あらん限りに泣き叫ぶ。

 まるで小さな子供そのものの泣き方に、思わずセイはリアンを凝視してしまう。

 リアンは模範的な淑女だ。自分の立場を理解しており、そこからの逸脱を己自身に良しとしない節がある。

 ましてや最近ではラジェンダ家の手ほどきを受けて、マナーレッスンへの余念もない。どんな時でも立ち振る舞いをしとやかに、慎ましく。講師からの評判は悪くないと聞いている。

 シェルティが絡んでデロデロを発動しているときはどうしようもない。だが、それ以外の時は静かに丁寧な話をし、話題の提供にも出しゃばらず、控えめに微笑む、まさしく淑女そのもの。

 だというのに、目の前のリアンはそれらを全部かなぐり捨てた本気の泣き方だった。小さな子供同然のその泣き方に、あまりの声の大きさに、リアンがこんなに大きな声を出すのを初めて聞いたな、なんてうっかり思う。

「あああああああん、うああああああんっ」

「り、リアン嬢っ、」

「わああああああああんっ」

 現実逃避をしている場合じゃなかった。

 今こそ駆け寄って慰めるべきなのか。それとも放置して、関わりなしとこの場を去るべきか。

 迷う間にリアンの声はどんどん大きくなっていく。

 これがシェルティならば慌てずに抱き上げてやれる。だがリアンにそんなことをやれるわけがない。

 抱きしめるべきか? 気を紛らわすべきか? もうこのまま収まるまで待つか?

 選択に迷っている時間は、恐らく数秒だったはずだ。

 しかし恐ろしく長い時間をかけた熟考に答えを出すより早く、少しは気が済んだのか、リアンの泣き叫ぶ声は収まっていく。

「ふぇぇぇぇ、ええええええ……」

 ぐしぐしと目元をこすって、小さな嗚咽だけが残る。その嗚咽もやっぱり子供じみたもので、セイはリアンという少女に対する評価を大きく軌道修正することにした。

 そしてセイは、彼女が自力で落ち着いて「申し訳ありませんでした」と言い出すまで、やっぱり何もできず見守るしかなかった。




 ラジェンダ家の馬車の中で、セイは存外ゆっくりと説明してくれた。

 彼は昼間のことは知らず、しかし放課後デイジーに詰め寄られるチェスターを見かけたらしい。並々ならぬその様子に何事かと少し興味を出してみれば、話の中身はリアンの事ではないか。

「もしかしてと思って森に来てみれば君が一人で待ちぼうけていて、さすがにあの冷え込みで放置はまずいと思っていたら、よもや人の顔を見るなりああも大泣きされるとは思わなかった」

 公爵家の馬車の乗り心地は良い。長時間森の中に居たリアンの為、セイは自分のコートと馬車にあったブランケットでリアンをぐるぐる巻きにしてくれた。お陰で寒さも今はあまり感じない。

 感じないどころか、羞恥でとても熱い。

 ラジェンダ家の侍従が気を利かせて渡してくれた即席の蒸しタオルに顔をうずめながら、リアンはおずおずと尋ねた。

「デイジーが、チェスターを……? 少し話が見えないのですが……」

「いやなかなかに凄かった。有無を言わせぬ気迫で逃げ道を封じて、反論を一つずつ丁寧につぶしていっていた」

 デイジー、貴女一体何をしているの。

「怒っているけれど、所作はそこそこ綺麗だったからより見物だったよ。ブランは完全に追い込まれていたが……彼はいったい何をしでかしたんだ?」

「……少し、意思の齟齬が」

 ふうん、とだけ言って、セイはそれ以上追求しないでくれた。

 思えば別に何かされたわけでも言われたわけでもない。ただ、睨まれただけだ。遠くから。

 デイジーはそれを見て、怒ってくれた。

 友人の行動は嬉しくもあり心配でもある。そしてそれと同時に、気になることもある。

「……彼女の様子は、どうでした?」

「うん?」

「デイジー・フースです。彼女は、学園に入学する直前にお父様が男爵位を取得されまして。その、貴族の言い回しや節度に不慣れな部分があるのです。セイ様が気づかれるほどの衆目のある場所で、大声など出していたのでしょうか?」

「いいや? 場所は校舎の脇で人気はない方だったかな。校舎から迎えの場所までの近道だから良く使ってるんだが、珍しく人がいるなと思っていたら男子生徒が女生徒に追い詰められているのが見えて。よく見たらそれはブランで、まぁ見事に追い詰められていて。別段大声を出しているという感じはなかった。色気のある様子もなく普通に追い詰めてた。言われてみれば確かに、あんな気迫で男を相手に追い詰めるなんて普通の令嬢ではないなと思いはしたが……そうか、それで言っている内容はあんなにぶっ飛んでいたのか」

「……あの、デイジーはいったい何を……」

 あとどうして追い詰めるを連呼されるのだろうか。

「簡潔に言えば、これ以上君に何か不快なことをするようならぶん殴るぞ、というようなことを言ってた」

 何してるのデイジー!

「なかなか淑女からは出てこない言葉だったもので、つい足を止めてしまったよ。でも、彼女の言い回しに不自然な言葉遣いは見当たらなかったし、身のこなしに問題を感じることもなかった。君に言われるまではそんなに浅い歴史の家の者だとは思えなかったほどだ」

「っ、本当ですか?」

 思わず顔を上げれば、セイは面白そうにこちらを見返して、

「本当だ。随分と嬉しそうだな?」

「作法を教えたのはわたくしなんです。……ああ、デイジー、公爵家の方に褒めて貰えたなんて……!」

 これは明日教えてあげなくては。

 二年に及ぶ努力をリアンは知っている。嬉しさのままに頬を緩めていると、対面のセイは苦笑した。

「その明日、確実に彼女に会うためにも、今夜は目元をしっかり冷やした方が良いぞ?」

 言われて、慌ててリアンは蒸しタオルに顔をうずめた。まずはこちらからです、と渡されたそれは随分と冷えてきているので、ひんやりとし始めていて気持ちがいい。

 くつくつとセイの笑い声が聞こえる。ついでに隅に同席しているラジェンダ家の侍従からも笑いをこらえる気配を感じる。

 増々と顔を赤くして、リアンは絶対に顔を上げないようにと固く誓った。

「まぁそのままで良いから聞いてくれ。リアン嬢、君はどうしたい? ブラン家を潰すか?」

「何をおっしゃっているんですかっ」

 誓いは即座に投げ捨ててタオルから顔をはがす。

「言葉のままだ。君はシェルティのお気に入りだぞ。そんな君を悲しませる要因にブランが関わっていることは確実だ。となれば、まるっと元凶を潰す。手っ取り早いだろう?」

「早ければいいというものではありません。どうしてセイ様が介入されるのですか!?」

「いやなんか腹が立つし」

 愕然としてセイを見れば、ラジェンダ公爵家の嫡男は、その中性的な顔立ちからは想像出来なかった艶やかな笑みを浮かべてリアンを嗤った。

「理由なんぞそれで十分だ。気に入らないのだから消してしまえば良い。リアン・コートフール子爵令嬢、貴族とは本来、そういうものだぞ?」

 ぞっとして、リアンは背に嫌な汗を感じた。温まりかけていた身体は寒さを思い出し、芯から冷えてくる。

 そうだ、彼は公爵家。王族の血統。命じればそれだけで大抵の言葉が通る。どうやらリアンのあずかり知らぬところでチェスターは随分とセイから低評価をつけられていたようだ。ここでリアンが頷けば、それを理由に彼は宣言通り、ブラン家を潰しにかかるだろう。

 だけど。

「……いいえ。いいえ、次期公爵様。セイ・ラジェンダ様。貴方はそうはなさりません。たとえ私が訴えても、ブラン家に害が及ぶことはないでしょう」

「どうしてそう思う?」

「誇り高くあれと、ラジェンダ家でのマナー講師であるミランダ夫人はおっしゃいました。誇り高くあることは、矜持を守ること。そして寛容であること。己の芯を見失わないこと。これこそが、貴族が貴族たる由縁」

 緊張で張り詰めた背を意識して伸ばす。震える指をそっと膝の上に揃える。タオルを握ったままなのは勘弁してもらいたい。きっと酷いことになっているであろう目元も。

 ―――淑女の武器は笑顔ですよ。

 ええ。そうですわね、ミランダ夫人。

 わたくしその意味、きちんと把握しておりますわ。

 頬に力を籠め、震える口元に弧を描き、眉尻は柔らかく。唇の形を意識しながら、目元に力を入れる。

 ―――泣くのでも、怒るのでもなく、笑うのです。

「だってセイ様は、誇り高い方ですもの。己の矜持に誠実で、周囲に対して常に寛容にございます。わたくしがシェルティ様と一緒に居ることを許してくださる、素敵な方」

 ―――そしてちょっとだけ、困って見せるのです。殿方に要望を聞いていただくコツですわ。

「そんな方が、悪ぶるふりなんて……。恐れ多いことです。本当にセイ様は、シェルティ様を可愛がっておいでですのね。わたくし、嫉妬してしまいますわ」

「シェルティに?」

「いいえ。―――チェスター・ブランに」

「ぶっ、はははははっ!」

 セイは噴き出し、楽しそうに笑いだした。

 バクバクと激しくなっている心臓を宥めながら、リアンは笑顔を保つ。ここで崩れてはいけない。楽しそうにしていてもセイなのだ。半年ほどの付き合いだが、未だに彼が急に何を言い出すかリアンは把握できていない。夫人の教え通りにやれたはずだが油断はできないのだ。

 優しいけれど意地悪、と言っていたディアナの言葉がなぜかこんな時に過るものだから、余計に気を抜けなくなった。

 優しい……ええ、そう、セイは優しいだろう。リアンが泣き止むまで何も言わず傍にいてくれたし、こうして家まで送り届けてくれる。

 でも意地悪だ。だって泣いているリアンにセイは何もしてくれなかった。そして今も、リアンの為にならない提案をして反応を楽しもうとしている。こちらが傷心だと判り切っているのに!

「ははっ、……はぁ、笑えた。判った、それではあまりにリアン嬢が可哀想だから、ブランにはなにもしないことにしよう」

「ええ、出来れば名を出すのもやめてくださいませ」

 ぽろりと零れた言葉にセイが真顔になる。だが次の瞬間にはにやりとしたものに変えて、

「判った。二度と口にしないと誓おう。ついでにある子爵子女の名も出さない。これで許してもらえるか?」

「はい、我儘を聴いてくださり、感謝いたします」

 鷹揚にセイが頷けば、馬車はちょうどリアンの家に着いたところだった。

 両親には素直に話した。チェスターとの関係が終わったこと。たまたまセイが見つけて送ってくれたこと。

 泣きはらした娘が日が沈んでから男と共に帰ってきたのだ。相手が公爵家と言えども勘ぐるのは仕方のないことだが、リアンと共にセイの従者が軽く説明を入れてくれたことで、少なくとも何もなかったこと、セイの責任ではないことに両親は一応の納得を見せた。

 ラジェンダ公爵家の馬車を見送り、ほっと肩の力を抜いた後。母はリアンを抱きしめて、ちょっとだけ小言をくれた。




 翌日、少し残った目元の腫れを化粧でごまかして登校すれば、何か言いたそうなデイジーには昼食まで待ってもらって、食堂テラスへ向かう。

 視界の端にチェスターの姿が見えたが、デイジーのひと睨みで彼はすごすごと引き下がって行った。

 何がしたいのかと呆れつつも、一応デイジーをたしなめておく。

「デイジー、貴女昨日、人を追い詰めていたって伺ったわ」

「あら、リアン様。なんのお話でしょう?」

 ほほほ、とすぐさま扇を開いて誤魔化す。ちゃんと優雅な仕草だった。

「ある方が見ていらして、わたくしに教えてくださったのです。実に見事に追い詰めていたと」

「おほほほほ、リアン様ったら。淑女がそんなことするわけないじゃありませんか。その方きっと、夢でも見られたのね」

「ちなみに教えてくださったのは公爵家の方なの」

「うそっ誰にも見られてないはずだったのに! ていうかリアン、公爵家にお知り合いいるの!?」

 様になっていた淑女っぷりはあっさりとはがれた。

「ねぇ」

「ななななな、なにっ、わたしなんにもしてないよっ! お話を付けただけだよ! 脅迫なんてしてないから!」

 したの、脅迫。いえ、それよりも。

「デイジー・フース様。貴女にお礼を申し上げます」

「ふへっ」

 気の抜いた声を上げてデイジーの動きが止まる。

 丸く見開かれたデイジーの淡い緑色の瞳を見返しながら、リアンは微笑んだ。

「わたくしの為に、怒ってくれて。わたくしの代わりに、怒ってくれて。その方から貴女が何をしたのか伺った時、驚いたけど嬉しかったの」

「……リアン?」

「嬉しかったの。本当よ。わたくしには、こんなに素敵なお友達がいるのよ。だからね、気づいたの。別の女性を見ちゃうような人、もうどうでも良いわって」

 デイジーの扇を持っていた手をゆっくりと降ろさせて、その手をリアンは包み込んだ。リアンと同じ細い指。指先が少し荒れているのは、実家の商売を手伝っているからだと聞いたことがある。荷物を運んだり、伝票をさばいたりするらしい。

 正直なことを言えばどんなことをやっているのか良く判らなかったが、働いている手だということは判る。貴族令嬢としては苦言呈したいところだが、これがデイジー・フース男爵令嬢の手だ。

 庶民として働く苦労も、貴族として優雅である苦労も、どちらも知っている友達の手。

「心から思ったの、貴女のおかげ。ありがとうデイジー。大好きよ」

 包み込んだ手に力を籠めれば、デイジーの瞳が潤んできた。一応先制しておく。

「泣いては駄目よ、デイジー。淑女は人前で涙を見せてはいけないの」

「ひ、ひどぉ……リアンってば今日もきびしぃぃ」

 ずび、と鼻をすすったのも、初回なので見逃しておく。

 リアンも釣られるように鼻の奥につんときているけれど、気合で我慢する。淑女とは、そういうものだ。たとえ昨日全部かなぐり捨てた瞬間を公爵家の嫡男に見られていたというとんでもない失態があったとしても。

 二人の淑女は泣くのを堪えながらも笑い合う。

 悲しいんじゃなくて嬉しいんだから、笑うのが正解だ。

 後日、その光景を垣間見たらしいセイが、「何とも言えない異様な光景だった」と教えてくれたが、リアンは決してデイジーに伝えることはしなかった。

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― 新着の感想 ―
声を上げて泣くのは本当にすっきりするしとっても楽になるので大人になってからやるのはいいですよね…! そこで慌てる所がセイのカッコつかない所でいいですなぁ……。デイジーもカッコいいですね。自分から相手を…
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