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緑風の里を出た一行は、ようやく人の賑わいが戻る街へとたどり着いた。 夕暮れ時、石畳の通りには灯りがぽつぽつとともり始め、橙色の光が窓辺を染めていく。人々の笑い声や商人の呼び声が混じり合い、旅の疲れを癒すような温かな喧騒が広がっていた。
彼らは通り沿いにある小さな酒場へと足を踏み入れる。木造の扉を開けると、ふわりと漂う香ばしい肉の匂いと、果実酒の甘い香りが鼻をくすぐった。旅の疲れを癒すには、これ以上ない場所だった。
店内は賑やかすぎず、静かすぎず。常連客らしき人々が笑い声を交わし、暖炉の火がゆらゆらと揺れている。壁には古びた剣や盾が飾られ、ここを訪れた冒険者たちの足跡を感じさせた。
「筋肉豆腐はある?」 ミランダは真っ先にカウンターへ向かい、突拍子もない注文で店主を困惑させる。店主は「え、ええと……普通の豆腐ならありますが」と苦笑い。
ノエルはメニューの薬草酒に興味津々で、眼鏡を押し上げながら「これはどんな効能があるのですか?」と真剣に質問し、店主をさらに困らせていた。
コーデリアは、子どもたちが落ち着いて座れるようにと奥の静かなテーブルを選び、手を振って呼び寄せる。
ルークとエリスは、街の喧騒に目を輝かせながら、あちこちを指差しては「ねえ、あれは何?」「あっちの人、何してるの?」と次々に質問を投げかける。
「それはダイスゲームだな。冒険者たちがよくやるんだ」
コーデリアが説明すると、ルークは「ぼくもやりたい!」と身を乗り出す。
エリスは壁に飾られた古びた盾を見上げ、「これ、ほんとに戦った人が使ったの?」と目を丸くした。ノエルは微笑みながら「そうですね。きっとたくさんの物語が染み込んでいるのでしょう」と答える。
暖炉の炎がぱちぱちと音を立て、旅の緊張が少しずつ解けていく。 子どもたちの好奇心と、大人たちのやり取りが重なり合い、酒場の空気はまるで家族の団欒のように温かくなっていった。
そんな穏やかなひととき。 それぞれが少しずつ肩の力を抜き、笑顔を取り戻していく。旅の途中で見つけた、ほんの少しの安らぎだった。
そのとき――
「……あらやだ、かっこいい!」
ミランダが突然、グラスを持ったまま硬直した。目は完全にハート型。視線の先には、店の用心棒として働く屈強な青年がいた。
褐色の肌に引き締まった肉体。無口で不愛想、眉間にしわを寄せたまま黙々と壁にもたれている。その“野性味”が、ミランダの琴線を直撃したらしい。
「コーディ、見て!あのワイルドな筋肉!精悍な男前!素敵すぎない?」
「え、ああ……まあ、男前……だとは思うけど……」
コーデリアはグラスを持ったまま、露骨に目を泳がせた。
(正直、ああいうタイプはちょっと……ダンナがあんな感じだったし……)
そう思うと、ノエルの理知的な雰囲気や、ミランダの派手さの方がずっと安心できる。筋肉より、魔法とメイクの方がずっと平和だ。
「運命かもしれない……」
「え、ええ?」
「私、彼のお近づきになりたい……!」
コーデリアは、グラスを置きながらそっとミランダの袖を引いた。
「ええと、ミランダ。素敵だとは思うけどさ……いきなりは、ちょっと……」
「そんなこと言って!時間は有限なのよ!恋は待ってくれないの!行動しなきゃ、何も始まらないのよ!」
ミランダは、長い髪を翻し、スリット入りの衣装をひるがえして立ち上がった。そのステップは、まるで舞台女優の登場シーン。
「ミラ姉、がんばれー!」 ルークが応援し、エリスは「筋肉とミラ姉、どっちが強いのかな……?」とつぶやいた。
「さあなあ……」コーデリアは苦笑し、額に手を当てる。
ミランダは優雅なステップで用心棒の元へ向かい、腰をひねりながら「ごきげんよう♡」と声をかけた瞬間――酒場の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
常連客たちがグラスを持つ手を止め、店主までもが目を丸くする。暖炉の火の揺らめきだけが、静寂の中で小さく音を立てていた。
コーデリアは、頭を抱えながらつぶやいた。
「……この旅、ほんとに退屈しないな……」
その言葉は、半ば呆れ、半ば諦め、そしてほんの少しの楽しさを含んでいた。
子どもたちが寝静まった宿屋の部屋。 ルークは布団を蹴飛ばしながら夢の中で「モンスター退治ごっこ」をしており、エリスはミランダの真似をして「美のポーズ」で寝ていた。 その寝顔を見守りながら、コーデリアとノエルは酒を飲みつつ、ミランダの帰りを待っていた。
そして――夜も更けた頃、扉がギィと開いた。
「……ノエル、コーデリア……私、振られちゃった……」
ミランダは、普段の華やかさが嘘のように萎れていた。スリット入りの衣装も、今はただの布切れのように見え、彼女自身の輝きを失っていた。部屋の隅にちょこんと体育座りし、顔を膝に埋めて嗚咽を漏らす。
「……だ、大丈夫ですか?」ノエルが心配そうに声をかける。
「何があったんだ?」コーデリアはカップを置き、真剣な眼差しを向けた。
ミランダは鼻をすすりながら、かすれた声で言った。
「あの男……私のことを……『気持ち悪い』って言ったわ……」
部屋の空気が一瞬、重くなった。暖炉の火がぱちりと音を立てるが、その音さえ痛々しく響いた。
「私は……男の人しか好きになれないの。ずっとそうだった。父や兄はそうじゃないし、普通の人から見れば、私の生き方は変なんだと思う……」
ミランダは膝に顔を埋め、震える声で吐き出す。
「でもね、子どもたちは大好きなの。でも……私自身はきっと自分の子どもを持つことはできないわ。だからルークやエリスと今一緒にいられて、本当に毎日楽しくて……」
その言葉には悲しみと同時に、愛情が込められていた。 彼女は子どもが好きだった。無邪気に笑う姿、手を握ってくれる温もり、何かを学んで成長していく瞬間――そのすべてが、彼女にとってかけがえのない宝物だった。
「子どもたちと過ごす時間は本当に幸せなの。ルークやエリスが笑ってくれるだけで、私の心は救われる」
ミランダは涙をこらえきれず、ローブに顔を埋めたまま続ける。
「わかってるわよ…。男のくせにきれいなものが好きで、女の子みたいな服が着たくて、そして、恋をするのは男性で……普通の人は『気持ち悪い』って思うんだって……あんたたちだって、変だと思ってるでしょ……?」
「……」
「……」
コーデリアもノエルも、言葉を失っていた。
「でもね、これが私なの…。普通の格闘服を着ると、私が私じゃないような気がするの。誰に変って言われても、気持ち悪いって言われても、やっぱり私は変えられないのよ」
「いいから、泣くな」
コーデリアはミランダの隣に腰を下ろすと、懐から小さな革袋を取り出した。中には、喉が焼けるほど強い酒が入っている。
「ほら、飲め。泣いてる暇があったら、喉を焼いて忘れろよ」
その言葉は乱暴に聞こえたが、コーデリアなりの精一杯の慰めだった。
ミランダは涙目で革袋を受け取り、ちびりと口にした瞬間――
「ひゃあっ!なにこれ、火ぃ飲んでるみたいじゃない!」
思わず顔をしかめ、涙と笑いが同時にこぼれる。
「効くだろ?」 コーデリアは不器用に笑い、肩を軽く叩いた。
「確かに最初はちょっと気持ち悪かったかもなあ……」
コーデリアがぽつりと口にすると、ミランダはすぐに顔を上げて叫んだ。
「やっぱり!!」 余計に拗ねて、ローブの裾をぎゅっと握りしめる。
「まあ聞けよ」コーデリアは苦笑しながら続けた。
「でもさ、多分怖かったんだ」
「怖い?」ミランダが眉をひそめる。
「誰だって、何者かわからなかったら怖いし、警戒するだろ?」
コーデリアはグラスを置き、真剣な眼差しで彼女を見た。
「モンスターみたいね」
「そうそう。知らないモンスターみたいなもんだ。もしかしたら子どもに害をなすかもしれない、いつ裏切るかわからない、何をするかわからない。出会った最初から相手のことが全部わかるやつなんていない」
ミランダは黙り込み、唇を噛んだ。
「でも今は知ってる」コーデリアは声を強めた。
「子どもたちに優しいこと。そこらの格闘家より強いこと。料理が上手いこと。買い物のとき値切るのも上手だ。本当に頼りになるよ。誰が何を言おうと、ミランダはミランダだ。ルークもエリスも、あんたが大好きだし、私だってそう。今はもう、気持ち悪いなんて、絶対に思わない」
その言葉は不器用ながらも、信頼と愛情を含んでいた。
隅で静かに様子を見ていたノエルも、コーデリアに促されて、今日購入した果実酒を取り出した。ラベルには「王都産・幻の桃酒」と書かれている。結構高そうだ。
ノエルは眼鏡を外し、真剣な声で続けた。
「僕も同じです。エリスは、あなたを憧れの人だと言っています。メイクも上手で、とてもきれいだと。あなたの真似をして寝るほどです。僕には絶対にできないことです。そしてシェフ顔負けの料理技術には本当に助かっています。ミランダさんは子どもたちにとって、僕にとっても、かけがえのない存在なんです」
ミランダは顔を上げ、涙で濡れた瞳を二人に向けた。
「……ほ、ほんとに?」 ミランダが涙で濡れた瞳を上げる。
「ああ」コーデリアが力強く頷く。
「ええ、間違いなく」ノエルも穏やかに微笑んだ。
コーデリアは深くため息をつき、そっとミランダの背中をさすった。
「ほんと、格闘技も、おしゃれも料理も、あんたはなんでもできてすごいよ。それだけ努力してきたってことだろ?」
その言葉に、ミランダはぽろぽろ涙をこぼしながらも、少しずつ笑顔を取り戻していった。
「さあ、飲もう。ミランダの素敵なところを理解しようとしない男なんて、こっちから願い下げしてしまえ!」
コーデリアは酒をぐいっと煽り、豪快に笑った。
「コーディ…、ノエル…。そ、そうよね。私の良さがわからないなんて、全く損してるわ!」
ミランダは涙を拭いながら胸を張り、少しずついつもの華やかさを取り戻していく。
こうして三人の大人の、真夜中の酒盛りが始まった。 隣の布団では、ルークとエリスが静かに寝息を立てている。子どもたちの安らかな寝顔が、彼らの心をさらに温めていた。
ノエルは滅多に飲まない酒のせいで、すぐに顔を真っ赤に染めた。
「ミランダさんの美しさが分からないとは……愚か者ですね……」
舌が少し回らなくなりながらも、真剣に言葉を紡ぐ。
「ノエル!あなた、酔ってるわね!でも、嬉しいわ!」
ミランダは勢いよくノエルに抱きつこうとしたが、ノエルは慌てて椅子ごと後ずさりし、壁にぶつかった。
「わっ、ちょ、ちょっと待ってください!僕は非戦闘員です!」
その必死の抵抗に、コーデリアが思わず笑った。
「あはは、ノエル。あんた、酔うと面白いんだな」 コーデリアが笑いながらグラスを置く。
「次はもっと“見る目のある男”を狙うわ! 美しさと強さを兼ね備えた、ミランダ様にふさわしい人を!」
ミランダは涙を拭きながらも、すでに次の恋を夢見ていた。
「……その前に、もう寝ろ」
コーデリアが毛布を肩にかけてやると、ミランダは小さな子どものようにうずくまり、目を閉じた。
「うう……おやすみなさい……」
こうして、ミランダの恋は散った。だが、彼女の心には仲間たちの優しさがしっかりと灯っていた。 暖炉の火が静かに揺れ、夜は穏やかに更けていった。
そして翌朝――
「うぅ……頭が割れそう……」
ノエルは額を押さえ、顔を真っ赤に染めたまま椅子に座り込んでいた。
「ノエルおじさん、顔が桃色ね」
エリスがくすくす笑いながら指摘する。
「ミラ姉、寝言で“ワイルドボーイ〜”って言ってたよ」
ルークが得意げに暴露すると、ミランダは布団から飛び起きて顔を真っ赤にした。
「ちょ、ちょっと!聞いてたの?!恥ずかしいじゃない!」
慌てて髪を整えながらも、目はすでに酒場の窓の外へ向いている。
街の通りには、荷物を担いだ冒険者や商人が行き交い、屈強な兵士が訓練に向かう姿も見える。 ミランダは顎に手を当て、きらきらと目を輝かせた。
「……ふふ、次のターゲットはあの人かしら。いや、あっちの人も捨てがたいわね!」
コーデリアは呆れ顔でため息をつき、ノエルはまだ頭痛に耐えながら「……恋は計画的に…」と弱々しく言った。
だが、ルークとエリスは「ミラ姉、がんばれー!」と無邪気に声を上げる。
ミランダの恋は散っても、彼女の心は決して折れない。 朝の光の中で、彼女はもう次の恋を探し始めていた。




