第三章 - 犬猿の発展(C-7)
ちいさな頃にウィンブルドンの映像を見て、こんなに素敵なスポーツがあるのだと知った。
父にせがんで子ども用のラケットを購入してもらい、ボールを打ち始めたのは小学生の頃。
自宅の近所で元プロが教えるテニススクールがあって、一度そこに連れて行ってもらったことはあるけれど、結局はじめの1回で馴染めず辞めてしまった経緯がある。
後から知ったことだけれど、そこでテニスを続けていれば、あたしは鬼頭真澄や真尋と同門だったらしい。
ともあれ、父は周りに気を配らずテニスにのみ向き合うあたしに、テニスのトレーナーを数人つけてくれた。
小学生のころはトレーナー相手に何度も何度も練習を重ねて、中学生に進学してから初めて部活に所属した。
中学の頃は、強いことが正義。
強いからなにを言っても許される。強いから、正しい。
だから、あたしにとって、試合は強さを証明する手段でしかなかった。
けれど――今は、それだけじゃない。
さまざまな決意を背負って、この地に立っている。
こんな感情ははじめてだ。
試合が楽しみであると同時に――試合が怖いなんて。
「――なんか小難しいこと考えてるっぽいけど、お前、寝坊寸前だったんだからな?」
「……はぁ、うるさいわね。そのことはきちんと謝ったでしょう」
過去に思いを馳せていると、隣から軽口をたたかれた。
あたしは溜息をついて、発信源である申渡をたしなめる。
「これから開会式が始まるのよ。そんなに気の抜けた様子で大丈夫なの?」
「そういうお前は靴紐ほどけてるぞ」
「……………………」
「顔赤くなってんぞ。ていうか、マジでアラーム5つもかけるやつがあるかよ。朝うるさすぎて軽く騒音さわぎだったわ。お前って意外とそういうとこあるんだな」
軽口を叩いていた申渡が、あたしの顔を見てにっこりと笑う。そして。
「緊張、マシになったじゃねえか。今日はがんばろうぜ」
と、そんなことを口にしながらハイタッチのポーズを取ってきた。
あたしはそれをスルーして、周囲に視線を向ける。
「それにしても……本当に多いわね。参加者だけで七二〇人。スタッフやトレーナー、顧問なんかの関係者を含めれば一〇〇〇近い人間がひとところに集まっているわけだから当然かしら」
「おいスルーすんな。俺の手にバイ菌でもついてるみたいじゃねえか」
虚無とハイタッチしたままの申渡が苦々しげにこちらを見てくる。知らない。
あたしから好意的な反応がなかったことで諦めたのか、申渡も周囲をぐるりと見回して。
「この中に真澄や、真尋さんがいるんだよな」
「……そうね」
解けかかった心に、ふたたび緊張の糸がぎゅっと巻きつく。
真尋や、鬼頭真澄だけじゃない。この大会はアマチュア専門、18歳以下の選手が集まるステージだ。これまで別の舞台で鎬を削った強敵たちの姿があってもおかしくはないし、未だ知らない強敵が待ち構えている可能性だってある。
締め潰されそうな胸を、本能的に手で押さえる。どくどくと鼓動が高鳴っていた。
自分のメンタルの弱さが嫌になる。どうしよう、昨晩すべて解放したはずなのに。
もう日は登っていて、気温は充分暖かい。なのに、指先だけがひどく冷たかった。
しかし、残酷に時は過ぎていく。
「おっ、始まるっぽいな。開会式」
視線を上げた先に居たのは、スーツ姿の、巌のような風格を纏った初老の男性。スタンドマイクの位置を調整して、雷のような大声をあげた。
『よくぞこの地に集まってくれたッ! 若きテニスプレーヤーたちよッ! ワシは高天原グループの代表取締役を務めている、高天原未知王であるッ!』
脳髄まで響くような大音声が頭を揺らす。見れば、早くもウトウトしかけていた周囲の選手数名が跳ねるように飛び起きていた。
『ワシはテニスというスポーツが好きだッ! ボールが一度手を離れれば、どちらかが力尽きるまで攻防を繰り返すッ! その姿は芸術的にして流麗ッ! 絶え間なく交わされるラリーはプレーヤーはおろか、ギャラリーにすら息をもつかせず、手に汗を握らせるッ!』
「熊みたいな見た目で案外いいこと言うわね、あのおっさん」
「おっさんって……おい狗上、あの人めちゃくちゃ偉い人なんだぞ」
「そうみたいね。あたしは今日はじめて知ったけど」
「お前ほんとに自分の興味が向かない人間にはクソ失礼だよな……」
「あら、続きがあるみたいね」
『――ワシはとりわけダブルスが好きだッ! シングルスは個々の力のぶつかり合い、しかしダブルスは2対2のチームプレーであるッ! つまり、ふたりで強いほうが強いのだッ! 互いの欠点を互いの長所で補い合い、目の前の1点を獲りに行くッ! その姿のなんと尊いことだろうかッ!』
ふたりで強いほうが強い。
なんだろう……今までは『なにそれ、意味がわからないわ』だなんて言って、ただの戯言だと一笑に付していた言葉だろうけれど。
あたしの隣には申渡がいる。
その事実を、改めて噛み締める。
『ダブルスは絆の競技であるッ! 個々が磨き上げた技量を絡ませ合うことで、新たな力を創造するッ! 互いのペアが力をぶつけ合うことで、そこに血湧き肉躍る戦いが生まれるッ!』
思わず手がぶるっと震えた。あたしの力はダブルスで通用するのだろうか。
『そしてワシは――若き力に期待しているッ! これからのテニス界を盛り上げる青少年たちの明るく輝く力にッ! そんな場を設けたいという思いから今回の大会を創るに至ったッ!』
そして、ひときわよく通る声で。
『ワシは見たいのだ――少年少女が手を取り合う、性別の垣根を超えた、熱い結束をッ!』
そこで初老の男性……高天原未知王会長はマイクから離れ、一礼。
会場からは大きな拍手が沸き起こった。




