2の5 神算二〇三高地
十二月一日、児玉は旅順の柳樹房駅近くの第三軍乃木司令部へ到着した。田中少佐と衛兵二〇名がお供した。
「児玉だが、乃木司令官はいるか?」
室内の参謀連中は死んだように活気が無く、やつれていて返事もない。やっと一人が面倒臭そうに顔を向けて対応した。
「土城子へ前線視察に行っております」
「馬鹿もん!」
児玉はついに雷を落とした。全員が仁王立ちして、こちらを敵視する。
「お前ら参謀が前線を見ずして作戦が立てられるか。お前らの机上の作戦で、いったい何人死んだと思っているのだ」
乃木がたった一人で、苦戦している様子が目に浮かぶ。
「お言葉ですが、児玉総参謀長殿、もう銃弾がありません。大砲の弾は有りますが、敵兵には効果ありません。これでどうやって戦えというのですか?」
足を引きずりながら、伊地知幸介参謀長が反論した。死神に取り付かれたような鋭い眼である。神経がすり減っていて判断能力も怪しい感じだ。
「銃弾がないからといって、兵を無駄に突撃させて死なせて良いという理由にはならん。参謀全員、最前線に行って来い」
児玉は、熱く叱って立ち去った。
それからしばらく、前線に向かって五キロ馬で進んだ。土城子の陣地で乃木と出逢えた。
「よう、乃木よ。よく戦っているな。二人で積もる話がしたい」
「ようこそ児玉さん、中へ入ってくれ」
陣地の狭い一室で二人きりとなった。乃木は、まるで重病人のように元気が無かった。
児玉が挨拶などを切り出すも、乃木は思い詰めた様子で、
「児玉さん、わしを首にしてくれ、頼む」
突然、涙を流し、号泣へと変わった。
責任感の強い乃木が、親友児玉の前でのみ出した本音である。部下の兵士を数万人も死なせてしまい、平気な人間などいない。痛いほど気持ちは解かる。
「だめだ、ここは踏み止まれ乃木よ。知っているか。満洲の敵将クロパトキンは、猛将の乃木を恐れている。旅順を落として遼陽へ来い。そこで一緒に戦うのだ」
乃木は私欲を捨てて愚鈍と言われても、ひたすらに任務を果たす男である。それはそれで立派である。
「しかし、もう作戦がないのだ。塹壕掘りと突撃戦法では、さらに多くの兵を死なせてしまう」
あの参謀連中じゃあ、次もそうなるだろうと思う。児玉は大山さんの指令書を、だまって乃木に見せた。『予は児玉を差し遣わす。児玉の言う事は予の言う処と心得るべし。満洲軍総司令官大山巌元帥』
「乃木よ。お前の作戦参謀は、この児玉が引き受けた。一時的に全指揮権を行使するが、あくまで第三軍司令官は乃木だ。わしに協力してくれ」
道が開けたのだろう。乃木の顔が明るくなり、死神が消えたようだ。信頼出来る二人は以心伝心にて理解し合えた。
「頼みます、児玉さん。では戦場を案内します。行きましょう」
二人は衛兵をつれて前線を視察した。
第三軍司令部で、児玉と乃木は並び立ち、児玉が作戦を述べた。
「大山総司令官の命令で、わしが第三軍をしばし預かることになった。わしが作戦を指揮するので、将兵と参謀はすぐに実行せよ。
一つ、負傷者収容の為、一時的にロシアと停戦する。
二つ、二十四時間以内に、重砲を高崎山へ移動せよ。
三つ、二〇三高地に対し、重砲を十五分に一発、他の砲も昼夜連続で砲撃せよ。
四つ、二〇三高地へ突入して占領せよ。その間も支援砲撃は続行する。
五つ、占領後すぐに観測隊を送り込み、敵戦艦を山越え砲撃せよ。
六つ、敵の物資集積地を山越え砲撃せよ。
これでロシアに勝つ。質問はあるか?」
ところが参謀連中はそろって反論した。
「山中での重砲陣地変換など無理です」
移動も砲床工事も、それぞれ時間がかかる。通常なら地面を深く掘り、鉄筋鉄骨を組んで、台座をコンクリートで固めるからだ。理解は出来るが、今は戦時だ、遅ければ負ける。
「それでもやれ、命令である」
児玉は一喝した。
「総参謀長殿に第三軍指揮権はありません」
これを乃木が、さえぎって言った。
「大山総司令官の命令書もある。この乃木も従う。集中攻撃は必要であるから、全力で実行せよ」
これでもまだ納得のいかない砲兵中佐が反論する。
「砲撃中に突入すると、味方を撃ってしまいます。陛下の赤子を陛下の砲では撃てません」
児玉は、ぐっと怒りをこらえ、導くように諭す。
「その陛下の赤子を、無為無策によって今まで死なせてきたのは何処の誰だ。従来の攻撃を続けていても、いたずらに死者を増やすだけだ。わしの同時攻撃は味方を撃つかもしれないが、従来の攻撃より、はるかに死者は少ないだろう。戦場で地面を這っている味方を、お前らは何もせずに見殺しに出来るのか。支援砲撃は必要なのだ」
児玉は、不退転の決意で命じているのだ。次はない。
しぶしぶ同意の人間もいたが、児玉の作戦でやることになった。
ロシア軍との協議で負傷者収容の停戦は十二月二日から四日と決まった。その間に二十八センチ榴弾砲四門、十二センチ榴弾砲一五門、九センチ臼砲一二門の移動も終えた。負傷者収容時には、まだ使える敵味方の銃を回収し、じゃまな鉄条網を切る小細工もした。
五日の早朝、攻撃再開命令で二〇三高地の敵砲台に対して破壊射撃を実施した。日本の大砲三一門による一斉攻撃である。
そして砲弾の飛び交う中、午前九時十五分に日本軍歩兵が突入した。
「いざ、かかれーっ!」
先頭は第十三旅団の吉田清一郎少将と第十四旅団の斉藤七郎少将であった。
ロシア軍の小銃や機関砲は撃ち下ろしで有利。日本兵はバタバタと倒された。下からの射撃では弾も届かない。
斉藤少将は敵の打ち方が弱くなると「走れ」と命令した。一団は「うわーっ」と突撃して間合いを詰める。
無数の鉄条網は、予め小隊ごとに用意した大型ペンチで切って進む。味方の屍を乗り越え、地面を這って、あるいは走って山頂を目指した。
日本軍の大砲も絶妙の間合いで撃ち込まれて、味方を援護した。
しかし、当然味方の中にも砲弾は落ちて来る。それでも前進して、白兵戦を行った。
伏せていた斉藤少将の十数メートル前でも砲弾が炸裂し、とっさに耳を塞いだが、大音響は心臓にも響いた。冷や汗がびっしょりで頭が痺れる。
「頼むぞ。味方に当てるなよ」と神仏に祈った。
左翼では、第十三旅団の吉田少将が一番乗りを狙っている様子だ。しかし随分と数を減らしている。無理をしたのだろう。
斉藤少将も振り返って見下ろすと、第十四旅団も大分少なくなっていた。
「もう少しだ。頑張れ、我に続け」
常に指揮官は兵を鼓舞しなければならない。それには先頭に立つことだ。
「それっ」
手榴弾を敵塹壕に投げ入れる。一瞬後に爆発すると、駆け上って敵陣地の一角を占拠した。頂上まではもう少し。味方も次々と上がってくる。銃に弾を込めた。着剣して進む。
そしてついに二〇三高地の頂上に達し、日の丸を掲げた。吉田少将も合流する。
午後一時には丘全体を完全制圧して、日本軍の旗が無数に立ち上がった。
「バンザーイ、バンザーイ」
わずか四時間の死闘であった。隣の老虎溝山も占領して、二〇三高地戦は終了した。
旅順港の敵艦隊に対し、二十三センチ榴弾砲を撃ち掛け、五日に戦艦ポルタワ、六日に戦艦レトウイザン及びペレスウェート、七日に戦艦ポベータ、八日に巡洋艦バヤーン及びパルラーダを撃沈させた。
港外に逃げた戦艦セワストポリは、日本の連合艦隊が追撃して仕留めた。
旅順の新市街と旧市街の物資も蹴散らして、戦局は決まった。
十二月十日、児玉は後始末を乃木に任せて満洲へと帰った。
数ヶ月も落ちなかった二〇三高地を、たった四時間で奪った児玉の作戦能力を人はこう呼んだ。「神算」であると。
第三軍乃木司令官は、十八日に東鶏冠山北堡塁の胸壁を二トンの爆薬で崩して攻撃し、占領した。二十八日には二龍山堡塁も三トンの爆薬で破って占領。三十一日には松樹山堡塁も同じに陥落させた。他の敵陣地にも怒濤の勢いで攻撃を続けていた。
明治三十八年(一九〇五)一月一日の午後四時半、ついに旅順要塞のロシア軍は降伏した。旅順での勝利は、将兵はもちろん日本国民の悲願であった。旅順戦に日本軍は総勢一三万人を投入し、死傷者六万人もの大被害を出した。
一月五日、水師営にて、第三軍司令官の乃木希典大将とロシア関東軍司令官のアナトーリイ・ステッセル中将の会見が開かれた。乃木は武士道精神に則り、敗軍の将にも帯剣を許して礼儀正しく接した。
旅順陥落の知らせに、さぞロシア皇帝ニコライ二世は激怒しただろう。児玉も聞いている。異常な癇癪持ちであることを。




