終章 未来の大連
「ハンスさん、ハンスさん」
ハンスは誰かに揺り起こされた。眼をあけるとリーダーの金志元であった。ここはタンカーの船艙で、ライトは点いていた。
「ハンスさん、積み荷が無くなった。AKM二〇〇〇挺も医薬品もないぞ」
中国系の英語で、すごく慌てた様子だった。
「えっ、えっ」
ハンスは状況が理解出来なかった。自分は児玉将軍たちと東京へ向かっていたはずだ。それなのに消えたはずのリーダーが目の前にいる。
「リーダー、お久しぶりです」
ハンスはリーダーの肩をがっしりと抱き締めた。
「どうしたハンスさん?」
リーダーは戸惑う様子。見慣れた船艙だが、時間はどうなっているのか?
「今は何年ですか?」
「何を言っている。今日は二〇二五年九月二十七日だろ?」
ギクリと、息を呑んだ。元の時代に戻った? 脈拍が速くなった。
「革命だ、ゆくぞ大連へ」
民主化革命の話は今も生きている。
「それで、日露戦争は?」
「何を言っているんだ。もう一〇〇年以上昔のことだろ」
ハンスは急に現れたリーダーを目にしても混乱していた。
昔の世界へタイムスリップしたことは、話すかどうか悩んだ。もしや夢だったかも知れないし、二、三日整理してから、大連で話そうと思った。
「少し混乱しています。すみません」
「ああ、急に積荷もなくなったし、どうすれば良いのか。今後の対策を練るとしよう」
ハンスは、リーダーに続いて甲板へと上った。
翌朝、タンカーは大連港に入港した。
「自由の女神みたいだ」
大連港入り口の小島の頂きに、美しい仏像が立っていた。かなり大きくて、後光が射すように頭上の冠からは光が出ていた。
「こんな凄いの、いつ建てたんだ?」
満洲族で大連出身のリーダーも首を傾げた。
大連港にはタグボートでゆっくりと入り、パスポートを提示した。
驚いたのは記録印が「中華人民共和国」でなく「満洲国」に変わっていたこと。
「リーダー見て下さい。満洲国になっている」
「ええっ」
みんなが驚いた。ハンス以外の同志一一名もパスポートに食い入った。
武器も医薬品も無く、僅かながら旅行鞄の中の医療器具と小量の薬が、ハンスの持つすべてだ。でも日露戦争での医療経験は大きな財産である。
同志たちは財布に数百ドルしか持っていなかった。ハンスは旧日本紙幣しかない。ターミナルで現地のお金に両替するが、なんと新紙幣で「日本円」が通用していた。そして「日本語」が共通語となっていた。
「ここは日本か?」
ハンスは思わず独白すると、
「いいえ、満洲国の大連市です」
との返事があった。
「いつからですか?」
「一九三二年からです」
ハンスの会話にリーダーは不思議がったようだ。
「凄いな、ハンスさんは日本語も話せるのか?」
「ホテルに入りましょう。そこで説明します」
ハンスは、どこか静かな場所でタイムスリップについて皆に説明するつもりだ。
多分、タンカーに居合わせた同志と船員たちは時間の狭間に居たのであろう。その証拠に、世界とのギャップが大きかった。
ビルの林立する街中を歩く。道は広くて街路樹が植えられている。ショーウィンドウは美しく飾られ、人々も鮮やかな洋服に包まれている。人民解放軍の姿など何処にもなく、日本の憲兵隊が規律正しく行進していた。超近代国家である。書店を見つけた。
「何か分かるかも知れない。入ってみましょう」
言葉の解かるハンスがリードした。書棚には日本の書籍が多くあった。
メガネの可憐な女子店員さんに日本語で尋ねた。
「歴史の本はどこですか?」
「こちらです」
笑顔で案内してくれた。黒人にも親切な態度は、昔の日本人の良い所を残していた。
書棚は日本語中心で、漢文版も多くあった。
ハンスは日本語で書かれた歴史本を、リーダーは漢文の本を数冊ほど買った。町のガイドブックも入手し、中心部に向かって歩く。
歴史と威厳のある西洋風宮殿のような大連駅を通り見て、向うにある数百階建ての満鉄本社ビルを見上げた。周りにも高層建築が林立している。
「大きいな。本当にここは大連なのか?」
リーダーはしきりに不思議がった。
「アフリカを転戦している内に、変わってしまったのか」
現代の大連は初めてのハンスだが、一〇〇年前にも上陸している。だから解かる。ここはハンスが居たあの歴史の一〇〇年後であると。
そんな大都市大連の中心部には、なぜか、小さな病院が在った。なんと「ハンス・コハン記念病院」と掲げてある。
「あれを見ろハンスさん、ハンス・コハン記念病院だってよ」
ハンスも驚いた。まさか自分の名前が残っているなんて。
「行ってみましょう」
病院の庭には多くの木々が茂り、日本でよく見た菊花が、赤や黄、桃色に咲いていた。
散歩をしていた患者さんが、ハンスを見て会釈する。ハンスも答礼した。その様子には見覚えがあった。ここは一〇〇年前の病院によく似ているのだ。
こじんまりした木造の病院に入ってみると、数名の患者さんが診察を待っていた。
「あのーお聞きしますが、ここはハンス・コハン病院でしょうか?」
雑談していたお婆ちゃんが、日本語を話す黒人のハンスを見て驚いた。
「まあ、黒人さんかい。ええ、ここはハンスさんですよ。昔ね、あんたみたいな黒人の偉いお医者さんが居たそうでね」
「その黒人さんのお蔭で、この満洲では医療と教育はタダなんじゃ」
伴侶だろう、爺さまが説明してくれた。
自分のことだった。そしていつの間にか、理想としていた医療革命が起きたようだ。
「いつからそうなんですか?」
「わしらが移住する前からだよ。たぶん児玉将軍の時代だろう」
ああ、昨日まで一緒にいた児玉将軍だ。あの笑顔が懐かしい。
「あんたも病気かい? ここに座りなよ」
お婆ちゃんが一つ席を空けてくれた。
「いえ、大丈夫です。ありがとう」
ハンスは礼を言って、外に出た。
木々が美しく色付き、子供たちが笑顔で走り回っている。医療と教育はタダだそうだから、今日は学校休日の日曜日なのであろう。良い国だ。飢えた物乞いも、病院に掛かれない怪我人もいないのだろう。
田舎の少数民族もきっと救われたに違いない。
向うには、リーダーを中心にして皆が集まっていた。話したいことは山ほどある。ただその前に、頭を整理しようと歴史本を広げてみた。
日露戦争はハンスの記憶の通りで、そのあと一九三二年に満洲国が建国。皇帝ではなく満洲鉄道が母体となったため、満関朝沿亜の巨大な民主国家となった。石油採掘の成功とともに医療と教育が無料化。その年に元老児玉源太郎死去。享年八十歳であった。
「ああ、ここでも児玉将軍だ。もう逢えないのか」
豪気で人懐っこく明るい将軍だった。児玉将軍、最後のコーヒーを有難う。
「ハンスさん、どうしたんだ?」
空を仰いで感涙にむせぶハンスに、リーダーが心配の声を掛けてくれた。
「民主化革命をやってくれました」
ハンスが消えた後、児玉将軍が志を継いでくれていた。
「誰が、何を?」
ハンスは涙を拭いた。
「説明します。児玉将軍とともに戦った一年五ヶ月を」
(了)
この物語は12年前に書いたものを、改稿したものです。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。
いつの時代にも、真剣に「子供たちと日本の未来」を考える人たちがいます。
戦争の時代を通じて、そんな熱い漢たちを描いてみました。
この後、ハンスさんはアメリカに帰国し、母上と抱擁するでしょう。
そして「弱い人や貧しい人」のために、医者を続けるでしょう。
皆さまは、どうお感じになられましたか?




