4の5 未来船
六月十四日、黒海上のロシア戦艦ポチョムキンで反乱が起こった。
時局は、ウクライナの黒海沿岸各地で、メンシェヴィキ主導のデモとストライキが勃発しており、仕事放棄の風潮であった。
問題は、この日の昼食で起こった。水兵のボルシチ(スープ)に腐った肉が入っていたのだ。
怒りの水兵たち。リーダーのヴァクレンチュークが抗議したところ、いきなり銃殺されたため、突然の驚きと怒りに満ちた水兵たちは、武装蜂起した。艦長とその悪人士官を殺害し、他の士官を船艙に閉じ込めて、革命の赤旗をマストに高く掲げた。
これに第二六七号水雷艇も合流した。
オデッサに上陸すると、デモ行進の主役となって水兵たちは持て囃されたが、ロシア政府から指名手配される頃には、人々の興味も薄れ、水と食料、燃料の補給にも支障が出た。
海上で真水が無くなり、缶に海水を入れたら故障して、艦を放棄する。
二十五日、反乱水兵たちは、ルーマニアに逃れて、政治亡命した。
この事件はロシアにおいて軍隊反乱の先例を開いた。
六月十七日、恐怖政治のフィンランド総督ボブリコクを暗殺してから、ちょうど一年目のこの日、ヘルシンキには全国から一五万人もの人々が集まった。
そこでフィンランド革命党の党首コンニ・シリヤスクは、フィンランド独立宣言を行った。憲法制定、普通選挙の実施、国会開設、男女平等、言論の自由、共和制を唱えた。
妨害に入ったロシア正規軍一〇万に対し、市民が暴動を起こして激突し、男女四〇〇〇人もの死者を出す一日となった。
脱出したシリヤスクは再び地下活動を活発に行って、フィンランド国民独立の意思を見せつける。ロシア皇帝ニコライ二世に相当な圧力を掛けた。
七月四日、連合艦隊の護衛で第十三師団は大湊を出航した。師団長の原口兼済中将は、兵と共に輸送船「越前丸」に乗っている。
「美味い、美味い」
原口中将は、研究中である未来の北海道米を頬張った。
「陸軍さんは船に弱いとお聞きしましたが」
船長もびっくりの豪胆さである。
「なに、身体が資本だ。戦いに備えて食わねばな。はははっ」
「二日で着きます。それまでゆっくりして下さい」
日本の最終戦闘は樺太占領である。海軍の秋山さんが発案したそうだ。それを後押ししたのが、大本営参謀次長の長岡外史少将である。
「ロシアに引導を渡してやる」
この言葉は、誰かが言い始めて、日本軍の合言葉になった。
樺太攻略について参謀総長の山縣有朋や元老と政府首脳は、兵力の分散および弾がない、金がないからと作戦に反対であった。
しかし、満州軍総参謀長の児玉源太郎大将が「講和交渉が有利になるだろう」と応援の電報を打った。東郷平八郎司令長官の「連合艦隊が全力で支援する」との書状提出で、明治天皇がご裁可した。
第十三師団に白羽の矢が立った。
六日未明、南樺太亜庭湾の女麗に兵を下ろす。
「さあ行くぞ、野郎ども。一ヶ月で島をぶん盗るぞ」
おおーぅ、と配下から歓声が上がった。夏だが北方の波しぶきは冷たかった。
第十三師団の二万名は大所帯であり、上陸の水際が怖かったが、反撃は無かった。
「さては逃げたな」
原口中将は先頭で指揮を執り、昼には第十三師団が大泊に無血入城した。
「斥候を出せ」
探索を命じると次々と情報が集まって来た。町は小さい。
「予想通り。兵隊たちは慌てて北へ逃げたらしい。参謀、我らも北上するぞ」
十日、大泊から北へ四二キロの豊原で対峙し、野戦となる。
白樺の林と青い草原の大地であった。
「大砲、敵陣に当てろよ。うてーっ」
勢いよく砲弾が飛び交う。原口中将は前線指揮を続けた。
ついにコルサホフ(大泊)方面司令官アルチシェフスキー大佐と兵五〇〇は降伏した。
離散したロシア兵。
あまりの圧勝に大泊への帰路は、笑いと歌で楽しかった。
再度、連合艦隊の護衛で北樺太に移る。
二十日、北樺太西海岸で最大の町アレクサンドロフスク(亜港)から北へ八キロのアルコアに、第十三師団は無血上陸した。こちらは青い苔と芦原の湿地であった。
隣の亜港は三万人の流刑者が作った町で、ロシア・サハリンの軍事拠点である。
「じゃあ秋山さんの作戦通りに」
原口中将は、秋山真之海軍中佐に返電した。
まもなく連合艦隊から艦砲射撃の援護を貰う。敵陣は木っ端微塵だ。
「よし、ロシア兵を追い出せ」
敵軍を内陸の山間部に追いやった。
三十一日、ついに亜港から東へ六五キロも入ったティモフスクで、島長官のリャプノフ中将と歩兵四〇〇〇は武器を捨てて降伏した。
原口中将は、リャプノフ中将を捕らえて亜港へと凱旋した。
その時、「サンクトペテルブルクで反乱あり」のうわさを小耳に挟んだ。




