クモの糸
## 一
ある夜更け、新宿の雑居ビルの屋上で、男は煙草を吸いながら眼下の街を見下ろしていた。
男の名は南雲といった。かつては路上で寝起きしていたが、今では六階建てのアミューズメントビルの店長として、この街の喧騒の上に立っている。ボーリング場、ダーツバー、サウナ、ゲームセンター。階ごとに異なる音と光が混ざり合い、ビルは深夜まで若者たちの欲望を吸い上げ続けている。
南雲は眼下の裏通りに目を落とした。ビルの搬入口の脇に、今夜もあの男がいる。
カンダという名の、かつての仲間だった。
カンダは腰を曲げ、ビルから出された大量の空き缶を黙々と袋に詰めていた。缶ビール、チューハイ、エナジードリンク。若者たちが消費した夜の残骸が、毎晩ここに山と積まれる。本来は午前四時に回収業者が持ち去るものだが、その前の数時間が、カンダにとっての稼ぎ時だった。
南雲は煙草の煙を吐き出しながら、五年前の冬の夜を思い出していた。
歌舞伎町の路地裏で、酔った若者たちに囲まれ、難癖をつけられていた自分を、カンダが助けてくれたあの夜。「やめろよ、こいつは何も悪いことしてないだろ」と、カンダは自分の体を盾にした。若者たちはカンダを蹴り飛ばし、去っていった。
「大丈夫か」とカンダは血を吐きながら笑った。
南雲は忘れていなかった。だから今、毎晩この空き缶を、カンダのために残している。回収業者には「四時半に変更してくれ」と頼んであった。わずかな時間だが、この缶が、カンダにとっての細い糸なのだと、南雲は知っていた。
## 二
カンダは缶を拾いながら、この数ヶ月の変化を噛みしめていた。
それまでは街中のゴミ箱を漁り、一日に数百円にしかならなかった。だがこのビルの缶は違った。毎晩、決まって大量に出される。一月に五万は稼げる。食事ができる。風呂に入れる。続けていけば、まとまった金になるはずだ。その先はわからないが、希望を掴んだ。
カンダは袋を引きずりながら、路地の奥へと運んだ。そこには彼の寝床があり、集めた缶を仕分ける場所があった。
その時、背後から声がした。
「おい、カンダ」
振り返ると、タケとシゲという、同じく路上で暮らす男たちが立っていた。
「その缶、俺たちにも分けてくれよ」とタケが言った。「お前だけズルいぜ。あのビルの缶、毎晩すごい量じゃねえか」
カンダは黙って首を横に振った。
「なんだよ、仲間だろ」とシゲが近づいてきた。「みんなで分ければいいじゃねえか」
「ダメだ」とカンダは低い声で言った。「これは、俺のもんだ」
## 三
次の夜も、その次の夜も、タケとシゲはやって来た。
最初は頼むだけだったが、やがて二人は力ずくで缶を奪おうとするようになった。カンダは必死に抵抗した。この缶がなくなれば、掴んだ希望を離してしまったら、あの暗闇に、再び沈んでしまう。
「来るな!」とカンダは叫んだ。「これは俺が見つけたんだ! お前らは来るな!」
揉み合いになり、袋が破れ、缶が路地に散乱した。怒号が夜の街に響いた。通行人が立ち止まり、誰かが警察を呼んだ。
屋上から一部始終を見ていた南雲は、静かに煙草を消した。
翌朝、本部から電話があった。「近隣から苦情が来ている。ゴミの管理が杜撰だ。君は別の店舗に異動してもらう」
南雲は「分かりました」とだけ答えた。
そして回収業者には、元の午前四時のスケジュールに戻すよう連絡した。
## 四
その夜、カンダがいつもの時間にビルの裏手に来ると、そこには既に回収業者のトラックが停まっていた。作業員たちが、てきぱきと空き缶を積み込んでいた。
「おい、これは...」とカンダが声をかけたが、作業員は「邪魔だ」と冷たく言った。
カンダは立ち尽くした。空になった搬入口の前で、夜風が冷たく吹き抜けていった。
南雲はもう、このビルにはいなかった。
## 五
それから数ヶ月後、南雲は別の街の別のビルで、また屋上に立っていた。
新しいビルは前よりも大きく、階数も多い。眼下には見知らぬ街の灯りが広がっていた。
ふと、新宿の夜を思い出した。カンダは今、どうしているだろうか。あの細い糸を失って、また暗闇の底に沈んでしまったのだろうか。
南雲は煙草を吸い、煙を夜空に吐き出した。
救いの糸は、最初からそこにあったわけではない。誰かが垂らしたものだ。だが、その糸を掴んだ者が、他の手を振り払おうとした時、糸は自ずから切れる。
それが世の中というものだと、南雲は思った。
眼下の街で、誰かが空き缶を拾っている影が見えた。南雲はそれを見つめながら、また一つ、煙を吐き出した。
煙は夜空に溶けて消えた。
(了)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を元に、現代新宿だったらどうなるだろうと思いながら。




