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第七話「寄ること、離れること」

 土曜日の午後、椎は囲碁教室にいた。

 小学生の生徒たちはそれぞれのペアで対局中だったが、あまり集中している様子はない。おしゃべりをしながら、笑いながら、時折ふざけた手を打つ。


 椎はその様子を見ていた。

 注意しようか迷ったが、すぐには言わなかった。今日は、観察を優先しようと決めていたから。


「先生、これ、強い手?」


 声をかけてきたのは、椎が少し苦手なタイプの子――夏海だった。勝ち負けに敏感で、思ったことをすぐ口にする。椎の説明に対しても「それ、よくわかんない」と平然と言う。


 「どれのこと?」と椎が返すと、彼女は自分の打った白石を指差した。


 「ここ。私、今これ打ったの。これって、相手にとって嫌かな?」


 その質問に、椎は一瞬戸惑った。「強い手かどうか」ではなく、「相手にとって嫌かどうか」。それは、椎が普段意識しない観点だった。


 碁は、基本的には自分の陣地を広げるゲームだ。でも、その裏で、相手がどう感じるか、どこを怖がるか、どこで動揺するか――感情の読み合いも確かに存在する。


 「……どうして、その手を選んだの?」


 椎がそう訊ね返すと、夏海はあっさり言った。


 「なんか、ここに打ったら、相手が“うっ”ってなるかなって思って」


 その正直さに、椎は驚いた。


 “うっ”とする手。つまり、理屈じゃない。でも、確かにある。思わず「嫌だな」と思わせる手。バランスを崩させる手。


 そういう手を、椎もこれまで何度も打ってきた。けれど、それを「相手の感情」に結びつけて考えたことは、ほとんどなかった。


 「それ、大事かもね」


 椎は少しゆっくりした口調で答えた。


 「嫌がるかもって思って打つのって、相手をちゃんと見てるってことだと思う。強い手かどうかっていうより、相手にとって“不安になる場所”を見つけられるのって、すごいことだよ」


 「へぇー。なんか、先生がそう言うと変な感じ」


 「なんで?」


 「先生って、“感情”とか気にしなさそうだから」


 その言葉に、椎は少しだけ笑った。


 たしかに、そう見えるかもしれない。

 でも、本当はずっと、感情のスピードに追いつけずにきただけだった。目の前の動きには反応できても、それが「気持ち」から来ているものだと気づくのが遅い。感情はいつも、少し遅れて届く。


 「でも、先生も最近はちょっと気にしてるんだ」


 「へー、なんか意外」


 そう言って、夏海はまた自分の席に戻っていった。何もなかったように、友達と笑い合いながら盤面に向かう。


 椎はその後ろ姿を眺めながら、自分の変化を静かに受け止めていた。


***


 帰り道、椎は風の匂いに気づいた。少し湿った空気、夏の夕方の気配。

 昔はこういう匂いを感じても、ただ「匂い」としか思っていなかった。でも今は、「何か懐かしい」「どこかで似た感覚があった」と思えるようになった。


 感覚の粒が、少しずつ輪郭を持ち始めている。

 それが何を意味するのかは、まだ言葉にはできない。けれど、前よりも確かに、自分の中の“動き”に敏感になっている。


 歩いていると、すれ違う人の表情に目が行く。以前はただ、視界の一部としてしか捉えていなかった。今は、そこに“何か”を感じようとしている自分がいる。


 それは、近づきすぎれば疲れてしまうかもしれないし、離れすぎれば空っぽになる。

 でも、「寄ること」と「離れること」のあいだで、自分の立ち位置を見つけられる気がする。


 誰かに寄っていくこと。

 感情に気づくこと。

 どれもまだ不器用で、ぎこちない。


 でも、それでも、

 「わからないまま見ていたもの」が、

 少しずつ「理解しようとするもの」へと変わってきている。


 それだけで、たぶん十分なのだと思う。

 焦らなくていい。判断は鈍くても、感覚は消えない。

 遅れて届くなら、それを迎えに行けばいいだけ。


 椎は立ち止まり、夕焼けを見た。

 沈んでいく太陽の輪郭が、街のビルの端をなぞるようにして空を染めている。


 ――今日の囲碁、面白かったな。


 言葉にしてみて、自分でも驚いた。

 それは分析でも記録でもなく、ただの「感じたこと」だった。

 でも、それがとても静かで、やさしい余韻になった。


 椎は少しだけ歩幅を広げて、家へ向かった。

 風が頬に触れていくのを感じながら。

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