2の1 神算二〇三高地
問題は、ロシアの南下政策にあった。
ロシアは満洲の荒野に鉄道を敷いて、ウラジオストクと旅順に大軍事要塞を築き、韓国にも砲台建設、離島の租借地、捕鯨基地、給炭基地、海上権、木材伐採権、鉱山採掘権、関税権、軍事顧問の派遣、ロシア語学校開校など、着実に半島支配を進めていた。
それは日本列島の背中に当てたナイフであり、日本は全力でロシアの満韓侵略を防がなければならなかった。
明治三十七(一九〇四)年二月八日から始まった日露戦争は、鴨緑江、南山、得利寺、遼陽の会戦など、いずれも日本軍が辛勝し、ロシア軍は旅順要塞と奉天の防御陣地に立てこもった。
日本の満洲軍総司令官は大山巌元帥で、総参謀長が児玉源太郎大将、その下に四人の軍司令官がいた。第一軍は黒木為楨大将、第二軍は奥保鞏大将、第三軍は乃木希典大将、第四軍は野津道貫大将である。
ロシア旅順要塞の攻略は、乃木希典大将が受け持った。他の日本軍は北上する。
十月八日夜に、ロシア奉天陣地の近くで沙河会戦が始まった。すでに日露両軍とも傷だらけであり、戦闘拡大は不可、こう着状態となった。
十六日からは、陣地と防寒小屋を築く。それは東西七〇キロにも延びる長い防衛線で、北側がロシア、南側が日本である。日本の陣割りは、東から第一軍、第四軍、第二軍であり、第二軍のうち最西端には、速力のある騎兵の秋山支隊が配置された。
ひと月を過ぎた十一月二十日の夜、これまで数々の作戦で日本軍を勝利させてきた児玉源太郎総参謀長は、司令部の若い参謀たちに嘆いていた。
「ええい、乃木はまだか、まだ来ないか。ロシアには後方から鉄道で数万人規模の兵が補充された。もう日本には乃木の第三軍しかない。旅順など早く落としてこっちに来い、乃木よ、旅順の乃木よ」
児玉源太郎大将は徳山出身の五十二歳。旅順攻撃中の乃木希典大将は長府出身の五十五歳。二人とも長州支藩の出身であり、戦場を共にして来た戦友である。
「児玉さん、乃木さんも頑張っとるじゃで、辛抱でごあすよ。こっちはあと数ヶ月だけ、児玉さんの知恵でもって、負け込まんようにしたって下っせー」
児玉の嘆きを聞いて、大山総司令官が仮眠から起きて来た。
大山さんはのっそりとしているが、判断力には定評がある。今の言葉の意味は、数ヶ月間は決戦を仕掛けずに乃木到着を待つ、ということだ。日本人は冬いくさが不得手だ。望む決戦は春。ならばその間に旅順を片付けようと、児玉は考えた。
「大山さん、この児玉を旅順に遣わせて下さい。この目で戦況を観て、場合によっては作戦指揮を執ってきます」
「ほいなら指令書を持って行きなんせー」
「痛み入ります」
机にランプを持って行き、筆を取って命令書を書いてくれた。子熊のように丸い顔の総司令官は、西郷隆盛の従兄弟である。
「出発は明日でごあすか?」
「はい、明朝発ちます」
「気を付けて」
書状に判を押し、ほいと手渡してくれた。
『予は児玉を差し遣わす。児玉の言う事は予の言う処と心得るべし。満洲軍総司令官大山巌元帥』
これは児玉に全権委任するという内容だった。流石に、大山さんは器が大きい。
「有り難うございます」
「一緒に酒を飲み明かしたい所だが、明朝出発ではなぁ。一人で飲みもそう」
大山は勇者の余韻を残して部屋を出て行く。参謀一同直立して総司令官に敬礼した。
「それでは田中国重少佐、旅順への同行を頼む。第三軍に一喝を入れるぞ。補佐並びに衛兵二〇名を選んで指揮せよ」
児玉は田中少佐を選んだ。田中少佐は文武両道、機転が利く参謀である。たとえ敵地でも、活路を開くであろう。
「はい。児玉総参謀長殿を補佐並びに衛兵を指揮します」
「夜中にすまんが、兵卒に明朝出発の準備をさせよ」
「はい。失礼します」
壮年の田中少佐は、キリッと敬礼して司令部を退出して行く。
リンリンリン。
夜の静粛を割って、司令部の電話が鳴った。すぐに情報参謀が電話を受ける。
児玉はどこかで戦闘が起こったのだろうと、椅子に座って状況報告を待った。将官は慌ててはいけない。思考が乱れるからだ。たった一度でも間違った命令をすれば、多くの部下が死に、国を滅ぼす。
受話器を持つ情報参謀が、数度受け答えをして、児玉に向かって尋ねた。
「児玉総参謀長殿、連合艦隊作戦参謀の秋山真之中佐から、重要なお話があるそうです。東郷平八郎司令長官の許可は取ってあるそうですが、いかが致しましょうか?」
海軍の秋山が何の話だ。たぶん、旅順を早く落とせと、せっつくのかも知れない。
「海軍の俊英か。一応、聞いてみよう」
急いで歩いて行き、受話器を受け取った。
「児玉です」
「海軍の秋山真之中佐であります。夜分失礼致します。児玉閣下だけに折り入ってお耳に入れたい話があります。よろしいでしょうか?」
「何だろう。話して下さい」
「本日二十日、未来の船を保護しました。百年後の船です。未来人も一人いました。興味がお在りなら、内密にお会いしませんか?」
耳を疑う内容だ。騙されているとしか思えない。
「それが本当なら興味がある。しかしだ、何かの陰謀じゃないのか。旅順をいつまでも落とせない陸軍への不満であるとか」
海軍も旅順艦隊とバルチック艦隊との二正面作戦になるのを恐れている。であるのに旅順港と旅順艦隊は、いまだに健在なのだ。海軍も怒りたくなるだろう。
「国家存亡の折、不敬な真似はいたしません。東郷平八郎連合艦隊司令長官の許可も取ってあります。未来人と陸海の三者で逢いましょう。その未来人は黒人医師です」
本当のようだ。児玉は好奇心の塊だと自負している。秋山の話に乗った。
「それで、どうすればいいのだ?」
「大連の港で海軍に『秋山参謀と会う約束だ』と言って下さい。連絡を受けて、不肖この秋山がお出迎えに参上致します。一緒に現地へ参りましょう」
「承知した。明後日の二十二日を予定して、出来るだけ早く移動する。だが、百年の時間はどうやって越えたのだ。未来の機械力なのか?」
軍人とは瞬時に考えを割り切る人間だ。児玉は、未来の船ありきで腹を決めた。ならば、初めに訊く質問だろう。
「児玉閣下、神隠しです。百聞は一見に如かず。大連にてお待ちしております。お電話これにて失礼します」
児玉も電話を切った。
海軍の秋山真之中佐は、いま満洲の戦場にいる陸軍騎兵第一旅団長、秋山好古少将の実弟である。若いが、海軍一の俊英、作戦家として有名だ。ただし変人といわれる程の軍事馬鹿で、政治への野心はないらしい。その男が、児玉に交渉してきた。必ずや軍事的な意味合いがあるに違いない。
「今の電話は、他言無用。総参謀長のわしが預かる」
児玉は、毎日頭が痛い。その上で新たに百年問題がやって来た。
「明日に備えて、わしは寝る。何かあったら起こしてくれ。ああ、そのままでよい」
それでも参謀一同が直立して敬礼する。士気の高さには満足だった。




