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 プロローグ


 あなたがお腹の中にいると知ったとき、私はただ、涙が止まらなかった。 嬉しさでも、戸惑いでもない。けれど、確かに胸の奥が震えた。 『この子は絶対に産まなきゃ』 そう思った。理由なんてなかった。ただ、そうしなければならないと、魂が叫んでいた。

 私の中に芽生えた、小さな命。何にも代えられない、かけがえのない存在。 守らなければ。生きなければ。 その瞬間から、私の世界は音を立てて変わり始めた。


 それまでの私は、ただ生きているだけだった。夢も希望もなく、明日が来ることに意味を見いだせなかった。剣を振るうことだけが、唯一の存在証明だった。命を賭ける戦場のほうが、よほど生きている実感があった。でも、あなたが宿ったことで、私は初めて「生きたい」と思った。あなたのために、私は強くなりたかった。あなたのために、私は生き延びたかった。そして、あなたを抱いた瞬間、私は確信した。この子は、私のすべてだ。私の命よりも大切な、宝物だと。


 ――だったのに。


 現実は、私の理想を容赦なく打ち砕いた。毎日は、ただ同じことの繰り返し。朝が来て、泣き声で目を覚まし、食べさせ、あやし、眠らせる。夜が来ても、眠れない。疲れは積もるばかり。家事も上手くできない。あなたは泣いてばかりで、私は笑えなくなっていった。


 夫は、最初から頼りにならなかった。剣を捨て、家庭に入った私を、彼は軽んじた。働きもせず、賭場に通い、金を溶かし、帰れば酒に酔って怒鳴り散らす。口答えすれば、拳が飛んできた。逃げたくても、あなたがいる。私一人なら、剣を手にして夜の闇に紛れられた。でも、あなたを抱えては、どこにも行けない。働きたくても、預ける場所もない。親はもういない。頼れる者もいない。


 寝不足、過労、孤独、ストレス、暴力、貧困、飢え…。何度、涙を流したかわからない。何度、夜の闇に向かって叫んだかわからない。そして、いつしかその苛立ちは、あなたに向かうようになっていた。


『あんたなんか、いなければ…』  

 その言葉が、喉の奥から漏れたとき、自分が誰なのかわからなくなった。私は、あなたを守るために生きてきたはずなのに。あなたの細い首に、手をかけてしまった。ほんの少し力を入れれば、簡単に―― ぐ…っ… 震える手を、なんとか引っ込めた。


 どうして、こんなことに?  

 いつから、私はこんなにも壊れてしまったの?  

 あなたを守ると誓ったあの日の私は、どこへ行ってしまったの?

 ――自由になりたい。 でも、自由とは何?あなたを失って得る自由に、意味はあるの?

 私は、まだ剣を握れるのだろうか。 この手で、もう一度、未来を切り拓けるのだろうか――。



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「うわあああああああっっ…!!」

 その叫びは、夜の静寂を裂くように響き渡った。 まるで魂の奥底から絞り出されたような、痛みと恐怖が混じった声。 コーデリアは、自らの悲鳴で目を覚ました。 荒く波打つ息。震える肩。濡れた頬に、冷たい涙の筋が残る。 夢の中で、彼女はまた“あの闇”に囚われていた。 逃げても逃げても追いかけてくる、心を喰らう影。 その記憶は、眠りの隙間から忍び寄り、彼女を容赦なく引きずり込む。

「かあしゃん…?」

 隣で眠っていたルークが、寝ぼけ眼をこすりながら顔を上げた。 まだ夜の帳は厚く、窓の外は漆黒の世界。 月も星も雲に隠れ、世界は静かに息を潜めている。 その小さな声が、コーデリアの胸をぎゅっと締めつけた。

「ごめん…、大丈夫…」

 震える手で息子を抱きしめた。 その額にそっと口づけし、柔らかな髪を撫でる。 指先が触れるたび、現実の温もりが彼女の心を少しずつ溶かしていく。

「いたいの…とんで…けー…」

 ルークはそう呟きながら、再び夢の世界へと沈んでいった。 その言葉は、まるで癒しの呪文。 幼い魔法が、彼女の心に静かに染み渡り、闇の残滓を少しずつ洗い流していく。

 コーデリアは目を閉じた。 今でも忘れられない。あの夜、あの場所、あの細く頼りない首の感触。 闇の魔物に囚われ、心を失いかけたあの瞬間――。 自分の手が、愛する命を脅かしたあの記憶は、決して消えない。

「…あのときは、ごめん…」

 誰にともなく、コーデリアはもう一度謝った。 それは、過去の自分への贖罪であり、今を生きる誓いでもあった。 あの瞬間、彼女は“影の森”に囚われていた。 心を喰らう魔が潜む、絶望の森。 その呪いは、今も夢の中で彼女を引きずり込もうとする。 だが、今は違う。

 彼女には、守るべき命がある。 小さな手。小さな声。小さな温もり。 それが、彼女を現実に引き戻してくれる。 それが、彼女の剣となり、盾となる。

 暖かな体温を胸に抱きしめながら、コーデリアは静かにまぶたを閉じた。 闇はまだそこにある。 けれど、光もまた、確かにここにある。 それは、ルークの寝息に混じって、静かに彼女の心を照らしていた。


 冷たい石造りの床を、小さな足音がトントンと鳴らしていた。 教会の簡素な居室で、5歳になったばかりのルークが紙の剣を振り回しながら、何やら壮大な戦いを繰り広げている。

「魔王め!くらえっ!ルーク斬りっ!」

 紙の剣が空を切り、ルークは自作の段ボール盾を構えながらくるくる回っていた。 その様子を、コーデリアは椅子に腰かけて静かに見つめていた。 拳を握ると、まだ微かに“あの男”の記憶が疼く。怒鳴り声、殴打の音、そしてルークの怯えた泣き声。 真夜中にルークの手を引いて家を飛び出したあの日から、もう一か月が経とうとしていた。

 幸いにも、教会のシスターたちが温かく迎えてくれた。 ただし、コーデリアの家事スキルはというと――


「コーデリアさん、洗濯物が……全部しわしわで…」

「え?」

「コーデリアさん、鍋が……爆発してます!」

「え?!」


 料理も掃除も洗濯も、なぜか“戦場”になる。 シスターたちは優しく微笑んでくれるが、コーデリアは内心で土下座していた。 ルークを育て、生きていくためにも、何か仕事を見つけなければ。

「かあしゃん、見て!上手?」

 ルークが、紙で作った剣を片手に、上目遣いで尋ねてきた。 その目はキラキラと輝いている。

 コーデリアは微笑んで頷いた。

「ああ、すごいな、ルーク。上手だ!魔王も泣いて逃げるな」

「やったあ!ぼく、勇者になる!」

「なあ、かあしゃんお出かけしてきてもいいか?」

「うん、いいよ!魔王に会ったら教えてね!」

「あはは、わかった」

 ルークは紙の剣を掲げて、再び戦場(居室)へと戻っていった。 コーデリアはその背中を見ながら、ふっと笑った。 この子がいる限り、どんな戦場でも、きっと乗り越えられる――たぶん、家事以外は。


 *


 コーデリアは意を決して、教会から最も近い「職業斡旋所」の扉をくぐった。 木の壁に囲まれた薄暗い室内は、鼻につく汗と埃の匂いが充満していて、入った瞬間に「働くってこういうことか…」と実感できる空間だった。

「次の方!」

 呼ばれてカウンターの前に立つと、恰幅のいいお役人が、うんざりした表情で顔を上げた。 その顔は「今日もやる気ゼロです」と額に書いてあるようだった。

「名前は?……コーデリア、ね。で、希望職種は?」

 コーデリアは深く息を吸い込んだ。

「肉体労働でもいいから、すぐに働けるものを紹介してほしい。あとできれば子連れでもやれるもので」

「今は子どもは?」

「教会の世話になっている。でもいつまでもそういうわけにはいかない」

 お役人は手に持った羽根ペンをカチカチと弄びながら、じろりとコーデリアを上から下まで見やった。 剣士の鍛えられた体躯は、貴族の令嬢のような華奢さはない。 しかし、同時に、いわゆる「女の仕事」に就けるような柔和さもなかった。

「えーと、掃除、裁縫、給仕……どれか仕事の経験は?」

「掃除は、子どもと一緒だと逆に汚すかもしれない。裁縫は針が指に刺さってくるから危険だ。料理は鍋が爆発したことある」

「……爆発?」

「魔法鍋だったらしい。知らなかったんだよ」

 肩をすくめて言う。

「お前さんの家事レベルは5ってとこだな」

「そうかもしれない…。家事以外で、剣を使う仕事はないのか?」

 お役人はあからさまに不愉快そうな顔になり、羽根ペンを机にバンと置いた。

「女の仕事は掃除か料理か給仕だ。それ以外はない!剣術なんて、日雇いの用心棒くらいにしかならん。それも、女で、お前さんが子連れなら、誰も雇わんさ」

 カチンとくる。 わかっていたことだ。この社会で、女が、しかも子連れで、剣の腕一本で食っていくことが、いかに困難か。

「でも私にはそれしかないんだよ!子どものためなら、どんな過酷な仕事でも…!」

 声を荒らげたコーデリアに、お役人は苛立ちを隠さず吐き捨てた。

「ふん。どうしても剣がいいなら、そこらの酒場か宿屋の、冒険者ギルドに行って魔物退治の仕事でも取ってくればいいだろう。この街から西へ半日歩けば、森の入り口だ。最近、モンスターがちょろちょろ出てるらしい」

「っ…!子どもはどうすりゃいいんだよ?危ないだろ!」

「そこは教会に預かってもらえばよかろう。どうせ今は世話になっているんだろう?」

 カッとなったコーデリアは、今にもカウンターを乗り越えそうになるのを堪えた。 母としての理性が、ギリギリで勝った。

「わかったよ」

 斡旋所を出たコーデリアは、冷たい秋風に晒されながら、俯いてトボトボと歩いた。 頭の中で、お役人の言葉が木霊する。


「女の仕事は掃除か料理か給仕だ」

「誰も雇わんさ」

「モンスターがちょろちょろ」


「ちょろちょろって何だよ……ちょろちょろって……」

 ぶつぶつ言いながら歩いていると、街外れの酒場の前に、手書きの張り紙が目に入った。


 《急募!モンスター退治人材》

 ・モンスター出没中!

 ・報酬:銀貨10枚+肉まん(昼食)

 ・経験者歓迎!(推奨レベル50以上)未経験者は命の保証なし!

 ・剣士、魔法使い、その他戦える人求む!


「……肉まん付きか。悪くない」

 コーデリアは張り紙を剥がし、酒場の扉を押し開けた。 中は昼間から酔っ払いと冒険者で賑わっていたが、彼女の剣士然とした姿に、数人がちらりと視線を向けた。

「モンスター退治の仕事、受けたいんだけど」

 カウンターの奥から、店主らしき男が顔を出した。

「おお、姐さん、剣のレベルは?」

「65だ」

「いいだろう。モンスター退治、行けるか?」

「斬るだけなら得意だよ」

「よし、明日の朝、森の入り口集合な。肉まんは帰ってきたらな」

「帰ってきたら、ね……」

 コーデリアは苦笑しながら、張り紙をポケットにしまった。


 夕刻、教会の裏庭。 空は茜色に染まり、風が草を揺らしていた。 他の子供たちが夕食の時間で室内に戻ったのを確認し、コーデリアは納屋の扉をギィと開けた。

「さて……今日もやるか」

 彼女が取り出したのは、使い古された木の剣。 柄はすり減り、刃の部分にはルークが描いたらしい謎のシールが貼られていた(“まほうのけん”と書いてある)。

「ルーク、今日は少しだけ、剣を振ってみるか?」

「うんっ!」

 ルークは目を輝かせ、小さな木片の剣を構えた。 その構えは、絵本で見たヒーローの真似らしく、腰が引けていて、剣が逆さまだった。

「ルーク、それ、持ち手が逆だ」

「あっ、ほんとだ!」

 ザシュッ。ザシュッ。 コーデリアは、一本一本の素振りに魂を込めた。 かつては、国を守るために振っていた剣。 しかし今は違う。これは、ルークと自分自身を守るための、生きていくための剣だ。

 腕が軋む。息が切れる。

「うっ……昨日の洗濯で筋肉痛が……」

 それでも、コーデリアは休まない。 (※洗濯物を絞るのに全力を出しすぎたらしい)

 ルークは、母の真剣な横顔を見上げながら、その小さな体で懸命に木片を振る。

「えいっ!やぁっ!……あ、かあしゃん、今の見た? 風、切ったよ!」

「うん、すごいぞ。今のは風がびっくりして逃げたな」

「やったー!風に勝ったー!」

「……強くならないと」

 コーデリアは、木剣の柄を固く握りしめた。

  「かあしゃん、剣、鼻に当たった……」

「……まずは安全第一からだな」


 *


 西の森の入り口。 朝霧が立ち込める中、コーデリアは月影の剣を背負い、依頼を受けたモンスター退治のために現地へと向かっていた。 同行するのは、地元の酒場で集められた即席パーティー――斧使いの中年男、弓使いの若者、そして魔法がちょっとだけ使えるという年齢不詳の者。

「姐さん、ほんとに剣使えるのか? 見た目は……まあ、強そうだけど」

「見た目で判断するな。あと“姐さん”やめろ」

 森の奥から、ギャギャギャッという耳障りな鳴き声が響いた。 ゴブリンの群れが、茂みをかき分けて現れる。 その数、ざっと十数体。 小柄だが、牙を剥き、棍棒を振り回して突進してくる。

「うわっ、意外と多いぞ! 撤退するか!?」

「……いや、やる」

 コーデリアは、剣を抜いた。 その刃が朝日に反射し、仲間たちの目に一瞬だけ“本物の剣士”の輝きを見せた。

「ルークのためだ。逃げるわけにはいかない」

 そして――

 ザシュッ!

 一閃。 先頭のゴブリンが、何が起きたかもわからぬまま吹き飛んだ。

「すげえ!」

 ザザッ!

 二体目、三体目が、剣の軌道に沿って地面に転がる。

「女なのに……強いな!」

「“なのに”は余計だ!」

 コーデリアは、敵の動きを読みながら、無駄のない足運びで次々とゴブリンを斬り伏せていく。 その動きは、まるで舞うようでありながら、容赦のない刃の嵐だった。

 弓使いが呆然とつぶやいた。

「……あれ、俺の矢、一本も当たってない……」

 魔法使いも、そっと杖を下ろした。

「うーん、私の出番はなさそうですね……」

 数分後――森の地面には、ゴブリンの残骸と、中年男とコーデリアの足跡だけが残っていた。

「次の仕事も頼む!姐さ……いや、コーデリアさん!」

「また呼んでくれ」

 彼女は剣を鞘に収め、涼しい顔で森を後にした。 その背中は、戦場を知る者の風格に満ちていた。 そして何より――母として、今日も稼ぎを得た者の誇りが、そこにあった。


 次のモンスター退治の日、弓使いの若者が教会までコーデリアを呼びに来た。

 だが、

「今日はやっぱり無理だわ」

 コーデリアは、そう告げた。 理由は明白――ルークが朝から熱を出していたのだ。 顔は真っ赤、声はガラガラ、そして寝言で「ゴブリンがスープ飲んでる…」と謎の幻覚を見てうなされていた。


 次の時も、その次の時も、あいにくルークの調子が良くならず、モンスター退治の仕事を断った。

「え?またか…?」

 パーティの斧使いが、眉をひそめる。今日は3人そろってコーデリアの元にやってきた。そして、斧使いがこれ見よがしにため息をついて言った。

「最初から女にはやっぱり無理な仕事だな」

「シングルマザーと仕事なんてするもんじゃないね」

「剣の仕事より、薬草を取ってきた方がいいんじゃないですか?」

「もう次から来なくていいぞ。じゃあな」

 言いたい放題である。 コーデリアは剣の柄に手をかけたが、ルークの寝顔を思い出してギリギリで踏みとどまった。

「悪いと思ってるよ……でも、子どもの調子が悪いなら仕方ないだろ。あんたらも、子どもが大事じゃないのかよ」

「は?なんだよその言い草。男は稼いで帰ってくればいいだろ。子どもの面倒は女が見るもんだ」

「そういう考えの男がいるから、女は社会で働きづらいんだよ!」

「うわ、怖っ!やっぱ女って感情的だよな!」

「感情的なのはそっちだろ!子どもが熱出しただけで、来なくていいって何だよ!」

 結局、コーデリアはその日も仕事を断り、パーティから追い出された。


 居室に戻ると、ルークは布団の中からひょこっと顔を出した。

「かあしゃん……モンスター、倒した……?」

「ううん、今日はモンスターより怖い人間と戦ってきたよ」

「……そっちのほうが強そう……」

「ほんとにな」

 コーデリアはため息をつきながら、ルークの額に冷たい布を乗せた。 母としての戦場は、剣よりも忍耐力が試されるらしい。

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