第二話「合理的な理由」
食事は栄養補給である。そういう言い方をすると冷たいと思われるのはわかっている。でも、実際のところ椎にとって、食事とは味や喜びよりも「機能」のほうが重要だった。
最近、思考の反応が鈍い。囲碁でもそうだったし、オンライン授業の聞き取りも、言葉の理解に微妙な遅れがある気がしていた。
そこで椎は、「栄養の不足による判断力の低下」という仮説を立て、今週は三食をなるべくバランスよく摂るようにした。野菜、タンパク質、炭水化物、水分。足りていない要素をGoogleで調べ、リストにまとめ、スーパーで計画的に買い物をした。
「この味、好きかも」と思った瞬間に、「それは栄養面での満足感と、腹持ちの良さが関係している」と内心で補足してしまう。感情では動けない。でも、理屈があれば行動はできる。
その自覚が、椎を支えていた。
今いる場所は、大学キャンパスの中庭。木陰にあるベンチに腰を下ろして、スケジュール帳を開く。
今日の予定には、「会話刺激・15分以上」と記してあった。刺激、と書いた時点で、椎の考え方が透けて見える。
周囲に視線をやると、ちょうど同じ囲碁サークルの後輩が一人、自販機の前でペットボトルを選んでいるのが見えた。声をかけようかと、一瞬考える。雑談がしたいわけではない。でも、「人と話す」ことの効能は、脳の回転に確かな変化をもたらす。
「白川くん」
椎は静かに声をかけた。後輩――白川は驚いた顔をし、飲み物を持ったままこちらに近づいてきた。
「こんにちは。今日も碁の研究ですか?」
「うん、まあ。少しだけ。よかったら、少し話さない?」
「えっ……あ、はい!」
白川の返事には感情が混じっていた。嬉しさと、少しの緊張。椎には、それが読める。でも、自分ではそういう反応ができない。会話を通じて得たいのは、感情の共有ではなく、情報と刺激だった。
二人は並んでベンチに座った。少し沈黙があって、白川が先に話す。
「この前の対局、すごく勉強になりました。僕、まだ判断が遅くて……どうすればもっと早く読めるようになるんでしょうか?」
質問の意図を読み取るのに少し時間がかかる。「早く読む」ことを求めているのか、それとも「正確に読む」ことを望んでいるのか。そのあいだにあるニュアンスの揺れを、言葉に直すのが難しい。
「読みに自信が持てないときは、情報処理が追いついてない可能性があるよ。前提となる形の記憶とか、注意の配分とか。たとえばさ、睡眠とか食事は足りてる?」
「……えっと、最近はあんまり寝てなくて。レポートとかで忙しくて」
椎はうなずいた。やっぱり、処理速度の低下は身体的な要因が大きい。これは事実であり、判断だった。
それに対して白川は「椎先輩って、すごいですね。全部、理屈で考えてるんですか?」と笑った。
「そういうわけでもないけど」
口ではそう言ったけれど、実際には――そう、全部理屈で考えている。
好きだから囲碁を続けてきたわけではない。楽しいからサークルに来ているわけでもない。情報処理の練習になり、思考の訓練になるから続けている。それだけだ。
ただ最近、自分の中でうまく言葉にならない違和感がある。囲碁を教えるとき、相手が「この手、面白いですね!」と嬉しそうに笑う。その表情を見ると、なぜか思考が止まる。
「面白い」って、何だ?
理屈を越えた何か――感情。それを軸に行動できる人たちがいて、それが普通に世界に存在していることはわかっている。でも、椎には理解ができない。
自分がその枠に入れないことはわかっていたし、別にそれで困ってはいなかった。今までは。
白川との会話が終わり、ベンチを離れるころには、椎の中に奇妙な疲労感が残った。話していた時間は十五分程度。それでも、脳の裏側がじんわりと熱を持っているような感覚がある。
この疲れは、嫌なものではない。
ただ、「なぜ疲れているのか」の理由がわからないことが、少し気になる。
――頭では理解できない感覚。
その存在を認めることが、椎にとっては第一歩だった。