第六話「言葉になる前のもの」
久しぶりに、図書館の窓際の席が空いていた。
椎はそこに座って、何も開かず、しばらくじっとしていた。目の前に積んだ本は、読むかもしれないし、読まないかもしれない。読む理由もないが、読まない理由もない。そういうとき、椎は「まず座る」ことから始める。身体を置いて、しばらくその空間に身を馴染ませる。
窓の外、キャンパスの木々の葉が揺れている。風は穏やかだ。けれど、時折、葉の塊が一気に揺れ、ひとつの塊がばらけるように動く。そのたび、椎は自分の中にも、似たような波を感じた。
今日は、囲碁の自主練もしていない。碁盤アプリも開かず、朝はただ紅茶を淹れて、ノートを数ページ書いて、昼前にここへ来た。やる気がなかったわけではない。けれど、どこか「間」が必要だった。頭で思うことと、身体の動きの間に、小さな遅延がある。それを無視して詰め込んでいくと、ある日突然、判断がまったくできなくなる。
以前、そうなった。たしか、バイト先の囲碁教室で。小学生の生徒の打った手が理解できず、「どうしてその手を選んだの?」と訊かれて言葉に詰まった。普段なら理屈を添えて説明できるのに、その日は、自分でも打った理由がわからなかった。ただ打った。打ちたかったから。それだけ。
「……感情で打ったってこと?」
生徒の言葉に、椎は何も言えなかった。
そうかもしれない。でも、それを認めたくなかった。
感情で動く、ということを、どこかで「いい加減なこと」のように思っていた。自分にはないもの、できないこと。
けれど、その「できなさ」が、今の思考や判断の遅れにも関係しているのではないか――そう、最近は考えている。
窓の外から視線を戻し、椎は手元の一冊に目を落とす。昨日借りた本だ。エッセイ集。特に目当てはなかったが、タイトルに惹かれて手に取った。
開いたページに、こう書かれていた。
「“怒っている”と気づく前に、体はすでに怒っている。言葉で追いつくより早く、反応している。感情は時に、言語より速く、正確だ」
椎はゆっくりとページをめくりながら、自分が普段どれほど「言語の方に合わせて」感覚を切り取ってきたかを思い返した。
身体が先に動いたとき、それはミスとして処理される。心がざわついたとき、それを「気のせい」として処理してきた。
でも、本当は、心のざわつきのほうが早かった。
そのことを、椎はようやく最近になって受け入れつつある。
言葉にできない感覚を、言葉にする。それは、翻訳というよりも、立ち止まる行為に近い。
意味を与えるためではなく、自分が何を持っているのかを見つけ直すために、椎はノートを使う。
その夜、帰宅後、椎はノートを開いて書いた。
今日、図書館で風を見た。
窓の向こうの風は、葉を撫でるように動いていて、
私の中の、止まっていた感覚が少しずつ動いた気がした。
わたしは“感じた”ことが遅れて届く。
でも、遅れて届くことが悪いとは限らない。
それが、わたしの時間の速さなんだと思う。
書きながら、椎は気づく。
これは、感情ではない。けれど、感情に近いものだ。もっと柔らかくて、もっと形を持たない「兆し」みたいなもの。
そして、それが「何だったか」は、今はまだわからない。
けれど、この「わからなさ」をそのまま書き留めておくことに、意味があるのだと、今日初めて思えた。
感情で動くことは、きっとこれからも難しい。
でも、自分の中に“何かが動いた”という事実を、言葉で縫い留めておくことなら、できる。できるようになってきた。
それは、ひとつの感情理解の練習だった。
遅れて届くなら、届いたあとで拾えばいい。
感じる速度は、自分のものでいい。
椎はノートを閉じて、湯を沸かしに立った。
明日は、囲碁教室がある。子どもたちの感情のスピードに、すぐには追いつけないかもしれない。でも、それでも、観察しようと思った。
感情のある他者が世界にいるという事実を、
自分の身体の感覚として、知っていきたいと思った。