一行の向こう側
桐子は小説が好きだった。
読むとき、彼女は物語の中に沈み込み、登場人物の呼吸や心音さえ感じ取るような気持ちになる。
ページをめくるたび、「これは誰かが、自分の心の奥を差し出すように書いたのだ」と思うと、胸の奥が温かくもざわめいた。
けれど、書くことは怖かった。
「書く」という行為は、自分という存在を、誰かの目の前に裸で差し出すようなものだから。
読む側は安全地帯、けれど書く側は常に矢面。
その一歩が踏み出せず、桐子はノートを何冊も白紙のまま積み上げていた。
ある夜、ふと哲学書の一節が目にとまった。
「世界は観測されて初めて存在する。
ならば、あなたの内側の世界は、誰が観測してくれるのか。」
桐子は、胸の奥で何かが静かに弾けた。
「私の世界は、私以外の誰かに見られて初めて、世界になるのかもしれない」
そう思うと、書かずにはいられなくなった。
翌日、机に向かい、小説を書き始めた。
物語は、日常の隙間に見える光や、声にならない感情の揺れを、ただ正直に並べただけのもの。
書き終えたあと、震える指で投稿ボタンを押した。
数日後、「読んだよ」という短いコメントが届く。
名前も顔も知らない誰かが、自分の中の世界を覗き込み、そこに足跡を残していったのだ。
桐子は思う。
——たった一行でも、誰かの中に存在し続けるなら、その一行はもう、私だけのものじゃない。
そして、世界はほんの少し広がるのだ。