表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

第一話「囲碁の手が止まる」

 打つべき石が見えない。いや、正確に言えば、石は見えている。打てそうな手もいくつか思い浮かぶ。だが、どの手にも確信が持てなかった。


 白番、椎の手番。目の前に広がる碁盤の上に、黒石が緩やかに連なり、じわじわと左辺を制圧しつつある。椎は一つ深呼吸し、時間時計に目をやる。残り五分。普段の自分なら、ここで迷わず左下に挟みを打つ。それが正着に近い――理屈では、そうわかっている。


 けれど、今日はどうしても、手が動かない。


「……打ちませんか?」


 向かいの後輩が、遠慮がちに声をかける。まだ新入部員で、礼儀正しいが気の弱そうな子だった。椎は軽く首を振って、「ごめん」とだけ返した。謝る必要はないと頭ではわかっていたが、こういうとき、言葉を選ぶのは難しい。


 碁石をつまみ、ようやく打ったのは安全志向の一手だった。後輩の目が少しだけ動いたのを見て、椎は「あ、今のは読み負けてる」と即座に悟った。後輩はすぐに視線を盤面に戻したが、その微かな動揺が椎には明確に見て取れた。


 負けるな、と思う。いや、勝ちたいとは少しも思っていない。ただ、自分の読みが通らないことに、どこか居心地の悪さを感じていた。


 終局後、後輩は「ありがとうございました」と頭を下げ、碁盤を片づけ始めた。椎も手伝いながら、自分の打ち筋のどこに迷いが生じたのかを考える。


 この感覚、以前にもあった。


 ――判断が鈍い。


 最近、人と話していなかった。サークルにも顔を出さなかったし、授業もオンライン配信で済ませていた。ご飯も適当にパンやスープで済ませて、誰かと話すこともなく、ただ必要なことだけをこなしていた。たぶん、そういう生活の積み重ねが、今日の一手を鈍らせたのだ。


 「能力が落ちる」――そう思った瞬間、椎の中で何かが固まる。それは、冷たい氷が張るような、あるいは精密な歯車が噛み合うような確固たる感触だった。


 感情ではない。焦りや不安ではなく、ただの評価だった。読みの精度が落ちている。反応が遅れている。情報処理が滞っている。


 だから、改善が必要だ。


 部室の壁にかかった時計を見る。まだ午後四時。帰っても何か変わるわけじゃない。椎は後輩に軽く手を振ってから、近くのベンチに腰を下ろし、スマホのメモを開いた。


【仮説】

・囲碁の実力低下 → 判断力の低下

・原因:人との関わりが減少、身体の反応速度が鈍化、栄養・睡眠の不足、読書や対話の欠如


【対策】

・週2回以上、人と対話(目的:言語処理の刺激)

・週3回、30分以上の軽い運動(目的:身体感覚の維持)

・毎日三食、栄養バランス確認

・読書ノート、感覚の言語化訓練


 合理的だ、と椎は思う。自分は「好きだからやる」ことができない。何かを「面白そう」と感じることも、少ない。行動するには理由がいる。理屈がなければ動けない。


 でも、だからこそ、こうやって「これは能力維持のために必要だ」と説明できる形にしておけば、行動できる。


 自分は、感情に動かされて動ける人ではない。


 それを「欠けている」と感じたことはない。むしろ、自分にとっては安定の形だった。ただ、それとは別に、感情で動く人間が存在していることは、理解していた。


 たとえば、囲碁サークルの先輩の橘さん。あの人は、いつも碁盤を前にすると表情が生き生きとする。まるで遊んでいるかのように打つ。彼女にとって囲碁は、きっと「楽しい」ものなのだろう。


 それが不思議だった。いや、正直なところ、少しだけ理解しがたい、遠い世界のことのように感じられた。


 楽しいから打つ? 好きだから続ける? そんな曖昧な感情で、どうして継続できるのか。勝ち負けの結果以上に、感情が動くことの意味がわからなかった。


 椎はスマホを閉じて立ち上がる。日が傾き、風が少しひんやりしてきている。家に帰っても何かが変わるわけではない。でも、今日は歩いて帰ることにした。


 歩いているうちに、身体が少し温まって、頭の回転も良くなるかもしれない。そうすれば、次はもっと早く石が打てる。


 それは、感情ではない。

 

 ただの判断だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ