孤独なグルメー大井町汚ったねぇ路地裏編ー
今日も一日が終わった。
特別ハードだったわけではない。
だが確実に、重たい一日だった。
仕事は徐々に後ろ倒しになり、二進も三進もいかなくなる木曜日。
「今日さえ乗り越えれば」と念じるように、物書きはキーボードを叩き続ける。
もはや暴力的な文字数を相手に、
キーボードを叩くというより、殴っていたと言ったほうが近い。
今日こそはノルマを、と焦れば焦るほど、
その圧はじわじわと強くなっていく。
相場は力強いほど勝ち目があるものだが、
残念なことに、今日も大きく敗北した。
――やってらんねぇ。
負け戦と分かって挑んではいたものの、
やはり負けると悔しいものである。
「今日も無理でした……」
「まあ、明日があるさ。
明日はもっとしんどいけど、やるっきゃない」
励ましとも言えない言葉をありがたく受け取り、
タイムカードを押して家路に着く――
着いていたはずだった。
京浜東北線に乗り込んだものの、
空腹にすら敗北した。
残りの駅数を大幅に残し、
いや、たったひと駅しか詰められずに電車を降りる。
相変わらず汚ったない都会の空気が鼻腔を刺す。
ここは大井町。
行き交う人々の群れは、どれもくたびれていた。
なんの気分なのか。
考えれば考えるほど、自分の思考が分からなくなる。
まあ無理もない。
便秘の末に大便を絞り出すかのように、頭を使い果たしていた。
今の私には、自問自答する余地すらなかった。
表通りをぶらぶらと歩いてみるが、
どうにも食指が動かない。
意を決して路地裏へ足を踏み入れると、
そこは昭和の香りが漂う飲食店街だった。
だが、誰もが想像する昭和の街並みとは違う。
もっとディープで、
戦後の復興の手触りを思い出すような、
細く、小汚い裏路地。
積み上がったビールケースに腰掛けるスナックのお姉さんは、
ともすれば、そのビールケースよりも年季が入っていた。
キャッチのおっちゃんに声をかけられる。
冗談まじりに、軽くあしらう。
目的はそこじゃない。
腹が、とにかく腹が減っているのだ。
早足に、路地を歩く。
キャッチのおっさんとのジョーク合戦にも嫌気が刺し始めた頃、
中腹あたりで、どうにも腹の虫を騒ぎ立てる香りが漂ってきた。
用事こそないが、急いでいる風を装いながら、
その香りの方へと自然に手繰り寄せられていく。
そして、目の前に現れた文字。
まんぷく食堂
……待て待て。
店名の時点で、もう望んでいた物語がそこにあるじゃないか。
すりガラス越しに中を覗く。
客足はちらほら。
だが、ギューギューというほどでもない。
――当たりだ。
私の中には、独自の「当たりの法則」がある。
閑古鳥が鳴いている店は、そもそも気まずい。
そしてたいてい、
美味しくないか、華がないかの二択――大博打である。
一方で、行列のできる店は、
話題性に乗っ取られている可能性が高い。
ちょうどいい客足。
それこそが、一番の味自慢だと勝手に思っている。
引き戸を開けると、若いお兄ちゃんに席へと促される。
カウンターしかない狭い店内を、
半身になりながら、奥へ、奥へとにじり寄る。
玉座は――すぐそこだ。
着席する。
今日は、私が主役だ。
王座――と言うにはあまりにペラペラな椅子に、腰を下ろす。
匂いの元は……こいつだ。
メニュー表を開くなり、
真っ先に運命の相手を見つけてしまった。
焼き鯖定食。
今日はこれでいいや……。
いや、今日は――これがいい!
だが人間というものは、欲が出る。
腹を満たすだけではどうにも足りない。
本日のストレス値を抑える“健康ドリンク”、
すなわちアルコールが視界に滑り込んできた。
一杯だ……け……。
震える手を前に突き出し、
声高らかに注文を投げかける。
「焼き鯖定食と、ハイボール濃いめ!」
「はいよ! ありがとうございます」
その一言を皮切りに、
カウンター越しの厨房では戦が始まる。
耳の奥で、法螺貝の音が鳴った。
余は戦国武将――
**酒仁真剣**である。
たかが定食、と侮るなかれ。
定食こそ――
一番の宝石箱なのだ。
先に参るは、先鋒――ハイボール。
弾ける炭酸という名の薙刀を振り回すその出で立ち。
これはもう、弁慶も感動して涙どころか失禁ものである。
ゴクリ、とひとくち流し込むと、
喉奥で爽やかに樽木の香りが散っていった。
夏の線香花火のように淡く、儚いその香り。
これは到底、某ドラマの松重豊には味わえない芳醇さだ。
指をくわえて見ているがいい。
ゴクリ、ゴクリ。
ひとくち、またひとくちと進めるほどに、
終わりは確実に近づいてくる。
……おい待て。
メインディッシュが、まだ来てないぞ?
――いいや、それでも構わない。
無くなったなら、また頼めばいいのだもの!
マリー・アントワネットを超える暴論を携え、
ギャグマンガ日和の一話にも満たないスピードで、
ハイボールを飲み干した。
「もう一杯お願いします! 次も濃いめで!」
「はいよ!」
このテンプレな威勢すら、今は粋に聞こえる。
雅なんて言葉はふさわしくない。
キーボードをボコボコに殴った分、
次は肝臓がアルコールに殴られる番だ。
二杯目のハイボールがやって来る頃、
カウンターの向こうでは、こんがりと鯖が焼き上がっていた。
盛られるご飯は、蜃気楼のような湯気。
香の物は紫に輝き、
味噌汁は――最上級の言葉で褒め称えよう。
これぞ本当の御御御付け。
味噌汁をここまで丁寧に称えた日本人は、
すなわち、
これが最上級のおかずであることを知っていたのだろう。
さあ、早く我が膝元へ攻め入って参れ。
願えば願うほど、遠く感じる。
会いたくて、震える。
それがアルコールのせいなのか、
それとも寂しさなのかは分からない。
……だが、いいんだ。
それでいい。
お盆の上に、役者が揃う。
完璧だ。言うまでもない。
目の前に献上されしそれは、理想の桃源郷。
地味な色合いだというのに、なんと神々しいことか。
さて、どれから箸をつけようか。
心の中で大いにマナー違反の迷い箸を繰り出した、その時だった。
盛り付けの時には気づかなかった、
切れ切れになった焼きそばのようなものが、小鉢に入っている。
……落胆した。
なんてこった。
こんなもの、ペヤングの湯切りで溢れ出た麺に他ならない。
この程度の店だったか……。
一瞬で期待はどん底へ落ち、
今日の仕事の嫌な記憶まで、連れ立って蘇る。
ならば、一思いに片付けよう。
本免試験に取り掛かるのは、そのあとだ。
小鉢を手に取り、一口で流し込む。
咀嚼する。
ただ、咀嚼する。
噛めば噛むほど、なんというか………………
――うまい。
うまい?
うまい!!!!
なんだこれは。
焼きそばじゃない!?!?
弾力のある切れ切れの“麺”は、
噛めば噛むほど、旨みが染み出してくる。
歯ごたえがいい。
それに、味の染み込み方がいい。
味わいながら、ハイボールを一口。
――マリアージュ。
そうだ、分かった。
こいつは焼きそばなんかじゃない。
細かく刻まれた糸こんにゃくを、甘辛く煮詰めたものだ。
くそ。
こんなことなら、一思いにいくんじゃなかった。
悔しい。
白飯を食らう。
米の甘みが、旨みを際立たせる。
開幕早々の不意打ち。
完全に、失点だ。
ハイボールが進む。
こうなっては、もうワクワクが止まらない。
片手でグラスを持ち、
もう片手で大根おろしに醤油を垂らす。
茶色く染まる雪山。
色気のない富士山のような様相だ。
箸を横薙ぎに払い、
茶色い山頂が鯖の皮目に着地する。
逸る気持ちを抑えつつ、
足早ならぬ手早さで身をほぐし、口へ運ぶ。
油のハーモニー。
最高じゃないか。
米も進む。ハイボールも進む。
香の物を挟んで、リフレッシュ。
旨みの爆弾が、誘爆を起こす。
……これじゃ、ハイボールが足りない。
「もう一杯お願いします!」
「はいよぉ」
そんなやり取りは、もうどうでもいい。
ここは、鯖と俺とのバーチャル空間。
邪魔をするものなど、何もない。
鯖、米、漬物、ハイボール。
鯖、米、漬物、ハイボール。
そして、時々――御御御付け。
これもまた、出汁の引き方がいい。
おばあちゃんちの味噌汁だ。
決して上品ではない。
だが、素朴で地味なのに、旨みが深い。
味噌に、キレがある。
図書委員の地味な女の子が、
脱いだら実はナイスバデー。
そんな感じの、ディープインパクトだ。
気がつけば、皿の上は
焼け野原よりも綺麗な、更地になっていた。
小骨は、たしかに山ほどあったはずだ。
だが、それすら気づかぬまま、喰らい尽くしていたらしい。
そして最後の酒を、
名残惜しさごと丸飲みするように、喉へと流し込む。
腹が――いっぱいだ――。
出鼻をくじかれたかと思ったが、
くじかれていたのは、どうやら私自身の固定観念のほうだったようだ。
今後、同じ過ちを繰り返さぬよう、
ここに文章として刻んでおこう。
お会計は……思いのほか、いったなぁ。
だが、満足だ。
「ありがとうございましたぁ」
その挨拶を背に受けながら引き戸を開け、
――暖簾を押す。
まあ実際、暖簾なんてなかったのだが、
この時の私には、確かにそこにあったように思えた
。
路地裏の、路地裏。
排気ダクトから吐き出される、
油気の混じった空気をまとった茶ばんだ喫煙所で、
今日の反省会だ。
電子タバコに種を込め、
換気口の空気なのか、タバコの水蒸気なのか分からない息を吐く。
トタン屋根は、べったりとヤニに侵され、
都心の汚さを、嫌でも思い出させてくれる。
大井町。
おおいに、いい町だ。
また気が向いたら――
飲みに出よう。
今日も今日とて飲みました。
明日の仕事は明日の俺が片付けてくれるでしょう。
あーあ、やってらんねぇよ!




