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リアン・コートフールには将来を約束した相手がいた。
相手はリアンと同じ子爵家の一人息子チェスター・ブラン。家同士の婚約は結んでいないものの、同い年の二人は小さな頃からずっと一緒で、お互いに囁き続けてきた。
いわく、「おおきくなったらけっこんしようね」。
子供同士の戯れから始まった、ままごとのような口約束だ。
だけどリアンはその約束を信じていたし、二人の仲の良さは周知のものだった。
十四歳から十七歳までの間に通う、王侯貴族の子息子女を集めた学園に通うようになってからも、それは変わらなかった。
週に一度、学園の庭の奥にあるテーブルで一緒にお茶を。
言い出したのはどちらからだっただろう。
確か、チェスターからのはずだ。綺麗な場所を見つけたよと、リアンの手を引いて。
時に王族も受け入れる、貴族が通うためのこの学園の庭はとても広い。
綺麗に剪定はされているものの、小さな森に木々が生い茂っている箇所もあちこち見受けられ、チェスターがリアンをいざなった先もそんな森の中だった。
暗く生い茂っているのかと思いきや、互いが重なり合う枝葉の狭間、ぽっかりと穴が開いたように光が差し込む一角。そこにはテーブルと椅子がセッティングされ、囲む様に小さな花が植えられていた。
チェスターが用意したものではなく、最初からすでにこの状態だったそうだ。
一目で気に入った様子を見せたリアンにチェスターは満足そうにして、こうして二人の密かなお茶会は始まった。
とりとめのない話をして、終わりに「また明日」と言って別れる。
リアンはこの時間が大好きだった。学園生活を堪能しながら、好きな人と語らう時間を謳歌する。なんて素敵な日々だろう。
一学年の時は同じクラスだったのに、二学年でリアンとチェスターは違うクラスになった。
一緒に居られる時間は少なくなったが、放課後のお茶会は変わらず続いている。
花の咲き誇る春のお茶会の中で、ふとチェスターが話題を口にした。
「そういえばね、うちのクラスに編入生が入ってくることになったよ」
「編入って、珍しいわね。どちらからいらっしゃるの?」
「ルドルフ子爵の娘らしいんだけど……」
そこでチェスターは声を潜め、
「噂だと、庶民育ちらしいんだ。長年探していた、恋人の忘れ形見の女の子なんだって」
「まぁ……ルドルフ子爵は確か、ご結婚はされていないお話でしたものね。本当だとしたら、素敵な話だわ」
「……素敵、なの?」
首をかしげるチェスターに、リアンは微笑んで頷く。
「だって、恋人の忘れ形見なんてロマンチックだわ! そんなに長い間も想っていらしたなんて……その子は愛されてましたのね」
なるほど、とチェスターも同じように微笑んで、そっとリアンの長い髪に手を伸ばした、
一房を恭しく持ち上げ、口づける。
「僕に何かあったら、君も同じように想っていてくれるのかな」
「勿論ですわ。……チェスターも、もし私が目の前から消えても、ずっと忘れないでいてくださる?」
「勿論。リアンは大事な、僕のお姫様なんだから」
幸せだと思えるこの瞬間を、リアンは決して忘れないと誓った。
その翌週、編入生はチェスターのクラスへ入った。
最初にリアンが「素敵」と言ったからなのか、チェスターは編入生の話題をよくしてくれる。お陰でクラスは違うのに、リアンはすっかり編入生に詳しくなってしまった。
編入生の名は、マリーシア・ルドルフ。事前情報の通り庶民育ちで、ルドルフ子爵と秘密の恋人であった侍女との間に生まれた子供らしい。母親を病気で亡くし行く当てのなくなったところで、ルドルフ子爵がようやく見つけ出したとか。
柔らかな茶の髪に蒼い瞳。朗らかに笑う、ごくごく普通の女の子。
最初のうちは庶民の出ということで、みんな遠巻きに見ていたが、チェスターと同じクラスには第一王子がいる。王子が積極的に気にかけ話しかけることにより、少しずつ話しかける者が増えていっているようだ。
マナーも礼節もはっきり言って酷い。けれど物腰の柔らかさと明るさに、少しずつ厳しい目で見る者の数は減ってきているらしい。
「僕も少し話をしてみたんだけどね、悪い子ではなかったよ。自分の父親が貴族だってことを知ったのも、ほんの数か月前のことなんだって」
「まぁ……それは判らないことが多くて、きっとお困りね」
「そうだね、実際それでかなり苦労しているみたいだ。……とはいえ男の僕が教えられるものでもないからなぁ」
頷いて、少しだけ思った。リアンならば少しは教えられるかもしれない。
でもすぐに思い直した。チェスターと同じクラスには、第一王子の婚約者である公爵家の娘もいる。
位が上の者が、位の下の者に作法を教えるのは当然のしきたりだ。他にも侯爵の娘が数人在籍しているクラスの者に、子爵で、しかも他所のクラスであるリアンが口を出すのはあまりに差し出がましい。
控えめに「早く馴染めると宜しいわね」と言えば、チェスターは「そうだね」と言った。
その後も、チェスターの口からマリーシアの名はよく出てきた。なにやら雲行きの怪しい方向で。
どうやらマリーシアは、気位の高い令嬢達の不興を買ってしまったらしい。これまでの状況から反転して、孤立に追いやられてしまっているようだ。第一王子やその側近候補たちがとりなしをしているようだが、なかなかうまく進まない。
「なんだか可哀相だよ」
そうチェスターは言うが、リアンは同意し辛い。状況はさらに悪くなるだろうと、容易に想像できてしまう。
「……殿下たちが彼女に頻繁に構うようなら、よりいっそう立場は辛くなるわ」
「そうだとしても、マリーシア嬢に非があるわけではないんだよ? 子爵である僕が前に出ても、侯爵家に敵うわけもない。殿下や側近候補侯爵家の方々じゃないと、太刀打ちできないよ」
王子の周辺を固める面々の顔を思い浮かべて、リアンはそっと息を吐いた。
どうしてだろう。なんだか酷く嫌な予感がする。
「ディアナ様はどうされているの?」
王子の婚約者でもあり、公爵家の娘。教室内で二番目に地位が高い者の名を出せば、チェスターは目を逸らした。
「何も。噂だとマリーシア嬢を非難するのはディアナ嬢の指示らしいんだけど、彼女、どういうわけか授業にあまり出てこないんだ。たまに出てきたときは恐ろしいぐらいに静かでね。その時は誰もマリーシア嬢に近づこうとしない」
それはまたどういう状況なのだろうか。
噂はおそらく、ディアナ本人の耳にも入っているはずだ。きっと第一王子にも。肯定も訂正もしない状況は、ますますもってマリーシアの状況が宜しくないことが窺える。
また来週、といつものように別れたのに、いつもは喜びだった次の約束の言葉が、なぜかとても不安な言葉に思えた。
予感が当たって、翌週チェスターはお茶会に来なかった。
毎週必ず会えたわけではない。これまでも急な用事が出来て来れなくなったことは、チェスターだけではなくリアンにもあった。
でも必ず、使いと手紙を寄越してくれていたのに、今回は何もなかった。
次第に冷めていく紅茶を両手で包んで、リアンはただ待ちぼうけるしかなかった。
翌日、チェスターから詫びの手紙が届いた。どうしてもどうしても、急を要する出来事があり、使いを走らせる暇すらなかったと。
何行にも渡って綴られる詫びの言葉に、最後に締めくくられた「次週は楽しみにしている」という一文に、リアンの苦い気持ちが溶けていく。
そうして翌週、チェスターはリアンにひたすら謝り、お詫びの品まで用意してくれた。花のモチーフが付いた金のネックレスだ。
石が付いていないことも謝られたが、リアンにはチェスターがリアンのことを思ってくれただけで十分だった。
「良かった。貴方に怪我や病気がなくて、本当に良かった」
言えば、チェスターは頬を赤く染めて、柔らかく微笑んだ。
一か月後、再びチェスターはお茶会に来なかったが、今度は事前に連絡が来た。詫びの言葉と、一輪の花。可愛らしいそれに心を落ち着けて、リアンは「大丈夫よ」と返した。
その翌週もチェスターは来れなかったが、リアンは同じように「大丈夫よ」と、花と伝言を伝えに来た者に返した。
三週間ぶりにチェスターに会った時、彼はひたすらに恐縮していた。だからリアンはまた「大丈夫よ」と言うしかない。
学園は、仮に同学年であってもクラスが違えば棟そのものも違う。だから頻繁に会うことは容易にはできない。
全部で三棟建てられている学び舎は、それぞれ廊下で繋がってはいるが、必ず中庭と食堂を通過する必要があり、それなりの時間を要する。昼食はそれぞれ別の者と取るようにしているから、週末の放課後が一番長くいられる時間だ。
「寂しくなかったと言えば嘘になるけど、忙しい時は誰にでもあるもの。そんなに気にしないで」
チェスターは安堵したように息を緩めて、「僕のお姫様は寛容で嬉しいよ」と笑った。
「でも一体何があったの? 少しだけで良いから、理由を伺っても?」
「え……い、いや、その。……色々あったんだ、色々と」
「言いにくいことなの?」
「ん……、うん、その。ごめん」
不満はあったが、問い詰めるわけにもいかない。もし家がらみのことや、第一王子に関する深い話などだとしたら、リアンに知る権利はないのだ。
なんとなくの引っ掛かりを残念に思いながらも、その日のお茶会は終了した。
そして次の週のお茶会では、チェスターはどこか上の空だった。
溜まりに溜まった話題をあれこれリアンが話しても、返ってくるのは生返事ばかり。手に持ったカップの中身が減ることもなければ、お茶菓子にも手を付けない。
不審に思って名を呼べば、慌てて取り繕ったかのように笑みを浮かべる。
そんなチェスターの様子がさらに二週間ほど続き夏を感じ始めたころ。
相変わらず上の空のチェスターに業を煮やして、そろそろお開きにしようと席を立てば、釣られたようにチェスターも席を立った。
「チェスター? 大丈夫ですか?」
「……ん? あ、ああ、大丈夫だよ。ありがとうリアン。じゃあ」
いつもならこの後に「また来週」という言葉が続いた。だけどチェスターは言わなかった。
ぼんやりとしたチェスターは顔色を変えるリアンに気づかないままに帰っていく。いつもなら、リアンをちゃんと門までエスコートしてくれるのに。
仕方なく一人で帰ることになったリアンは、馬車に乗り込む前に見た。
ひどく真剣な顔をしたチェスターが、校舎へと戻っていくのを。
追いかけたい気持ちはある。けれど御者の声に促されて、リアンは大人しく馬車に乗るしかなかった。
翌週、翌々週と、チェスターは再びお茶会に顔を出さなかった。代わりに寄越されたのは短い謝罪の文。三週目にはそれすらも寄越されず、リアンは一人森の中で待ちぼうけることとなった。
あれ以降、チェスターは訪れていない。伝言も手紙も何も届いておらず、それどころかまれに学園内で見かけるようなことがあっても、そっと目を逸らされるだけ。決してリアンの方に近づいてくることはなかった。
チェスターを見かけるのは、校舎内ではなくその影や庭の隅であることが多い。そうしてそういう時、チェスターは決して一人ではなかった。
金の髪のチェスターの隣に並んでいるのは、柔らかそうな茶の髪の女生徒だ。時に肩に手を添えて。時にその手を握りしめて、チェスターは彼女と一緒にいる。
思い返せば重たい息が漏れそうになる。どうしてこうなったのだろう。問いただそうにも、女性から男性へ積極的に詰め寄るべきではない。雁字搦めに植え付けられた、貴族としての矜持がそれをリアンに許してくれない。
リアンはチェスターが来なくなっても、週に一度は森の中でお茶会を開いていた。
テーブルの上には二人分のお茶の用意があった。お茶菓子も綺麗に並んで、リアンは今日もここで一人待っている。
森はすっかり秋色だ。色とりどりに色づいた木々の葉っぱが時折ひらりと舞う様子を視界に収めながら、リアンは用意した紅茶の温かさを確かめていた。
もう少しすればひざ掛けを用意した方が良いかもしれない。そんなことを考えていた矢先。
ふいに、人の会話が聞こえてきた。
男女二人のようだ。人気のない森の奥、逢引きにでも来たのだろうか。
リアンは心臓が跳ね上がるのを感じた。森と言えども、学園の敷地内。今までだって、誰も訪れてこなかったわけではない。片方は聞き覚えがある。動悸が早まる。
落ち着けるように紅茶に一口飲んだ。その余韻を楽しんでいるところへ、声の主は姿を見せた。
「……リアン……?」
目を向ければ、約二か月ぶりにまともに見るチェスターがそこにはいた。
素直そうな金の髪に、柔らかな水色の瞳。幼いころから見てきた変わりのない姿。
チェスターはリアンに衝撃を受けたように硬直し、次にテーブルの上に広がったお茶会の準備に、辛そうに目を細めた。
「お知り合いですか、チェスターさま?」
チェスターに手を引かれた茶の髪の女生徒が、苦い顔をするチェスターを覗き込む。柔らかな茶の髪。蒼い瞳。
リアンは飲んでいた紅茶をソーサーに戻して、そっと立ち上がりドレスの裾をつまむ。
「お初にお目にかかります。わたくしはリアン・コートフール。チェスター様の幼馴染にございます」
「あっ、は、初めまして、マリーシア・ルドルフです。ごきげんよう」
慌てて挨拶を返すマリーシアを見る。入学して約半年。型はボロボロだ。恐らくきちんと教えてくれる者がおらず、周囲を見よう見まねで覚えたのだろう。
「申し訳ございませんが、本日はわたくしがこの場を貸し切っております。他を当たっていただけないでしょうか?」
「えっ? ――で、でも、チェスターさまがここなら綺麗な紅葉が観れると」
「重ね申します。本日はわたくしの場にございます」
「そんな、今日しかないのに……リアンさま、少しだけ譲っていただけませんか? ここは学園で、生徒みんなで共有する場のはずです。独り占めはずるいです」
思わず目を見開いてしまった。何を言っているのだ、彼女は。半年、マナーがまともに身につかないどころか公然の礼節すら覚えられなかったのか。
「リアンさまはチェスターさまの幼馴染なのに、ディアナさまたちと同じように私が気に食わないのですか?」
ディアナ。ディアナ・スターレット公爵令嬢のことだ。王子の婚約者。
ほぼ授業に出ていないのに、マリーシアに厳しく接しているという噂は聞いたことはある。その話には若干の疑問は感じるが、マリーシアが常時この調子なのだとしたら、それは厳しいのではなく当たり前の態度を取られているだけではないのだろうか?
少々の不作法は庶民出ということで目をつむられるとしても、上下関係の線引きだけは真っ先に覚えなければならない事項だ。まさか、誰も教えなかったなんてことはあるまい。
だが眉を寄せ不審を露わにするリアンにマリーシアは怯えた様子を見せ、チェスターの腕にすがった。呆気に取られていると、チェスターがマリーシアをかばうように前に出てきた。
彼はテーブルを指さし、
「リアン。こういうことはもうやめてくれないか。ちゃんと説明をしていない僕も悪いが、判るだろう? ――僕はもうここには来ない。僕を待つことは、やめてほしい」
「はあ……」
思わず生返事を返してしまった。いけない、マリーシアに釣られてリアンの淑女の顔がはげ落ちそうだ。
チェスターは続ける。
「もとより僕たちは正式な約束はしていない。君を拘束するものはなかったはずだ。僕のことは、もう忘れてほしい」
そう言ってマリーシアを抱き寄せる。頬を染めチェスターの胸にしな垂れかかるマリーシアに、なぜか睨みつけてくるチェスターに、リアンはどうしたものかと短く息を吐きだした。
「……何か誤解なさっているようですが、わたくしはもうチェスター様を待ってはおりませんよ?」
「リアン、強がらなくていい。そのテーブルの上が何よりの証拠だ。……僕が来ていた時のままじゃないか」
「お茶会ですもの。確かに特別変わってはおりませんわね。基本的で季節に合ったものを準備していただいておりますので」
「だから、それが……」
その時、言い募るチェスターの横手の植え込みが大きく揺れた。思わず彼は言葉を止めたところに何かが飛び出してくる。
「アンおねーしゃま!!」
飛び出してきたのは、黒い髪のあちこちに葉っぱや枝をひっかけた幼い少女だ。三歳ほどだろうか、ちいさなほっぺたを真っ赤にして、ぎょっとするチェスターたちの脇をすり抜けリアンに向かってくる。
「シェルティ様!」
そんな幼女を、リアンは満面の笑顔で迎え入れた。勢いのついた小さな体を全身で受け止めて、ぎゅうと抱きしめる。
「アンおねえしゃま、シェルティきたよ!」
「はい、お待ち申しておりました、シェルティ様。今日はまた素敵なご登場の仕方ですね?」
「おねえしゃまおどろいたでしょー!」
「はい、とっても」
黄色いドレスの淑女を抱き上げて、リアンはその温かさを堪能した。小さい。可愛い。良い匂い!
ぽかんとしている二人を差し置いて、シェルティの体温を堪能していると、幼女が飛び出してきた植え込みと同じところからまた一人、現れるではないか。
再びチェスターとマリーシアが驚いた様子で揃って後ずさる。
「今日は転ばなかったな、シェルティ。でも走って飛びつくのは危ないぞ。リアン嬢の制服が汚れてしまうだろう?」
「これぐらいは平気ですわ。セイ様」
「そう言ってくれるのはありがたいけどね。お転婆を助長させるのはやめてほしいかな」
シェルティと同じ黒い髪に、紫の瞳。やや小柄の体躯の少年だ。平均身長のチェスターより低めの彼は優雅な足取りでテーブルへと近づくと、ごく自然な動きでリアンの対面に座った。それを見納め、チェスターはようやく我に返った。
「公爵家の……四年の、セイ・ラジェンダ様……?」
「いかにも。貴公は?」
はっとして、チェスターは慌ててマリーシアの手を振りほどき膝を折った。
「二年のチェスター・ブランです。――マリーシア」
「お、同じく二年生のマリーシア・ルドルフです。あ、あの、公爵家の方なんですか……?」
「そう君の隣の男が言っただろう? 何の用事か知らないが、出来れば他に移ってくれないかな? 今からお茶の時間なんでね」
「お茶は……まさか、リアンとですか? ラジェンダ公爵とリアンがどうして……」
「野暮の言いようはなしにしてくれ。……まぁ正確に言えば俺はおまけなんだがね。ああ、ここでのことは他言無用に頼むよ。妹と言えども、生徒以外が侵入しているとばれるのはまずい」
深く取り合うつもりはない、という態度のセイにチェスターが鼻白む。だが言い返して良い相手ではない。腑に落ちぬことはいくらでもあれど、所詮チェスターの家柄は子爵。公爵位の人間に異を唱えることは許されない。
だが、それを理解し得ぬ者がいた。
「あの、セイさま。わたしたちも、お茶会に参加させてもらえませんか? それに、良ければその子をご紹介ください。妹さんなんですよね?」
「シア!?」
「――なぜ?」
器用に片方の眉だけを跳ね上げさせたセイに、マリーシアはそっと近づき、
「紅葉を見に来たんです。チェスターさまが、ここなら静かに鑑賞できるからって。今の季節にだけ咲く花もあるのだとか。お茶もお菓子もあるのですから、妹さんと一緒に、私たちも楽しませていただけませんか?」
なるほど、とセイは少しだけリアンを見て……シェルティとの邂逅を楽しんでいて、こちらを全く見ないリアンを確認して、緩く苦笑した。
「見ての通り、茶菓子もお茶も二人分だ。君の分はない。それに、先ほど彼女は説明しなかったかい? 今日は貸し切りだと」
「そうですけど、でも、それはリアンさまの意地悪です。学校はみんなの物じゃないですか」
「――君は何をしに学園へ?」
え、と言葉を止めるマリーシアに、セイは短く息をつき、
「ここは貴族院だ。何をしに来た? 学園は学ぶためにあるが、君は何を学んでいるんだ? 家だけでは賄えない上下関係と教養を自らに叩き込むための場所だぞ。皆の物と言うが、この場はコートフール子爵令嬢が公爵家令嬢たる俺の妹の為に押さえてくれていた。そこになぜ、君が割り込める?」
え? え? と戸惑うマリーシアを置いて、セイはチェスターに目を向ける。
「ブラン。君は何をしているんだ。淑女が困っているぞ。手を差し向けるのが紳士の役目だ。それとも、君らは『二人とも出来ない』のかい?」
侮蔑の意味を込めた問いにチェスターの動きは早かった。セイのすぐ近くまで許可なく近寄っていたマリーシアを引きはがし、自分の背にかばい深く頭を下げる。
「申し訳ありません。私の不届きです」
「以後無いように。それと、毎週この時間は押さえているんだ。近寄らないようにと……もう一度念を押すが、他言漏らさぬよう。誰かの耳に入った場合、ブラン家への失意とする」
「……承知いたしました。行こう、シア」
「で、でもチェスターさま、わたしは今日しか時間が取れないのです。ずっと前から、ここがとても素敵だってチェスターさまが……」
「いいんだ。他にも素敵な場所はあるよ」
「でも……」
なおも言い募るマリーシアの腕を引いてチェスターは去っていく。去り際にリアンを見たが、リアンは幼女をあやすのに忙しい。一度もチェスターの方を見ることはなかった。
やれやれ、とセイはようやくくつろいだ気分で茶器に手をかけた。気づいたリアンが準備をしようとするが、手で押しとどめる。リアンの両手はシェルティで塞がっている。
「いやぁ、噂違わぬ無知っぷりだ。王子たちはあの純真無垢に見えるところがいいのかね? 初対面の淑女に許しもなく名を呼ばれたぞ。貴重な体験をした!」
辛辣な言葉に苦笑するリアンに、彼はおどけたように肩をすくめて見せた。
男性にしては小柄な体格を持つ彼は、下手すればリアンより年下に見えかねない。だが彼は二つ上の四年生で、爵位も遥かに上だ。
四つある公爵家、そのうちの一つ、ラジェンダ公爵の嫡男であるセイがここを訪れるようになったのは、チェスターが通わなくなってすぐのことだった。
兄に逢いたくてこっそり学園に忍び込んできていたシェルティを、リアンが保護したことがきっかけだ。
兄は見つからず、知らない森の中で途方に暮れていたところに目に飛び込んできた、木漏れ日の中のお茶会の風景。
物語の中みたい! とすっかりお気に召したシェルティは、それ以後頻繁に屋敷を抜け出してはリアンを探すようになってしまった。
困ったセイは妹の為にとリアンに頼み込んだ。週に一度程度で良いから、相手をしてもらえないか。
公爵家からの提案だ。基本的に拒否権は持たないものの、ひたすらに恐縮しきるリアンだったが、シェルティから涙目の「お願い」を受けてはもう駄目だったようだ。セイには何度も本当に大丈夫なのかと、無礼と思われるほど必死に確認を重ねてきて、ようやく受け入れることにした。
こうして、週に一度のお茶会は開催されることとなった。
正直、理由が理由なので誰かに言えるものではない。毎週のように公爵家の娘が学園に侵入しているだなんて前代未聞だし、何よりも決して人に見せられるものではない。
だがリアンが頷いてからと言うもの、放課後リアンが森に訪れると、テーブルセッティングは既に完璧に成されるようになっていた。
お菓子も食器も全て完備のそれに戸惑っていると、セイが一言「許可はもぎ取った」とのこと。
なるほど、公爵家の子息子女が口にするものだ。公爵家がきちんと用意するにきまっている。リアンは深く考えることをやめて、ありがたく公爵家御用達のお茶とお菓子を満喫することにしている。
嵐のような結局何がしたかったのか分からなかった二人が去ってから、セイは黙々と視線をテーブルの向かいに寄せていた。
自らの手ずからお茶を淹れたセイが見つめる先には、妹のシェルティを膝に乗せ、相好を崩しまくったリアンがいる。リアンはセイに見られていることなど気にしていないようで、せっせとシェルティの口にお菓子を詰め込んでいた。
幼いと言えども公爵家の人間が、子爵令嬢の膝の上に乗り、餌付けされている。絶対の絶対に、人に見られていい光景ではない。そして幼子の頬張る様子に、目も当てられない程に顔を崩しまくった淑女の光景も、決して人に見られていいものではないだろう。どちらのマナーも最悪最低だ。
あの子爵令息の物分かりが良くて良かったと、セイはしみじみ思う。同時に、一緒にいた女生徒についても考える。
リアンとシェルティのお茶会に付き合うようになって約二か月。幾分打ち解けてくれたリアンや、周囲の噂から聞いてはいたが、あれはなかなかに酷い。半年もあれば、いい加減やって良いことと悪いことの区別ぐらい学ぶだろうに。
「リアン嬢は良かったのか? 追い返してしまったが」
「今はシェル……んん、セイ様とお茶のお時間です。部外者が入って良いものではありません」
「相変わらずシェルティの優先順位が高いな。まぁ良いけれど、その甘やかしは今だけだって、ちゃんと判ってくれよ?」
「勿論です。勿論心得ておりますとも。……ああ、シェルティ様、違いますよ。フォークは緩く持つのです……はい、お上手です!」
デレデレでメロメロだ。セイは密かに、デロデロと呼んでいる。
三歳ともなれば十分自分で座ることは出来るし、食事だって自力でできる。つまり周囲の者は傍で見守る程度の段階だ。
膝に乗せ、あまつさえ飲み食いの補助をするというのは、本来ならばありえない光景だった。
だがセイはあまり強く言うことが出来ない。なぜなら、リアンの前で最初にやってしまったのはセイの方だったからだ。
シェルティが学園の森に迷い込んだことを知ったセイは、その森の先で口の周りにお菓子をつけて、涙を拭かれている最中のシェルティを見つけた。
顔も手も丁寧に拭われたけど、兄を見つけてまた泣き出したシェルティを膝に乗せてセイがテーブルに着いた理由は単純だった。椅子が二つしかないのと、シェルティの身長では、まだ椅子とテーブルの距離がありすぎたのだ。
膝上に乗ったシェルティはテーブルに載った菓子に興味津々で、手を伸ばすのをリアンの許可を得てセイがとってやり、たまたまそれがそのまま口に放り込むタイプの菓子であったので、口元まで持っていってやったのだが……。それを見ていたリアンが、実に実にうらやましそうな顔をしていて。
まさか菓子が欲しいわけではないだろう。見やれば慌てて居住まいをただすが、リアンの目線はセイの指先を……というより、そこから口元へ入って行く、シェルティの様子に向けられている。
確認の意味と、うっかり面白いなんて思って調子に乗ってしまい、何度もシェルティの口元と菓子を往復させてしまったのは確実にセイの失態だ。今更作法云々など言い訳にできそうにない。
あまりに物欲しそうにしているから、つい「やってみるか?」なんて提案してしまったのだって、明らかにセイの責任だった。
以後、シェルティはリアンの膝の上をいたくお気に召したようで、離れようとしない。
「……まさかこんな形で、こんなに早く、妹を奪われる日がこようとは」
嘆いてみるがリアンの耳には届かなかったようだ。シェルティに請われるがままにケーキを小さく切り分けて、フォークだけは本人に持たせて、小さな口に収まるのを手伝っている。とても嬉しそうに。
不思議なものだな、と思う。
セイは四年生で、公爵家の人間。二つ下で、子爵家の人間、それも女生徒と接する機会はなかなかに無い。
だというのにささやかなことがきっかけで、毎週顔を合わせることになっている。まあ、正確なことを言えば、セイはほとんど保護者としてこの場にいるのであって、存在的にはおまけだ。
そう。公爵家の嫡男が、まさかのおまけ扱いである。
にこにことシェルティを餌付けしているリアンの髪色は、綺麗な薄桃をしていた。その長く綺麗な髪は目にかかりそうな一部だけを薄緑の蝶の髪留めで縫い留められ、残りは白い肌とほっそりとした肩に添うように、ゆるやかに背に流されている。シェルティを見ていて柔和に……いや、蕩けるほどに細められた瞳の色は緑。そしてその右目脇には泣きボクロが一つ。全体的に儚くおぼろげな印象を与える少女だった。
正直な感想を言えば、可もなく不可もなく、毒にも薬にもなりそうにない。いたって純朴そうで騙されやすそう。セイが感じるリアンという人間の第一印象だ。
会話をしてみれば印象の通り大人しい性格のようで、控えめに微笑み大きな声はほぼ聞いていない。ただ結構、感情が目に宿るので、快も不快も目を見ていれば判った。読み取るのはなかなか面白い。
子供好きであることは言うまでもない。ていうか好きすぎじゃないだろうか。
「普通はさぁ、婚約者のいない玉の輿と毎週のように会ってたら、期待したりするものじゃないのか?」
あけすけのなさすぎる問いかけを一度投げたことがある。リアンが驚くほどにシェルティばかり構い倒していて、暇を持て余していた時だ。
それを受けて、リアンは笑ってこう返した。
「大変恐れ多いですわ。それに、わたくし自分でする約束はこりごりですの。ですのでわたくしのことは、家が勝手に決めてくれます。――勿論、シェルティ様とのお約束は別ですけれど」
「そこでもシェルティが優先されるのか。……本当にそれでいいのか、リアン嬢? シェルティが世話になっているのだから、融通をつけることもできるぞ」
「それこそ、恐れ多いことです。……そうですね、褒章をと思っていただけるのでしたら、このクッキーをシェルティ様のお口に入れて差し上げても宜しいでしょうか……? わ、わたくしの手で!」
「しぇるてぃ、くっきーたべる!」
「はい、どうぞお召し上がりください!」
言うなりそっとシェルティの口へとクッキーを押し込んだ。許可はまだ出していない。良いけど。
リアンという娘は見た目通り大人しい。大人しいが、結構図太い。セイをおまけ扱いしてそのことを一切気にしていない。とんでもない図太さだ。それがこの二か月ほどで見て知った、リアンへの評価だった。
「リアン嬢、ここに座ってるのが俺で良かったな。他の家の者だったら、こうまで蔑ろにされて黙ってはいない」
「そんな……シェルティ様とのお茶会ですもの。ご自分はただの保護者だから気にしなくていいと、おっしゃったのはセイ様です」
「うん。ほんとにそうされるとは思わなかった」
良いんだけど。問題はないんだけど。時折腑に落ちなくなる時がある。
言えば、リアンははにかむ様に笑った。自覚はあるようだが、やっぱり意識のほとんどはシェルティに向けられている。とんだ根性の持ち主だ。
ふと思う。
本来ならばここに座っているはずのあの男は、彼女のこういう部分を知っていたのだろうか?
「……さっきの彼は幼馴染だったっけ?」
「ええ。幼いころから……それこそ、シェルティ様ぐらいのころから、一緒でした」
「家が近く気が合ったから頻繁に会っていた?」
「そうですわ。お互い、好きな絵本が被っていて。最初は持っていない絵本の交流会のようなものから始まりました」
「それがこの年まで続いていたって、ある意味凄いと思うけど……。どうして婚約しなかったんだ? いやしなくて正解だったけどさ」
ざくざくと切り込んでくるセイにリアンは苦笑するしかない。傷ついてます、なんて訴えたところで敵う相手でもないのだ。
「お前たちの好きなようにしなさいと、私の両親も、あちらの両親も。お互い利点が多く見つからなかったので、恐らくどちらの両親も、良い相手が居たらそちらに乗り換えてほしいと思っていたのかもしれませんわね」
「なるほど……その辺の苦労というかしがらみは、どこも同じか」
「セイ様はどうして、婚約破棄なされたのですか? 確か侯爵家の方でしたよね?」
「聞いてくるかー。いや構わないんだがほんと君、遠慮しないな」
「先に乙女の心に踏み込んできたのはセイ様の方ですので」
いやほんと、良い根性してる。
「まぁ別に隠すほどのことでもないんだが。彼女、子供嫌いだったんだ。俺に見られてないと思ってたのか、陰で持っていた扇で子供を叩いたり犬のように追い払ったりしていてな。ちょうどシェルティが生まれたばかりのころで、これはいつシェルティに害が出るか判ったものではないと。さくっと縁を切らせていただいた」
リアンが絶句した。子供に害を出していたことだろうか。シェルティに被害が出たかもしれなかったことだろうか。両方かもしれない。
「だから嫁選びは慎重だ。まずシェルティに危害を加えないこと。シェルティを邪険に扱わないこと。シェルティを大事にすること。これを守れないと思った相手は全員お断りしておいた」
なぜだろう。リアンが若干遠い目をしている。セイはただ、至極当然のことを言ったまでだというのに。
なんとなく面白い感じがしたので、ついでに当然の事を追加で話してみた。
「そういう意味では、リアン嬢は条件をクリアしているな」
「シェルティ様に危害を加えるなんて、とんでもありません!」
やたら気合の入った眼差しで力強く応えてきたのでもう一つ。
「おまけにシェルティに気に入られまくっているとなれば、この上ない好物件だ。嫁に来るか? 毎日シェルティに逢えるぞー?」
「っ!? ……まいに――、んんん、ご、ご冗談をっ」
めちゃくちゃ葛藤しながら謙遜した。
「こ、公爵家の方が、それだけを理由に伴侶を選ぶものではないと思います」
「勿論最低限の作法や礼儀はクリアしてもらっていないと困る。公爵夫人ともなれば、国王夫妻との茶会は当然、諸外国の夜会にも呼び出されるからな。知識と技術の下地は欲しい」
ほらごらんなさい、とでも言いたげにリアンの顔は得意満面だ。……なんでだ。
「……ちなみにリアン嬢の成績を拝見させてもらったが」
「調べられるとは思っていましたけど、本当に調べられるものなんですわね……」
そりゃぁ、こっちからの接触と言えども相手の家は調べるとも。良い部分も、悪い部分も。
「可もなく不可もなく、といったところが一番の感想だな。語学は得意のようで。数学は少し苦手か? マナーレッスンの類も問題なしだ。まぁ、可もなく不可もなくだな」
「なぜ二回おっしゃるの……」
「家の方も特に問題なしのようだな。三代前に戦争で功績を挙げているが、のちはそれをつつがなく守っているという感触か。商売に少し手を出しているようだがおおむねの問題はなし。ここも可もなく不可もなくと」
「…………」
じとっとした目で見てくるリアンを無視する。
「何が言いたいかというと、問題なしということだ。様々な意味でな。家宰の者たちからの太鼓判も押された。だからリアン嬢」
「なんでございましょうか?」
「これからも君はシェルティに逢えるぞ」
「ありがとう存じます!」
興奮に目をきらきらと輝かせてのお礼だった。瞬間的にできるのだから凄い。
「そんなわけでだ。――シェルティ」
リアンの膝の上でミルクたっぷりの紅茶を飲んでいたシェルティを手招きする。
リアンに支えられ、ゆっくりと膝から降ろされたシェルティが「なあに、おにいしゃま」と近づいてきた。
その頬に少しだけついていたクリームのかけらを取ってやってから、
「ほら、シェルティ。今日の目的を忘れていたぞ。あんなに練習しただろう?」
懐に入れていた封書を取り出して見せると、そうだったとシェルティが両手を差し出してくる。その小さな手に乗せてやれば、シェルティは実に大事そうに封書を持って、そろそろとリアンに近づく。
ちなみにその間のリアンは、不思議そうに小首を傾げながらも、「両手で手紙を持ってるシェルティ様可愛い!」という目をしていた。
感激に打ち震えるリアンへと無事に封書を渡したのちにシェルティは、少し下がってドレスの端をつまみ上げ、
「らいげつに、シェルティはよんしゃいになります。おいわいのパーティを、ひらきますので、ぜひおこしくだしゃい」
つっかえることなく最後まで言えた。満足げにその小さな背中を見守っていると、正面、まともにその様子を見たリアンはもはや泣きそうになっている。
目元は潤み頬を完全に上気させ、細い指を口元に当てて肩を震わせる様子は……なぜだろうか、変質者になりかけているような気もしないでもない。一見すると可愛らしく微笑ましい光景だというのに。全身でシェルティの「いっしょうけんめいなしゅくじょのふるまい」に感激しまくっている。末期だ。
だがそこはリアンも貴族の一員。悶え出るような情緒の波を落ち着かせて、控えめな微笑みを浮かべ静かに立ち上がる。
ともすればまだふらつきがちなシェルティと同じ型で制服のスカートの端を持ち上げて、
「お招きありがとうございます。謹んでお受けいたします」
シェルティの見本となるように、揺らぐことなく優雅に腰を落とした。
そして、
「――シェルティ様、とても素敵でした! よくできましたね!」
「シェルティ、ちゃんとできてた?」
「とってもお上手でした! ……そうですか、シェルティ様、四歳になられるのですね」
「うんっ。パーティ、きてね?」
「勿論伺います! ……セイ様、わたくし、本当に参加して宜しいのですよね?」
シェルティに笑顔で頷いた後に、やや不安げにこちらを見てくるので、セイは頷いてやった。
「さっき言っただろう。家宰からも問題ないと出たと。せっかくだから当日は迎えをよこすから、待っていてくれ。いつもシェルティの相手を務めてくれる礼と思ってくれていい」
「はい。ありがとう存じます!」
嬉しさが爆発しすぎていたせいなのか、淑女ぎりぎりの礼だったのは、シェルティも非常に喜んでいたことを理由としてセイは見ないふりをすることにした。




