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第三話「歩幅のずれ」

 雨上がりの午後、椎は大学の体育施設に向かった。囲碁サークルでも研究会でもない、あくまで個人的な目的のためだった。


 ――週三回、30分以上の軽い運動。身体の感覚を取り戻すために。


 屋内ランニングコースの端、ストレッチエリアの隅にタオルを敷いて座る。学生たちが走ったり、バドミントンをしたりしている声が響く中、椎はゆっくりと背筋を伸ばし、両手を床に向かって伸ばした。


 身体がきしむ。痛みはない。ただ、動かしていなかった場所が鈍く反応しているのがわかる。


 「身体が反応しない」とは、こういうことか――と椎は思った。


 普段、頭で考えたことが、そのまま体に伝わるとは限らない。ストレッチをしながら、今までに何度も経験した「理屈はあるのに動けない」自分の状態を思い返す。


 たとえば、囲碁の読み。あるいは、誰かの言葉を理解する速度。あるいは、朝起きて顔を洗おうと思っても、手が動かないこと。


 身体が後からついてくるタイプだ、と椎は自覚している。


 だから、こうして少しずつでも体を動かす時間を作ろうと思ったのだ。


 体育館のガラス越しに外の光が差し込んでいる。薄曇りで、柔らかな光が床を照らしていた。グループで来ている学生たちが、互いに笑いながら声を掛け合い、楽しそうに走っている。


 椎はそれを目で追いながら、何かを感じそうで、何も感じられないことに少し戸惑う。


 ――混ざれない。


 たぶん、自分がそこにいても邪魔にはならない。声をかければ、誰かが笑って返してくれるかもしれない。けれど、感情を共有する力がない椎にとって、それは言葉を越えた世界に見える。


 彼らはなぜ笑っているのか? なぜ、ただ走るだけでそんなに楽しそうなのか?


 椎にとって、それは「わからないが存在しているもの」だった。


 理屈で生きている。そう自覚している。だから、感情で動ける人間が、目の前にいるだけで、少しだけ世界が遠くなる。


 15分ほどストレッチとゆるいジョギングを終えたあと、椎は水を飲んでからベンチに座った。ほんの少し、息が上がっている。


 心拍が早い。呼吸が浅い。けれど、それが「嫌だ」とは思わなかった。


 むしろ、久しぶりに「身体が追いついてくる」感覚があった。


 普段、頭が先に進んでしまい、身体が動けない。だが、今はほんの少し、バランスが取れている気がする。心拍のリズムが、思考のリズムに近づいてくるような感覚。


 「こうやって少しずつなら、自分でも変われるのかもしれない」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。自分自身にも言っているようでいて、空気の中に溶けていく独白のようだった。


 体育館を出るころには、少し足取りが軽くなっていた。歩幅がいつもより広く感じた。


 それは気のせいかもしれない。けれど、そういう「気のせい」を自覚できるのは、たぶん今の椎にとって、大きな変化だった。



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