第五話「理解しないままに寄る」
サークルの飲み会に行くことを、椎は「必要な刺激」として捉えていた。
囲碁サークルは真面目な集まりだが、年に数回は懇親の名目で食事会が開かれる。普段は出席しないが、今回は意識的に選んだ。
人と話すことで言語処理に変化が生じる。音の速度、文脈の流れ、非言語の反応。日常生活の中で最も複雑で、同時処理の必要な訓練場だ。
その合理性を持って、椎は出席を決めた。
会場は大学近くの居酒屋。掘りごたつ式の座敷に、すでに10人ほどの部員が集まっていた。ざわめき、笑い声、料理の匂い。音と熱が混ざった空間に入った瞬間、椎の身体はわずかに硬直する。
こういうとき、思考が先に働いてしまう。
どの席が空いているか、どこなら会話に巻き込まれずに済むか、入り口からの導線、座る角度、視線の交差……一瞬で分析が始まり、判断が遅れる。
結果、気づいた橘先輩が手を振って声をかけてくれる。
「椎ちゃん、来ると思わなかった~! こっちおいで!」
気さくで明るい女性。椎とは囲碁の戦型も性格も正反対。だが、なぜか距離感を詰めてくる人だった。
その呼びかけに、躊躇なく応じることはできなかったが、断る理由もなく、椎は促されるまま席に着いた。
「なんかさ、最近ちょっと雰囲気変わったよね? 柔らかくなったっていうか」
乾杯の後、隣に座った橘先輩が言った。
「そう?」
「うん。なんか、前より話しやすい感じがする。話してると、伝わってるなって感じるようになったっていうか」
椎は返事に迷った。変わったのは自分の中の処理の仕方であって、「話しやすさ」という感覚的なものではないはずだ。でもそれを否定しても、意味がない。
だから、「そう見えるなら、よかった」とだけ返す。
周囲では、唐揚げがどうとか、最近の研究の愚痴だとか、映画の話だとか、感情の混じった言葉が飛び交っていた。意味はわかる。話の筋も追える。でも、感情の熱量には反応できない。
たとえば、「うわ、マジで最悪だったんだけど!」という言葉。意味は「とても嫌なことがあった」だが、そこに込められた本気度、怒り、諦め、愉快さ――そういう混合物を、椎はいつも表面だけで受け止める。
それで話が理解できないわけじゃない。でも、深くは届かない。
「……感情で話すって、どういう感じなんだろうね」
ぽつりと椎が言うと、橘先輩は意外そうに目を見開いた。
「え?」
「論理じゃなくて、感情で判断して、行動すること。そういうの、私はよくわからないんだよ」
「あー……うーん、でもさ、わかんないなりに、こうやって来てくれたのは、感情が動いたからなんじゃないの?」
「違うよ。これは、脳への刺激のため」
即答だった。
橘先輩は笑った。「椎ちゃん、やっぱ変わってないわ~。でも、好きだよ、そういうとこ」
その「好き」という言葉も、椎には少し理解が難しかった。
相手の性質を把握し、好意を持つ。それは理解できる。でも「好きだから一緒にいたい」と思う感情の方は、まだ自分の中にない。
なのに、どうしてかその言葉に反発を覚えなかった。以前なら「何を根拠に?」と詰めていたかもしれない。
今は、少しだけ受け取れるようになっていた。
その理由は、自分でもわからなかった。
――理解しなくても、寄れる瞬間がある。
そう思った。
飲み会の終わり、帰り道が同じ方向だった橘先輩と並んで歩く。夜風が冷たくて、ふと足を止めたとき、橘が言った。
「椎ちゃんってさ、感情で動けないの、寂しくないの?」
「寂しい、かどうかが、わからない」
「そっか。……でも、言葉にしようとしてるの、すごいと思うよ」
「それしかできないから」
「それで、いいじゃん。無理に“わかろう”としないで。ちゃんと隣にいるだけで、十分伝わることもあるし」
椎は黙ってうなずいた。
わからないものを、わからないままにしておく。それでも人は、隣にいてくれることがある。
この夜、椎は一言も「楽しかった」とは言わなかった。でも、頭の中に残ったのは、数行の記録ではなく、風と声と間合いの記憶だった。