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神算日露戦争  作者: いばらき良好
第3章
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3の1 怒りの黒溝台

 日露開戦前、元老の山縣有朋にその才能を見出された明石元二郎大佐は、当時の陸軍大臣、児玉源太郎中将から任命されて、明治三十四年(一九〇一)にフランス、翌年にはロシア帝国の公使館付陸軍武官となった。

 海軍の広瀬武夫少佐が爽やかな快男児として、ロシア社交界で人気があったのに対し、明石は目立たず地味で、パーティの隅で情報収集に明け暮れていた。

 明石は朴とつとした言葉でロシア軍人貴族たちを油断させて、それでも英独仏露の会話は完全にマスターしているから、上手く情報を聞き取る。どこにでも馴染んでしまう空気みたいな人物であった。

 明治三十七年(一九〇四)二月に日露戦争が勃発するが、その直前に明石はスウェーデン王国のストックホルムに諜報の拠点を移した。ロシアをライバル視するスウェーデンでは、ロシアと戦う日本の勇気に対して、国王夫妻からの熱烈な歓迎を受けた。

 日本から反露帝政のための謀略資金百万円(現四百億円)が、明石個人に託された。

 明石大佐三十九歳、日本の運命を背負った孤独な戦いが、すでに始まっていた。


 最初に明石は仲間と、スイスのジュネーブに亡命中のレーニン宅を訪問した。

 交渉相手のレーニンについて、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリャーノフと言い、レーニンは通称である。父は教育行政官で物理学者の貴族、母はユダヤ系ドイツ人医師で貴族の娘、兄弟は三男三女で、上から三番目がレーニンだ。

 父系は、モンゴル系のカルムイク人、チュワシ人とロシア人の血筋。母系は、ユダヤ人、ドイツ人、スウェーデン人の血筋が入っており、レーニンは多民族混血人である。

 全校生で首席の神童だったが、十五才のとき父が脳出血で他界し、翌年には兄のアレクサンドルが皇帝暗殺計画で絞首刑、姉のアンナは国外追放になった。この事件でレーニン少年は反帝主義となり、カール・マルクスの社会主義の理想に没頭した。すぐに学生運動で逮捕されて、カザン大学を退学となる。

 三年後、法律学の論文でサンクトペテルブルク大学に入学。たった一年で卒業となり、第一法学士の称号を与えられる。弁護士補として働いたが、すぐに辞めてしまう。

 二十五歳で「労働者階級解放闘争同盟」を結成するが、まもなく逮捕、投獄、流刑となる。

 一九〇〇年、三十歳でスイスに亡命した。レーニンらは六人で政治新聞「イスクラ」を発行した。

 一九〇二年には「何を為すべきか」でレーニンはこう書いている。

「労働者階級は、労働組合で団結し、雇い主と闘争を行い、必要な法律を政府に公布させるといった意識しかない。社会民主主義的な意識は職業革命家の仕事である」

 一九〇三年に「イスクラ」が主催するロシア社会民主労働党の第二回大会が、ブリュッセルとロンドンで開かれた。レーニンが再建したこの党は、まもなく分裂した。レーニンが主張する「党員は必ず組織に加わって活動すること」のボリシェヴィキ(多数派)と、マルトフが主張する「党員は自由参加」のメンシェビキ(少数派)であった。

 レーニンは、労働者と農民が資本家抜きで遂行する市民革命を構想した。


 明石は一九〇四年のスイスで、三十四歳の指導者レーニンに会って、

「日本はロシアの社会主義運動に資金提供いたします」

 と申し出た。レーニンは、経歴、実力ともに申し分のない人物だった。

 しかし、レーニンは拒否した。

「祖国は裏切れません」

 革命を唱える熱血思想家としては、実に素直な態度である。

「タタールのあなたが、支配者のロマノフを倒すのに、日本の金を使っても裏切りにはなりません。労働者と農民を救うのですから、むしろ良い事なのです」

 明石とその仲間は黙って、四つの鞄に十四・五キロずつ入れたインペリアル金貨で合計五万ルーブル(約五万円、現二十億円)を、机の横に置いて部屋を出る。

 最後に「ご活躍を期待しています」と付け加えた。


 次に明石は、スウェーデンの対岸のフィンランドに潜入した。このフィンランドおよびポーランドやウクライナは、ロシアの属領である。明石は、各地で独立運動が起これば、ロシアは日本戦に兵力を集中出来ないだろうと考えた。

 何のツテも無い明石は、フィンランドで反露組織の長老カストレンを訪問した。そこでは無名の外国人だと馬鹿にされ、門前払いされたのだが、フィンランド各地でひた向きに反露を説く日本人の真面目な姿は、地下組織「フィンランド革命党」の党首コンニ・シリヤスクの心を打った。


 シリヤスクは、かつてスイスに留学し、モスクワで法律を学び、雑誌の特派員としてアメリカに渡った。帰国後に各地方でばらばらな独立運動を結び合わせようと苦心する。この動きはロシアから御尋ね者として狙われて、今は地下組織のリーダーになっている。

 秘密会談で明石は、

「日本はフィンランド独立運動のために資金提供いたします。ただし、日露戦争終結までに、何かしらの行動を起こしていただきたい」

 無警戒ではあるが、腹を割って正直に依頼した。

「行動とは具体的には?」

「デモ、ストライキ、サボタージュ、武装蜂起です。武装蜂起は死者が多く出るので、我々は強制しません」

 四十代後半の武闘派シリヤスクには「物足りない」といった表情だ。

「するとロシアは、極東と北ヨーロッパに兵力が二分されるな。フィンランドとしても敵兵力が半分になるのは悪くない。で、いくら出す?」

 ロシア支配からの独立、つまり建国資金と考えれば、小銭では納得しないだろう。

「私の権限で五万ルーブル(約五万円、現二十億円)用意させます。金集めに二、三日待って下さい」

「決まった。日露戦争中に行動を起こす」

 二人は合意の握手をした。

 実はお金は用意してある。明石が支払いを延ばしたのは、シリヤスクの行動を観察したかったからだ。もし飲み屋で「いい金蔓が出来た」などと言いふらすなら、フィンランド独立は失敗するだろう。そんな人間に信用は集まらない。お金も提供しないつもりだ。

 この三日間で、勢いある活動を見届けた明石は心配無用と、インペリアル金貨で五万ルーブル(五十八キロ)を仲間と共に運んだ。


 六月十七日に戦闘員のオイゲン・シャウマンが、ヘルシンキ市内でフィンランド総督のボブリコフに、銃弾三発を浴びせて暗殺した。

 かつてボブリコフは、フィンランドの自治権を完全剥奪してロシア法を適用した。さらにフィンランド語を禁止して、ロシア語教育とロシア語使用を強制した総督だ。だから民衆から憎悪敵視されていた。


 第三に明石は、ロシア国内の協力者を通じて「社会革命党」略してエスエルの幹部、エヴノ・アゼフに資金提供した。ユダヤ人のアゼフは、革命派とロシア警察の二重スパイであった。

 そんな泥臭いハイエナ親分のアゼフは、必ずロシアを混乱させるに違いない。

 明石からの四万ルーブル(約四万円、現十六億円)を使ってアゼフは、「社会革命党戦闘団」を立ち上げた。党首は三十六歳のアゼフであり、戦闘指揮官にボリス・サヴィンコフを置いた。


 七月二十八日、団員のエゴール・サゾーノフが、サンクトペテルブルクで馬車に乗ったプレーヴェ内務大臣に、爆弾を投げて暗殺した。

 プレーヴェ内相は、強硬に対日戦争を推進した人物で、反ユダヤ主義者だ。彼の圧政でポグロム(ユダヤ人虐殺)が誘発させたので、ユダヤ人らの恨みを買ったのであろう。

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