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神算日露戦争  作者: いばらき良好
第3章
19/33

3の9 怒りの黒溝台

 二十五日朝六時、児玉は、決戦前の鴨緑江軍司令官の川村大将を訪ねた。突然だったので驚いたようだ。

「川村を一人で死なせない約束なのでな、来たぞ」

「私も旅順から一番に戻って来ました。児玉総参謀長殿」

 熱い敬礼をした。川村は、期待に応える男である。

「説明します。味方は四万八五〇〇。ロシア第二軍は、夜中に増派して四万から五万。半分以上がコサック騎兵であります」

 参謀連中に任せるのでなく、川村が説明した。

「塹壕や杭、鉄線などは仕掛けたか?」

 騎兵の足を止める必要がある。

「残念ですが時間がなく、土も凍っていて塹壕は掘れませんでした」

 作戦には、天地人が肝要だ。寒いならば、逆はどうだ。

「では大量の薪で、炎の防波堤を作れるか?」

「満洲原野には木々が少なく、運んでいる時間がありません」

 これでは「神算」の名が廃る。児玉は知恵を絞った。

「狙撃兵に白い服か布をまとって、前方に配置し、突っ込んで来る騎馬の横合いを撃たせよ。配置は互いに援護出来る位置がいい。かなりの寒さであろうが」

 すぐに川村大将が、白い布を探させる。

「戦闘の前半では大砲を使い、後半は機関砲で接近戦としよう」

 その頃には、秋山が後方撹乱するだろう。連絡が無いのは、敵中に入っているからだ。


 日の出前の朝七時、前面のロシア兵たちが、一斉に引き始めた。

「何があったな。おそらく秋山が何かしたのであろう。川村大将、追撃だ。焦らずに、ゆっくりと前進するぞ」

 最初は誘い込みかと疑っていたが、敵第二軍は奉天まで退却する勢いだ。数は多くても逃げる兵となると弱いものだ。

 児玉は、鴨緑江軍と臨時立見軍に奉天まで追撃を命じた。


 昼過ぎ、秋山ら二五〇〇騎がやって来た。

「児玉総参謀長殿、前線にいらしたのですか。AKM有り難うございました。お陰で敵の西軍大将を倒せました」

 秋山の男振りは勇ましい。そうか、グリッペンベルク大将をやったのか。それで総退却になったのだ。

 明らかに左腕を怪我している。

「秋山、よくやった。その怪我はどうした?」

「ああ、撃たれました」

 平気な顔だ。また酒でごまかしているに違いない。

「弾は抜いたのか?」

「いえ、まだ。なに、このくらい」

「今、敵は退いている。治療せい。誰かハンス医師を呼んでくれ」

 戦闘発生で、遼陽の野戦病院からハンス医師たちも各師団の包帯所に来ていた。

 前線で怪我をすると、包帯所で止血と包帯を巻いて応急手当てをし、手術や重傷者は野戦病院に後送される。

 救命重視のハンス医師は、ちょうど児玉と同じ前線に来ていた。


 大きな治療鞄を背負ったハンス医師と衛兵たちは、連絡を受けて走って来た。

「秋山、あれが医学顧問のハンス医師だ。わしが最も信頼出来る医者だ」

 秋山も注視している。

「どこ、怪我人は?」

 日本語でハンス医師は、忙しく目標を探していた。

「ハンス医師、こっちだ」

 児玉の声に敏感に反応し、方向を変えた。

「児玉将軍は怪我ですか?」

「違う。こっちの秋山少将だ。よろしく頼む」

 秋山の血だらけの左腕を見て、ハンス医師は表情が硬くなった。児玉が医者でも驚くよ。放置なのだから。

「すぐに傷、見せて下さい」

 ハンス医師の英語を、弟子の医師が通訳する。

 秋山は、素直に上半身の軍服を脱いだ。確かに左腕を撃たれている。

 ハンス医師は、傷の周囲を確認、手際よく消毒して、ペンチみたいな器具で弾を引き抜いた。

「すみません。痛かったですか?」

「大丈夫だ」

「薬を飲んで下さい。止血剤と鎮痛剤です。それから一週間、化膿止めの抗生物質を飲むこと」

 ハンス医師は、大きな治療鞄から薬を取り出した。水筒持参と準備もいい。

「わしは薬などいらぬ」

 秋山が変な意地を張るので、児玉は叱った。

「この世の薬はまやかしで、効かぬものばかりだが、ハンス医師の薬は確実に効くのだ。ハンス医師だけは間違いない。秋山、命令だ。薬を飲め」

 豪傑も、しぶしぶ水をもらって、薬を飲み込んだ。

「秋山、戦場に黒人医師がいて驚いただろう。遥か遠くから、最高の助っ人が来てくれたのだ。敵じゃないので逆らうな。ハンス医師も有り難う。秋山は、無骨だが悪意はない。これからも面倒を見てやってくれ」

 ハンス医師は、気にする様子でもない。

「私は、医者に掛かれない子供達のために、やって来ました。秋山さんは生きて、子供達のために良い未来を作って下さい」

 たどたどしい日本語は、秋山にも共感する所があったのだろう。

「解かった」と素直に短く答えた。

 ハンス医師は、秋山に包帯を巻いて「幸運を」と言って去る。

「ハンス医師、世話になった」

 秋山がその背中に礼を述べた。

 ハンス医師は、振り返って右手を振った。


 感傷的ではあるが戦争中だ。児玉には、秋山に色々聞いておきたい事があった。

「秋山、敵将グリッペンベルク大将の最後はどうであったか?」

 児玉が質問した。

「戦場で胸に輝く勲章を着けていました。騎馬で逃げるので、追い掛けて馬上にて斬り捨てました。老齢ベテランなのでしょうが、それが油断となったようです」

 耳が痛い。策士策に溺れるというやつか。自分も注意しよう。

 秋山は、左手の痛みが引いたのか、拳銃に弾を込め始めた。戦う気だ。ならば応援しよう。

「AKMを秋山に渡して正解だった。舶来のダイナマイトと雷管、電線もある。鉄道破壊の件も頼みたい」

 日英同盟で手に入れたダイナマイト。使うなら今しかない。

「ロシアの後方遮断ですな。好きな様にやっていいですか。雷管をセットする工兵も貸して下さい」

 ほう、二丁も拳銃があるのか。秋山は話の途中でも弾込めを続けている。

「解かった。頼むぞ」

「任せて下さい」

 修羅場を踏んだ秋山には、かなりの風格があった。

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