第一話「囲碁の手が止まる」
打つべき石が見えない。いや、正確に言えば、石は見えている。打てそうな手もいくつか思い浮かぶ。だが、どの手にも確信が持てなかった。
白番、椎の手番。目の前に広がる碁盤の上に、黒石が緩やかに連なり、じわじわと左辺を制圧しつつある。椎は一つ深呼吸し、時間時計に目をやる。残り五分。普段の自分なら、ここで迷わず左下に挟みを打つ。それが正着に近い――理屈では、そうわかっている。
けれど、今日はどうしても、手が動かない。
「……打ちませんか?」
向かいの後輩が、遠慮がちに声をかける。まだ新入部員で、礼儀正しいが気の弱そうな子だった。椎は軽く首を振って、「ごめん」とだけ返した。謝る必要はないと頭ではわかっていたが、こういうとき、言葉を選ぶのは難しい。
碁石をつまみ、ようやく打ったのは安全志向の一手だった。後輩の目が少しだけ動いたのを見て、椎は「あ、今のは読み負けてる」と即座に悟った。後輩はすぐに視線を盤面に戻したが、その微かな動揺が椎には明確に見て取れた。
負けるな、と思う。いや、勝ちたいとは少しも思っていない。ただ、自分の読みが通らないことに、どこか居心地の悪さを感じていた。
終局後、後輩は「ありがとうございました」と頭を下げ、碁盤を片づけ始めた。椎も手伝いながら、自分の打ち筋のどこに迷いが生じたのかを考える。
この感覚、以前にもあった。
――判断が鈍い。
最近、人と話していなかった。サークルにも顔を出さなかったし、授業もオンライン配信で済ませていた。ご飯も適当にパンやスープで済ませて、誰かと話すこともなく、ただ必要なことだけをこなしていた。たぶん、そういう生活の積み重ねが、今日の一手を鈍らせたのだ。
「能力が落ちる」――そう思った瞬間、椎の中で何かが固まる。それは、冷たい氷が張るような、あるいは精密な歯車が噛み合うような確固たる感触だった。
感情ではない。焦りや不安ではなく、ただの評価だった。読みの精度が落ちている。反応が遅れている。情報処理が滞っている。
だから、改善が必要だ。
部室の壁にかかった時計を見る。まだ午後四時。帰っても何か変わるわけじゃない。椎は後輩に軽く手を振ってから、近くのベンチに腰を下ろし、スマホのメモを開いた。
【仮説】
・囲碁の実力低下 → 判断力の低下
・原因:人との関わりが減少、身体の反応速度が鈍化、栄養・睡眠の不足、読書や対話の欠如
【対策】
・週2回以上、人と対話(目的:言語処理の刺激)
・週3回、30分以上の軽い運動(目的:身体感覚の維持)
・毎日三食、栄養バランス確認
・読書ノート、感覚の言語化訓練
合理的だ、と椎は思う。自分は「好きだからやる」ことができない。何かを「面白そう」と感じることも、少ない。行動するには理由がいる。理屈がなければ動けない。
でも、だからこそ、こうやって「これは能力維持のために必要だ」と説明できる形にしておけば、行動できる。
自分は、感情に動かされて動ける人ではない。
それを「欠けている」と感じたことはない。むしろ、自分にとっては安定の形だった。ただ、それとは別に、感情で動く人間が存在していることは、理解していた。
たとえば、囲碁サークルの先輩の橘さん。あの人は、いつも碁盤を前にすると表情が生き生きとする。まるで遊んでいるかのように打つ。彼女にとって囲碁は、きっと「楽しい」ものなのだろう。
それが不思議だった。いや、正直なところ、少しだけ理解しがたい、遠い世界のことのように感じられた。
楽しいから打つ? 好きだから続ける? そんな曖昧な感情で、どうして継続できるのか。勝ち負けの結果以上に、感情が動くことの意味がわからなかった。
椎はスマホを閉じて立ち上がる。日が傾き、風が少しひんやりしてきている。家に帰っても何かが変わるわけではない。でも、今日は歩いて帰ることにした。
歩いているうちに、身体が少し温まって、頭の回転も良くなるかもしれない。そうすれば、次はもっと早く石が打てる。
それは、感情ではない。
ただの判断だった。