第四話「頭とからだのあいだ」
囲碁サークルの部室に、椎は三週間ぶりに足を運んだ。
部室にはすでに数人が集まり、碁盤の周りに自然と輪ができている。耳に入るのは石の打ち音、低く交わされる声、少しの笑い。変わらない空気だった。けれど、椎は戸口で一瞬、足を止めた。
入りたくないわけではなかった。ただ、身体がわずかに遅れている。その理由を言語化するには時間が必要だった。
「椎先輩、久しぶりです」
気づいた一人が、笑顔で手を振ってくれた。白川だった。前に短く話した後輩。相変わらず気配りの行き届いた声のトーンで、椎は小さく頷き、静かに空いている席に腰を下ろした。
囲碁の局面はすでに中盤。他の部員たちが打っていた対局を、椎は横から観察した。白石が、中央でやや薄くなっている。ふと、「このあと右辺から攻められるな」と思ったが、それは声に出さなかった。
頭の中では、瞬時にいくつもの読みが立ち上がっていた。けれど、それを言葉にするには、どこか身体が重かった。
思考が、実行に結びつかない。
昔は違った。小学生の頃から囲碁を打ってきた椎にとって、頭で読んだ手は、すぐに指先に伝わっていた。むしろ、考える前に手が動く感覚に近かった。
今はどうだ。頭では読み切れているのに、打とうとした手が途中で止まる。腕が、指が、一瞬戸惑う。
「感覚が遅れてる」
そう呟いたのは、頭の内側。周囲には聞こえない。
白川が対局を終えたあと、椎に話しかけてきた。
「もしよかったら、僕と一局、打ってもらえませんか?」
「……いいよ」
その返事にも、少し時間がかかっていた。白川は特に気にしていない様子だったが、椎の中では、小さな違和感が静かに積もっていく。
碁盤が整えられ、白川が黒を持った。椎は白。布石が進むにつれ、読みは冴えているのに、どうも着手が遅れる。読みと手のタイミングが噛み合っていない。
左上で激しい接触が起きたとき、椎は自分の指がわずかに震えているのを見た。
――これは、ただの緊張じゃない。
判断が先にあって、身体がついてこない。今までは逆だった。身体が自然に動き、後から思考が追いつくような流れがあった。でも今は、理屈が先に来て、実行が遅れている。
たとえば、「この手が最善だ」と頭で理解しても、その手を打つ動作には、微かなブレーキがかかっていた。
もどかしい。けれど、それは「イライラする」ではなく、「記録すべき現象」だった。
局面は進み、終盤に差しかかる。椎は、中央にある白石の連絡を図るために一手を打った。悪くない。悪くないが、遅い。
白川の手が早くなっていた。彼は楽しんでいる。明らかに、思考と感情が一致している。その動きに、椎の身体は引きずられるように遅れている。
――なぜ追いつけない?
答えは簡単だった。生活の積み重ねが、反応の差になって表れている。運動、栄養、睡眠、刺激。それらすべてが少しずつズレを生み、いまのような小さな誤差になっていた。
終局。椎の負けだった。
白川は恐縮したように言った。
「すみません、なんか、ちょっと調子よかったみたいで……」
「ううん、こっちが動き鈍かったから」
そう言葉にしたとき、自分の口調に、少しだけ「悔しさ」が混じっているのに気づいた。
驚いた。
感情を自覚できることが少ない椎にとって、それは稀な瞬間だった。
「悔しい」とは言えなかった。けれど、「感情が言葉に近づいてきている」という感覚は、たしかにあった。
帰宅途中、椎はコンビニで弁当と野菜ジュースを買った。以前なら、冷凍パスタで済ませていたかもしれない。
帰ってから、机の上にノートを開いた。
【本日の記録】
・運動:体育館でストレッチ20分、軽く走る
・囲碁:白川戦、負け。原因=判断は正確、実行が遅い
・感覚:指の震えあり。身体の反応遅延。敗北に対し、「悔しい」に近い感情の気配を確認
→ 頭の中で理解していることと、身体の反応が一致しないとき、「行動に結びつける意志」が曖昧になる。
→ だから、身体を整えること。日々の生活を、頭がなくても動けるようにしておくこと。
椎はペンを置いた。静かな部屋に、エアコンの風音だけが流れていた。
すぐには変わらない。それも知っている。感情を理解できるようにはならない。けれど、今日、自分の中に「ずれ」があることを正確に言葉にできた。
そのことだけで、少し安心していた。