1の2 キューバ革命の炎
どのくらい時間が経ったのだろう。かなりの時間を漂っていた気分だ。ハンスは、輝く日差しで目を覚ました。台風で暗かった空は、見事な青空で雲ひとつなかった。
軽い目眩もあったが、震えながら艦橋へと歩いた。甲板の鉄の上に寝ていたので、身体が冷えたのだろう。節々が痛い。熱帯のキューバ暮らしには、きつい冷気である。
船内を覗いてみたが、誰も居なかった。
「あれ、変だな。船長、リーダー、誰か居ないか?」
歩き廻って声を掛けるが、返事が無い。
階下に降りて確かめる。バッテリーは生きていて照明は点灯した。
タンカーは広いのだが、どこにも誰もいない。どういう訳だろう。
ハンスが気を失っている間に、船を放棄した可能性もある。だが積荷はそのままだ。
もし非常事態で戦闘となったら薬莢の一つも落ちているはずだが、その様子もない。
心細さと無力感であった。寒いので毛布を頭から被って、無駄にうろうろする。
大連はもう眼と鼻の先である。まだ革命が始まっていないのに、皆は如何したのだ。どこに消えてしまったのだ。
レーダーや無線機など手掛かりを探ったが、何も判らなかった。
言葉の違うアジア世界に一人残されて如何するか。しばらく茫然とした。
一時間後には泣きたくなった。それでも心の空しさを埋めるように、自然と腹が減った。野性の動物と同じで、危機に備えるには食事が大切である。
「とりあえず何か食べよう」
重いため息のあとに、熱いコーヒーをゆっくりと飲む。食事は長米と黒豆のコングリ(日本の赤飯みたいなもの)に、焼いた豚肉とポテトを添えた。
これらは下拵えとして調理されていたのだから、船員は予定なく消えたのだ。
まず仲間を探して大連に上陸する。その後は、満洲各地を往診して歩く。
今は海上なので、敵は中国海軍の赤い旗となる。
食事の皿を持って、ハンスは艦橋に戻った。見張りのこともあるが、早急に操船方法を調べて置きたい。いろいろ扉を開けると、船のマニュアルが見付かった。分厚かったが、英語表記なので助かる。
でも、ご飯を食べながら考えるに、船の操船はいくら簡略化されているとはいえ、一人では無理だと解かった。前進と転舵、レーダー、見張り、無線連絡。
自動操縦なども利用すれば、操船出来なくもないが、例えば他船にぶつかりそうになっても三万トンタンカーでは直ぐには止まれない。大きすぎて舵も効かないだろう。
変化する現実に合わせて進路を決めるベテラン航海術こそが、船員には必要なのだ。
ハンスには、もし大連まで前進しても、近場で停止出来るかさえ不安だった。
ふと、外に目を向けると、遠方からマストのある船が、多数の船団で煙を上げてやって来た。クラシックな蒸気船である。
「おお、さすがアジアだ。まだ蒸気船もあるのだな」
民間船なら敵ではないが、こっちは一人だ。とても注意が必要だった。中国では、漁民に外国船の排除を奨励しているのだから。
タンカーの艦橋は船尾にあって前方視界が悪い。食事を急いでかき込んで、甲板を船首へと走った。船の全長は二一〇メートルもある。
どうやら近付いて来たのは旧式軍艦であった。大砲もあって、もし撃たれれば、かなり危うい。良く見ると、どの船の旗も赤旗ではなく日の丸である。艦尾には旭日旗も。
「助かった、日本海軍だ。日本人は真面目だと聞いたぞ」
自動車と電気製品の先進国だ。ハンスはアメリカ出身なので歴史の知識で太平洋戦争の日章旗を憶えていた。
旧式軍艦から大声で叫んでいる。各国の言葉で誰何されたが、ハンスは英語に反応した。
「こちらはパナマ船籍オイルタンカーのサンフラワー号です。私はアメリカ人医師のハンス・コハンです。漂流しています」
出来るだけ大きな声で答えた。
「本官は日本海軍連合艦隊の作戦参謀、秋山真之中佐です。乗船許可を願う」
沢山の顔が見える中で、参謀飾緒のある男がとても流暢な英語で名乗り出た。
「こちらは商船ですから、武器の使用を禁止します。乗船許可します」
ハンスは縄梯子を引っ張り出して、弦側に下ろした。ゆっくりと旧式軍艦は接弦し、数名の海軍士官が順次上って来た。
「ハンス・コハン医師、秋山中佐です。乗船許可を感謝します。この船は大きいですな」
「ハンスと呼んで下さい。アフリカ系アメリカ人ですがキューバの医大を出ています。船は三万トン積載オイルタンカーです」
医大卒だと取り立てて言ったのは、黒人だと馬鹿にされない為の予防線だ。ここはアジアなので、よくは知らないが、ハンスは差別の中で生きて来たから。
二人は握手した。秋山中佐は三十代半ばで、しっかりと握力のある強い手である。軍人なので鍛えているのだろう。アジア人の顔には親しみの表情があった。
「ほう、三万トンですか。そりゃあ凄い。この世の物とは思えない。ハンス医師、少し見せて貰ってもいいですか。あと一応、確認しますが、ロシアとは関係ないですね。ははっ」
質問の答えを待たずに、秋山中佐は愉快に両手を広げて、甲板を飛ぶように走って行った。驚くべき天真爛漫な壮年である。まるで子供のようだ。
「中国に石油を運ぶ予定でしたが、漂流しました。ロシアが、どうかしましたか?」
遠方ゆえに大きな声でゆっくりと応じる。秋山中佐は、笑顔で駆け戻って来て言う。
「現在、日露戦争の真っ最中です。判っています。ロシアに黒人医師はいませんから。中立国の商売は自由ですが、戦闘中ゆえにお通し出来ません」
ハンスは首をひねった。何かおかしいようだ。いつの間に日露戦争が起きたのだろう。いくら何でもミサイル戦闘の現代に、砲艦は古すぎるだろう。もしや、昔の日露戦争ではないか。そんな筈はないと思うが、いちおう確認してみた。
「お聞きしますが、今年は何年ですか?」
「一九〇四年の十一月二十日です」
確かに聞いた、一九〇四年だって。
「そんな馬鹿な」
ハンスは膝の力が抜けた。何かの間違いだ。夢かも知れない。




